第2話

 朝、目覚ましが鳴るよりも早く目が覚める。

 まだ薄暗い空がカーテンの隙間から垣間見えた。ゆっくりと上体を起こし、ベッドの縁に腰掛ける。寝起きでぼんやりした眼を擦りながら、ベッドの横に置いてある、ベッドと同じぐらいの高さのサイドテーブルに手を伸ばす。

 そこにあるのは充電されたスマートフォンと読みかけの文庫本、そして、人の足の形を模した鉄の塊だった。正確には、膝の辺りにはシリコンが使われているが。サイドテーブルから少しはみ出しているそれだけが、この部屋で唯一、異質な存在感を放っていた。

 義足だ。

 五年前のあの日、事故で足を失った僕は、それから約一年半のリハビリ生活を経て、今では日常生活に支障を来すことなく過ごせている。

 義足のシリコンを右足の切断面にはめていく。感覚としては靴下のような感じだ。それから、義足本体を手に取り、ずれないように慎重に右足にはめていく。

 この一連の流れは、事故からの生活で少しずつルーチンワークと化していった。

 膝に手を着いて立ち上がる。左右で感覚の違う足にも、もうすっかり慣れていた。

 目覚まし時計をオフにして、クローゼットを開け、中に入っていた中々の大きさの鞄を持つ。ドアを開け廊下に出ると、味噌汁のいい匂いが漂ってきた。その匂いの元を辿るように階段を降りると、キッチンに立つ母の姿が見えた。

「……おはよ」

 鼻歌に合わせて揺れる母の背中に向けて声をかける。

 母は鼻歌と一緒に火を止めて、こちらに向き直る。

「あぁ、おはよう。今日も早いわね」

「そうかな、普段もこれくらいだよ」

 テレビを着ける。

『皆様、おはようございます。今日は5月13日、水曜日です。それでははじめに、今日のニュースを──』

 美人のアナウンサーが今日の日付を知らせてくれる。その隣には、最近登場したゆるキャラの姿があった。その右上には、現在の時刻、六時三四分と記されている。

 最近話題になっているニュースの話に耳を傾けつつ、四人掛けのダイニングテーブルに腰掛ける。それとほとんど同時に、味噌汁と鮭の焼き身、冷やし豆腐が乗せられたお盆が前に置かれる。

「今日も稽古、するの?」

 母が対面に座り聞いてきた。その顔からは、どことなく心配そうな雰囲気が読み取れる。

「うん……、日課だから」

 味噌汁の中に写った自分の顔を眺めながら答える。

「そう」

 母はそれだけ答えて、自分のコーヒーと僕の分の熱い緑茶を用意してくれた。ッ普段と変わらず僕も母も、口数は少ない。

 手早く朝食を済ませ、熱いお茶を一気に飲み干して、食器類を流し台に持って行く。その足でリビングを出て、隣の部屋に入る。

 『あめ』と可愛らしく書かれたプレートがぶら下がるドアを開く。少し錆び付いたドアノブが鈍い音を立てて、淡い空色が一面に広がる。そのドアの向こうに足を踏み入れる。周囲にはかわいらしいぬいぐるみや人形が置かれ、本棚には少女向けのコミックや雑誌が丁寧に並べられていて、部屋の主の性格を物語っている。

 その部屋の中央にある机には、アジサイの造花とひとりの少女の写真が置かれていた。

 写真の中に写っている少女は、アジサイ色のワンピースを着て、ヒマワリのような笑顔を浮かべていた。その写真を額のガラスの上からそっと撫でる。

 その薄い隔たりを取ってしまって、その景色の向こう側へ行けたのなら、どれほどいいだろうか。そんな妄想をする。

 しかし、物理的にはたったガラス一枚のその障壁が、現実では到底破ることのできない分厚い壁のように思えた。

「今日は久しぶりに、あの日の夢を見たよ」

 自分の部屋の物よりも少し低めの椅子を引き、写真の中の少女と見つめ合うような状態になる。

「あれから随分経つのに、あの時の光景が今でも頭の奥から離れない」

 写真に写る少女の頭をそっと親指でなぞる。その頭には、ヒマワリの髪飾りが着けられ、少女の明るさをより一層際立たせていた。

「そういえば、母さんとは最近、上手くやれるようになってきたよ」

 その少女は、切り取られた時間の中で笑い続ける。

「五年前から比べたら、大分マシになったと思う」

 いつまでも。いつまでも。

「……永遠に」

 最後にそう呟いて、僕はゆっくりと椅子から立ち上がった。部屋を出る直前、もう一度写真の方に振り向いた。

「行ってきます、雨」

 写真の中の妹は、変わらず笑っていた。



 自転車で十分ほど走り、少し坂を上ったところに、祖父の道場はある。

 木製のドアは朽ちかけていて、既にドアとしての役割を成していない。そんなドアの前で靴と靴下を脱ぎ、道場内に足を踏み入れる。

 左足には生ぬるい木の感触、右足を踏み出す度にカツ、カツ、と床と義足がぶつかる音が響く。玄関と比べ、道場の中はかなり丈夫な作りだった。床だけを見れば、高校の体育館と大差ない頑丈さだ。

 六年前に死んだ祖父が、死ぬ一ヶ月前に急にリフォームを依頼したので、頑丈なのは当たり前なのだが。しかし目を懲らしよく見てみると、所々に小さな傷があり、祖父の死後もこの道場が使われていたことが分かる。

 そのほとんどの傷は、僕が付けた物だ。その傷達を踏みながら、道場の奥に掛けられてある木刀に手を伸ばす。

 こちらは床ではなく玄関と同類らしく、所々色褪せている。

 ずっしりと重い感覚を右手に感じながら、道場の中央まで歩いて行く。

 すっと木刀の先端を目線と同じ高さまで上げ、静かに息を整える。

 目を閉じ、精神を高め、自分の心を奥底に沈めていく。

 ──『いいか啓介、剣道に限らず武道というものは、常に自分との戦いなんだ』

 祖父の静かな声が思い起こされる。

 ──『お前がもし剣を振るうときが来たとしても、それは誰かを倒すためではなく、自分を倒すために振るうんだ』

 周囲には自分以外誰もいない。虫の羽音や鳥のさえずりも、全ては壁一枚隔てた向こう側の音。

 ──『自分を倒せたとき初めて、お前は誰かを守ることができる』

 ゆっくりと目を開け、木刀を頭上に振り上げる。息を吐き脱すのと同時に、勢いよく振り下ろし、さっきと同じ位置で止める。

 今までに何千回と繰り返してきた動作。空気を裂く感覚が両手に伝わる。その度に右足を勢いよく踏み出し、ガンッ、と床にへこみを作る。床には、約二千百個目の傷が出来た。

 道場の倉庫で、家から持ってきた制服に着替える。

 お世辞にも換気がいいとは言えない道場内。少し運動しただけでTシャツは汗だくになっていた。そのTシャツをハンガーに掛け、壁に吊しておく。学校が終わる頃には乾いているだろう。

 堅い木製の椅子に座り、制服に着替えて、道場を出る。玄関の前に置きっぱなしにしていた鞄を掴み、自転車のかごに放り込む。

 自転車に跨がり、ポケットからワイヤレスイヤホンを取り出し耳に装着する。

 聞いているのは音楽ではなく、ポッドキャストで配信されている深夜ラジオだ。この番組が始まる頃には寝てしまっているので、いつも翌日に配信されるものを聞いている。

 番組のコーナーが二つほど終わった頃、高校の門が見えてきた。

 先程スマホで確認した時刻は七時五十分過ぎだったので、今は八時二十分頃だろう。始業が八時四十分と普通に比べて遅めなので、周囲にも同じ制服を着た生徒がちらほら見受けられる。

 門のギリギリ前で自転車から降り、自転車置き場へ向かう。ラジオではパーソナリティの芸人が昔行ったラーメン屋の話をしていた。

 丁度CMに入る所で自転車置き場に到着したので、ワイヤレスイヤホンを直し、教室に向かう。すれ違う生徒のほとんどがスマホをいじるか友人との会話に夢中の中、ひとり黙々と前を向いて歩き、自教室に入る。

 僕が入ってきても誰も挨拶することはなく、それと同じく、僕も誰にも挨拶をしない。 自分の机に座り今日の授業の予習を始める。四限目の英語の予習に差し掛かったとき、担任の女性教師が入ってくる。それにも関わらず生徒達は雑談や、スマホを繰る手を止めることはない。

 「チャイム鳴ったからスマホしまって」

 教師が注意するが、生徒達は当たり前のように言うことを聞かない。

 いつもの光景、いつもの台詞、いつもの態度。

 そんな光景に静寂を作ったのは、教室のドアが静かに開かれた音だった。

 騒がしい教室が、その生徒の到着によって一変、教室に居るほぼ全ての人間がその生徒に視線を注いでいた。

 どんな相手との雑談よりも、どんなゲームの誘惑よりも、その生徒の来訪の方が皆、興味深いようだ。

「今日も遅刻か」

 教師にそう言われた生徒は、一部だけ紅い黒髪を傾かせ、片方の口端だけを吊り上げて言った。

「すいません、でも先生、私みたいなのにいちいち目くじら立てていたら、仕事になりませんよ?」

 彼女の名は山倉紅葉。

 普通よりも始業の遅いこの学校で、月四回は遅刻をしてくる猛者である。

 しかし遅刻は毎月四回で止まり、生徒指導室に直行する寸前でピタリと止まるものだから、教師陣もあまり強くは言えないようだ。

 一部だけ紅い黒髪の奥に潜む眼は大きく、髪型と同様、少し赤みがかった瞳孔という、一風変わった要旨から、他の生徒達からは敬遠されているようだ。

 しかし一方で友人は多く、元から人懐っこい性格なのだろう、よく昼休みに四、五人で食堂に向かう姿を見かけた。

 山倉は教師に向かいぺこりと一礼すると、自分の席に向かい、近くの友人と談笑し始めた。もはや教師はそれを止めることもなく、ため息を吐くと連絡事項を早口で言い、教室を出て行ってしまった。

 そこからは普段通り一限目の英語から六限目の体育まで無難に過ごし、今朝よりも元気のない気がする担任教師が来月に迫った期末に向けて勉強するように促すのを聞き流し、席を立つ。

 廊下に出ると、一気に喧噪が増し、様々な人の話し声が混ざり、雑音になる。

 その中でふと、気になる話が聞こえてきた。

『でさ、その方法ってのが、夕日が沈む瞬間に校門を潜ることなんだって』

 声の方を見ると、二人の女子生徒が壁に背を預けて話し込んでいる。

『へー、うちの学校にもそんな都市伝説あるんだ』

『だから都市伝説じゃないんだって、その子がホントだって言ってたんだよ』

 女生徒の一人が頬を膨らませて言う。

 その辺りで話し声は聞こえなくなり、僕は階段を登り始める。

 都市伝説、ね。

 頭の中で先程聞こえてきた会話の内容を噛み砕く。

 方法というのは恐らく、その都市伝説、あるいはそれに準ずる超常現象を体験するための方法だろう。

 しかし、どういう現象なんだ……?

 そこまで考えた所で、目的の場所が目の前に見えてきたので、思考を中断させる。

 僕は一つ深呼吸をして、図書準備室のドアを開けた。

 室内には雑多に積まれた本の束と貸し出し用のシールの予備、その中央には、乱暴にも本の城を椅子代わりに、ヘッドホンをして音楽を聴いている少女。

 少女はこちらに気付くと本の椅子から立ち上がり、こちらに歩いてきた。

「や、今朝方ぶりだね、雨木くん」

 今朝方ぶりと言った彼女、山倉紅葉とは、毎週水曜日、こうして図書準備室に集まっている。というのも、僕と彼女は、この学校における数少ない図書部の部員だからだ。

 本来はあと二人、三年の先輩部員がいるのだが、なにぶん今年が受験なだけあってなかなか姿を現さない。というより、もうほとんど引退したようなものだろう。

 文化系部活に引退というものが存在するのか、僕には分からないが。

 顧問の先生も三年の先輩部員と同じくほとんど姿を現さない。一応、申し訳程度に入部の際に顔合わせはしているのだが。その先生も三年生担当だから忙しいのだろう。

 山倉は肩の所まで右手を挙げて挨拶してきた。

 僕はなんとなくその動きを目で追いながら、返事を返す。

「……どうも」

 返事とも言えないようなか細い声を、山倉はヘッドホン越しでも聞き取ったのだろう、「うん、元気があって大変よろしい。挨拶は人間の基本だからね」と、快活に笑いながら言う。

 僕はそれに反応せず、つかつかと、いつもの定位置に置かれた椅子に座り、家から持ってきた読みかけの文庫本を開く。

 休み時間にも呼んでいたから、ちょうど部活が終わる頃には読み終えることが出来るだろう。

 しかし現実とは何事も予想通りにはいかない事が多い。

 文庫本の栞を取り、読んでいた行を探し出したとき、文字の羅列を薄暗い陰が覆った。

 何事かと顔を上げると、二重の目をパチパチと瞬かせた山倉が、上からのぞき込むような形で立っていた。思わず声を上げそうになるがギリギリの所で踏ん張り、僕は何事もなかったかのように読書を再開する。

 すると山倉は、今度は僕の後ろに回り込み、肩越しに僕と同じ文章を読み始めた。意外なことに香水などはつけていないようで、洋服の洗剤とリンスの混じった匂いだけが鼻を掠めた。今は外され首に掛けられているヘッドホンが肩に当たり、少し痛い。

 そんな状態で山倉は話しかけてくる。

「ねぇ、なに読んでるの?」

 吐息が首元にかかり、ほんの少し変な気分になる。

 それを咳払いで誤魔化してから、答える。

「えっと、『ウィリアム・ウィルソン』です……。エドガー・アランポーの……」

 目を合わせずにそう答えると、山倉は意外なことに、「へー、それ、どんな話なの?」と、興味心身の様子で聞いてきた。

 えっ、と、僕は言葉に詰まる。

 どんな話……? いや、どんな話って言ったって、僕もまだ読んでる途中なんだけど……。いや、おおまかなあらすじなら知ってるけど、それを言葉で表すには、あと数百冊は本を読まなければ不可能な気がする。

 そう思ったので僕は、スマホで『ウィリアム・ウィルソン』と調べ、一番上に出てきた、話を簡単にまとめているサイトを開き、山倉に渡す。

 山倉はそれを黙って受け取ると、僕の意図を察してくれたのか、黙々と読み進める。

 『ウィリアム・ウィルソン』。エドガー・アランポーの中でもかなり有名な部類に入るであろうその話は、主人公のウィリアム・ウィルソンが、学校で自分と瓜二つの……、いや、止めておこう。

 たとえ心の中であったとしても、彼の書く極限まで練られた物語を僕の平凡な文章で表すことは、彼に対する冒涜に思えた。

 それから文庫本一ページを読み終えた頃、山倉はあらすじを読み終えたのか、スマホを僕に返してくれた。

「うーん……、なんか昔の『ドラえもん』みたいだね。なんかなかったっけ、これと似たような話」

 僕の文庫本を持つ手がぴくりと動く。

 たしかに彼女の言うとおり、『ドラえもん』には、『ウィリアム・ウィルソン』と似たような話が存在する。

 のび太がバイバイミラーという写した物の数を倍にするという鏡で、自分を倍にしてしまい、鏡の中の自分と入れ替わってしまうという話だったか……。

 しかし彼女がそんな話を知っていたとは、少し驚いた。

「あぁ、たしかあったね、そんな話」

 僕がそう答えると、山倉は僕の肩に手を置いて、「だよね!」と嬉しそうに言う。

 その動きでヘッドホンのワイヤーが僕の前にぶら下がる。

 僕はそれを煩わしく思いながらも、わざわざどけるのも面倒なのでそのままにしておく。「なんか雨木くんと話し合うのって珍しいね」

 そんな風に僕の頭上で笑う。しかし、いつまで話しかけてくるのだろう。

 こっちは読書に集中したいのに、それを知ってか知らずか、山倉は延々と話しかけてくる。おかげで残り二十ページほどを残し、部活終了を知らせるチャイムが鳴ってしまった。 嘆息しつつ、僕は文庫本をしまい、帰り支度を始める。山倉も同様に帰り支度を始めたようだ。と言っても、彼女のはヘッドホンを鞄に入れるだけなのでたいして時間はかかってなかったが。いや、それは僕も同じか。

 そんなことを思いつつ、彼女より先に部室を出る。

「じゃあまた明日ね、雨木くん」

 彼女はそう言って笑う。『また明日』と言っても、部活以外で話すことなんてほとんどないのだが、一応社交辞令として、「あ、はい、また明日」とだけ返しておいた。

 後ろで彼女が鍵を閉める音が聞こえる。鍵を返しに行く役目は当番制で、毎週入れ替利で行っている。先週は僕が鍵を返しに行ったので、今週は彼女の番だ。

 ここから職員室までは三分ぐらいかかるが、それほどたいした距離ではない。

 僕は早足で階段を降り、下足ロッカーを開け、運動靴を出し学校指定のスリッパを入れる。

 ふと出入り口に掛けられてある時計を見ると、時計の針は十八時十三分を示していた。 外から差し込む夕日も沈みかけていて、下足ロッカーの群れを薄い橙色で照らしていた。 薄暗い空に見守られながら自転車を取りに行く。自転車の鍵を開け校門まで行こうと思ったところで、異変に気付く。

 自転車がいつもより揺れるのだ。この場所が砂利道だと言うことを差し引いても、この揺れは以上だ。

 もしやと思い恐る恐るタイヤを指で押すと、案の定、後輪がパンクしていた。

「……マジか」

 思い当たる原因は無い。それ故に、この突然降りかかってきた不幸に対しどう対処すればいいのかが分からない。

 今の時間帯、開いてる自転車屋はないだろう。そもそも、開いていたとしてもそこまで自転車を押していくのなら、おとなしく家まで押して帰った方が早いだろう。

 そう思い自転車のかごに鞄を突っ込み、カチャカチャという後輪の音を煩わしく思いながら校門を抜けようとしたその時だった。

 ちょうど、夕日が沈む、その瞬間。僕の右足は校門を越え、左足は校門の後ろの地面ににくっついてた。

 数時間前に盗み聞いた会話が蘇る。

 ──『でさ、その方法ってのが、夕日が沈む瞬間に校門を潜ることなんだって』

 脂汗が滲む。鳥肌がちりちりと立ち、自転車のハンドルを持つ手がより一層強まる。

 何かが起きる。そう感じた瞬間、自分以外の存在が全て吹き飛ばされたかのような突風が、僕の身体を包んだ。

 あまりの風に目を瞑ってしまう。風に乗せられて飛んできた枝や葉が顔に当たり、僕はより一層強く目を瞑った。

 数秒で突風は止み、僕は目を庇っていた腕をゆっくりと下ろした。

「……あ、れ?」

 目を開けたとき最初に視界に入ったのは、夕焼けに染まった通学路ではなく、暖色の光に照らされた鏡だった。

「何だ? なにが起きた?」

 目の前に立てかけられた姿見には、困惑した顔の自分が写っている。

 周囲を見回してみると、どうやらそこは、民家の玄関らしかった。

「いや、ていうか、ここ──」

 この暖色の壁紙、靴箱の上に置かれた白い花瓶、そこに刺してある造花。その全てに見覚えがある。

 というのも、つい今朝もここを通って道場に向かったのだから、当然だ。

「僕の、家だ」

 どういうことだ? 僕は確か、パンクした自転車を引いて帰ろうとしたところで、急に風が吹いて……。

「あれ……」

 その後の記憶が、ない。どの道を通って帰ってきたのか、まったく、なにも思い出せない。

 無意識のうちに帰ってきたのか? そんなことがあり得るのか?

 そこでふと、姿見に写る自分の姿に、違和感を覚える。

 いつも着ている制服よりも、少し黒の色素が薄い気がする。僕の高校の制服ははっきりとした黒色だけど、いま着ている制服は黒と言うよりは灰色に近い色をしていた。

 そんなに雑に扱ってもいないから、色素が抜け落ちたということも考えにくい。

 そこで、襟元にある紋章に気付く。

「これって……」

 桜の花びらの中に『中』と書かれたその紋章に、僕は見覚えがあった。

 それは紛れもなく、僕が中学校の時に着ていた制服だった。

「なんで?」

 とっさに口をついて出た疑問。確かに僕は今日、高校の制服を着ていったはずだ。制服は毎日道場に行くときに鞄に入れるし、そもそも中学の制服は押し入れの底に仕舞ってあって、どうやったって間違えて着ていくなんてことは考えにくい。

 鏡の前で自分の姿を見つめ困惑することしか出来なかった僕の耳に、聞き覚えのある声が届く。

「あら、帰ってたの?」

 声のした方向を向くと、エプロンを掛けた母親がリビングから顔を出してこちらを見ていた。

「帰ってきたならただいまぐらい言いなさいよ」

 母親は優しい口調で言ってくる。

 僕はそれに対して、困惑したまま、「あ、うん。……ただいま」と素直に答えた。

 どうした、何か変だ。今日の母はやけに機嫌がいい。いつもはもう少し落ち着いた様子というか、どことなく沈んだ印象を受けるのに、今日はやけに表情が明るい。

 僕はとりあえず、靴を脱いでリビングに入る。リビングではテレビからニュースキャスターの淡々とした声が響いていた。それを適当に聞きながら、僕はソファに腰を下ろす。 ──どうして僕の制服が高校の物から中学の物になってるんだ?

 どれだけ考えても、それらしい答えは出なかった。

 誰かがこっそり入れ替えたのか? でも何のために? そもそも、もし僕が中学の制服を着て登校したら、教師や他の生徒が気付くはずだ。見逃していたと言えばそれまでだけど、それにしたって、一人も気付かないのは流石におかしい。

 っていうか、家に着くまでの記憶がないことも気になるし。

 意味不明な事が一度に二個も起って、僕の脳は軽くキャパオーバーしてしまっている。

 その時、僕の肩を、誰かが軽くつついてくる感触がした。

「──ぐふぅっ!」

 普段そんなことをされたことのない僕は、突然のことに反応できず咄嗟に変な声を出してしまう。

「ふふっ、あはははははっ」

 その反応を見て、隣にいるのだろう仕掛け人は肩を揺らして笑った。いや、実際に見たわけじゃないけど、身体を揺らしている動きがソファのクッションを通じて伝わってくる。 やけに明るい声だった。声質からして母親だろう。いったい本当にどうしてしまったのだ。いつもは冗談も言わない性格なのに、今日に限ってやけにハイテンションだ。

「どうしたの? 何かいいことでもあった?」

 そう聞きながら顔を上げた。しかし、僕の推測に反して、その声は母親の物ではなかった。

「えー? やっぱり分かっちゃう?」

 そう言った彼女は綺麗な黒髪を揺らして、また笑った。

 僕よりも頭一つ分ほど低い位置にある彼女の肩が、可笑しそうに揺れる。

 その大きな目を閉じて、ヒマワリのような笑顔を咲かせていた。

「やっぱり兄弟ってっすごいねー、お兄ちゃん」

 五年前に死んだ妹が、僕を見て笑った。

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