第3話 灰色の館
車から降りた先は、見渡す限りの駐車場だった。
目の前にそびえる建物は、まるでホテルのような荘厳な外観をしている。だが、窓という窓が見当たらず、外壁は要塞のように高い。おそらく、これは正面玄関ではない。――アレクシスが「裏口から入る」と言ったのは、同伴している自分への配慮なのだろう。
自分の勤務先と比べて倍以上はありそうだ。
護衛の男に先導されて歩くアレクシスの背を、透真は慌てて追いかけた。
足元の床は光を反射するほど磨き上げられ、夜更けだというのに、空気は張り詰めるように静まり返っている。
ここに来てから人の気配を感じたのは、入口の警備員だけだった。
――異世界みたいだ。
鈴の音とともに、銀色の扉が開く。
エレベーターですら、透真が今までの人生で見てきたものとは全くの別物だ。少しでも情報を得ようと内壁を見渡すが、一般的な病院や会社で見かける案内板の類は一切ない。
行き先を指定するパネルは、護衛男性の背で塞がれて見えなかったため、仕方なく扉の上部に視線を移す。
そこには「1」から「8」までの数字が並び、その先には数字のないグレーの階層が続いていた。
僅かな浮遊感とエレベーターが上昇する。
数字が8を越え、さらに上――そこから暫く浮上した後に扉が開かれた。
*****
降り立った瞬間、透真は思わず息を呑んで、立ち尽くした。
アイボリーの天井から吊るされた金のシャンデリアが、柔らかな光を花のように散らしている。
クリーム色の壁にはオフホワイトの扉が並び、床には深紅の絨毯がどこまでも続いていた。
――どう考えても、一般人の想像する病院じゃありません!
声に出すのが怖くて、心の中で絶叫する。
いや、もしかしたら富裕層が通う病院ってこういう感じなのかもしれない。
自分が頭に浮かべる病院といえば薄暗い待合室に、汚れた白い通路の先の小部屋に医者がいる、そんな場所。
とても目の前の人物――アレクシス・ヴァルドールが利用するような場所には思えなかった。
驚きと緊張で足元がおぼつかず、ふかふかの絨毯に足を取られて躓きそうになる。背後から護衛の視線を感じて、顔が熱くなる。
通された部屋は、まるで高級ホテルのスイートのようだった。
「少々失礼」と言ってアレクシスが退出すると、どっと疲れが押し寄せてグッタリと座り心地の良いソファーへと身体を預けた。
――今日はもうログインできそうにないな。あぁ……本当についてない。
痛む目頭を押さえ、深く息を吐く。
連続勤務の上、長時間の残業がたたったところにこの状況だ。
軽い頭痛のようなものまで感じ始めて、僅かに顔をしかめた。
けれど、明日も仕事がある。
事情を説明して早く開放してもらえるように頼んでみなくては。
そう思いながら紅茶を口に含む。
……驚くほど、美味しい。
喉を滑る液体は柔らかく、優しい香りを残す。
汚れた水を煮沸して飲む日常とは、まるで別世界の味だった。
軽いノックの音に、透真は背筋を伸ばした。
戻ってきたアレクシスはラフな装いに変わり、その後ろには護衛の青年が書類を抱えている。
アレクシスは上座に腰を下ろし身体の前で指を組むと、こちらに視線を向ける。
「待たせてしまったね。勤務先への連絡に少し時間がかかった」
そう告げられる言葉に思わず目を丸くした。
「え? どういう、ことでしょう…」
透真が戸惑うと、アレクシスは顎で合図をし、青年が一枚の書類を差し出した。
「君の検査内容の一覧だ。すぐには終わらないものもある。
だから、君の会社にはこちらから休暇申請をしておいた。
何年も使われていなかった有給休暇が残っていたそうでね。
快く二週間の休みを許可してくれたよ」
穏やかに笑みを浮かべる目の前の人物に、背筋が凍る思いがした。
うちの会社では有給休暇なんて形だけのもので、使った人間など存在しない。未消化のまま無効となるのが当りまえの。そんな幻の存在である有給を引っ張ってくるような力技をどうやってしたのだろうという思いが頭を占めた。
「そ、そう、なんですか。ありがとうございます……」
震えそうになる声で礼を述べる。
多分これは、あまり突っ込んで聞いたらいけないやつだ、と本能が告げていた。
そう思いながらいくつもの検査を説明されていく。今まで受けた事もないような高度な検査内容に了承のサインを促されるままに記入していった。
2週間休暇と聞いて、喜びに胸が高鳴ったが、この検査内容からしたらその休暇はかなりの量を病院(?)で過ごす事で潰されてしまいそうだ。
「ああ、それと――君にはその検査が終わり、異常がないと判断するまでここで泊まってもらうことになる。住居には警備をつけておくから安心するといい。何か特別に自宅から持ってきたい物などはあるかね?」
そう告げられた言葉に、本日何度目になるか分からない衝撃が脳内に走った。
護衛……あのボロマンションを?
はくはくと口を開いた後、透真が発した言葉は
「ゲーム用ヘッドセットを……」
そんな、目の前の煌びやかな存在にお願いするにはあまりにも素っ頓狂な、お願いだった。
*****
与えられた部屋は、自分のマンションの数倍の広さだった。
「まずは清潔にするように」と言われ、透真は生まれて初めてバスタブに身を沈めていた。
手伝いを申し出られたがそれは断固として拒否をした。
二十七歳になって他人にお風呂の世話をされるなど御免だ。
「お湯に浸かるなんて、初めてだ……」
両手で透明な湯を掬うとパシャリと顔にかける。
贅沢な水の使い方に夢のような心地になりながらウトウトと頭を揺らした。バスタブに肘で凭れ掛かりながら頭を預けて目を閉じる。色々な疲れがどっと押し寄せてきたんだろうか。心地よい睡魔に流されそうになっていると、遠くから聞こえるノックの音に重たい瞼を薄く開く。
返事をしなくては――そう思い目を開こうとするが重い瞼は意識に反して閉じようとしてしまう。
仕方なく強引に立ち上がるとグラリと視界が揺れ、突如目の前が真っ白に染まり、バスタブの端を掴んで蹲った。
大きな音がしたのだろう。
次に感じたのは、柔らかな布に包まれる感触だった。
「あぁ……貧血ですね」
納得した声で呟く青年の声。大きな腕に抱き上げられる。ぐわんと脳が揺れる感覚に何も入っていない胃からこみ上げ、嘔気をこらえながら耐える様に眉根を寄せた。
静かにベッドへと下ろされる。
共に様子を見に来たのだろうアレクシスの姿を、視界の端に捉えた。ぐらぐらと揺れる視界の中、目を開けようとする透真の瞼に温かな手が触れた。
「入浴の際の注意をしっかりと伝えるべきだった。
君はバスタブを使用するのは始めてだろう? あれは血圧を下げる効果があるので君のような者は長く浸かるべきではない」
言われた言葉は淡々としたものだが、瞼に重ねられた手は暖かく優しい。
徐々に身体の力を抜いていくと大人しく目を閉じた。揺れる世界が徐々におさまってくるにつれ、自分がバスタオル一枚で横になっているのを認識して小さく身じろぎする。
「――あ、の……すいません…」
「そう思うのであれば、精々バイタルチェックをクリアできるよう体調を整えたまえ」
瞼の上から離れていく手を名残惜しそうに見つめながら、明るくなった視界を眩しそうに目を細めた。
アレクシスの指先が、未だ顔色の優れない透真の目の下にある深い隈を親指の腹でなぞる。
「食事をどうするか聞きにきたのだが、今夜はそのまま休んだほうが良さそうだ。固形物は食べられるかね?」
そんな事をわざわざ本人が?と思いながらも、分からない。と答えた。ここ数年、サプリメントとゼリー飲料しか摂取していないからだ。それを正直に告げると軽く頭を撫でられて布団をかけられた。
「動けるようになったら、自分で身体を拭くといい。
他人にされるのは、抵抗があるだろう?
ベッドサイドにベルがあるので何かあったら鳴らすといい」
部屋の明かりが落とされ、静寂が訪れる。
サイドテーブルの小さな灯りの下、水のボトルが並んでいる。
――どうして、こんなに優しくしてくれるんだろう。
富裕層の道楽のようなものなのだろうか。
具合が悪いときに人が傍にいてくれた事なんて大人になってからはなかった。頭を撫でられたのだって子供の頃以来だ。
身体を丸めるようにしながら柔らかな枕へと顔を埋める。洗濯したてのシーツの匂いは懐かしい過去の記憶を刺激した。それに目頭が熱くなるのを感じながら深い眠りの海へと意識を手放した。
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