第2話 朝から胃もたれ
朝の日差しが教室に差し込んで、木製の机の縁が薄く光る。光は粉塵を拾い上げて、空気の層に目盛りを振る。まだホームルーム前。廊下の足音は途切れがちで、椅子を引く金属音が遠くのほうで散っていく。俺はいつもより少し早く席に着いた。鞄を足元に置き、背もたれに体を預け、呼吸の深さをひと目盛り落とす。
「おはよう志遠」
朝一番に篠原の声が耳に触れた。朝一番の元気さというより、用件に一直線の鋭さ。十中八九、あの話だと分かっているから返事が重くなる。
「おはよう」
「昨日の答えは決まった?」
やっぱりその話だ。部活か、風紀委員か。二択の札を机の上に静かに並べられている気分になる。カードを伏せたままの時間はもう長く伸ばせない。けれど、乱暴にめくれば後悔するのは自分になるので、息を整えて正直に言う。
「決まってない」
「はぁ?なんでよ」
篠原の眉がわずかに寄る。予想通りの反応だ。俺は机の端に指を置き、木目の流れをなぞりながら、会話を続ける。
「⋯⋯昨日は少し変な奴に絡まれたせいで何も考えれなかったし、決められもしなかったんだ」
嘘は言ってない。白雨皐月と遭遇してから、まともに思考を進められる状態ではなかったし。
「えっ!?だ、大丈夫なの?」
「まぁな。そういうわけだから返事は一旦保留にさせてくれ」
「それはいいけど、本当に大丈夫?」
心配の角度が真正面で、視線に体温が宿っている。事情を根掘り葉掘り聞きたいのは分かるが、言えることと言えないことの境界は、今はまだ厚い。ここで説明を始めると話がこじれそうだな。
「大丈夫だって。そこまで心配しなくていいから」
「そう⋯⋯わかったけど、何かあれば言いなさいよ」
篠原は名残惜しそうにしながらも廊下の方へ姿を消し、ひとまず返事は保留にできた。けれど、時間は稼げても選択そのものからは逃げられない。結局、今日の放課後も何かしらの答えを掴みに行く必要がある。
机に肘を置き、視線を窓の外へ滑らせる。雲は薄くて風は弱いが、教室の温度はちょうどいい。そういう、どうでもいい細部を確認してから、頭の中は昨日の場面へ戻る。
旧校舎の影、柔らかい灯り、仕切りの内側。そして、俺を見据えるあの無表情と金色の瞳へ記憶が流れる。
「断る。意味が分からないし、納得もできない」
俺ははっきり言った。初対面の相手から『好きになれるようにしてほしい』と頼まれて、頷く人間がどれだけいる。価値観の地図が違いすぎる。理解を飛び越えて納得しろと言われても、橋は架からない。
そんな冷たくはっきりとした拒絶に対しても、白雨は揺らがない。
「残念だね」
返事はそれだけ。
落胆の温度も、悔しさの影も見えない。白雨はそこから先へ踏み込むでも、説得するでもなく、会話を静かに諦めた。
拍子抜け、という言葉で済ませるには体の芯がぞわついた。引き際が綺麗すぎる相手は、次の一手を当然のように持っている。初手が外れた瞬間に、別の矢を静かに番えている。そんな嫌な予感が、胸の下で鈍く光った。
「⋯⋯」
まぁ、気にし過ぎても仕方がない。教室のざわめきが増えるのを感じながらも、そう自分に言い聞かせて昨日の影をいったん脇に置く。案外白雨との関わりはあれで終わりで、今後は話すこともないかもしれない。移動教室で視線がすれ違う程度で、いつか昨日の会話も忘れて、記憶は薄れていくだろう。
そう思った矢先だった。
「おはよう、黒瀬君」
「あぁ、おは────っ!?」
反射で椅子が軋む。視線を上げると、教室と廊下の境界線を軽く跨いで、白雨が当然の顔で立っている。金色の瞳が朝の光を受けて、淡い反射だけを置いていく。昨日の続きが、容赦なく日常に差し込まれた。
「な、なんでここに!?」
声量が半歩だけ上ずったのが自分でも分かる。意図せず周囲の注意を引く最悪の入口だ。席と席の間に走る小さな囁き、椅子の脚が床を擦る音。普段は教卓の前にしか集まらない注目が、今は俺の席に降り注いでいる。嫌な熱だ。朝の涼しさが一瞬でどこかへ逃げる。
「挨拶しに来たんだよ。黒瀬君と仲良くなりたくて」
教室がざわめいた。白雨皐月が別クラスの教室にわざわざ来て、俺の名前を呼ぶ。話の内容より、その構図が注目の燃料になる。俺が呼吸を落とす前に、好奇の視線は増殖する。
白雨の言葉は真っ直ぐで、端的だ。嘘が紛れている感じはない。だからこそ、教室中の視線が重くなる。早朝でまだ人が少ないのが唯一の救いだが、救いは救いでしかない。注目の針は俺の皮膚を正確に刺す。体温と心拍が同期して、落ち着きが削られていく。ここで間違えた動きをすると、今日一日が面倒になる未来が見える。
「っ!ちょっと外行くぞ」
「うん、いいよ」
小声で告げ、椅子を押し戻す。脚が床に触れる音を最短で終わらせて、教室の扉へ。俺が一歩踏み出すと、白雨もほとんど音のしない歩幅でぴたりと続く。騒がしい教室の温度から一歩抜けるだけで、空気が軽くなる。廊下へ踏み出すと、白雨も音を立てずに付いてくる。
足音がしないのに、距離だけは正確に詰めてくるのが落ち着かない。俺が先導して、白雨が追う。白雨皐月を連れ回すという朝から目立つ図ができあがって、視線が背中に刺さる。普段のリズムが乱れる感覚が、胸の内側で転がった。
「一応聞くけど、嫌がらせか?」
人の少ない通路へ折れながら問いを投げる。言い方に角が立つのは自覚している。けれど、今の俺は余裕がない。選び損ねた語尾が、そのまま飛んでいく。
「違うけど、嫌だった?」
「あぁ、嫌だったね。どうしてあんな目立つことするんだよ」
「分からないから」
足が半歩だけ鈍る。分からない、の中身が分からない。苛立ちの形が少し崩れ、代わりに疑問が芯を占める。
「分からないって?」
「人と仲良くするためにはどうしたらいいか、私には分からないから」
「⋯⋯」
嘘の温度ではない。白雨の無機質な言い方が、むしろ正直さを強調していた。興味本位でからかう調子じゃなくて、白雨は白雨なりのやり方で、俺に答えている気がした。
俺は一旦黙って、廊下の突き当たりの扉に手をかけた。金属の取っ手がひんやりして、指先の熱を奪っていく。押し開けると外気が流れ込み、階段の鉄骨が微かに鳴った。非常階段へ白雨を連れ出して金属の段差を数歩だけ下り、廊下に戻る扉がない側の踊り場で足を止める。ここなら余計な視線を気にすることもない。
「早速だけど、さっき聞いたこともう少し深掘りしていいか?」
正直、白雨と関わりたいわけじゃないが、放置をしたら解決する相手でもない。だったら、関係を切るための手掛かりを俺の方から拾いにいく。そう腹を決めた。
「いいよ」
風が吹いて、白雨の白髪が小さく揺れた。前髪の隙間からのぞく朝の光を含んだ金色の瞳が、物静かに俺を捉えている。昨日と同じ、いや、それ以上に鋭い注視。価値を測られている感覚に、喉がひとつ鳴りながら俺は問答を始めた。
「仲良くする方法が分からないってのは、人と関わってこなかったからその方法を"知らない"ってことか?それとも、関わってきたけど"上手くいかない"ってことか?」
「前者だね」
「じゃあ、なんでそいつらと関わってこなかったんだ?昨日の白雨さんが言ってたように他人に興味がないからか?」
矢継ぎ早に質問を投げたのに、白雨の表情は揺れない。返事の間も一定で、音だけが淡々と返ってくる。
「うん、そうだよ。私は誰にも興味が持てなかった。それは幼少期の頃からずっと同じで、友達と呼べる相手もいない」
あぁ、聞かなきゃよかった。
胸のどこかが少し沈んで、言葉がつっかえて出てこない。慰めは違う。同情も違う。どっちも、白雨への不正解になる気がして、口の中で余計な言葉が砂みたいに崩れる。
風が手すりに当たって、低い音を残す。踊り場の床は薄く冷たく、上靴越しに温度が伝わる。俺は視線を外して階段の影を眺める。逃げるみたいで嫌だが、正面から見続ける勇気も今はない。
「でも、今までに声はかけられてたはずだろ。なんでそういう人に興味が持てないんだよ」
「その人達が見てるのは私じゃなくて、私の才能しか見てない人達だから」
「⋯⋯」
なんとなく、白雨の道筋が見えた気がした。
差し出された手は多かったはずだ。誘う言葉、称賛の視線、期待の笑み。ただ、その行き先は白雨本人ではなく、白雨の才能という看板だけに触れている。肩書きに手を伸ばしながら、肝心の中身には触れようとしない。そうなると、他人への興味が育たないのも当然だと分かる。
そんな考えを胸の手前で転がしながら、手すりに背中を預けた。鉄の冷たさがシャツ越しに薄く伝わり、頬を撫でた風がこもっていた熱をひと息ぶんだけ奪っていく。乾いた外階段の匂い、遠くで響く教室の喧騒。視界の端で白い空がにじみ、思考だけが静かに輪郭を濃くする。
白雨は幼い頃から、役割だけを求められてきたのかもしれない。天才という肩書きは一見すると祝福に見えるが、向けられる視線はいつも結果や記録へと滑っていき、白雨そのものに届かない。名札に触れる手は多くても、心に触れようとする手は存在しない。そんな日々が続けば、人との距離の測り方が変わっていくのは自然な流れだ。言葉の選び方も、視線の返し方も、期待から身を守るための形に整えられていく。
誰かが近づく気配を感じた時点で、白雨は半歩だけ先に退く。好意や好奇心が心に触れる前に、相手の期待が先に押し寄せてくるのを知っているからだ。
近づかれて疲れるくらいなら、初めから距離を置くほうがいい。考え方としては簡潔で、合理的だな。
「大体分かったけど、じゃあなんで俺になるんだ?」
結局のところ推測の域を出ないが、俺なりの白雨への輪郭づけにひとまず区切りをつけて再び口を開く。
「昨日と同じ答えになるけど、黒瀬君が珍しいからだよ」
同じ答えが同じ温度で落ちてきて、思わず眉間が強張る。結局そこか、と頭では理解していても、腹は収まらない。
珍しいという曖昧な札を俺に貼って、それで全部済ませる気なのか。白雨の声が淡々としているほど、俺の苛立ちは輪郭を濃くした。分かっている、食い下がってもどうせ濁されるだけだ。だから、そこへの追求はもういい。
「はぁ⋯⋯俺の答えも昨日と変わらない、断る。友達でもない人からの無茶なお願いを聞くほど俺はお人好しじゃない」
「そうなんだ。それじゃあ黒瀬君と友達になったらいいの?」
喉の奥が熱くなった。解決策という名の梯子を、さも簡単そうに差し出してくる感じが俺の神経を逆撫でしてくる。白雨の言う友達になれば済むという軽さは、俺の考え方や価値観を勘定から外している。
ざらつく不快感が広がり、表情は自然と固くなる。それでも、呼吸を整えて思考を並べ直す。簡単の二文字に押し流されないために。
少なくとも、俺が抱える距離と警戒は一段で越えられるほど低くはない。
「友達になるのも無理だ、白雨さんとは上手くやっていける気がしない」
これで引いてくれ、と心のどこかが祈っていた。俺に固執しなくていい。世の中には白雨に手を伸ばすやつがいくらでもいるはずだ。だったら、その誰かに任せればいい。俺は白雨の課題に付き合う役じゃない。
そういう露骨な本音をあえて見せた。角が立つことも承知の上で。
しかし、返ってきた反応は俺の想定を薄く裏切る。
「だったら、別の"方法"を考えてみるよ」
ゾッとした。
白雨の声の温度は変わらないのに、体の内側が少し冷えた。別の"相手"じゃなくて、別の"方法"。つまり、対象は俺のまま手段だけを変えるという宣言。白雨の執着が、方向性を失わず密度だけを増した気配に呼吸が浅くなる。理由のわからない恐怖が、胸の奥を素早く撫でる。
白雨は俺の常識や距離感が通用する相手じゃなかった。考えを積み上げても、手綱は指の間からすり抜けていく。白雨が一歩進むたびに、俺の想定は簡単に追い越され、余計な誤差だけが残る。そんな感覚がずっと続いている。
「⋯⋯俺以外の相手を探す選択肢はないのか?」
「ないよ」
白雨の中では議論はとうに終わっていると示す返事。
「今まで15年間生きてきて初めて興味を持てる人に出会ったのに、今からまた別の相手を見つけるのは現実的じゃないから」
白髪がさらりと揺れて、金色の焦点が外れない。見られているのは俺自身だと、嫌でも理解させられる。
「いや、そもそも俺が人を好きにさせるなんて無理だぞ。俺は今まで彼女なんていなかったし、モテないし、女心だって分からない。そんな俺がどうやったら人を好きにさせられるんだよ」
役不足を伝えてみたが、言うだけ無駄だろうな。
「気にしないよ。最初は黒瀬君の傍にいさせてくれるなら、それだけでいいから」
白雨は迷いがなくて、俺は迷いに雁字搦め。優柔不断で、煮え切らない、そんな自分が惨めに見えてくる。
「そろそろはっきりした返事が欲しいかな。ホームルーム始まっちゃうよ」
「⋯⋯⋯⋯あぁもう、分かったよ。分かったから、突然教室に押しかけてくるような面倒事はもう引き起こすなよ」
口から出たのは、最低限の条件を引き替えにした降参。ここで妥協しなければ事態はもっと悪い方向へ転がる気がして、俺は頷いた。
仕方のない承諾だが、白雨が突飛な行動に出る不安をひとつ潰し、線を守る条件を添える。俺にしては上出来だと、粗雑な言い訳をしながら、俺は新しい日常に片足を踏み入れた。
「ありがとう。これからよろしくね、黒瀬君」
こうして、天才の白雨皐月と俺の歪な関係が幕を開けた。
***
「お、帰ってきたね黒瀬君。教室は君の噂で持ちきりだったよ」
扉の縁に指を添えて横へ引き、レールが乾いた金属音をひとつ鳴らした。そのまま教室の空気へ混じるよりも先に、瀬名 碧斗(せな あおと)が真っ先に声をかけてきた。
瀬名は入学当初からの隣席で、適度に距離感を測りながら話題を投げてくる話上手だ。物腰は柔らかく、声は角を落とす。そういう無害な印象を崩さないまま席に身体を傾けて、見慣れた軽い笑顔だけを向けてくる。
「遅れて登校してきた僕の耳にも届いたよ」
「だろうな、面倒極まりないし朝から十分に疲れた」
「ははっ、何があったのか聞いてみたいけどその顔じゃ教えてくれそうにないね」
なるほど。どうやら今の俺の顔は相当わかりやすいらしい。疲労の残滓と、面倒の名残と、余計な熱の三つ巴。表情に出したくないものほど、筋肉は勝手に拾う。
「まぁ、そうなるな。ただ、どうせ後で問い詰められそうだし、その時に勝手に聞いててくれ」
「? あぁ、なるほどね」
瀬名は軽く頷いた。俺の視線の先を追えば理由は明らかだ。前の列、窓側寄りの席で篠原がこちらを見ていた。赤いツインテールの動きが止まって、冷えた色の眼差しだけが鋭く光る。篠原の表情は、分かりやすい不機嫌寄り。眉の角度、口元の固さ、全部が答えを示している。
そういえば、白雨が教室に現れた時に篠原は教室にいなかったな。だから今の篠原が知っているのは、周囲から集めた情報の断片だけか。伝言ゲームの末尾みたいな情報で俺の行動が形作られている。そう考えると、休み時間には篠原からの問いが飛んでくるのはもう見えている。
俺はホームルームの時間を使って、最低限の言い訳を組み立てるべきだと判断する。余計な感情を混ぜず、反発も煽らない中立寄りの説明がないと、篠原相手には心許ない。
「⋯⋯」
それにしても、どうして篠原は目に見えて不機嫌そうなんだろうか。口元は動かないのに、視線の端だけが冷えている。それは、どちらかと言うと怒りより警戒に近い気がした。対象は俺か、白雨か、あるいは両方か。判断にはまだ早いが、少なくとも余計な刺激はしない方がいいな。
そうして考えている内に、チャイムが遠のいて朝のホームルームは予定通りに締めくくられた。教卓の前で担任が連絡事項をまとめる声が消え、教室は一気に休み時間のざわめきに切り替わる。椅子を引く音、ノートを開く紙の擦れ、黒板の粉っぽい匂い。二限目までの短い隙間に空気が緩む。
そして予想通り、その緩んだ空気を割るように篠原が一直線で俺の席に向かってきた。足取りは早く、視線は真っ直ぐ。いつもの幼馴染の顔だ。
「志遠!どうしてあんたが──」
「待った待った、騒がないでくれ⋯⋯今疲れてるんだ⋯⋯」
初撃の勢いを正面から受ければ余計にこじれる。だから、呼吸をひとつ整えて、同情を誘えそうな弱々しい声で制した。
「説明するから一旦聞いてくれ」
「さっさと言いなさない」
本格的に話す前に、俺は一瞬だけ視線を隣の席へ滑らせた。表情はさっきと同じ、いつもの穏やかさが浮かんでいるが、興味は隠していない。瀬名は机に頬杖をつきながら、わざとらしくペンを止め、露骨に耳をこちらに向けている。それに、周囲の数人も俺と篠原のやり取りに興味があるのか、会話の水面張力に指先を触れている気配がある。ここで失言はできないな。
「端的に言うと、俺の何かが白雨さんに気に入られたみたいで、変に目をつけられて困ってるんだよ」
「へぇ、それで?」
篠原の返しは短い相槌だが、圧はさらに増す追及の姿勢だ。そして、ここからが本題だ。言葉選びをひとつ間違えると、噂に火がつく。
白雨からのお願いを馬鹿正直にそのまま口にする選択肢は、最初から除外だ。結果が良くなる未来が見えない。教室というこの空間では誰が何を聞いているか分からないし、言葉は一度外へ出たら回収が利かない。俺の手の届かないところで変質して、面倒の連鎖が始まる。だから、この場で事実を全部並べるのは完全な不正解。
やはり誤魔化すしかない。
「それで、俺と友達になりたいみたいで押しかけられてたんだ」
「友達?それだけ?」
「だ、だけ⋯⋯うん⋯⋯」
「⋯⋯そう。志遠が朝に言ってた変な奴って、白雨さんのこと?」
やっぱり、その話と繋がっているのがバレるか。ならこれは正直に言っておこう。
「あぁ、そうだ。本当にたまたま昨日の放課後に出会って、そこから始まった感じだな」
篠原は怪訝そうな視線を一切緩めない。睫毛の影がわずかに揺れて、俺の顔から机、そして教室の入口へと順に確認する。瀬名はその様子を面白そうに目で追い、周囲のざわめきは少しだけ音量を上げた。
「あまり納得できない内容だけど、迷惑してるなら私がなんとかするわよ」
篠原が視線を戻し、口を開いたかと思えばいきなりそんなことを言い出した。勢いと正義感が同居した、いつもの篠原だ。けれど、俺は白雨との問題に篠原を巻き込むつもりは毛頭ない。巻き込めば、篠原の真面目さが余計な火に油を注ぐからだ。
それに、白雨に関しては、外からの善意が通用する場面がほとんど思いつかない。机の木口を親指でなぞりながら、頭の中で最短経路を選ぶ。
「いやいい、自分でなんとかするから」
「できるの?」
論点はそこじゃない。俺ひとりでできるできないの話にしてしまうと、篠原は躊躇なく踏み込んでくる。そうじゃなくて、篠原が介入しても事態は好転しないから巻き込みたくないという話だ。
はっきり言えば篠原では力不足だ。
もちろん篠原の正義感や行動力を否定するわけではないが、白雨の動きはその範囲の外側にある。だから白雨の邪魔ができるとは到底思えないし、前提として正面からの対立すら成立しない。
「それは分からないけど⋯⋯白雨だって悪い奴じゃないだろうし、急いでどうこうする必要なんてないだろ」
「今後面倒なことされるかもしれないのに放っといていいの?」
「まぁまぁ、落ち着いてよ2人とも」
俺と篠原のやり取りに熱が入り始めた時に、瀬名がタイミングよく声をかけてきた。緊張の芯を軽く叩く適度な力加減を見て、俺は一歩引くことにした。口火を切り続けるより、第三者の言葉で温度を下げた方が全体として良い結果に着地する。そう判断して、俺は大人しく引いて2人のやり取りを傍観することにしよう。
「えっと、あなたは確か⋯⋯」
「僕は瀬名だよ。瀬名碧斗、よろしくね」
「そう。私たちの話聞いてたの?」
篠原は瀬名に対してもツンとした態度を崩さないが、瀬名はまるで気にしていなかった。表面の棘を、棘そのものとして扱わない器用な話し方をする。
「黒瀬君に好きに聞いていいと言われてたからね。それで、差し出がましいのを承知で僕の意見を言ってもいいかな?」
俺の発言を根拠に置き、越権にならない角度で入ってくる。真意の見えない笑みを浮かべる瀬名に対して、篠原は不服そうで警戒しているような色を見せていた。信頼残高がゼロの相手に、いきなり通帳を渡すわけにはいかない。そういう顔だ。
「⋯⋯言ってみて」
意外だな。てっきり拒絶するかと思ったが、篠原は拒まなかった。というより、篠原は発言から鑑みるに俺を守ろうとして感情を前に出していたから、第三者の言葉で一度頭を冷やしたいのかもしれない。
「ありがとう。まずは意見を言う前に、少し僕自身のことを語らせてもらおうか。僕は、白雨さんと同じ中学で、2年生の時はクラスも同じだったんだ」
不意を突かれた情報が胸に落ちるが、瀬名の声色は淡々としていて、驚きを引き出すつもりはないのだと分かる。
「彼女のことは度々見かけてたけどひとりで過ごすことがとても多くてね。クラスであった打ち上げにだって、全部誘ってみたんだけど1回も来なかったのを覚えてるよ」
打ち上げ、と言えば文化祭や体育祭みたいな大きめな学校行事の後にある集まりだろう。まぁ、白雨がそういう場に顔を出さないのは想像に難くない。興味の対象がいない場所に時間を置いても、白雨にとっての利得は薄いからだ。
「そんなの白雨さんの勝手でしょ?他にも来てない人なんていくらでもいるはずよ」
「それはそうだね。ただ、他の人と違うのは白雨さんが天才だったことかな。彼女の天才ぶりに圧倒されて、僕を含めたクラスメイトたちが距離を置いてしまったところに、少なからず責任があるんじゃないかと思ってるんだ」
連ねられた言葉に、瀬名の目の奥で小さく沈む色が見えた。今になって形を持った後悔、そういう影が見える。白雨の周囲に生まれた空白は白雨だけの問題ではなくて、近くにいた側の及び腰でも広がる。瀬名はその分を引き取ろうとしている。言い訳ではなく、自分の側の懺悔として。
俺は頷きはしないが、否定もしない。
「別に僕は白雨さんの友達ってわけじゃないけど、同じ中学だったよしみでせっかく話せる相手ができたなら応援してあげたいんだ。だから、彼女のことは好きにさせてあげてほしいかな」
瀬名が本当に俺と同い年なのかという疑問と、俺の胃に朝から積み荷が増えた感覚があるが、今は横に置いておく。
瀬名の優しさは十分伝わったし、篠原にも届いたはずだ。反論を用意していた篠原が、静かに言葉を畳んだのがその証拠。篠原は篠原で、他人の気持ちを考えられる優しい人間だ。だから、今は言い返さない。優しさがあるからこそ、余計な言葉を挟めない。
そして、話はそこで落ち着いた。胸の内に残る余韻はあるが、ひと区切りはついたと判断する。
濃く詰まった朝はようやく一度、終わった気がした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます