第2話 透真の世界
この世界は不条理で、残酷だ。
かつて蒼い惑星と呼ばれていた地球。
今では、人類の発展の末に水は汚染され、空気は毒を含み、貧民であってもマスク無しでは生きられない。そんな星へと成り果てた。貧富の差は、もはや階層ではなく種の違いのようだ格差を生んでいた。
上級市民である富裕層の人間たちは、優遇区域に住まい、清浄な空気の中で暮らしている。希少な本物の肉と野菜を食べて、緻密に管理された区域の内で穏やかな陽光を浴びているのだ。
それに比べて貧民区は、息をすることさえ贅沢だ。
貧民。昔は平民って呼ばれてたのかな。
今は中間層がごっそりと抜けて、ほとんどが貧民扱いだ。
水道を捻れば薬品臭い水が流れて、その水すら貴重だから軽いシャワーでしか身体を清められない。
外に出る時は防毒マスクで顔の半分を覆い、食事はといえば人口肉か、固形の野菜味のキューブ。透真のように、サプリメントで済ませる者も多い。
ブラック企業と呼ばれる会社勤めをしている
ゲーム内で出会った仲間たちと社会人ギルドを結成し、攻略情報を交換し、
愚痴をこぼし合いながら、束の間の現実逃避を楽しむ。
透真は、どんなに時間がなくても、30分だけでもいいからとログインしては、ゲームの世界を楽しんでいた。
それくらいしか趣味がない、寂しい人生だとでもいうやつもいるかもしれない。
でも、透真にとって《セレスティアル・フロンティア》は人生の一部。
生きる意味にもなっていた。
***
その夜も、本来ならいつものように帰宅してログインするはずだった。
だが、残業が長引き、普段通らない近道を選んだのが全ての始まりだった。
昼間は治安のいい区域でも、夜は事情が違う。
深夜ともなれば、普段使っている道は格段に治安が悪くなる。
強盗なんかは日常茶飯事だ。
無用な争いを避けるために、安全をとって、その日は大通りの道を使用することを選んだのだ。
曲がり角を早足で抜けようとしたその瞬間。
ヘッドライトの光が閃き、車体がかすめた。
掠れた衝撃に手が離れ、カバンが地面に落ちる。
透真の思考は真っ白になった。
相手は、見るからに富裕層の車。
カバンは金具が付いているが擦れた感じはしなかったと思う。
でも、もし傷でも付けてたら――そう思った途端、血の気が引く感覚に足元がよろめいた。
運転席から降りてくる上質なスーツに身を包んだ壮年の男性の姿に、透真は顔面蒼白といった表情で視線をあげた。後部座席は黒く遮られ、中の人物は見えない。
(どうか、良心的な人が乗っていますように……)
神に祈るような気持ちでカバンを握り締めながら、透真は声を絞り出した。
「あ、あのっ……申し訳ありません!」
口を開こうとした男性を遮るように咄嗟に謝罪の言葉を述べて、(しまった。先に謝るのって良くないんだっけッ!?)と混乱した頭で考える。
だが、言葉はもう戻らない。
男は車のフロントを確認し、透真へと視線を向けた。
「いえ。そちらはお怪我はありませんか?」
思いがけない言葉に、透真は目を丸くする。
高級車の持ち主側から自分を気遣う――そんなことがあるのか。
ともすれば、汚らしいドブネズミめが、と罵られることすら想像していたというのに。
強い緊張と連続勤務の疲れが祟ってか、視界が揺れる。
思わず膝をついた透真に、そんな透真の姿を中に乗っていた人物が目にしたのだろう。目の前の黒服が無線で何らかの指示を受けているのに気が付いて慌てて立ち上がった。
「だ、大丈夫です! お気遣いありがとうございますっ、少し驚いたのが足に来てしまったようで……!」
そのまま足早に去ろうとした所を小さく手を上げて制止された。
走って逃げようと思えばできたかもしれない。
しかしそんな事、富裕層を相手にしたら後から何が起きるか分からない。
この世界では、貧富の差は命の価値すら金と泥ほども違うのだ。
真っ青な表情の透真を安心させるように壮年の男性は僅かに微笑むと、思っても見なかった言葉をかけられた。
「人身事故となりますし、念のための検査を受けるよう主人が提案しております。いかがなさいますか?」
「……は?」
提案――といっても、拒否できる空気ではない。
しかし、病院など行けば、それだけで数日分の食費が飛んでしまう。
貧困層の人間など轢き殺した所で気にも留めない富裕層が多いだろうに、違う意味で面倒な事になったと内心冷や汗を流した。
「その、恥ずかしながら……生活に余裕がなくて。
それに、本当に怪我とか、してませんから」
「しかし顔色が随分と悪く見えます。頭など打っていたら大変ですよ?」
男の穏やかな言葉に、透真は乾いた笑みを浮かべる。
顔色が悪いのはいつもの不摂生が祟った事に加え、この状況が原因です――なんて、とても言えずに視線を泳がせる。
耳元のイヤホンに手を当て、男は何かを確認した。
そして、静かに言った。
「失礼ですが、身分証などはございますか? 犯罪に関わる人間と関係を持つわけには参りませんので」
そう述べる相手に手近にあった社員証を、震える手で差し出した。
正式な住民票ではないが、個人IDが記載されているタイプで、データを参照すれば個人的な情報も読み取れるはずだ。
それを受け取った相手は、何度か通話で確認を行った。居心地の悪さに、透真はただじっと見つめるしかなかった。
自分は一体、どうなるのだろう。
後から訴え出るような人間に見えているのではないか、という不安が胸をよぎる。
やがて、車に乗るよう指示され、思わず変な声を漏らした。
「へっ……? え、あのっ……どうして、ですか?」
「ご安心ください。検査に必要な費用は主人が持つと仰せです。さぁ、中にお入りください」
後部座席が開かれ、視線で乗るよう促される。
高級車の扉は、開く音すら普段の車とは違うのか。
透真はただその空間を見つめた。
これって、本当に乗って大丈夫なのだろうか。騙されて臓器でも売られたり――色んな不安が込み上げてくるのが顔に出ているのだろう。
安心させるように告げられた車の持ち主の名前に透真は僅かに安堵すると、やや強引に勧められながら、車内に足を踏み入れた。
***
運転席との間にはしっかりとしたパーティションが設けられていた。
乗り込む際、外部からの有害物質を排除するためだろう、扉をくぐった直後に薬品の香りを含むガスが噴出される。音が止むのを待って視線を上げると、運転席とは反対側にもう一つの仕切り扉が開かれた。
「ようこそいらっしゃいました。もう防毒マスクは外して大丈夫ですよ」
そう声をかけてきたのは、使用人と思しき青年だった。先ほどの壮年の男性とは違い、年齢は透真と同じくらいだろうか。顔を半分ほど覆い隠すマスクを外すと、車内とは思えない広々とした空間が目に入った。落ち着いた色合いの絨毯が敷かれ、手前の両サイドには使用人や護衛用の椅子が並ぶ。突き当たりには、一目で高級品とわかる革張りのソファーが鎮座していた。
「さぁ、お座りください。車はまもなく発車します」
恐る恐る足を踏み入れ、手前の椅子に腰を下ろす。ちらりと奥のソファーを見やると、そこにはテレビや経済紙で見かけたことのある、息を呑むほどの存在感があった。
スーツに全身を包み込まれた男――アレクシス・ヴァルドールは、そこにいるだけで空気の色が変わるかのようだった。
濃密な金髪は光を受けて煌めき、乱れることなく整えられた前髪の隙間から覗く碧眼は、まるで透真の心を射抜くかのように鋭く、しかしどこか遠く冷たい光を宿している。
高級スーツに身を包み、肩幅と長い脚のシルエットが端正に映える。腕を軽く組むだけで、凛とした貴族的な空気を漂わせる――ただ座っているだけで、周囲の人間の視線を集め、動きを止めさせる力がある。
『アレクシス・ヴァルドール』
――財閥の新たな総帥としてその名を轟かせる人物。手腕は卓越しており、時折テレビや新聞を賑わせていた。
テレビや雑誌で何度も名前を聞いたことのある財閥の御曹司。だが、目の前で見るその姿は、想像の何倍も「現実離れしている」と透真は思った。
まるでこの世界に一人だけ存在する王子のように、完璧で、冷たく、美しい――けれど、その視線がふと透真に向けられた瞬間、心臓が跳ねるのを感じた。
財閥といえばキナ臭い噂が纏わり付く印象があるが、トップが代替わりして以降、スキャンダルを抱え込む人物を役職問わず容赦なく切り捨て、内部を刷新。その結果、貧困層からも珍しく支持される存在となった。
その本人が、そこにいた。
目の前に座る使用人らしき青年に視線を向け、声をかけるべきか迷う。
「あの、お手間をかけさせて申し訳ありません……」
そう告げられた若い使用人の男性は涼やかに微笑んだ。
「礼であれば、直接主人へお伝えください。私はただの護衛ですので」
「護衛……そうだったんですね」
よく見ればスーツの上からでも鍛えられた体躯は見て取れた。それでも細身に見えるのは顔がいいからなのだろうか。脳裏に「イケメン」という単語が思い浮かぶ。
そして、そんな男性からかけられた言葉に引きつるような苦笑を浮かべた。
天上人のような超有名人の権力者に直接礼を言うなど、透真にとってハードルが高すぎる。最下層の自分が声をかけて万が一にでも怒りを買ったらと思うと、とても自分から声をかける事など出来ない。
顔色を徐々に悪くしていく透真に、奥のソファーに座るアレクシス・ヴァルドールから声がかけられた。
「やはり体調が悪いようだな。大丈夫だという申告を受けたが、連れてきて正解だったようだ」
ひゅっと小さく息を呑む。テレビで耳にしたことのある声だ。
ありきたりな言葉しか思い浮かばず、事故による体調不良ではないことをどう伝えるかと考えるうちに、眩暈を覚えながら顔を上げる。
その様子を見て、手にしたワインをサイドテーブルに置き、肘掛に凭れ掛かるアレクシス・ヴァルドールは薄く笑みを浮かべた。
「あぁ、そちらが言いたいことは分かる。しかし、私の車に接触した後で死亡でもすれば、それは私にとって立派なスキャンダルになり得る。針を刺した程度の僅かな傷口であっても、そこから私の身を脅かす猛毒を注ぎ込む愚か者がいないとは限らない。だから、君には心身ともに無事でいてもらう必要がある。分かるかね?」
「は、はい……」
いわゆる権力争いのようなものなのだろうか。自分のような外部の者が耳にしていい話なのか、不安に駆られながらも、透真は小さく頷いた。
その仕草に、アレクシス・ヴァルドールは満足げに目を細め、まるで値踏みするかのような視線を向ける。透真は居心地の悪さに思わず視線を落とした。
――その目が笑っていないことに、透真はまだ気づいていなかった。
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