第4話 ひと匙の距離
目覚ましの音ではなく、柔らかく差し込む光で桐原透真は目を覚ました。
薄く霞んだ意識のまま、見慣れぬ天井を見上げる。白と灰を基調とした静かな部屋。ホテルのように整えられた空間に、自分が寝ているという事実がじわじわと頭に戻ってくる。
――遅刻。
そんな言葉が一瞬、脳裏をかすめたが、次の瞬間、ここが職場でも自室でもないことを思い出して霧散した。
のっそりと身体を起こす。結局、風呂上がりにそのままバスタオル一枚で寝落ちしたのを思い出し、慌てて腰にタオルを巻き直した。自分が着ていたスーツを探すが見当たらない。
「どうしよう……あっ! クローゼットに何かあるかもっ」
思いついたように部屋に置かれた巨大なクローゼットを開くとそこにはガウンが何着か用意されていた。
引き出しの中には下着も用意されているが、他に衣類のようなものは存在しない。
「えぇ……ズボン、ないのか」
困惑しながらガウンを持ち上げる。フリーサイズのそれは上からすっぽり被るタイプのものだった。
ズボンが無いか色んな場所を探すが見当たらない。良くあるバスローブタイプのものでないのが救いだろうか。ひとまず身に纏い、そっと扉を開けて廊下を覗く。顔だけだしてきょろきょろと左右を見渡すが人気がない通路に静かに扉をしめた。さすがに、自由に歩き回るような冒険心は持ち合わせてはいない。
仕方なくベッドサイドにあるベルを鳴らした。
チリン、と小さな音。
本当にこれで呼べるのかと半信半疑で裏面を覗くと、センサーのような装置が見えた。なるほど、と納得した瞬間、控えめなノックとともに声がした。
「おはようございます、よくお休みになられましたか?」
昨夜、自分を抱えて運んでくれた青年――耳まで届くほどのサラサラな金髪を上品に整え、青い瞳が柔らかく透真を見つめてくる護衛のお兄さんの姿を目にして、透真は一気に目が覚めた。
「は、はい。おかげさまで。昨日はお見苦しい所を……」
「いえ、普段入浴されない方への注意を怠ったこちらにも過失がございますので、どうかお気になさらず」
涼やかに微笑む姿に、この人に自分は抱えられてベッドへと運ばれたのかと思うと色んな意味で恥ずかしくなってくる。
「あの、検査をするといわれていたのですが……」
「はい、その前に朝食をご用意します。部屋にお運びしてよろしいですか?」
「えっ……あの、食堂のような所があればそちらのほうでも構わないのですが」
「申し訳ありません。このフロアには職員用の食堂しか併設されておりませんので」
確かに、平民の自分がそこに混じるのも場違いだろう。
こういう上流階級の人間に仕える人種ってのは、その時点で上澄みの存在だ。
それじゃあ、部屋のほうにお願いします……と答えた透真は、ふと相手の名前を知らない事を思い出して名札が無いかと胸元をみる。
そんな透真の様子を見て、青年は小さく笑う。
「ルーカスとお呼びください、桐原 透真さん」
丁寧に名乗られ、透真は少し安堵の息を漏らした。
*
部屋へと持ち運ばれた朝食は、普段固形物を食べない透真に配慮されたものが用意されていた。口の中で蕩けるほどに煮込まれたおかゆに、僅かな薬味の効いた汁物は胃の中に染み渡るようだ。
「少しづつ固形のものを食べられるように様子を見ていきましょう」と言われたが、毎食これでも構わないと思うほどに満足していた。
「あとはこちらをお飲みください。決して噛まないようにお願いします」
そう差し出されたのは透明な包装につつまれた5ミリほどのカプセル。何かのサプリメントだろうか?と不思議そうに見ていると、内視鏡カメラが内臓されたものだと聞かされた。カメラは自然と排泄される為、しばらく大きなほうをする時の注意点を添えられて、心の中で悲鳴をあげる。
(それ、検便も兼ねてるってことなのかな。
うっかりトイレに流したらどうなるんだろう……)
――結局、まる一日、検査に次ぐ検査に追われて終わってしまった。
ぐったりと与えられた部屋のベッドに倒れ込み、透真は深いため息をついた。人身事故の検査で、なぜここまで徹底するのか――全身をくまなくチェックされている。
それにしても一つの建物に、病院でもないのにこれほどの機器が置かれているとか、すごいな……と感嘆の息を漏らす。
「上流階級おそるべし……」
ずっと一緒にいてお世話をやいてくれたルーカスさんいわく、ここは財閥の別宅の一つだそうだ。
財閥関係者の人間も使用することがあるそうだが、現在自分がいるフロアはあの総帥が一人で貸しきっているらしいので、実質彼が仕事の間は透真が一人残される形となるらしい。それを見越して、面識のあるルーカスを残していったのだと告げられた。
そんな人物と夕食を共にするよう言われて。部屋には、先日まで見に付けていた草臥れたスーツとは全く違う、肌触りの良いシャツとカジュアルなスラックスが用意されていた。自分が着ていた服は現在クリーニングへと出されていると聞かされて、絶望するような気持ちになった時の事を思い出す。用意されていた服が上等すぎるのだ。
カジュアルでいいといわれて、ジャケットこそ用意されていなかったが、それにしたって素材が良い。
「これ、買取とかしろっていわれないよな……」
袖を通してから、鏡に映る自分をみて、呟いた。
肌触りの良い光沢のあるシャツは良く見ると幾何模様が織り込まれているのがみえた。絶対これ、高いやつだよ……ともう一度呟く。
孫にも衣装になるのかな、これ……と現実逃避しそうになっている所にノックの音が響き、あわてて扉に向かった。
扉を開けた透真の姿を見ると、ルーカスは「よくお似合いですよ」と声をかけてくれた。
透真は思わず「はは…」と苦笑を浮かべて返す。
するとルーカスは小さく微笑み、「本当ですよ?」と重ねる。透真は困ったように笑みを返した。
一日を共に過ごしたことで、透真の人柄がなんとなく分かってきたのだろう。わずかに砕けた態度のほうが安心すると判断したのか、ルーカスの透真への接し方には時折、気安げな様子が混じるようになっていた。
「――あの、本当にフォーマルな服装じゃなくても大丈夫なんですか?」
夕食のため、アレクシス・ヴァルドールの自室へ招かれている透真は、歩きながら不安そうに口を開いた。
ルーカスは安心させるように、柔らかく微笑む。
「大丈夫ですよ。ここは主人にとっても家のような場所です。どうぞ、気楽になさってください」
「気楽、ですか…まぁ、少し難しいかもしれませんけど、ルーカスさんがそう言うのなら……」
「桐原さん、主人は多少気難しいところもございますが、決して横暴な方ではありません。安心してください」
困ったように笑みを返すと、透真は厳重なセキュリティの扉を抜けた先にある一室へと歩を進めた。
他の部屋とはまるで異なる豪華な造りの扉をノックすると、よく通る声が返ってくる。
扉を開けたルーカスの前を通り過ぎるように室内に入る。すると、ルーカスは目だけで微笑み、扉を静かに閉めた。
(えっ! 一緒に来てくれないの…?)
透真は思わず振りかえり、僅かに焦りながら室内の人物に視線を戻した。
ソファーに座る人物は、唇の下に指を添え、僅かに目を細めて透真を見据えていた。
「あ、の。この度は素晴らしいお部屋の他に、このような服まで用意して頂き、ありがとうございます」
「ああ、気にしなくていい。昨夜はよく眠れたかね?」
「は――はい、昨夜はお見苦しい所をお見せして申し訳ありませんッ」
慌てて頭を下げる透真にひらひらと手をふって応じると、立ち上がり奥の部屋へと案内される。気にしてないっていう意味なのかな? と不安げに思いながら後を追う。
「一人で食べるのも、味気ないと思っていた所だ」
そう言いながらアレクシスは上座に腰掛け、テーブルの上で手を組む。透真はどう返事をすればいいのか分からず、愛想笑いを浮かべた。
食事が用意されるまでの間、自分がいない間の事を問いかけられて、それに丁寧に答えを返していく。ルーカスの事を聞かれて、一日中お世話になったことに対してお礼を述べる時、アレクシスは透真の表情が少し和らぐのを見て、満足げに笑みを浮かべた。
運ばれてきた夕食は、朝の粥に細かな野菜がいくつか加えられた、控えめな一品だった。
それは透真にとって想定の範囲内だったが――アレクシスの前にも、まったく同じ粥と、小皿に少量の肉や野菜が並べられたのを見た瞬間、思わず目を丸くした。
てっきり、煌びやかな銀の皿に、香り高い肉料理や果実が運ばれてくるものと思っていたのだ。
まるで「富裕層の食卓」というものの象徴のように。
そんな透真の驚きを察したのか、アレクシスは口の端をわずかに上げる。
「……君は、思っていることがすぐ顔に出るのだな」
からかうような声音に、はっとして顔を赤らめる。
その反応すら愉快そうに、彼は目を細めて小さく笑った。
「――君の食べている料理は、病人食のように見えるかもしれない。しかし、これも立派な一つのメニューだ。疲れた時には、こうしたもので胃腸を整えるのも仕事の一部なのだよ」
アレクシスの言葉は穏やかで、しかし一言一言に確固たる説得力があった。透真はその言葉を噛み締めるように、自分も同じように食事を口に運ぶ。小さな音さえも、静かな室内に大きく響くようで、心臓が高鳴る。
「そうだったんですね。俺、いえ私は食事に関する知識があまりなく、恥ずかしながら知りませんでした。栄養はサプリメントで十分だと思っていましたが、考えが変わりそうです。ここでいただいた食事は、とても美味しいです」
言葉を発しながら、透真はわずかに背筋を伸ばす。見られている、という意識が、体の緊張として現れる。
「そうだな。食事は身体の栄養だけでなく、心も豊かにする。出来る限り、味わいのあるものを食べることをお勧めするよ」
その視線の強さと優しさのバランスに、透真は言葉にできない気持ちを胸に抱いた。――怖い、でも、どこか安心できる。そんな不思議な感覚。
「そうですね。子供の頃は親が料理をしてくれていましたが、一人暮らしになってからはつい手を抜いてしまって…」
言葉を漏らす透真に、アレクシスは何も言わず食事を続ける。その無言のやり取りが、透真には温かく、少し心を許してもいいのだという合図のようにも感じられた。
透真の胸に、じわりとした安心感が芽生えていた。
親の話はあまり楽しい話題ではない。
相手もそれを理解しているのだろう。
どこまでも自分を気遣うアレクシスの姿に、透真の胸には不思議な温かさが広がった。
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