第4話 気配り上手?

「朝から不機嫌そうだね」


 教室で自席に腰を落ち着け、スマホの画面を指でゆっくり送っていると、瀬名の声が視界の外から滑ってきた。俺は通知の光を一度消して、視線を上げる。


 すると、鞄の中身を手際よく整えている瀬名がいて、いつも通りの柔らかな気配がそこにあった。起き抜けに蓄えた余分な苛立ちは、こういう穏やかな所作を見ると少しだけ収まる。


「白雨さん絡みかな?」


「まぁな。ちょっと聞きたいんだけどあいつって気遣いとかできないのか?」


「気遣い?結構尖った質問だね」


 白雨の無表情、ぶれない視線、距離の詰め方。どれも俺の疲労を加速させた要素だが、結論を出すには材料がまだ薄い。瀬名の見立てを聞いて、見えない角度を補完する。それが手っ取り早い。


「そうだね、僕が覚えてる限りでは白雨さんは凄く気配り上手だけどね」


 返ってきたのは想定と真逆の評価で、思考の舵が一瞬空転した。俺の中にある白雨像は、淡白で起伏が少なく、人の都合より自分の目的を優先するタイプ。だから、気配り上手という語は、違和感を伴って喉に引っかかる。


「えぇ?本当に?」


「たしかに表情は変わらなくて笑顔は見たことがないけど、気遣いはしっかりできていたと思うよ?」


 俺の中で組み上がっていた白雨への人物像と、瀬名の記憶から立ち上がる白雨への像が、明らかに食い違う。この場合はどちらかが間違いというよりも、見ている面が違うだけなのか?


 瀬名の話を聞く限りでは、白雨は人の機微を察すのが上手いらしく、容姿だけでなく話術でも好かれるらしい。外形の整いは内側の説得力まで底上げする。そういう相乗は確かにある。


「いやいや、真逆なんだが」


「そうなのかい?」


 その時、伏せていたスマホが手の中で小さく震えた。反射的に画面を起こして通知の差出人が白雨だと分かった瞬間、表情筋が勝手に抗議を始めた。


 昨日のカフェで半ば強引に押し切られて交換した連絡先が、早速俺の一日を変形させる力を獲得している。短いメッセージの一行は軽いのに、背後に余計な作業と判断を引っ張ってくる。


「黒瀬君って結構顔に出やすいね。何か言われたのかい?」


「昼飯の誘いだ」


「へぇ、君のことを余程気に入ってるみたいだ」


 他人事だと思って楽しそうに笑う瀬名に不服な気持ちを抱く。観客席から眺めるのは楽でいいな。矢面に立たない者ほど言葉が軽くなる。


「それで、返事はどうするつもりかな?」


「行かないつもりだったけど、中学時代の白雨が気になるから問いただすのも兼ねて行ってみる」


 聞いたところで白雨が素直に答えてくれるか正直怪しい。けれど、分からないまま放置するのは性に合わない。


 スマホの画面に最小限の文字を置き、手短な返信だけをして俺は昼休みに備えることにした。



***



 昼休み、俺は白雨と事前に決めていた旧校舎の空き教室へ向かった。旧校舎には使われていない教室が点在していて、一応担任に確認したところ汚したり騒いだりしない範囲でなら自由に使っていいという。許可が出ているなら、遠慮する理由はない。


「⋯⋯」


 それにしても、旧校舎は静かだな。こちら側にも四十人規模のクラスがあるはずなのに、足音の数が極端に少ない。声の粒が廊下に広がらないから、空気がさらりと乾いている。活気という熱が抜けて、机やガラスだけが淡々と時間を重ねている印象だ。


 そうして俺は周囲に視線を配りながらなんとなく歩いた。掲示板の古びた画鋲、窓枠の塗装の欠け、蛍光灯の細い唸り。そうやって視界の端で雑事を数えていると、向かいからやって来る女子生徒が目に入る。長く伸ばしたポニーテールが軽やかに揺れて、足取りは明るい。元気の輪郭が遠目にも分かる。


「⋯⋯」


 俺は正面を向いたまま素通りして、空き教室へ向かうつもりだった。だが、肩口をかすめる瞬間、視線がこちらに絡んだ気配がする。袖をつままれたような微かな引き止めに、足の運びが半歩だけ遅れる。


「あれ?もしかして黒瀬君?」


「? えっと⋯⋯」


 呼ばれて顔を上げ、正面から相手の表情を拾う。記憶の棚で見覚えが小さく灯るが、札に書かれた名前までは読み取れない。迷っている間に、向こうが先に名乗りの札を掲げた。


「私だよ私!朝比奈!」


「! あ、朝比奈?こっちの学校に進学してたのか?」


 朝比奈 晶(あさひな あきら)。中学では女子卓球に所属していた。冬木と仲が良く、その繋がりで何度か顔を合わせ、ついでにラケットを握って遊んだ記憶もある。


 俺がすぐに思い出せなかったのは髪型だろう。最後に見た時は運動に向いている短めの髪が、今では長く伸びたポニーテールになっている。顔立ちも少し大人びて、表情の明るさはそのままに、印象の鍵が差し替わっていた。


 ただ、もっと気になるのは別の点だ。朝比奈は確かもう少し偏差値の高い高校を目指していたはずだが、どうしてここにいるのか。


「受験失敗しちゃったからね」


「あ、あぁ⋯⋯そうなのか⋯⋯」


 受験は勉強の量と結果が比例するとは限らない。努力は確率を上げるだけで、合格の鐘を鳴らす保証にはならない。そういう仕組みだと頭では分かっていても、目の前で告げられると胸のどこかがひやりと沈む。慰めの常套句はどれも薄っぺらく感じて、俺は不用意に触れない方を選ぶ。


 努力が結果に直結しないのは、陸上で何度も見てきた。スタートを切った瞬間に転ぶこともあるし、どれだけ準備してもその日の体調次第で崩れることもある。理屈としては分かっていたが、目の前の事実に言葉が遅れる。


「もう!変に気まずくならないでよ!」


 朝比奈は明るい。声の温度も仕草のテンポも軽やかで、俺には少し眩し過ぎる。


「最初はちょっと落ち込んでたけど、もう気にしてないよ。それに、ソウちゃんや黒瀬君とも同じ学校に通えてるんだから十分楽しんでるもんね!」


「俺とは会ったばかりだろ」


「えへへ、それもそうだね」


 ふにゃりと笑う朝比奈には小動物みたいな一面が確かにあって、人気があるという噂にも納得はできる。


 ちなみにソウちゃんというのは冬木のことだ。冬木颯真(ふゆき そうま)の名前から取ってるあだ名だな。


「ところで黒瀬君はどうして旧校舎に来たの?私みたいに先輩に用事?」


 朝比奈は先輩に用があり、その帰り道なんだなと会話の行間で俺は察した。


「ちょっと昼飯を食べに来ただけだ」


「へぇ!私も一緒に食べていい?」


「いや、他の人と食べる約束だから今日は無理だな。また別の機会で」


「そっかそっか、じゃあまた今度ね!」


 断りは最短距離で。しかし、朝比奈の顔には失望の色はない。俺みたいな奴にも変わらず優しく接してくれるのは、ありがたい限りだ。本当に昼食を一緒にできるかは別として、笑って頷いてくれる。その手触りは思った以上に穏やかだった。




「待ったか?」


 教室の扉に手をかけて引くと、空気がわずかに揺れて、昼の匂いが内側へ滑り込んだ。白雨の待つ教室へ足を踏み入れると、中央の椅子に白雨が背筋を伸ばして座っていた。躯幹の線は乱れがなく、視線だけが静かにこちらを射抜く。


 机と椅子は、見慣れた新校舎の教室の配列どおりに整列している。けれど、白雨の机だけは小さな舞台のように孤立していて、その上に包み袋で包まれた小ぶりの弁当箱がちょこんと鎮座していた。包みの結び目はきれいに正中で結ばれ、布の角は折り目が揃っている。手順を省かない手つきが、布一枚からでも伝わる。


 そして、白雨の向かいの机は椅子ごと背を返すように反対向きにされていた。そこに座れと言わんばかりに示す指定席として、白雨の真正面に据え付けられている。息の出入りまで可視化されそうな間合いに、白雨の目的の明快さがにじむ。合理的で、逃げ場がない。


 ただ、俺の食べづらさという変数は、計算式から綺麗に省かれているらしい。真正面に白雨がいる昼食は、どうやったって味に集中しにくいのに。


「待ってないよ」


「あぁそう」


 余計な波風を立てない方が、こちらにとっても得策か。俺は質問に答えてもらうためにも、逆らう選択肢を切り捨てる。向かいの席に大人しく腰を下ろし、 手にしていた弁当を机に置く。


「それじゃあ食べようか」


「⋯⋯随分と綺麗な中身だな」


 言葉が口をついたのは、視覚が先に判断を下したからだった。


 白雨が包みを解いて弁当の蓋を静かに開ける。すると、そこに広がるのは区切られた小さな庭のように、色の配置が端正に整った中身だった。新鮮そうな緑の野菜、甘そうで艶のある卵、食欲をそそる焼き色のついた主菜。どれも形が崩れていなくて、丁寧に詰めた手つきが想像できる。


 女子の弁当事情に詳しいわけじゃないが、これは素直に見栄えが良いと思う。見た目の段階で風味の想像が自然と一段上がっているし、彩りだけに頼らず量感と間の取り方で品を出している。


 要するに、美味そうだ。


「親が作ったのか?」


「私だよ。ひとり暮らししてるからね」


 高校生でひとり暮らしか。言い切りの調子に事実としての重さが乗る。朝に起きて弁当箱の容積と食材の相性を頭で組み合わせて、ついでに流しを片づけ、床の埃を処理し、帰り道には特売の時間帯を計算して買い出しに寄る。そんな生活は高校生の中で統計を取れば少数派だろう。


 もっとも、珍しいと驚くほどでもない。かくいう俺もひとり暮らしをしている身だからな。帰路で日用品の残量を暗算して、冷蔵庫の在庫と相談して献立を組む面倒を、俺は日常として知っている。


 問題なのは白雨と俺に共通点があるという事実が、わずかに不愉快な点か。距離を測るための基準点がひとつ重なると、余計な親近感が勝手に歩み寄ってくる。共通点という名の橋がこちらの都合を待たずに架かってしまうのが、少しだけ癪に障る。


「黒瀬君も自分で作ったの?」


「え?あぁ、そうだけど」


 俺も弁当の蓋を開けると視線が中身を一周して、白雨のまつ毛がほんの少しだけ揺れたのが見えた。観察されたという事実だけがテーブルに置かれる。


「なんだよ」


 何か言外の評価を感じ取って、反射的に言葉が出る。


「栄養バランス悪いよ」


 事実認定。否定の余地はない。俺の弁当は白飯にふりかけ、冷凍の唐揚げとウインナー、卵を焼くだけの簡易メニュー。緑色は端に申し訳程度のレタスが敷かれているだけで、箸休めの酸味も弱い。白雨の手料理と並べれば、差ははっきりする。


 面倒を避ける俺の習性はこういうところで露骨に出る。火を使う回数は少ないほどいいし、朝の数分を睡眠に振れるなら迷わずそうする。手料理を丁寧に仕上げる余力がないわけじゃないが、弁当の枠にまで手間を割く気力は今の俺にはない。


「ほっといてくれ。料理は得意じゃないし、やる気もないんだよ」


 突き放す音のする言葉を口にして、俺は箸を置いた。自分の不得手を殊更に語って愛嬌に変える趣味はない。ぶっきらぼうにそう言い放つと、白雨は場の空気をひと筋すくい上げるみたいに視線を整え、何かを思いついたように口を開いた。


「それじゃあ私が作ってあげようか?」


「は?い、いや、急に何言ってんだよ」


 言葉と同時に、白雨は躊躇のない動作で箸を取る。端正な指先が軽やかに支点をつくり、細い木の先端はぶれずに獲物だけを捉える。


 白雨は自分の弁当箱から卵焼きをそっと掴み、俺のほうへと差し出した。整然とした所作は、誰かのために動くことを最初から前提に組み上げられているようで、見ているだけで姿勢が正される。


「⋯⋯何のつもりだ」


「食べていいよ、ほら」


 いわゆる、仲のいい男女がやるというあーんの体勢だ。白雨は箸を持つ手を俺の口元まで滑らせ、もう片方の手を卵焼きの下に受け皿のように添える。落ちても床に触れさせない、その無駄のない配慮。机の上に小さな舞台が組まれ、主役を務めろと視線で促されている気分にさせられる。


 しかし、行為そのものは甘ったるいが白雨の顔には相変わらず起伏がなくて、極めてフラットなあーんになっている。


「一応聞くが、食べなかったらどうなるんだ?」


「この姿勢のまま黒瀬君を眺め続けることになるね」


 強情と言うべきか。面倒と言うべきか。


 少し悩んだが、仕方がなく俺が折れることにした。白雨への諦めが半分、残り半分は目の前の卵焼きの魅力に負けた現実的な判断だ。冷めてなお色艶がよく、表面にうっすらと光を宿している卵焼きが食欲に小さな火をつけてくる。ここで意地を張るほど俺は高尚でもない。自分を肯定する言い訳をそこそこに、俺は口を開く。


「⋯⋯!」


 卵焼きを口に入れて噛んでみると、冷たい空気をまとった外側が静かにほどけ、内側からやわらかな甘みが滲んだ。出来たての熱はもうないのに、出汁の余韻が舌の上で薄く波を打ち、角の取れた甘さと卵のコクが穏やかに混ざり合う。


 美味しい。


 俺が今まで食べてきた卵焼き────いや、卵料理の中で1番美味しい。


「感想は?」


「⋯⋯美味しかった」


 白雨を褒めるのは不服だったが、意地を飲み下して素直に白状した。味は事実として良いのだから、それをねじ曲げるほど俺は幼くない。


「けどな、俺の分を作るのはやっぱり違う。そんな迷惑も負担もかけられない」


「1人分が2人分になっても手間暇は大して変わらないけどね」


 いいや、変わる。弁当箱が一つ増えれば盛り付けの段取りも、洗い物の数も増えるし、使う食材は単純に二倍、出費も静かに嵩む。少なくとも同い歳の白雨に頼む筋の話ではない。


「週に2回ならどうかな」


「2回?」


「私が週に2回だけ黒瀬君の分を作るから、その時は私と一緒にお昼ご飯食べてよ」


 舌を噛むほど絶妙な提案だ。白雨の弁当をもう少し味わってみたい欲と、白雨へ安易に寄りかかりたくない自制。その両方をぎりぎりで宥める折り目になっている。


 しかも、厄介なのは公平感がしっかり演出されていることだ。白雨は昼を共にする利を得て、俺は上等な味と朝の自由な時間を得られる。一方的ではない分、罪悪感は薄まる。いや、薄めさせられている。


「⋯⋯」


「気に入らなかったらやめていいし、逆に気に入ったなら日数を増やしてもいいよ」


 白雨は平然と提示するだけで、決定権は委ねてくる。最終的に選ぶのは俺だという前提を崩さない。線の内側に退くのか、向こう側へ踏み越えるのか。白雨が見たいのは俺の選択の癖と、そこから続く行動の軌跡。


 今も同じだ。目の前にあるのは弁当の話に擬態した小さな決断問題。白雨は常の無表情を保ちつつ、昨日と同じ精度で俺の意思を測る。軽率な首肯も、拗ねた否も、いずれも俺なりの証左となる。だから、たった一言の返答にさえ思いのほかの比重が宿ってしまう。


「⋯⋯断る」


 悩んだ末に俺が断ると、白雨は結果だけを測定するようにこちらを見て、口角を糸の幅ほど上げた。それは笑顔ではない。思惑が計算通りに進んだ時の、控えめな合図だった。



 そう、俺の答えは拒絶。


 白雨からの提案を表面上は跳ね除けたつもりだ。


 しかし、白雨は初めから俺の肯定を取りにいくつもりらしい。断られることも織り込み済みで、すぐに次のカードへ指を掛ける。


「それじゃあ、他の理由にしてみようかな」


「他の理由?」


「うん、そもそもの話だけどね。私と黒瀬君の関係は元を辿れば私のワガママから始まったことだよね」


 白雨との最初の場面が脳裏に薄く再生される。確かに、言い分は正しい。


「私は得してるのに黒瀬君には得がなくて不公平。だから、何かしてあげようと考えてたの」


 なるほど、と喉の奥で息が折れる。俺はもうこの時点で、結論がどこへ収束するのかを察していた。


「それで弁当⋯⋯か」


 さっきよりも公平さが増していて、断った先の代替案が読みにくい。"面倒"は一段進んで"厄介"へと昇格する。


 白雨は俺より舵取りが何倍も上手い。拒絶しても、いつの間にか白雨が示した終着点へ歩かされる。行程は違えど、到達点は同じというやつか。


「最初から俺の分の弁当を作るのが狙いならそう言ってくれ、無駄なやり取り挟ませるなよ」


「返答は?」


「どうせ断ってもまた別の理由見つけてくるんだろ?だったらそれでいいから、これ以上余計な事はしようとするなよ」


「ありがとう。美味しく作るから期待していいよ」


 白雨の意思は結局通る。ここで強引に突っぱねる方法もあるにはあるが、先の不確定要素を思えば賢い選択はこれしかない。


「そろそろ時間も経ってきたから食べようか、いただきます」


 一旦話に区切りがついて、昼の空気が少し落ち着く。俺と白雨はそれぞれの弁当へ視線を戻し、自分のペースで箸を進め始めた。


「⋯⋯」


 それにしても、白雨の食べ方は綺麗だな。箸の持ち方も使い方も端然として、米粒ひとつを運ぶ角度にさえ乱れがない。口元は必要最小限だけ開いて、咀嚼の気配すら周囲に零さない。背筋は糸を張ったように真っ直ぐで、弁当箱に添えた指先からは不必要な緊張が抜け落ちている。


 品の良さもあるが、それ以上に無駄を削ぎ落とした習慣の美しさの方が強いか。そんな丁寧でお淑やかな所作が視界の中心に置かれて、俺の意識は自然とそこへ引き寄せられていた。


 とはいえ、見ているだけでは話が進まない。俺は折を見て、前から胸の内で温めていた問いを口に滑らせる。


「瀬名って知ってるか?」


 名前の響きが空気に置かれた瞬間も、白雨は視線を揺らしもしない。考える仕草を省略したかのように、一定の温度で返答が落ちる。


「知ってるよ。中学2年生のクラスメイトだったから」


 意外だ。単純にそう思った。舌の上で転がしていた先入観がすっと形を失う。


 白雨は他人の名前や些末な過去に執着しないと俺は踏んでいた。忘れるか、あるいは最初から覚える価値を見出さないはずだと。けれど、今の白雨は抽斗から正確な答えを取り出すみたいに、名前に紐づく関係性まで淀みなく提示される。


「その瀬名に中学時代の白雨さんは気配り上手だって聞いたんだけど、それは本当なのか?」


 気配りの有無を本人に問うのは少し角が立ちそうだが、相手が白雨なら別に直球でもいいか。


「気配り上手の定義がわからないからそれには答えられないけど、黒瀬君が聞きたいことには答えれるよ」


「何?」


「私は黒瀬君と他の人で接し方を変えている。それが聞きたかったんでしょ?」


 飄々と、息継ぎひとつ分の軽さで言い切った。当たり前で、当然で、確認するまでもない。そんな事実を机に置くように、曖昧さを混ぜない声音だった。


 思考の歯車が一瞬もたつき、輪郭が霞む。それでも、退がる選択肢はない。ここで問いを投げる手を止めたら、意味が萎む。


「それは、なんでだ?」


 箸の動きを止め、白雨の表情に焦点を合わせることだけに意識を絞る。教室の温度が少しだけ上がったように感じるのは、俺の鼓動が速まったせいだろう。言葉にできない予感が、水面下で形を得ようとしていた。


「黒瀬君とは普通にお話したいから」


「⋯⋯流石に言葉足らずだ。もう少し詳しく説明してくれ」


 白雨は普通に話したいと言った。


 だが、その"普通"がどこを指すのか俺にはまだ曖昧で、上手く噛み砕けなかった。


「私は今まで誰かと話すときはその人が求めている話題を振って、相手に喋らせてるんだよ」


「自分からは喋りたいことがないからか?」


「そうだよ。だから相手の人に好きなことを喋らせて、それを私が掘り下げて、聞き手に回るといつの間にか満足されてるの」


 まぁ、想像はつく。


 目を引く可愛い容姿に、校内随一の知名度と天才の肩書きが添えられている。そんな白雨が耳を傾け、あたかも関心を注いでいるように相手の話題を掘り下げてくれるのなら人は容易に悦に入る。承認の甘さは舌に残り、満足という名の余韻が長く続く。


「相手が求めてる話題なんてどうやって分かるんだ?」


「見たら分かるよ。やろうと思えば黒瀬君にもできるね」


 視線一つで内側を覗き、口にした言葉の癖、廊下に漂う噂の粒、持ち物の減り具合といった生活の痕跡から静かに相手の望む話題を推し量る。白雨は外見の細部を読み書きするように捉え、要点だけを拾い上げる観察の眼を持っている。


 白雨は俺にもできると言った。つまり、俺についても一定の見通しをもう立てている。そう受け取るのが自然だ。


「でも、それは本音じゃない。私が今までしてきた会話は面倒事に巻き込まれないためだけの、仮面を被った────ただの自己防衛だよ」


 無表情で白雨は告げた。


 その声音は平らだが、言葉は冷えて澄んでいた。


「⋯⋯」


 窓辺から昼の光が静かに流れ込み、白雨の白髪に細い金の粉を撒くように落ちていく。短く整えられた髪の一本一本が、風もないのに微細な陰影をつくり、頭の上で淡い輝きを編む。金色の瞳は照明の灯りと日差しの二層を受けても濁らず、光の粒をよく磨いた硝子のように抱え込む。


 制服の襟は乱れず、首筋に落ちる影が薄く揺れ、呼吸に合わせて胸元の布地がわずかに上下する。頬は余計な熱を帯びず、まつげの影が長さを増してテーブルに落ちる。そして、白雨の全体は静寂に馴染んだまま、光だけを受け取っていた。


 何も飾らないのに目が止まり、何も訴えないのに視線が離れない。光は白雨を飾るためではなく、白雨という存在の清澄さを確かめるために降りてきたのだと、そう錯覚しそうになるほどに。


 その胸中を俺は知らない。いや、踏み込んで知ろうとすることすら烏滸がましい。本音を預けられない生き方は俺には想像もできないほどに重く、容易く踏み込んでいい領域じゃない。


「慣れてるから同情はしなくていいよ。今更思うことはないから」


 長く歩き続けた道の摩耗が、感情の表面を磨り減らしたのだと分かる。そうして何も思えない地点まで生き方を変えなかった結果、興味という色が抜け落ちた。白雨はその経過を、ただ事実として机の上に置いた。


「だけど、ひとりくらい。ひとりくらい普通に話せる人が欲しい。そう思うのは、人間としてだめかな」


 天才としてではなく、他の人と同じ地平に立つ人間として。評価や視線を払い落とした先に、そんな欲を持つのは駄目なのか否か。肩書きや噂から降りて、日常の言葉で触れ合いたいという小さな希求が、白雨の口元でようやく形を取った。


 そして、俺が答えを選ぶ前に白雨はさらに言葉を差し出した。


「勿論、黒瀬君が望むなら話し方を変えてもいいよ。もう少し表情や感情だって────」


「やめろ」


 咄嗟に口が動いた。喉の奥に刺さる不快感をそのまま声に乗せて、白雨の提案を切った。


 低くて、荒い。


 だが機嫌の悪さを隠すつもりはない。白雨の言い回しが柔らぐことも、抑揚が増えることも、俺の指示で表情が揺れるのも、どれも違う。白雨の言葉は白雨のものだ。俺の好みに合わせて角を削るような真似は、気持ちが悪くなる。


 だからこそ、はっきりと言う。


「いい、今まで通りでいいから。話したいことを好きに話せ」


 同情じゃない。過去の事情を勝手に想像して、理解者ぶるつもりもない。ただ、白雨の喋り方を俺が変えるのは間違いだという一点だけが、はっきりしている。そこに余計な解釈を混ぜる余白はない。


「黒瀬君って意外と優しいね」


「意外と、は余計だろ」


「⋯⋯⋯⋯そうだね」


「?」


 短い往復の間に僅かな沈黙が落ちた。


 今までの白雨は会話の最中に言葉を取り落とすことがなかった。答えはいつも霧ひとつなく出てきて、遅れも迷いも寄りつかなかった。けれど今は、白雨の中で何かが揺れて微かな逡巡が見えた。言うべきことと伏せておくことの境いを、指先で慎重になぞっている気配がした。


「話しすぎたね、そろそろ食べようか」


 今ここで問い詰めても白雨は答えない。声色と視線の置き場が、それを示している。


 箸が弁当の縁を叩く小さな音、遠くで誰かが笑う控えめな気配。静かな教室の内側で俺は余計な言葉を飲み込み、白雨もまた、必要以上の感情を動かさない。



 そんな昼休みを、今日の俺は過ごした。

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