第6話 模倣の天才
冬木の挑戦めいたお願いを聞いた白雨は、冬木ではなく俺の方へ視線を滑らせた。金色の瞳が静かに定まるその一瞥は、判断の主導権をあからさまに俺へ委ねる合図だった。その意図を悟って、俺は内心で小さく毒づく。
白雨は、ここでも俺に判断を委ねようとしている。
冬木の期待や気迫なんて端から考えていない。白雨は俺の選び方を観察しようとしている。どの選択肢を俺が取るか、その反応を見ようとしている。
挑戦を受けるかどうか、その決定権を白雨は自分から手放して、俺に差し出してくる。自分の意思を明確に示さず、表面だけは従順に見せながら、核心だけは俺に押しつけてくるやり方に、苛立ちがまたひとつ積もる。
「はぁ⋯⋯」
今の溜息は諦念と倦怠の混合物だった。俺が何を言うか次第で白雨は次に進む。いや、白雨からの意図を無視して黙り込んでも、それさえ材料にして沈黙という意思決定を根拠に行動へ移る。
そういう立ち回りに辟易しながら、俺は口を開いた。
「折角だしやってやれよ。俺は見とくからさ」
冬木のために、俺はそう言った。期待で身体ごと前のめりになっていたのを知っていたから、その期待を地面に落とすような真似をしたくなかった。ただそれだけだ。
「いいよ。それじゃあやろうか」
「マジか!?ありがとう!」
白雨は即座に了承し、冬木は一気に沸き立つ。空気が一段明るくなるのを肌で感じる一方で、返事をした白雨自身には昂ぶりらしい昂ぶりがない。風の吹かない水面のような、そんな承諾だけが成立する。その温度差は異様だった。
俺は卓球台へ歩みかけていた足を引き、代わりに白雨が台へ向かっていく。その背に俺は声を掛ける。
「着替えてこいよ、制服のままだと動き辛いだろ?スカートなら尚更⋯⋯」
「平気だよ」
即答。何が平気なんだと喉の奥で言葉が引っかかる。
うちの学校の女子の制服のスカートは、膝あたりまであるそこそこ真面目な長さだ。歩くだけでも布が脚に纏わりつきそうだし、踏み込みなんてやれば確実に邪魔になる。しかも、これからやるのは卓球。細かいステップと素早い横移動が肝心になる競技で、その格好で動きやすいはずがない。
それでも白雨は制服のままでも問題ないと断言する。それは単なる無頓着なのか。それとも、天才故の驕りなのか。
「一応聞くが、卓球はどれくらいの腕前なんだ?」
「分からないね、やったことないから」
「⋯⋯はぁ!?」
「え!?」
冬木と俺は同時に声を上げた。こいつは何を言っているんだと本気で思った。
卓球をやったことがないと言い切ったその口で、平然と卓球台の前に立とうとしている白雨。しかも、相手は今まで本気で卓球に向き合ってきた冬木だ。普通なら試合にすらならない。
それは感覚だけの話じゃなくて、積み上げてきた時間の重さの問題でもある。何百回、何千回と素振りを繰り返した腕と、ラケットの重さすら知らない手が、同じ卓の上に並ぶこと自体が不自然だ。
「や、やったことがない!?だったらやる意味ないだろ!ルールすら知らないんじゃないのか!?」
「そうだね、細かいルールは知らないから間違いがあったら指摘して欲しいな」
「お、お前⋯⋯!」
「大丈夫だよ、昔テレビで見たことあるから」
白雨は静かに言った。言葉の中に冗談の色も、強がりの張りもない。淡々と、水面の揺れを観察するみたいに状況を整理して提示してくる。それが逆に不安を煽る。
いくら白雨が天才だと言われていても、経験のない競技でいきなり人並み以上に戦えるはずがない。常識で考えればそう断言できる。
しかも、白雨の自信が『昔テレビで見たことある』だけだと言うのなら、それはただの無謀だと俺は思った。
「さ、流石に未経験ならやらなくても⋯⋯」
冬木の声音には制止の意志が滲んでいた。冗談めかして場を和らげようとしているが、内心では本気で止めたいのが伝わる。無謀はやめろという警鐘だ。
しかし、白雨はその忠告を雑音のように受け流した。表情も呼吸も微動だにせず、感情の波を一切立てない。やる、と決めた地点から一歩も退かない姿勢は、静かな頑なさそのものだった。
「ラケット貸してくれる?」
白雨は淡々とした調子のまま、冬木に片手を向ける。必要な物品を求めるだけの簡潔な要求で、そこに迷いは一滴もなかった。
冬木は一瞬だけ逡巡したが、結局は俺が面倒から逃げ切れず折れる時と同じ諦念でラケットを手渡す。観念の吐息と共に、道具は白雨の手へ移った。
「サーブはできるか?」
「できるよ」
「じゃあサーブは白雨さんからで!」
やり取りは淀みなく進み、場の空気が一段深く沈む。勝負の幕は、既に上がっていた。
冬木が白球を指先で弾ませて渡すのを横目に、俺はネットの延長線上に立って審判っぽい位置取りをした。正直、こんなのは形だけだ。俺がここに立っているのは、ただ場を見届けるための置物と同じ意味だ。
「始めていい?」
「おう!いつでも!」
白雨の問いは事務的で、体温を感じさせない。対して冬木の返事は少し上ずっていた。期待と不安の同居が喉元で絡んでいる。
白雨は左の手の平に白球を静かに据え、右手のラケットを無駄なく握り直した。体育館の乾いた空気が一瞬だけ澄み、光と色と音が研ぎ澄まされる。視線が自然とそこへ集約する。
白雨が無造作に構えた。
その瞬間、俺と冬木は息を飲んだ。
それは誇大でも幻想でもない。つい先刻までただ綺麗に立っていただけの白雨の姿勢が、一拍で別物に変わった。
重心は寸分の揺らぎもなく落ち、視線は標的だけを正確に射抜き、肩から肘、手首へ至る運動の線が理路整然と統一されている。余計な癖も逡巡もない。鍛錬の果てに到達する均整を、当然の初期値として装備している。静謐で、しかし圧がある。
素人寄りの俺ですら即座に理解できたし、卓球部として何年も実戦を踏んでいる冬木も同じ認識に到達していた。これは我流の構えではない。試合の場に立つ者の型だ。冬木の目つきが一瞬で真剣になったことで、それは確信に変わった。
次の瞬間、白雨は一切の逡巡なく動いた。左手から放たれた白球がふわりと浮き、同時にラケットの面が最短距離で打点を捉える。
響くのは乾いた高音。
球は白雨側の台で低く弾み、すぐ冬木のコートへ吸い込まれる。低軌道で、速くて、狂いがない。
「⋯⋯っ!」
冬木は反射的に踏み込み、腕を伸ばす。しかし間に合わない。回転がいやらしく噛んでいて、球筋は常道から外れていた。速度と軌道の二重の撹乱。
それにより、白球は冬木のラケットが待っていたはずの位置を軽やかに裏切り、腰の横を掠めて落ちていった。届きそうで届かない距離は、実質的には不可侵の距離だった。
「これでいいよね?」
白雨は軽く首を傾け、淡々と確認した。息は乱れず、誇示もない。ただの業務報告の口調だった。
「⋯⋯」
「⋯⋯」
何も言えなかった。俺も、冬木も。
卓球台の前に立つのは今日が初めてになる白雨のサーブ。それが即座に完成形として見せつけられたという事実の前では、安易な称賛は陳腐だとすら思えた。
代わりに、"天才"という語が再び頭に浮かぶ。
努力や積み重ねでは届かない領域に、当然の顔で立っている存在。そういう現実を突き付けられると、人間の語彙は一瞬で干上がる。俺は声にならないまま、その異質さにただただ戦慄していた。
***
模倣。
それは他人の行動や仕草や在り方を、自分の手元に引き寄せて真似ること。
人の呼吸の速さや指先の角度、声の沈み方や立ち方の癖に至るまで、観察したものを自分の身体で再演する営み。
たとえば、若い画家が尊敬する画家の筆遣いを目で追い、同じ筆致でキャンバスに色を置こうとする。それは単なる憧れではなく、技術を吸収しようとする欲のあらわれだ。まだ自分の名前を持たない筆先が、誰かの名を借りて動こうとする時間。その筆は、先達の呼吸を再生するために揺れ、止まり、迷いながらも進歩していく。
あるいは、新人の料理人が長い現場を生き抜いた料理長の包丁捌きを横目で盗み見るのも同じだ。食材に触れる速度、刃の角度、切り口の美しさを目に刻み込み、自分の手に移そうとする。力を入れる瞬間と抜く瞬間の切り替えに目を凝らし、体の中に覚え込ませようとする。
そのどちらも、根っこは同じ欲求から生まれている。
上手くなりたい。
近づきたい。
届きたい。
そんな想いから、模倣は始まる。
しかし、模倣はコピーとも似ているが少し違う。コピーとは、できる限り同一のものを複製しようとする行為だ。完成済みのものを変質させずに再現することを目的とする、いわば複写の技術。
そこには、できるだけ同じものをそのまま再現しようとする忠実さがある。対して模倣にはもう少し人間らしい工程が入り込む。観察し、理解し、そして解釈するという過程だ。
例を挙げるなら、ある人が落ち着いた声で激昂した相手を宥め、その場を収めうとする。見ている側はその優しい声の音程だけを拾って宥め方を真似ることができる。けれど、もっと貪欲な模倣者は声だけでは終わらない。言葉を置く間合いの取り方や、相手に敵意を見せない為の眼差しの柔らかささえも読み取る。
そして、それらの情報を自分の中で組み直す。見たものを盲目的に複写するのではなく、観察した要素を自分でも使える部品として並べ替え、無理なく扱える形に調整していく。
つまるところ、模倣は他人の行動を一時的に借りながらも、最終的には自分に適した形へと成長させている。借り物で始めても、最後には自分だけの武器になる。完成品を一字一句写し取れるかどうかが目的になるコピーとは、出発点からして目的が違っている。
白雨皐月が持つ模倣の才能は、その概念をさらに一段押し上げるものだった。ただの器用さや記憶力といった凡庸な言葉では包摂できない。白雨はたった一度見ただけで、どんな動きも完璧に真似ることができる。
だが、それだけではない。
彼女の出力は引用元となった本人が抱えるほんの僅かな無駄や、不要な癖を排した形で結晶化する。模倣元の熟練者でさえ扱いきれていない完成形を、白雨は初手から当然の水準として行使できてしまう。
要するに、彼女の模倣は元の動きを上書きし、百点満点を超える百二十点の精度で磨き切った答えを返すことができる。常識的な練習や積み重ねを踏み抜いてくるような、冷徹で反則めいた才覚だった。
しかし、白雨の本領はそこから先にある。彼女は模倣をした相手が実際には取っていない動きすらも扱える。観察した範囲の動きから、その人間が取り得たであろう派生の選択肢や応用の技術まで推測し、整合の取れた動きとして自分の身体に落とし込んでしまう。
その人物なら可能なはずの選択肢を理屈もなく拾い上げて、自分の手札に平然と並べてしまう。
言うなれば、それは模倣の天才。
事実として、白雨は卓球という競技をこれまで経験したことがない。部活としても、遊びとしてもやったことがない。幼い頃に一度、たった一度だけテレビで試合を見ていただけだ。
ただ、その場で白雨の目に入った舞台が悪い。白雨が幼少期に見ていたその卓球の舞台は、町内の交流試合でも、子ども向けの教室でもなかった。よりによって、世界の頂点だけが集まるオリンピックだった。そこで繰り広げられていたのは、反応速度も駆け引きも、すべてが人類最高水準と呼ばれる領域の戦い。
つまり今、冬木の前に立っているのは────
***
「し、白雨。お前本当に卓球やったことないのか?」
あのサーブの切れ味が網膜に居座ったまま問いを投げる俺に、白雨が返したのは顔色を丹念に観察する視線だった。金色の瞳は静かに楽しそうで、観察対象を興味深く眺める時の落ち着いた明るさを帯びている。
「私のこと呼び捨てしてくれたね」
「っ!今そんなことはどうでもいいだろ!」
白雨は、自分が今どれだけ異常なサーブを打ったのかなんて気にしていない。驚く価値もないものとして受け入れて、できて当然の見慣れた日常の一部として扱っている。
それよりも白雨は、俺が名前を呼び捨てにしたという事実だけに関心を向けて、わずかに満足そうにしている。その態度と温度差が腹に引っかかって、俺の中で苛立ちがじわじわと熱を持つ。
「そんなつまらない嘘はつかないよ」
「つ、つまらないって⋯⋯」
「冬木君、次も私のサーブだよね」
「え?あ、あぁ」
呆然としていた冬木はその声で現実に引き戻され、ポケットから予備の球を指先でつまみ、軽いトスで宙へ上げる。白雨が無駄のない手つきで受け、静かに構え直す。足幅は一定、肘の角度は微動だにしない。呼吸の深さまでも筋書きの通りに見える。
(さっきは油断して失点したけど、白雨さんのレベルが最初から高いと分かっているなら⋯⋯)
台の縁とラバーの摩擦音に耳を澄ませる。白雨が球を持ち上げ、短い静寂を切り裂くようにサーブを打つ。トスの高さ、落下の速度、インパクトの位置。その全てに無駄がない。
ラケットに球が触れ、再びサーブが始まる。今度は俺から見ても下回転だと分かる打ち方で、冬木もそれを見てラケットを伸ばす。白雨の手首は小さく畳まれ、球は低く滑る。床の光をかすめながら、白線の上をかぎ取るように走った。
着弾地点を予測していた冬木のラケットが球を撫で、返球できると一瞬だけ胸が浮く。
しかし、その希望はすぐに潰えた。
(球が⋯⋯上がらない⋯⋯!)
下方向への回転が苛烈で、触れたそばから球は沈む。冬木の返球はネットの帯へ届く前に力を失い、白雨のコートへは渡らない。
「ツ、ツー・ラブ(2-0)」
卓球部の冬木が、開始早々に二点を失った現実が喉を乾かす。俺は機械的にスコアを告げながら、白雨の精度に背筋が冷える。
「次は冬木君の番だね。いつでもいいよ」
白雨は淡々と次を促し、その声音に揺れはない。対する冬木の顔には、読み間違いの悔しさと己の無力さが縫い合わされる。指先がほんのわずかに汗ばみ、握ったラケットが手の中で頼りなく感じられる瞬間。胸の奥で揺れているのは明るさにも安穏にも繋がらない種類のざわめきだ。
下一文字のように重力へ落ちる思考を、次の一本でどうにか持ち上げなきゃいけない。そんな負荷が、冬木の肩に静かに乗っているのが見えた。
(このサーブで流れを作る⋯⋯!)
冬木は足裏で床を軽く噛み、膝をしなやかに沈めた。利き腕のラケット面は一点を刺すように角度を定め、視線は白雨の胸元から台上へと静かに移る。白雨が卓球をしたことがないと言った時にだけ覗かせていた遠慮は、今、すべて衣の裾から振り落とされた。
元々、経験者である自分に挑む白雨を無謀だと冬木は見ていた。だが、サーブを見ただけで理解させられたのだろう。甘さは砕け、残ったのは勝負の温度だけだ。
「いくぞ」
短く跳ね上げたトス。球は天井の照明を一瞬だけかすめ、掌を離れた白が滑るように落ちる。ラバー面に触れた瞬間、乾いた音が台上を疾走し、スピードと回転を兼ね備えたサーブが斜めへ切れていく。俺ならまず触れられない、冬木が試合で叩き込むレベルの本気の一本だ。
「⋯⋯!」
しかし、白雨は平然と返した。落ちる前に落ちる場所を知っているかのように、白雨は着地点を先取りした。面をわずかに寝かせて回転を受け止め、次いで軽く押し出す。球は暴れず、提示された難題を解いて返送される。
冬木は即座に切り替え、返ってきた球へ逆回転を噛ませる。足は細かく刻まれ、上体は弾力を含んで前に沈む。次の手は速いドライブ。攻めの拍が半歩早い。
だが、次の瞬間。
「!」
返礼として返ってきたのは、より速く、より鋭いドライブ。打点も角度も狂いの許されない難所で、白雨は寸分の遅れもなく合わせる。薄く擦ったラバーの摩擦が空気を裂き、球は冬木の想定より半歩先を通過する。要求されるタイミングは極端にタイトで、面の角度も許容がほとんどない。それでも白雨は、それを易々とやってみせた。
「⋯⋯スリー・ラブ(3-0)」
冬木は反応しきれず、伸ばしたラケットの外側を球が滑っていく。白い点は冬木の脇を掠め、床で小さく跳ね、静けさだけを残した。
それ以降も展開は同じだった。点は静かな速度で加算され、気づけば盤面は白雨の勝ち目で埋まり、あっという間にマッチポイントの縁に立たされている。
「はぁ⋯⋯はぁ⋯⋯!」
冬木は額に汗を浮かべ、呼吸が乱れている。だが、それは体力の尽きかけた乱れではない。なぜならそれは、ラリーが成立していないからだ。白雨の打球が速すぎて、深すぎて、精度が高すぎて、冬木のラケットに球が収まらない。だから、体は大きく動いていないのに、心拍だけが先行して走る。
つまり、冬木を乱しているのは焦りだ。点差の開き、計算の狂い、視界の端で削れていく余裕。それらが同時に喉を乾かし、息のリズムを奪っていく。
その心情を察しても、俺にできることは何もない。コートサイドで息を呑み、ただ見届けるしかなかった。
(せめて、1点くらいは⋯⋯)
冬木は汗を滴らせ、視線を落としたままサーブ権に従って構えを固定した。呼吸は浅く、胸郭の開閉が小刻みに震える。掌の湿りがラバーへ移って、握りの感触がわずかに重くなる。
それでも、背骨の芯だけは折れず、最後の一球まで向き合うという意志がうなじの奥で静かに燃えているのを確かに見た。
そして、冬木らしい意地を保ったまま、サーブを放つ。小さなトスは淡い弧で持ち上がり、面が触れた瞬間に乾いた音の火花が体育館の空気を震わせる。白い球は短い稲光のようにネットを越え、白雨のコートへと滑っていく。
球がコートを渡り、白雨がラケットで受けた刹那、ここで初めて微かな狂いが生じた。今までは精密機械のように沈む返球が、この一球で乱れを見せた。
「!?」
白雨のレシーブは先刻より緻密さを欠き、球はふっと上へ逃げる。張り詰めた糸が一音だけ緩んだような、微細な綻び。回転の入り方が弱く、軌道に膨らみが出たと俺と冬木は判断する。
(ミスした!?いや、いい⋯⋯!きっと最後のチャンスだ!)
冬木は────ラケットを引き、右足を少し後ろに下げて、肩幅よりやや広く構える。そして、絶好のタイミングでラケットを振り抜く。肘先のしなりで面を加速させ、左肩をわずかに畳み、体軸を前へ送る。
踏み替えは一足ぶん、頂点に拍を合わせ、振り終えで手首を軽く返す。
それは、冬木が最も得意とするスマッシュ。
強烈な一撃だった。初速は凄烈でコースは鋭角。打球は一本の刃になって白雨のフォアサイドを切り裂き、決定打の手応えが冬木の腕からこちらへまで伝わってくる。
「なっ!?」
だが、白雨はそれすら当たり前のように拾う。
半歩だけ足の向きを切り替え、体の面を無音で整える。反応速度が常識を外れているのか、予測能力が異常に高いのか。白雨はほとんど誤差のない角度でラケットの面を差し込み、暴れる球威を吸い取りながら向きを変えた。俺の視界の端で、短い軌跡だけが鋭く光る。
「冬木!」
「っ!」
渾身の一打を返され、呆けかけた冬木は俺の声に跳ねて持ち直す。惰性を断ち切るように前へ踏み出し、反射で面を差し出してどうにかボールを掬う。だが遅れは遅れだ。球は縦に浮き、天井灯をかすめて白雨のコートへ余計な高さで渡ってしまう。
それに対して、白雨の答えは。
「⋯⋯⋯⋯は?」
白雨は、模倣の天才。
視線ひとつで他人の動作の骨組みを分解し、必要な要素だけを拾い上げ、即座に組み立て直す。
無論、それは今も例外ではない。
白雨は────ラケットを引き、右足を少し後ろに下げて、肩幅よりやや広く構える。そして、絶好のタイミングでラケットを振り抜く。肘先のしなりで面を加速させ、左肩をわずかに畳み、体軸を前へ送る。
踏み替えは一足ぶん、頂点に拍を合わせ、振り終えで手首を軽く返す。
冬木と同一の段取りを、そのままの手順で。しかし、仕上がりは一段上。白雨はたった一度の観察で冬木の最も得意とするスマッシュを借り受け、より研ぎ澄ました形へと昇華してみせた。
角度はいっそう鋭利で、速度はひと息ぶん増し、冬木が目指した完成型のスマッシュへ。
白雨が、先に手を届かせた。
「⋯⋯イレブン・ラブ(11-0)」
覇気のない俺の声が体育館の天井に淡く跳ね返って、硬い床の上に静けさが落ちた。白球の弾む音も、ラバーに吸い込まれる乾いた衝突音も、今は跡形もない。
試合は幕を閉じた。
挑む側の熱と、いつもの明るさは冬木からすっかり抜け落ちて、俺の目の前で冬木は立ち尽くしていた。握りしめた掌に残る振動の記憶だけが、遅れて体内をさ迷っているように見える。
一方で、白雨は揺れない。卓球台の端に軽い影を落としながら、何の執着もない足取りでラケットを持ち、冬木に向かっていく。返却のために差し出す所作に、余分な感情は一滴も混じらない。肩の高さ、肘の角度、指先の位置までが、計算ではなく習い性のように整っている。
「満足した?」
その一言は、体育館の空気を刺すでも、慰めるでもない。必要だから発された、とだけ理解できる乾き具合だった。
白雨の白髪は、試合の間中にしっかりと動いていたはずなのに一本も乱れていない。制服の布地は皺を拒み、縫い目の線は初めからそこにある規則を守っている。呼吸は浅く静かで、喉元の上下さえ目につかない。額やこめかみに光るものもなく、肌に散る汗の気配は見当たらない。つまり、白雨には最初から余裕しかなかったということだ。俺はその事実を、嫌でも理解させられる。
「⋯⋯あぁ、満足した!ありがとう!」
冬木は差し出されたラケットを受け取り、笑った。けれど、その笑みは綺麗に整えた包帯みたいに、内側の痛みを見せないためのものだ。
無理もない。中学から積み上げてきた卓球に本気で向き合ってきた誇りが、今日が初日の天才によって踏み躙られたのだから。しかも、切り札のはずだったスマッシュさえ、白雨に一目で真似されてしまった。自分の強みが自分の手の外へ滑り落ちるあの冷たさに、冬木が平気でいられるはずがない。
「ちょっと熱くなったから飲み物かってくるわ!」
「冬木⋯⋯」
軽口の明るさを帯びた声だけを置いて、冬木は踵を返した。靴底が床板を叩く間隔がほんの少し早い。引き止める言葉はいくつも喉元まで浮かんだが、どれも形にならない。あの背中を止めることなんて、今の俺にはできなかった。
そして、冬木の背中が視界から消え、残された俺は白雨に視線を向けるしかなかった。
「⋯⋯」
俺は、胸の奥で渦を巻くものに名前を与えれずにいた。"それ"は苛立ちに寄り添い、やりきれなさに触れ、どちらにも定着しない微妙な温度が入れ替わりながら浮いては沈む。言葉にすれば逃げ、掴めば形を変える。そんな、扱いにくい感情の塊。
冬木の悔しさに寄り添いたいのか。白雨の無風の勝ち方に反発したいのか。心の指針は同じ幅で揺れて、どちらにも倒れない。そうやって落としどころを見つけられないまま、俺は口を開いて言葉を投げる。
「白雨、お前────わざとだろ」
次の更新予定
毎週 月曜日 17:00 予定は変更される可能性があります
白雨皐月は恋がしたい ナツメ @natume6
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