第2話 呪紋の焼痕
王城の門をくぐるとき、空気の密度が変わった。
帝都の喧騒は背後で薄くなり、石畳は音を吸って、足音だけを正確に返す。冷たい朝の光が、尖塔の縁で細く割れていた。
第一監察医ライゼル・クロウは、馬車の揺れに身を任せながら眼を閉じ、呼吸の数を整える。隣では助手のセリナが背筋を伸ばして座っている。手袋の箱を抱く指が、わずかに強ばっていた。
「先生、王城での“診察”って、初めてですか?」
「公式には、初めてだ」
「じゃあ非公式に?」
「昔、一度だけ呼ばれた。戦傷兵の解剖を王の命で行った。報告書は封印され、記録には残っていない」
「どうしてそんなことを」
「“戦死者”の中に、生きている者が混じっていた」
セリナは息を呑む。彼女は“死”の温度に慣れ始めてはいたが、宮廷の温度にはまだ慣れていない。
馬車が止まり、近衛が扉を開けた。白金の鎧、金の紋章。無駄のない動作が、ここでの“命令の重さ”を物語っている。
「医務院第一監察医ライゼル・クロウ殿。お待ちしておりました」
「案内を頼む」
通されたのは南棟の医務区だった。白布をかけた長椅子が整列し、壁には導管反応を測る水晶板。匂いは清潔だが、わずかに薬液の刺がある。
王室医務長グラントが現れた。年配、穏やかな声、濁った目。
「博士、殿下のご容態は繊細です。刺激の強い検査はお控え願いたい」
「診察を依頼された。診断を出すのが私の仕事だ」
「“魂視”は禁止です。倫理官から通達が来ている」
「承知した」
ライゼルは携行具を並べる。金属のきれいな音が室内に広がり、グラントの眉間に一筋、硬い皺が刻まれた。
◆
アナスタシア皇女の部屋は、静寂の極みだった。
薄い紗幕。その向こうに長椅子。白磁の肌に金糸の髪、紫紺の瞳。
魂視で見た“最期の一瞬”の映像と寸分違わない輪郭が、目の前で呼吸していた。
「お久しぶりね、博士」
柔らかな声だった。
「覚えておいでかしら。あなたが学院で講義をなさっていた頃、こっそり聴講していたの。『死体は嘘をつかない』――印象的な言葉でしたわ」
「……そうでしたか」
「ええ。だから、あなたを呼びたかったの」
侍女が下がり、近衛が距離を取る。セリナの目が素直に驚きを映した。
「不調の症状を伺います」
「時折、視界が白く霞み、心臓が痛みます。特に夜。毎晩、九刻頃」
「始まりは」
「学院の裏庭で、あの子が亡くなった夜から」
空気が止まった。
セリナが反射的にライゼルを見、すぐ視線を戻す。皇女はわずかに笑み、言葉を継いだ。
「その事件の解剖を担当したのは、あなたなのでしょう」
「はい」
「魂を――視たのかしら」
「倫理官から口止めを受けています」
「答えなくていいわ。わたくし、覚えていますもの。……“彼女”が倒れた瞬間、わたくしも一緒に落ちたの。目が覚めたら、涙が止まらなかった」
「共鳴です」
セリナが小さく呟いた。
「導管の波形が一致した者同士が、死の瞬間に干渉を起こす現象。理論上は――」
「あり得る」
ライゼルは短く頷く。「ただし、そのためには“呪紋の焼痕”が必要だ」
「呪紋……の焼痕?」
「二つの導管を一時的に同調させる術式。古い医療魔法で、危険すぎるから禁じられている。もし誰かが、あなたと少女を同調させたのだとしたら――」
「死が、伝わる」
セリナが続ける。
「そう。確認したい」
ライゼルは距離を詰め、穏やかに問う。
「右手を拝見しても?」
侍女のざわめきを、皇女の一言が静めた。
差し出された手の甲に、淡い線が走っている。焼け焦げたような、ごく薄い条痕。
「導管痕……」
セリナの声は震えていた。
「医務長。なぜ治療記録にない」
グラントの唇が乾く。
「記録に値しない軽微なものだと判断し――」
「嘘だ。これは“呪紋の焼痕”だ。しかも学院実験式と同型。波長が合っている」
「博士、それは重大な――」
「重大なのは、これを隠蔽したことだ。誰の命令だ」
ライゼルの声は冷え、刃の平を見せるように滑らかだった。
皇女は、わずかに長い沈黙の後、静かに言った。
「父上の命令です。――あの子を救うために。医務院の術士が“同調による導管再生”を提案しました。けれど失敗した。あの子は死に、わたくしの導管も焼けた」
セリナの目に涙が滲んだ。
「国家が、そんな――」
グラントが慌てて遮る。
「博士、これ以上の質問は許可できない!」
「私の任務は真実を記すことだ。命令で曲げられない」
「無礼者!」
侍衛が一歩踏み出す。皇女が掌を上げた。
「いいの。嘘はもう、いらない」
ライゼルは頷き、検査を続けた。
導管反応を水晶板で測る。波形は不安定で、周期的に乱れる。夜九刻前後、特に顕著。
「導管再生は不完全。魂干渉の“残り香”が、今も経路の一部を流れている。……あなたの体は、他者の記憶を“再生”している可能性がある」
「他者の、記憶?」
「ハンナ・イェルク。昨夜、解剖台の上で私たちと向き合った少女だ。あなたの“夢”は夢ではなく、死者の最期の記憶だ」
皇女の唇から、色が消える。
「なら、わたくしが夜に見る裏庭は……」
「彼女の視界だ」
答えは冷たく、しかし残酷ではなかった。死者の言葉を生者に渡すとき、ライゼルはいつも同じ速度で言う。早すぎず、遅すぎず、真実に必要な重さで。
◆
診察後、南棟の会議室に呼ばれた。長卓、重い椅子。窓の外で白い鷺が一羽、芝に降りる。
顔ぶれは王室医務局、魔導評議会、宰相府文官、倫理官――宮廷の“温度”が集まり、部屋は少し暖かい。
宰相府の文官が口火を切る。
「博士、結論を」
「皇女殿下の導管には“呪紋の焼痕”。学院実験式と同型。死者との同調が行われた痕跡です。夜九刻の発作は、その残響」
ざわめき。魔導評議員の一人が眉を上げる。
「証拠は?」
「視診、波形、紋型の一致。そして――」
ライゼルは手袋を外し、右手の甲を見せた。赤い細紋がまだ薄く残っている。
「昨夜、遠隔で皇女殿下の発作に安定化波長を合わせた。私の導管に焼痕が写った。共鳴が起きた証左だ」
倫理官が静かに目を細めた。
「遠隔の使用許可は出していない」
「使用許可の前に、命が落ちる兆候があった」
「規則は規則だ」
「死は、規則を待たない」
沈黙。
宰相府文官は視線だけで誰かと合図を交わし、紙束を差し出した。
「博士、これが“公式”の診断書だ。内容を確認し、署名を」
ライゼルは紙を受け取り、目を通す。
そこには簡潔な文言が並ぶ。〈殿下の不調は過労と軽度の導管疲労〉――“呪紋の焼痕”の語は一つもない。
「改ざんだ」
「表現の調整だ。帝国は安定を好む」
「安定は、嘘の衣をよく着る」
「詩人じみた言い草だが、政治の席には似合わない」
「詩ではない。報告書の一行目の延長だ」
倫理官が口を開いた。
「博士。君の報告は重い。重すぎる。君が掘る穴は、君自身の墓に繋がるかもしれない」
「死者のために掘るなら、本望だ」
文官の唇が歪む。
「――署名を」
ライゼルは紙束を机に戻し、自分の手帳を開いた。白紙の一行目に、いつもの文言を書く。
〈死体は嘘をつかない。嘘をつくのは、いつも生者だ〉
「私の署名は、私の記録に残す。公式文書には、診断の核心が書かれていない」
会議は散会となり、廊下の空気が少し軽くなる。セリナが追いついた。
「……怖くないんですか」
「恐怖は慣れる。だが軽くはならない。重さを知って持つだけだ」
◆
午後、王城の中庭は風が強かった。
セリナが水を汲みに行っている間、ライゼルは一本の黒樫の影に立ち、指先の焼痕を陽に透かした。わずかに熱が残っている。生者の記憶は温い。死者の記憶は冷たい。皇女の中で二つが混ざるとき、温度はどんな値を指すのか。
風が切れ、軽い足音が背に近づく。
「博士」
声の主は皇女付きの侍女――ではなく、文官風の若者だった。
「宰相府第四課、カイルと申します。非公式に、ひとつだけ。……あなたは“魂移植”という言葉をご存じですか」
「禁忌の禁忌だ」
「それが、もし、理論上は可能だとしたら」
「理論は、死体が頷いたときに初めて現実になる」
「では――近いうちに、あなたの解剖台に“理論”が横たわるかもしれません」
カイルはそれ以上何も言わず、資料と見せかけた白紙を置いて去った。白紙はときに最も多くを語る。何も書かれていないという事実が、書けないほどの量を示すからだ。
セリナが戻ってきた。
「先生、のど乾きませんか」
「ありがとう」
水を一口。冷たさで、舌の記憶が少し澄む。
「魂移植――あり得ると思うか」
「理論上は……導管の“型”が一致し、魂の“周波”が近ければ、受容体は記憶の残滓を抱え込む可能性がある。でも、それは“移植”というより“混線”に近い。……先生、皇女殿下の中で、ハンナの心音が鳴っているように感じます」
「私もだ」
◆
夕刻、南棟の医務室では、夜の準備が静かに進む。香草が焚かれ、灯が絞られる。夜九刻――発作の時間が近づく。
ライゼルは再び皇女の前に座り、触診、導管圧の測定、脈拍の連続読み取りを行った。セリナが数値を読み上げ、記録に落とす。
「九刻まであと三十刻」
「安定化波長の準備を。遠隔は使わない。必要なら直接、掌で合わせる」
「先生の導管が焼けます」
「焼けても書ける」
皇女が微笑した。
「あなたの言葉は、いつも少し痛いわ」
「痛みは、境界を教える。……発作の最中、もし言葉が浮かんだら教えてください。意味をなさない音でも」
「わかったわ」
九刻。
部屋の空気が一度だけ沈み、灯が細くなる。皇女の胸に手を当てると、導管の脈が乱れた。波形が跳ね、歪む。
「始まる」
セリナが水晶板を握りしめる。
「圧、上昇。波、乱れ――」
皇女が苦しげに息を吸い、吐く。額に汗。手の甲の焼痕が赤く灯る。
ライゼルは掌を重ね、安定化の波長を短く刻んだ。
脈を“間引く”のではない。乱れの間に“静”を差し込む。
「ここじゃない……こっち」
皇女が目を見開き、まっすぐライゼルを見る。
「博士、あなたは――」
「ここにいる」
「違う……“向こう”で……あなたは、わたくしに、手を伸ばして――」
瞬間、視界が二重になった。
裏庭。白い光樹。倒れる少女。
――助けて。
唇の形。音はないのに、音があった。
ライゼルの耳鳴りが高く鳴り、掌の下で導管が一度だけ“噛み合う”。赤い閃き。掌が焼ける匂い。
「先生!」
セリナの声が近づく。
「大丈夫だ。……来る」
発作の山が一つ過ぎ、波形が緩む。皇女の瞳に涙が溜まり、頬を伝う。
「見たわ。あの子の視界。裏庭の匂い。黒い外套。注がれる薬。……それから――」
「それから?」
「博士の横顔」
ライゼルは応えず、焼けた掌を冷やす。水が触れる。痛みがある。これは生者の側の痛みだ。
しばらくして、導管は安定した。波形は浅い谷の形を戻す。
診察を終え、皇女は静かに言った。
「博士。わたくしの中に、あの子がいますか」
「あなたの中に“あの子の最期”がいる。――それが記憶だけか、魂の切片まで含むのかは、まだ断定できない」
「あなたはどちらだと思うの」
「どちらであっても、あなたはあなたで、彼女は彼女だ。混ざっても、混ざりきらない」
皇女は目を閉じ、短く頷いた。
「それで、十分」
◆
夜、医務区の一室。
ライゼルは携帯の術式筒を解体し、部品を布に並べた。昨夜の遠隔で焦げた部分は交換し、安定回路を二重にする。セリナが工具を渡す。
「先生、グラント医務長から書状が届いてます」
「読め」
セリナは封を切り、一行だけの文を読む。
〈死体は嘘をつかない――だが、魂は演じる〉
「署名は?」
「……グラント」
「火に」
紙は短い炎で灰になった。灰の匂いに、わずかに薬品が混じる。
「彼は何かを知っている。だが、言葉にすると命を落とす“種類”のことだ」
「先生は、どうしますか」
「死者の側に立つ。――それしか、知らない」
窓の外で、雷が遠く鳴った。
そのとき、扉がノックもなく開き、倫理官が入ってきた。色の薄い目が、机上の部品を一瞥する。
「博士。殿下の件は機密指定。以後、魂視装置の使用は申請制とする」
「承知した」
「それから――」
倫理官は懐から布包みを出し、机に置いた。布の中には、古い青銅の印章。中央の紋は王家ではない。医療教会の印だった。
「医療教会が、“再導管儀式”の復活を検討しているという噂がある。魂移植の前段だ。噂にすぎないが、噂はいつも遅れて真実になる」
「教会が動いている」
「帝国もだ。君は、どちらにも“価値”がある。気をつけることだ」
倫理官は視線を落とし、囁くように足して言った。
「君の詩、嫌いじゃない」
「詩ではない」
「そうだったな」
◆
宿舎へ戻ると、机の上にもう一通の封筒。差出人はない。中には、王城の簡略地図と、塔の最上階へ続く階段の印。赤い印の下に、短い言葉。
〈今夜〉
セリナが眉を寄せる。
「罠の匂いがします」
「罠であれば、噛まれた痕が真実を残す」
「それ、死体の話じゃないですよね」
「生者にも適用できる」
二人は灯を落とし、印の指す階段へ向かった。
最上階の手前で、足音を立てないように息を整える。扉は閉じている。鍵穴に光。
ライゼルは指で隙間の空気を撫で、鼻で匂いを嗅いだ。
「香」
「香?」
「導管を一時的に“静かにする”香。教会の配合に近い。――誰かがここで儀式をする」
扉の内側で、人の動く微かな音。
セリナが目で問う。
ライゼルは短く頷いた。
扉が静かに開く。
部屋には、赤い外套の男が一人いた。フードを目深に被っている。床に小さな円陣。中央に銀の皿。
「遅かったな、博士」
「誰だ」
男はフードを外した。
宰相府第四課のカイル――昼の若者。だが目の色が違う。冷たい。
「君は、誰のためにここにいる」
「帝国のために。……あなたのためでもある。博士、あなたは“真実の味方”だ。だからこそ、真実に耐える準備をしておくといい」
カイルは銀の皿の蓋を外した。中には、褪せた赤色の欠片があった。乾いた花弁に似ている。
「導管片?」
「魂の“衣”のようなものだ。――医療教会の保管庫から出た。誰かがここに運んだ」
「誰が」
「博士、質問はいつか命を奪う。だから先に答えるよ。……これは、ハンナ・イェルクの導管片だ」
部屋の温度が下がった気がした。
セリナの喉が鳴る。
「そんなものを、なぜここに」
「皇女殿下の導管と“再縫合”する計画があった。もっとも、今は棚上げだ。あなたがいるから」
「私が邪魔だというのか」
「あなたは“死者の側に立つ”と言った。だから邪魔だ。だが――同時に必要でもある。あなたがいなければ、真実は形を得ない」
カイルは導管片を皿に戻し、蓋を閉めた。
「博士。あなたに頼みがある。これを、記録してほしい。誰が何をしようとしていたのか。あなたの文字で。……公には出せない。だが、あなたの“最初の一行”は、いつか道標になる」
「依頼主は誰だ」
「“書けない名前”だよ」
「教会か、宰相か」
「どちらにも属さない“第三”だ。帝国は、いつも二つに見えて、三つ以上ある」
「君は“第三”の人間か」
「観測者だ。……博士、あなたの敵は少なく、味方はさらに少ない」
足音が近づく。近衛の靴音。
カイルは素早く皿を包み、窓際へ滑る。
「ここで会ったことは“ない”。――失礼」
彼は身を翻し、狭い出窓から細い梯子を使って闇に消えた。
扉が開き、近衛が顔を見せる。
「博士? こんな時間に」
「夜の風が強くてな。窓を閉めに来た」
近衛は訝りながらも、礼だけして去った。
◆
宿舎に戻ると、夜は深く、雷は遠のいていた。
ライゼルは机に向かい、白紙を引き寄せる。セリナは黙って水を置く。
ペン先が最初の一行の上で止まり、また動く。
〈死体は嘘をつかない。嘘をつくのは、いつも生者だ〉
息を整え、さらに書き足す。
〈第2話報告:皇女アナスタシア導管に“呪紋の焼痕”。学院実験式と一致。夜九刻発作、死者の記憶の再生を示唆。魂移植の前段“再導管儀式”の兆候あり。関与者:不明/関係機関:王室医務局・医療教会・宰相府第四課(観測者)。補遺:導管片の存在――真偽未確定〉
書く手が止まる。
掌がまだ疼く。焼痕は薄い赤を保ち、生者の体温でじわじわと主張する。
「先生」
セリナが低く呼びかける。
「公式文書、来ました」
封を切る。印璽。短い文。
〈殿下の診察記録は機密扱いとし、以後の関与を禁ず。医務院は安定を保持する〉
ライゼルは紙を折り、机の端に置いた。
「安定は、嘘の衣をよく着る」
「でも先生は、いつも“衣”を剥がしに行く」
「私の職業だ」
窓の外に、霧雨のような薄い水が降り始めていた。
セリナが問いかける。
「明日は、どうしますか」
「王城へ戻る。彼女の導管の“音”を聴く。……それから学院の裏庭に行く。夜の砂は、よく記憶する」
「砂、ですか」
「砂は無名だ。無名は、真実の味方だ」
◆
翌朝、皇立学院。
裏庭の月白土は雨に洗われ、細かな粒が光を散らす。前夜の雷の名残を思わせる湿り気が、靴の底に吸い付く。
セリナがルミナ紙を取り出す。
「先生、ここ、少し強く光ります」
「注入地点に近い。黒外套の人物はここに立ち、少女の腕をここで――」
ライゼルは自分の右腕を掴む。角度は四十五度、深度は浅い。
「“簡易二段階投与”の癖が出る。フェルドの実験手順。……ここから皇女の居室まで、波形が届く距離ではない。つまり“同調”の媒介が別にある」
セリナが周囲を見回す。
「媒介?」
「導管片、あるいは儀式具。……砂の中に、金属の小片が混ざっているはずだ」
二人はしゃがみ、砂をふるいにかける。指先で、目で、匂いで。
青みがかった微小な円片が、砂の光の中でちらりと光った。
「ありました」
セリナが示す。
ライゼルはそれを拾い、拡大鏡で覗いた。細密な刻線。医療教会の儀式具に使われる“導印片”。
「やはり。……同調の媒介だ」
そこへ、足音。
学院警備かと思ったが、現れたのは黒衣の司祭だった。医療教会の印を胸に光らせている。
「博士。ここは“祈り”の場所ではない」
「祈りは君たちの役目だ。記録は私の役目」
「祈りと記録は、しばしば相容れない」
「相容れなくても隣り合える。――貴殿らは、何を“祈り”、何を“隠す”」
司祭は薄く笑った。
「死は、神の領分。あなたは神の仕事に手を伸ばしている」
「神が忙しいから、代理をしているだけだ」
司祭は肩をすくめ、背を向けた。
「魂は演じる。あなたは、舞台の袖でよく見ているといい」
去っていく黒衣の背中は、午後の光の中に輪郭だけを残し、やがて消えた。
セリナが円片を布に包む。
「証拠になりますか」
「“証拠”には、まだ弱い。だが“記録”には十分だ」
◆
医務院に戻ると、上層からの通達が一層あからさまだった。
〈魂視装置の使用は全停止。博士の研究室は一時封鎖〉
封鎖――という言葉の中に、懲罰と“保護”の両方の匂いが混じっている。
ライゼルは封を破り、机に立てておいた。
「先生」
セリナが小さく叫ぶ。
「研究室の記録……書き換えられてます! 魂視のログから、皇女殿下の映像部分が――」
「削られている」
「どうして、こんな」
「できるからだ。――だが、死体の記録は書き換えられない」
ライゼルは鍵束を取り、封鎖札のかかった扉を見た。開けることはできない。ならば、書く。
新しい手帳を開き、冒頭に書く。
〈死体は嘘をつかない。嘘をつくのは、いつも生者だ〉
文字の太さを、わずかに重くする。
次の行に、今日はじめて“推測”の言葉を置いた。
〈推測:皇女アナスタシア体内には“二つの拍動”がある。ひとつは殿下。もうひとつはハンナ・イェルクの最期の反響。両者は混ざり、分かれ、夜九刻に“再演”を行う〉
セリナが静かに頷く。
「先生。私、祈っていいですか」
「生者のために祈れ。死者は、祈りがなくても真実を置いていく」
「じゃあ私は、先生のために祈ります」
「それは――ありがたい」
窓の外、夕暮れ。塔の影が長く伸びる。
ライゼルは焼痕の上に冷湿布をあて、息を整えた。痛みは弱く、しかし在る。
その在り方を、彼は好んだ。
痛みは境界を教える。ここが“生”で、あちらが“死”だ、と。
◆
夜。
再び、封も印もない封筒が机に置かれていた。差出人は記されていない。中には小さな金属片――導印片に似ているが、刻線が違う。
裏に古い字で一語。
〈返歌〉
ライゼルは笑みをこぼし、薄く呟く。
「詩が返ってきたか」
セリナが首を傾げる。
「詩じゃないって、いつも言うのに」
「“詩ではない”と繰り返すこと自体が、詩の始まりだ」
「わかるような、わからないような」
「わからない方が、長く持つ」
彼は金属片を手帳に貼り、横に短い注釈を書く。
〈導印片(二型)――教会式でなく、王城独自の儀式具。第三の手〉
遠く、塔の鐘が静かな音を落とした。
ライゼルは灯を落とす前に、最後の一行を付け加える。
〈補遺:明朝、王城へ。殿下の“音”をもう一度。学院裏庭の砂は、もう一度ふるう。砂は無名で、無名は真実の味方〉
灯が消え、部屋は深い灰に沈む。
掌の焼痕だけが、布の下で微かに熱を持っていた。
その熱は、確かに生者のものだった。
――そして、窓の向こうで誰かが息を潜めている気配が、ほんの一瞬だけ、あった。
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