白雨皐月は恋がしたい

ナツメ

第1話 天才との邂逅

 俺の名前は黒瀬志遠(くろせしおん)。今年高校生になったばかりの、どこにでもいる普通の生徒だ。特技って言えるほどの武器はないし、かといって極端に苦手なものがあるわけでもない。テストは平均より少し上、体力測定はそこそこ、通知表に赤も金もつかない。そういう平坦さが、俺の足取りには合っている。


 今日は体育館で部活動の紹介が終わって、そのまま解散になった。床のワックスの匂いと、マイクのハウリングがまだ耳の奥に残っている。ステージでは各部の先輩が順番に顔を出し、スライドを流したり、軽い実演をしたり、中には小芝居で笑いを取りにいく部活もあった。拍手の音だけはどの部活にも平等で、天井の梁に跳ね返っていた。


「どうするかな」


 配られた入部届けを片手に、俺は人がまばらになった廊下を歩く。紙の端はすでに少しよれていて、鉛筆で黒くなった指先がその角を撫でる。とりあえず希望の欄は空白のままにしておく。決めきれないのではなく、決める気がまだ起きていない。


 そんなことを考えていると、肩にいきなり腕が回った。押し込まれた体温で、わずかに身体が前に傾きながらも、その相手が誰なのかは振り向く前から分かっていた。


「部活は決まったか?志遠」


 冬木(ふゆき)だ。こいつは中学の時からの友達で、明るく、元気で、ノリが軽快。教科書に載せられそうなくらい分かりやすい陽属性で、気づけば中心にいるタイプ。俺とは性格の向きが違うのに、会話のテンポは不思議と噛み合う。前に出ることを怖がらないし、楽しむことに遠慮がない。


「いや、まだだ」


「そうなのか?てっきり陸上を続けると思ってたんだけどな」


「あれは成り行きでやってただけだからな。別に好きなわけじゃない」


 言ってから、冬木の腕をさりげなく外す。


「あぁ、そういえばそうだったな。あ、俺はもちろん⋯⋯」


「卓球」


「正解!」


 冬木は卓球が好きだ。いや、好きという言い方では足りないかもしれない。台に向かう時の集中の深さは、いつも周りの音を飲み込む。中学の頃は、暇さえあれば休日に呼び出されて、球出しや打ち合いの相手を延々と手伝ったことがある。


 ラケットの持ち方を矯正されて、意味の分からない回転の話を延々とされて、気づけば俺までそこそこ打てるようになっていた。ああいう押しの強さは、嫌いじゃないけど、流石に高頻度に連れ出されるのは勘弁して欲しい。


「高校ではインターハイ目指してるからな!また暇な時に手伝ってくれよ」


「暇があればな。どの部活に入るか決めてすらないし」


「あぁ、それもそうか」


 言いながら、逃げ道を確保する計算が頭の片隅で働く。下手に断言すると、あとで自分の首を絞める。冬木は善意で連れていくタイプだ。断りきれない状況に持ち込むのも上手いから、俺は曖昧さで身を守る。


「今はどこも見学とかさせてくれるし、見てみるのも悪くないぞ」


「そうだな。気が向いたら見てみるよ」


「じゃ、俺は早速入部届け出してくる!またな!」


 冬木が片手を大きく振って走り去る。そんな背中を見送りながらも、俺は自分の荷物を回収する為に教室に戻ることにした。


「お、そこの君、文芸部はどうかな?新入部員募集中だよ!」


「サッカー部はどう!?初心者歓迎だよ!」


「⋯⋯考えときます」


 歩くたび、勧誘の声が前から後ろへ流れていく。足を止めないのは、断る言い訳を長く考えたくないに尽きる。文芸の先輩は笑顔でチラシを差し出してきたし、サッカーの先輩は腹から声を出していた。どちらも熱がある。だけど、今の俺に必要なのは熱じゃない。


 そのとき、扉のすぐ横から、澄んだ声が響いた。少し大きめで、芯がぶれない気迫のある雰囲気が肌を撫でる。


「すみません、部活動は結構です」


 視線を滑らせると、光を拾った赤髪のツインテールを揺らす篠原朱音(しのはらあかね)がいた。


 篠原は俺の幼馴染だ。あのはっきりした物言いと、まっすぐな目つきは昔から変わらない。今も勧誘をきっぱり断って、先輩を下がらせていた。そんなツンとした態度が悪目立ちしないのは、言葉の芯が嘘じゃないからだろう。そう思いながら、俺は教室に入って自席へ向かった。


 椅子を引き、鞄の口を開ける。筆箱、ノート、配布プリント。いつも通りの中身をいつも通りに押し込みながら、今日の放課後の気配を測る。部活を決める気はまだない。けれど、白紙の入部届をずっと白紙のままにしておくのも、どこか落ち着かない。紙の角を親指で弾いていると、後ろで扉がもう一度開いた気配がした。続く足音は迷いがない。俺の机の前で止まる。


「遅かったわね志遠。何の部活に入るのか決めたの?」


 篠原が真っ直ぐに歩いてきて、俺の机の前で止まった。影が机の端を越えて、鞄にも落ちる。面倒だと思う気持ちが、先に胸に浮かぶ。けれど、無視を選ぶほど俺は無謀じゃない。昔から、篠原に背を向けると余計に追われるのを知っているからだ。


「いや、決めてないけど」


「それなら丁度いいわね、私と一緒に風紀委員に入らない?」


 不意打ちの角度から球が飛んできた。部活の話より面倒くさい選択肢が、平然と目の前に置かれる。


 風紀委員。朝の昇降口で挨拶、生徒の服装チェック、遅刻の確認、掲示物の貼り替え、掃除の監督。頭の中に作業の一覧が立ち上がり、額がうっすら重くなる。俺の性格と作業の相性をざっと照らし合わせて、出てくる結論はひとつだ。無理。丁寧にやるほど時間を食って、雑にやると罪悪感が残る。どっちに転んでも疲れる未来が見える。


「各クラスで男女1人ずつが立候補するけれど、丁度うちのクラスからは男子からの立候補がいないのよ。だから志遠、どう?」


「どうって⋯⋯無理だけど」


 篠原は口をわずかに曲げて、顔だけで不満を伝えてくる。刺すというより、押すような視線も同時に向けてくる。


「どうしてよ。部活に入る気なんてないんでしょ?」


「いやいや、ちゃんと考えてるし」


「私にはそんな嘘通じないわよ」


 机の上の白紙の入部届に、篠原の視線が落ちる。


「だったら何の部活で迷ってるのかしら?」


「陸上⋯⋯じゃなくて、サッカーとか。初心者歓迎らしいし」


 さっき廊下で聞いたワードを、そのまま借りる。誤魔化しの薄さは自覚している。けれど、完全に黙るよりはマシだと思って篠原の顔色をうかがうが、案の定と言うべきか、全く効いていない。


「はぁ、体育館であんなつまらなさそうな顔してたからわかってるわよ。部活に入るつもりなんてないでしょ?」


 痛いところを突かれた感覚が胸に残る。図星を指された時の、軽いむず痒さ。俺はそれを自覚しながら、視線を入部届へ落とす。たしかに、あの紹介の時間、俺は拍手を打ちながら心ここにあらずだった。どの部も悪くない。悪くないのに、踏み出す足が出ない。


 理由は、何故だろうか。少なくとも怠けたいからではないが、自分自身でもはっきりと分からない。風紀委員も同じだ。良い役割だと分かっていても、俺の心とはどうも合わない。


 それにしても、篠原はよく見ているな。体育館での俺の顔、廊下での足取り、机の上の白紙。そういう細かいところを拾って、一直線に結論へ運ぶ。真面目で誠実という俺が勝手に付けた肩書きは伊達じゃない。


「ちょっと!どこ行くのよ!」


「見学。今の時期はどこもやってるから見てくる」


 椅子の脚が床を擦る音が、引き留める声より先に教室の外へ滑っていった。勢いで立ち上がった俺の背中は、もう戻らないと決めている。正直、完全な即興だ。冬木の言葉を引っ張り出して、形だけの理由に仕立て直しただけ。けれど、今はそれで十分だ。ここから離れたい、という事実に手すりをつけるための言葉だから。


「⋯⋯ふーん、そう。それじゃあまた明日結果を聞かせてね」


 しまったな、と舌の奥で小さく息を弾く。曖昧な言い訳は、篠原の前では通用しない。これで明日、何かしらの報告をしないといけなくなった。部活に入るか、入らないなら風紀委員で落とし前をつけるか。その二択の輪郭が、くっきりと胸の内側に描かれた。


「はぁ、どうするかな」


 廊下の空気は少し冷たい。窓ガラスの外では部活へ散っていく生徒の背中が点になって、靴音だけが校舎の内側に残っている。俺は運動場へ向かう動線から外れて、中庭の方へ足を向けた。見学をする気があるなら反対側だと分かっているのに、体は静かな方へ流れていく。これは逃避か、と問われたら否定はしない。でも、静かな場所でしか整えられない呼吸もある。


 中庭は風がよく通る。植え込みの葉が擦れ合う小さな音が、頭の中のざわつきを薄めていく。校舎の壁に沿って歩くうちに、思考は自然と部活のことへ戻った。運動部か文化部、その二つに大きく分けて、自分が三年間その中で活動している姿を思い浮かべてみる。


「⋯⋯」


 だめだ。どの映像もピンぼけで、輪郭がくっきりしない。ユニフォームを着て汗を流す自分も、作品を机に広げる自分も、しっくり来なかった。だからといって、ただ篠原から逃げるためだけに部活へ入るのも違う。どちらにせよ、今はペン先を白紙に落とせない。


 そんなことを反芻していると、足は旧校舎の影に入っていた。気づけばここまで来ていた、という感覚。新校舎の白い壁とは違って、旧校舎は少し色が落ちている。廊下の照明も心なしか柔らかくて、放課後は人の気配が薄い。授業がある時間帯はそれなりに賑やかなのに、今は静かだ。静かな場所は、考え事に向いている。向きすぎて、結論が遅くなることもあるけれど。


「喉乾いたな」


 何気なく発した自分の声が思っていたよりも大きく響いた。言葉にしてみると、喉の渇きは急に具体的になる。そういえば、この先に自販機があったはずだと思い出す。旧校舎の階段を少し上った先。自販機とベンチが並んでいて、周りは仕切りに囲われている。記憶の地図をなぞるように、俺は階段を上った。


 そのまま曲がり角を抜けると、目当てのスペースが見えてきた。通路から少し奥まった位置に、仕切りの壁が立っている。上部に明かり取りの隙間があるせいで、内側からの光だけは柔らかく漏れていた。けれど、仕切りの陰が思った以上に濃くて、中の様子ははっきりしない。人がいるのか、いないのか。判断がつかない程度の静けさだ。


 仕切りって、何のためにあるんだろうか。休む人の視線を守るためか。談笑の声が廊下まで広がらないようにするためか。そんなどうでもいいことを考えながら歩みを進めて、仕切りの中に入る。


 壁に囲われた空間は、校舎の喧噪が一段だけ遠のいた気がした。俺はポケットから小銭を取り出して、硬貨の縁を親指で弾き、投入口に落とした。コトリと小さな音が積み重なっていく感じが妙に気持ちよくて、つい丁寧に数えてしまう。


 それから、好みの炭酸のボタンに指を置いた。押し込みの手応えは思ったより重い。機械の奥へ信号が走ったのか、短い間を置いてから内部が唸り、缶がレールを滑った気配が伝わる。


 ガコン。


 響いた音に合わせて体が勝手に屈み、取り出し口へ手を伸ばす。金属の冷たさが掌を切り取って、そこだけ温度が変わる。俺はプルタブに触れる誘惑をいったん振り切り、缶を両手で包むように持ってベンチに腰掛けた。


 さて、どうしたものか。少し姿勢は悪いが頭を下げて床を見るような体勢になり、部活や篠原との問題を考えることにした。今日をやり過ごしても、明日は必ず来る。篠原に投げた曖昧な返事は、明日には請求書になって返ってくるはずだ。入るのか、入らないのか。それとも、観念して風紀委員を選ぶのか。どの答えも簡単には飲み込めない。


 結論が出ないまま、思考だけを行ったり来たりさせていた。缶の表面にうっすらと汗がにじみ、指先に湿り気が移る。喉は乾いているのに、プルタブはまだ開けない。落ち着くまでは炭酸の刺激を入れたくない。そういう時もある。


 そんな不毛な思考の最中で、"それ"は不意に現れた。


「!」


 足元に、人影の縁が差し込んだ。


 視界の隅に伸びた線を追って顔を上げると、そこで目が合った。静かに。吸い込まれるように。


 反射的に飲み込んだ息が胸のあたりでつかえて、うまく吐けない。歩みの音を思い出せないほど、気配は薄かった。驚いたのは俺だけで、相手は俺が先にいることに驚きも興味も示さない。余計な感情の波が抜け落ちた顔立ちが、すっとこちらを見ている。表情は穏やかとも無機質とも言えるが、その金色の瞳だけは視線を絡め取って離さない。


 初対面だが、俺は目の前の相手が誰なのかすぐに理解した。雪のように綺麗な白髪と、全てを見透かすような金色の瞳を併せ持つ。その容姿が俺の持っていた情報と合致する。


 名前は、白雨皐月(しらさめさつき)。


 類稀なる才能を持つ、天才の中の天才だ。


 人が積み上げて届くはずの努力の段差が、白雨にとっては最初から水平に敷かれている。そんな説明を何度も耳にした。簡単に言えば、最高峰。けれど、立っている本人からは誇示の匂いが一切せず、静謐だけが宿っている。噂半分で白雨の話を聞いていた俺の懐疑が、今は現物の説得力に押し黙る。


「隣いいかな」


 凝視して固まった俺を見兼ねて、声をかけられた。鈴がひとつ転がるような澄んだ声が、仕切りの空間に広がって、耳の奥に残る。音色の輪郭がはっきりしているのに、押しつけがましくない。そんな声に緊張を強制される。


「え?あ、あぁ⋯⋯」


 口が先に動いて、間抜けな返事が漏れた。しかし、許可を出した直後に失敗したとすぐに自覚する。ここにはベンチはひとつしかない。つまり白雨が座るとしたら、俺の隣だ。距離が近い。知らない相手と肩が並ぶのは得意じゃない。相手があの白雨なら、なおさらだ。


 しかし、白雨は何も迷わない。自販機には目もくれず、音も立てずに腰を下ろす。座る動きまで整っていて、無駄がない。制服の布がわずかに擦れる音、髪が頬に触れて戻る気配、そういう細部がやけに耳に残る。視線を缶へ落とすつもりが、吸い寄せられるように白雨の横顔を見てしまう。金色の瞳は真正面のどこかに向けられていて、俺へは向いていない。それでも意識は奪われる。


 喉が鳴る。炭酸の缶を開けようと指に力を込めたが、雑音を振り払う道具にするには少し遅い。無音の隣にいる白雨が、何をしにここへ来たのか。自販機のスペースは休憩のための場所だ。なら、飲み物は。考えが勝手に枝分かれして、結局、俺はらしくない方向に舵を切った。


「⋯⋯何も買わないのか?」


 つい、口が先に動いた。言ってから、舌の奥で小さく後悔が跳ねる。こういう不用意な一言は、俺らしくない無謀な会話だった


「少しの間隠れるだけだから必要ないよ」


 返ってきた声は、余計な温度がないのに冷たくもない。波立たない水面みたいに、言葉だけが正確に届く。怪訝も警戒も見えないまま、初対面の俺と普通にやり取りを続ける白雨に、わずかに意表を突かれた。けれど、すぐに納得もした。


 白雨は俺のことを全く気にしていない。良くも悪くも、等価の風景として扱っている。安心半分、落ち着かなさ半分。俺は雑音でいたいのか、会話相手でいたいのか。自分で自分の立ち位置が定まらないのがいちばん落ち着かない。


「隠れるって、何から?」


「部活の勧誘から」


「あぁ、そういう話か」


 白雨ほどの才能と容姿があれば、どの部活も放っておかないのは想像に難くない。運動部なら結果が欲しいし、文化部なら看板が欲しい。どちらの欲も、白雨ひとりで満たせてしまう。だから、白雨が目立つ場所に身を晒せば人が寄ってくる。新校舎や靴箱のあたりにいたら小さな騒ぎになりそうだ。そう考えると、旧校舎のこの静けさは合理的だ。勝手な解釈だけど、筋は通る。


「邪魔になるならどっか行くけど」


「私は気にしないよ」


 この逃げ口上は不発。白雨が気にしなくても、俺が気になる。異彩を放つ存在が半歩の距離にいると、考え事が落ち着かなくなて着地しない。だから、撤退戦に切り替える。自然に立つには、飲み物を早めに終わらせるのが手だ。


 そう思って俺はプルタブに指を引っかける。金属が跳ねて、続いて炭酸の泡が細かく歌う。この音が合図みたいに周囲の静けさを一瞬だけ押し広げた。


「⋯⋯」


 喉を一本の冷たい線が通り抜ける。炭酸の刺激が膜を薄く叩き、その上に甘さが残る。そこまで分かってるのに、味は遠い。舌は働いているのに、脳に届く前で情報が霧散する。落ち着かないまま、二口目は避けた。


 沈黙が膨らむ。俺の方にだけ気まずさが溜まって、空気が重くなる。密度のある静けさは考え事向きだが、横に白雨がいると話は別だ。思考はすぐ横顔の輪郭に引き寄せられる。見ないようにしても、意識は勝手に形をなぞる。


「会話はもう終わり?」


「え?」


 不意に、白雨が顔だけこちらへ向けた。そして視線が合った瞬間、皮膚が粟立った。


 さっきまで風景の一部として扱われていたのに、今はピントの合う距離で"俺"を見ている。いや、観察されているという正確な表現が、背骨を冷たく撫で下ろす。白雨の視線は強くないのに、逃げ場がない。価値を測られているわけではないのに、どこかの秤に乗せられた錯覚が生まれる。


 何が引き金になったのかは分からない。沈黙の長さか、缶を開けた音か、それとも俺の視線の揺れか。いずれにしても、白雨の目は今俺の何かに価値を見つけている。俺の何かが、白雨の琴線に触れてしまった。


「噂で聞いてたけど名前は白雨さんだよな。今の言葉はどういう意味だ?」


「そのままの意味だよ。会話の続きがもうないのか気になったから聞いただけ」


 俺が知っている白雨皐月のイメージとズレる。人に興味を持たず、必要最低限しか言葉を使わない。そういう印象で固めていたのに、今こうして真正面から視線を合わせてくる白雨は、想定よりずっと近い距離にいる。


「悪いが期待してるような続きはないな」


「そっか、残念だね。ところで君の名前は?」


「⋯⋯黒瀬」


 舌に乗せるのを躊躇った自分の名前が、仕方なく空気に解ける。


「それじゃあ私の方から話しかけるよ。黒瀬君は何しにここへ?」


 名前を呼ばれる響きが、思ったより整って耳に入る。距離の詰め方が自然で、俺の準備が追いつかない。だから、言葉を選ぶのに一拍置いた。


 別に人と話すのが嫌いなわけじゃない。けれど、白雨みたいな異質な存在を前にすると、声の出し方が少し変になる。体が先に警戒を覚えて、頭が遅れて追いかける。


「まぁ、色々あって」


「色々って?」


「部活に入るか風紀委員に入るかの2択を迫られててちょっと困ってた。だから、ゆっくり考えようとしてここに来たんだ」


「そうなんだね」


 口にしてみると、自分の抱えている面倒が急に輪郭を持つ。仕切りの影よりくっきりと。けれど白雨は、俺の話に興味を全く持ってない。話は聞いているのに、その内容には見向きもしてない。


 なぜなら、白雨は俺の言葉の中身ではなく、言葉を出す時の顔だけを見ていたからだ。語尾の沈み、間の長さ、目の揺れ。そういう細かいところだけを拾って、意味は脇へ置いている。だからだろう、話が通じない感覚はないのに、通じている実感も薄い。不思議な会話だ。


「⋯⋯意外だな」


「なにが?」


「白雨さんは人と話さないタイプだと思ってたんだが、こんなにもお喋りだとは思わなかった」


 自分で言いながら、少しだけ汗が滲む。今の発言は挑発ではない。ただの事実と、そこから出た感想。相手によっては棘に化ける言葉だ。だが、やはりと言うべきか白雨は微動だにしない。頬も目元も、湖面みたいに静かなままだ。


「その考え方であってるよ。他人に興味を持つことがないから、普段は話さないよ」


 静かな宣言。つまり今は、例外。言い換えれば、白雨の興味の矢印は俺に立っている。好奇心の対象にされる感覚に息を飲み、胸の中心が一度だけ強く打った。


「じゃあ聞くけど、俺の何に興味を持ったんだ?」


「珍しいところかな」


 肩の内側に小さく力が入る。珍しい、で話を終わらせるには、あまりに幅が広い。どの仕草か、どの言葉か、どの黙り方か。せめてもう一歩踏み込んだ理由が知りたかった。その濁し方はわざとなのか、それとも白雨にとってはそれ以上の説明が不要なのか。どちらにせよ、胸の内で小さく歯噛みする。


 だったら訊けばいい。そう思って背筋に力を入れた瞬間、白雨が先に動いた。沈んでいたベンチから音も立てずに立ち上がり、視線の角度だけを変えて俺を見下ろす。影が一段濃くなって、俺は座ったまま視線を上げる形になる。立つか、座るか。その差が思っている以上に関係を決める。嫌でも心拍が一段上がる。


「私が誰かに興味を持つなんて初めてだよ。だから、黒瀬君にお願いがあるの」


 声は静かで、抑揚は最小限。無駄が削ぎ落とされているのに、頼みごとという柔らかさだけは輪郭を保っていた。そこでようやく、空気の温度が変わったのを肌の表面で知る。いつの間にか日差しは色を変えて、夕方の明るさになっていた。気づけたのは白雨の髪のせいだ。白い髪が、淡い橙を吸って静かに光っている。純白の印象しか持っていなかった髪に、別の色が重なった。


 それがやけに似合っていて、目が止まった。止まった自覚に遅れて、視線を外すのが難しくなる。


 白雨はその滞りを、きちんと見ていた。視線は一度も泳がない。唇の線は細く閉じ、呼気の回数を一定に保つ。やがて、言葉を出す準備が整ったのか、口を開いて言葉を紡いだ。


「お願い黒瀬君。君のことを、好きになれるようにしてほしい」


「────は?」


 これが、俺と白雨皐月の出会い方だった。

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