第3話
その姿を見た瞬間、これが夢であることに気付いた。
どうりで、学校から家に帰った記憶がないわけだ。帰るもなにも、寝てしまっているのだから。しかし、よりによって今日見なくたっていいじゃないか。
僕は誰に向けてか分からない文句を頭の中で言う。
今度は中学時代の夢か。まだ、雨が生きているときの。
「だって、いっつも道場にこもりきりのお兄ちゃんが、久しぶりに遊んでくれるからね。妹としては興奮を隠しきれないわけですよ!」
そうか、この頃の僕は祖父の道場でほぼ毎日訓練漬けだったっけ。だからこうして遊びに行ける日は数えるほどしかなかったのを覚えている。
雨は嬉しそうに僕の手を掴んでぶんぶんと振り回す。
その姿が愛おしくて、今はもう存在しないのだと思うと、目の奥が熱くなる。
「お兄ちゃん?」
充血した目を心配した妹が顔をのぞき込んでくる。
僕はそれを誤魔化すために、「なんでもないよ」と言って雨の頭を撫でた。
雨は猫のように目を細め気持ちよさそうに「うにゃぁ~~」とか言ってうなっている。 どうせ覚める夢なら、覚めたときに後悔が残らないよう、精一杯味わってやろう。
「ねぇねぇ、明日、どこ行く?」
雨は僕の手に顎を乗せながら、満面の笑みで聞いてきた。
僕は妹から手を離すと、顎に手を当てて考えた。
すると雨も、僕と同じように小さな手を自分の顎に当てて、「うーん」と考え込んでいた。
しばらくして雨は、
「そうだ、近くに最近出来たデパートがあるでしょ? そこに行こ!」
と言った。
そういえばこの時期は、僕らの地元で新しく複合型のショッピングモールが出来たって、話題になってたっけ。
──いや、待て。『この時期』って、いつの時期だ。複合型ショッピングモールが出来たのは確か、僕が中学生になってすぐの頃だったと思う。
──それは、つまり。
首元に嫌な汗が溜まる。心臓の動きが弱まったかのように、呼吸がしにくくなる。
──それは、つまり。
──妹が事故に遭って、死んでしまう、時期。
「駄目だ」
それを理解した瞬間、僕は瞬時にそう答えていた。
反論されるとは思っていなかったのか、雨は不思議そうな顔をして聞いてくる。
「え? なんで?」
僕はそれに、咄嗟に思いついた理由で答える。
「いや、だって、ほら、子供だけで遠出したら、母さんとか、心配するだろ」
「えー、でも、ちゃんと携帯は持ってくよ」
雨はポケットから子供用の見守り携帯を取り出して、顔の前で掲げた見せた。
「いや、そうだけど、もし何かあったら」
「そういうときのための携帯じゃん」
なんとか反論しようとしたが、逆に妹に説き伏せられ、僕は思わず黙ってしまう。
「ねぇ、行こうよー」
雨は顔を近づけて僕に頼み込んできた。ついに僕の方が根負けして、結局明日はショッピングセンターに行くことになった。
僕は妙な不安に襲われ、それを払拭するようにかぶりを振る。
まぁ、どうせ夢なんだ。夢の中でぐらい、妹の好きにさせてあげるのもいいか。いまこうしている間にも夢から覚めるかもしれないんだから、なるべくいい夢にしないと。
そう思って僕は、床についた。夢の中で寝ることが出来るのか分からなかったが、数十分後には僕は眠りについた。
それにしても、この夢はいつまで続くのだろうか。
まどろむ意識の中で、僕はそんなことを思った。
次の日。今日も夢は覚めない。
夢の中で目覚めるというある意味貴重な体験をした僕は、瞼を擦りながらリビングに続く階段を降りていく。
テレビには、今は中堅どころとなった男性のアナウンサーが、少し緊張気味の面持ちで今日の天気を知らせている。その横では、今のより一代前の番組のマスコットが雨雲やら太陽やらのイラストが付いた棒を持って、各地の天気を表していた。
僕自身、こんな昔の番組のことなんてすっかり忘れていたのだが、ここまで忠実に再現されているのかと感心する。
自分が忘れていると思っていた事でも、単に記憶の奥に沈んでいただけなのだろうか。
『本日は7月28日、天気は晴れ、時々曇りです。それでは、早速本日のニュースをお伝えします。先月26日から発生している連続傷害事件ですが、警察は今日、現場付近の監視カメラに映っていた犯人の特徴を公開しました。犯人は二十代後半から三十代前半の男と思われ、全身を黒の服装で統一しており、顔にはフルフェイスのヘルメットを装着していたとの──』
先程の緩い雰囲気から一変、キャスターは不穏な情報を流し、ニュースは進んでいく。何気なく観たテレビには、『連続傷害事件 通り魔の犯行か』というテロップと、その上には、監視カメラの映像が流されていた。
犯行は僕たちの住む県で、先月から三件続けて起きているようだ。
それをBGMにして冷蔵庫から冷えた麦茶を取り出しコップに注いでいる途中で、階段が軋む音が聞こえてきた。
その音が消えた代わりに、冷蔵庫のドアから少し沈んだ声が聞こえた。
「お兄ちゃん早いね-。せっかくの休日なんだからもうちょっと寝たらいいのに……」
冷蔵庫のドアを閉めながら、その声に応える。
「今日はショッピングモールに行くんじゃなかったのか?」
妹のコップを取り出し、その中に牛乳を注ぐ。コップに描かれたヒマワリの背景が、ッ白く染まっていく。
「そうだけどそんなに焦らなくても、デパートは逃げないよ」
雨はコップを受け取り一口飲む。
「逃げないけど、早く行かないと人でいっぱいになるぞ」
この地域にはスーパーはあるが、今日行くところのような娯楽とスーパーが混ざった複合型のショッピングセンターに行こうと思うと、遠くまで行かなければならない。
「そうだけど……」
「ほら、さっさと顔洗って着替えてこい」
眠たげに目を擦る妹の背中を押し、洗面台に向かわせる。
「んー」
妹からコップを受け取り、自分の分とまとめて洗う。その足で自室に向かい、無難な服を選んで着替えた。
「さて、行くか」
玄関を開けた途端顔を刺した陽光に目を細めながら、隣に立つ雨に向かって言う。
「れっつごー」
妹はお気に入りの肩を露出させたアジサイ色のワンピースを着ていた。そして頭にはいつも欠かさず着けていたヒマワリの髪飾りが日光に照らされて煌めいていた。妹の部屋に飾っている写真と同じ格好だ。
「……」
僕はそれを気にしないようにしながら、バス停への道を歩き始めた。
今日行くショッピングモールは、バスに乗って十分、そこから歩いて三分ほどの場所にある。
道中、雨は嬉しそうに鼻歌を口ずさんでいたが、僕が振り返るとぴたりと止め、またもや嬉しそうにはにかんだ。
少し古めのバスに乗り込み、発券機のボタンを二回連続で押す。
一番奥の広い座席に座り、何気なく周囲を見回した。利用客はあまりおらず、僕らと同じくショッピングモールに行くのだろう同い歳ぐらい(現実の僕と)の青年らが二席ほど前の席に座っているだけだった。
ほどなくして目的のバス停に到着し、降車ボタンを押そうとした僕の手が、僕よりも小さな手によって止められる。
「……なに?」
その手が伸びてきている方向に振り返ると、雨はぎりぎり間に合ったというような表情をして、「わたしが押す!」と言った。
僕はおとなしく手を下ろすと、妹が押しやすいように席を立って場所を譲ってやる。
雨は一心不乱に降車ボタンに駆け寄っていき、そのままの勢いでボタンを押した。
カチッ、という音がした後、『次、降ります』という機械的な女性の音声がバス内に響き渡った。
それとほとんど同時にバスは減速を始め、目的のバス停を横にして前の扉が開いた。
僕は妹の手を引いて運転席のある方に向かうと、ガラス製の透明な料金入れの横に券を二枚入れ、二人分の料金をガラスの箱に投入する。
運転手は『毎度~』とやる気なさげな声で言うと、僕らを下ろすなり早々に走り去っていった。
目を見上げると、そこには正方形の白い建物が、僕らを囲むようにコの字型になってそびえ立っていた。
高さは目測二十メートルはくだらないであろうその建造物の中央には、大きな文字でショッピングセンターのロゴが貼られていた。
「でかいなー……」
今までの人生の中でこれほど大きい物を見たことは、数えるほどしかないのではないだろうか。それほどまでに、目の前にある建物の大きさは規格外だった。
妹と一緒に数秒見上げた後、満を持して人生初となるショッピングモールに乗り込んだ。
ショッピングモールの扉を潜ると、外はすっかり茜色に染まっていた。
「んぅ~~~、はぁ、楽しかったね」
小さい身体を精一杯伸ばしながら、妹は満足そうにため息を吐いた。
肩まで伸びた艶やかな黒髪が夕日に照らされて綺麗に輝いている。
「結構使っちゃったな」
自分の財布の厚さを指で擦りながら確認し、僕はため息を吐いた。
ショッピングセンターの中には思った通りシアターやゲームセンター、大型書店など様々な施設が入っていた。
中でもゲームセンターのクレーンゲームは雨がぬいぐるみを欲しがったから、十回も挑戦する羽目になってしまった。
雨はそのぬいぐるみを嬉しそうに抱きながら僕の横を歩いている。
「また行こうね、お兄ちゃん」
雨はクマのぬいぐるみと一緒にこっちを向いて、目を細めながら言った。
僕はそれに応えようとしたが、それは妹の『あ、雨だ……』という言葉に遮られてしまった。
「早く帰ろう、お兄ちゃん」
雨は空に向けて手の平をかざした後、そう言って走り出した。
「あ、おい!」
僕はそれを止めようと思って手を伸ばしたが、僕の手が雨の腕を掴むことはなく、代わりに『きゃっ!』という雨の短い悲鳴が耳に届いた。どうやら、路地を曲がってきた誰かと当たってしまったようだ。
「あっ、すいません」
僕はすぐに謝って、こけてしまった雨の横を見ると、そこには、長身のガタイのいい、全身を黒の服で統一し、頭には黒のフルフェイスを被った男が立っていた。
今朝のキャスターの声が蘇る。
──『犯人は二十代後半から三十代前半の男と思われ、全身を黒の服装で統一しており、顔にはフルフェイスのヘルメットを装着していたとの──』
「……え」
その男の手を見ると、その手は紙袋に被されていて、紙袋の底は紅く塗れていた。
男の息は、ヘルメットの上からでも分かるほど荒く、何事か分からない言葉をぶつぶつと呟いていた。
男は手を乱暴に振り上げると、その勢いで紙袋が取れ、その中から紅く塗れたチェンソーのような物が出てきた。それはチェンソーと呼ぶにはあまりにも歪で、刃は不自然に歪み。刃の間には赤黒い小さな物体が挟まっていた。
男は突然絶叫し、その勢いのままチェンソーのエンジンを吹かし、男の絶叫の中に荒々しい駆動音が混ざる。
──やばい。
直感的にそう感じた。次の瞬間、僕は雨の手を取り、少しでも男から距離を取ろうと走り出そうとした。
しかし、雨は突然の事態に理解が追いつかないのか、しゃがみ込んでその場から動こうとはしなかった。
「雨、逃げるぞ!」
僕はそれでも雨の手を引っ張り、無理矢理にでも立ち上がらせようとする。そうしている間にも、男の腕は雨に向かって振り下ろされ、チェンソーの刃が鈍い音を立てて雨の肢体に迫っていた。
あと数センチで刃が雨の柔肌を切り裂こうという所で、なんとか刃と雨の間に体を滑り込ませることに成功した。
「──が、あぁあああぁぁぁ!!」
背中に焼けた鉄を押しつけられたような熱さが走る。次いで、急速に背中の細胞が痛みを訴えてくる。
背中の筋肉を無理矢理引き裂かれたようで、空から降ってくる雨が背中に当たる度に鋭い痛みが全身を襲ってくる。
ただ抱きしめている雨の体温だけが、僕を安心させてくれた。
突然、視界が紅く染まった。一瞬なにが起きたのか分からなくなり、それが抱きしめている雨の肩から吹き出しているものだと気付いたのは数秒後だった。
「は? な、なにが」
そんなことを言っている間にも、雨の肩からは大量の血が吹き出している。
振り返ると、男がチェンソーを振りかぶり、再度雨に向けて振りかぶろうとしていた。「ぐっ!」
僕は咄嗟に自分の体ごと雨の体を押し倒し、ぎりぎりの所でチェンソーの刃は僕の肩を掠め、風を切って後方に消えていった。
次の瞬間、僕の後ろから鈍い音が聞こえ、それと同時に、右足に激痛が走った。
「──が、ああぁぁああ!」
振り返ると、男は笑い声を上げ、何度も何度も、僕の右足にチェンソーの刃を突き立てていた。その度に僕は断続的な悲鳴を上げ、数十秒たった頃だろうか、やっと攻撃は止み、男は僕の後ろで、また何事かを言いながら去って行った。
もう僕には、後ろを振り返る余裕も、身体を動かす気力も失われていた。
僕は右足から感じる激痛に耐え、必死に妹の肩にちぎった服の布を当て、止血を試みる。 が、その体からは徐々に温もりが感じられなくなってきていた。雨に打たれて、妹の体は小刻みに震えている。
僕はその震えを抑えようとして、必死に雨の身体を抱きしめる。しかし雨の震えは止まることはなく、肩から溢れる血は周囲を染めていき、僕の服を染めてくる。
「雨……っ」
僕は大丈夫だとも、助けるとも言わず、言うことが出来ず、ただ何度も妹の名前を呼び続けた。
「……おに、ちゃん」
雨は僕の耳元で、震える声で返事をした。それは耳元だったから聞こえたぐらいの大きさで、僕が呼びかける度、その声は小さくなっていき、ついには、何の返事も返さなくなり、ただ弱々しく呼吸を繰り返すだけになった。
「何だよこれ……。何なんだよ……っ!」
僕の声が、辺り一面に反響する。しかし、周囲には人ひとり居なかった。
「おかしいだろこんなの、何で、何でこんな……」
雨の眼からは徐々に光が失われていき、もう僕の眼を見ているのか、その先にある灰色の空を見ているのか、判別つかなかった。
「雨……、大丈夫だからな。絶対、兄ちゃんが助けてやるから。だから──」
やっと言えた言葉を遮って、雨はそっと呟いた。
「おにいちゃん……、雨はさ、降ってるときは、少し暗い気持ちになっちゃうけど……、きっと、雨がやんだら、その後には、紅い太陽がでて、空には、虹が浮かんで……」
雨はゆっくりと、僕の頬に手を添える。その手の温もりも、いまはほとんど感じられない。
「もういい、分かったから。もう、何も喋るな……」
僕は自分の頬に添えられた雨の手を握り、暖めてやる。
「きっとまた、明日もがんばろうって、思えるからさ。だから、どんなに、辛くても、苦しく……ても」
雨の声は段々と弱まり、言葉も途切れ途切れになっていく。
「雨……死なないでくれ……。お前が死んだら、俺は……っ」
俺はもう、嫌なんだ。お前を失うのが。あの、気が狂いそうなほどの喪失感。自分の無力感。絶望感。自責の念で、自ら命を絶とうとした。それも怖くて出来なかった。
あんなものを、俺は二度も、味わわなければならないのか。
そんなの、あんまりじゃないか。そんなの、理不尽すぎるじゃないか。
「その後にはきっと、」
雨はほとんど聞こえないような声量で、言った。
──お兄ちゃんがお兄ちゃんの人生を、生きててよかたって、思えるから。
その言葉を最後に、僕の意識はシャットアウトした。
目を開けるとそこは、僕が元々いた、校門の前だった。
僕はどうやら、その場でしゃがみ込んでいるようだった。隣には、パンクした自転車がそのまま、倒れていた。
目の前を見ると、辺りは僕の記憶と違わず、夕陽に染まっていた。ほんの少し違うことと言えば、僕の体勢と、夕陽が少し沈んでいると言うことだろうか。
あれは、夢だったのか? 僕は、不自然に荒い息を整えながら、自転車を起こし立ち上がる。そのとき、何気なく触れた右足は、いつもと同じ無機質な堅さを持っていた。もちろん、右足の膝から下の感覚はない。
しかしあのとき、実感で言えばつい数分前にチェンソーで切りつけられたときの感覚。
あれは、夢にしてはやけに生々しく、そして、痛かったのを覚えている。今でも少し痛いような気さえする。
「…………っ」
それと同時に、妹の最期まで思い出してしまった。俺の夢の中とはいえ、二度も死んでしまうなんて、いくら何でも可哀想だ。握っていたハンドルのゴムが、ギチギチと音を立てる。
僕はいったん辺りの空気を吸って、平静を取り戻す。
「……帰ろう」
ゆっくりと自転車を押して、歩き出す。目的地は、あの古びた道場だ。乾かしてある服を取りに行かなければ。
今はラジオを聴くような気分ではなかったので、なるべく何も考えないようにして道場に向かった。自転車だと三十分程度だが、歩きでは一時間以上かかってしまった。つくづく、文明の発達の便利さを体感した。
傷だらけの床を踏み倉庫内に入ると、予想通り、Tシャツは完全に乾ききっていた。
僕はそれを手早く鞄の仕舞い、道場を後にしようとした。そこでふと何気なく見た隅の方に、古びた布にくるまれた棒状の物を発見する。祖父の使っていた竹刀かと思ったが、それにしては長すぎる気がした。
近づいて持ってみると、明らかに竹刀より重い。これは木製のものではなく、鉄製の物だと、触ったときの少しざらざらした触感から分かった。おそるおそる布をほどいてみる。 古びた布から現れたのは、古びた鉄の棒だった。
その棒は全体がくすんだ青色をしていて、棒の先端付近には洋風の装飾が施された鍔が着けられてあった。
さわり心地の悪い布を後ろに放ると、砂埃を巻きながら銅製の洋剣がその全貌を現した。それはかつてランツクネヒトが、その攻撃力の高さから愛用したという両手剣、フランベルジュだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます