監察医ライゼル ― 魔導解剖の真実 ―
桃神かぐら
第1話 死体は嘘をつかない
白い灯が、呼吸のようにかすかに明滅していた。帝都セラフィオンの中心部、帝国医務院・魔導解剖棟。床は磨かれた黒石、壁は熱を飲む灰。冷却魔導炉の低い唸りが、夜の静けさに輪郭を与えている。
屍台の上には、皇立学院の女子学生が横たわっていた。二十。名はハンナ・イェルク。記録には「魔力暴走による急性心停止」と書かれている。白布の下からのぞく素足は、まだ少女の線を残していた。
「手袋」
短く告げると、背で気配が跳ねる。助手のセリナだ。細い指で箱を開け、手袋を一枚ずつ差し出す。まだこの空気に慣れていない者特有の、わずかな硬さ。
「……緊張しなくていい」
「してません」
「している。指先でわかる」
「じゃあ、少しだけ」
ライゼルは答えず、手袋を嵌める音に集中した。ゴムの薄皮が皮膚に沿う。その感覚は、今日も“境界線”を越える合図だ。生者の側から、死者の側へ。
白磁の洗浄槽で器具を濡らすと、金属が低く鳴いた。霊圧レメーターの針が、雨だれのように揺れる。
「暫定診断は“暴走死”か」
「学院側の魔導医師が。実習中に体調を崩して倒れ、そのまま……」
「形式診断だな。暴走と書いておけば、誰も深くは問わない」
セリナは言葉を失い、下唇を噛んだ。彼女は医務院配属から三か月。死体に向き合うたびに、まっすぐに悲しむ。だが悲しみは解剖の手の震えになってはならない。
「外表から」
「はい」
白布を折り返す。冷えた皮膚に、青い灯が薄膜のように映る。ライゼルは胸郭を視線でなぞり、肩、鎖骨、胸骨のラインを追った。
「胸骨上、薄い痕跡。ルミナ紙」
セリナが金属筒から紙を抜き、手渡す。紙面を近づけると、淡い銀の線が浮かび、すぐに消えた。
「魔力痕。だが浅い。暴走なら、焼けた帯が明瞭に残るはずだ」
「……暴走じゃない?」
「まだ断定はしない。粘膜」
小さな開口器を口腔にかけ、舌を持ち上げる。呼気のない口の奥から、乾いた甘苦い香りが立った。
「甘くて、少し焦げの混じる苦味……導管安定化剤の系列に似ている。試験品特有の匂いだ」
「学院で投薬は……」
「建前では否定している」
左前腕を光に透かす。セリナは息を止める。
「細い針痕が二つ。直径〇・三、深度浅。注入角から非利き腕の外側……本人じゃない可能性が高い」
「注射、ですか」
「魔導器による注入だろう。連続か、微調整か。いずれにしても、投与の痕だ」
ライゼルは記録板に走り書きし、肩口から肋間へ目を落とした。防御創はない。転倒擦過痕も乏しい。爪先に微細な土がついている。学院の裏庭に敷かれた月白土――粉砂の石英率が高い土だ。雨の後。
「裏庭にいた」
「どうしてわかるんです」
「これは学院の土だ。あそこは排水が悪い。靴底につきやすい」
「先生、なんでそんなこと」
「昔、あの裏庭で実地授業をした」
セリナが目を丸くする。
「先生が、学院の講師を?」
「短く。生者向けの授業は、性に合わない」
外表検査は十分で切り上げ、内部へ移る。鋼の刃が器具台で微かに歌った。
「時間を出せ。すべての所見を刻む」
「はい。時刻、午後二時五十七分――胸郭切開開始」
胸骨の合わせ目に沿って、刃は迷わず走る。肋間筋の色、脂肪の層、出血の勢い。胃内容の残量、胆汁の色調。
心筋を露出すると、ライゼルは顎を引いた。
「焼痕がない。暴走死に典型的な、導管発火の焦げもない」
そして心膜の内側をなぞるように、魔力導管――マナ・ダクトの裂け目を追う。
「線状で整いすぎている。内圧で爆ぜたのではない。外から、回路を“外させた”」
「そんなこと、できるんですか?」
「できる。安定化剤は本来、導管を保護するために使う。だが容量とタイミングを誤れば、制御信号が逆流して、自律的な同期を壊す。繰り返し投与で、回路は“自分で自分を切る”」
セリナの顔色が変わる。
「それは、実験」
「あるいは、隠蔽のための偽装。暴走死は事故だからな。楽なんだ、扱いが」
ライゼルは器具を置き、深く息を吐いた。冷たく乾いたにおいが肺の奥を滑る。
「――魂視に入る」
セリナが肩を震わせる。
「許可は……」
「昨日のうちに申請し、今朝、倫理審査を通っている。遺族の同意書もある。『最期が本当に事故だったのか確かめてほしい』とな」
「どうして最初から、使うつもりだったんです」
「最初から、死んだ人間の側に立つつもりだった」
術式筒の封印を解くと、室内の温度が一度だけ揺らいだ。床に白い線が走り、陣が咲く。
「干渉は禁物。見えるのは光景で、音は落ちてこない。君の仕事は、私の脈と霊圧を監視すること。異常が出たら術を切る準備を」
「了解……先生」
セリナの声の端に、祈りの音が混じっている。
「そんな顔をするな。これは医療で、祈祷ではない」
「でも私は、死者に失礼がないように祈ってます」
「良い習慣だ」
光が遺体を覆い、薄い膜が張る。霊圧レメーターの針、上昇。術式灯がひとつ、ふたつ、暗くなる。
ライゼルは瞼を半ば閉じ、視界の奥にピントを合わせた。
――落ちる。
闇。
次に、月白の裏庭。夜。光樹に絡む藤のような蔓が、青く微光を吐く。湿った石の匂い。足音。自分の靴――少女の視点だ。視線が低い。緊張のせいで呼吸が浅い。
黒い外套の人物がそこに立っていた。男か女か、わからない。外套の縁から、細い手がのぞく。
――やあ、来たんだね。
音は落ちてこない。だが口の形は読み取れる。
――すぐに済む。すこし、楽になるだけ。
腕を掴まれる。冷たい金属が肌に触れ、次の瞬間、刺す。導管の奥に火花。視界が白い。
誰かが駆け寄る。裾。光。
白金の髪。
紫紺の瞳。
額にかすかに触れる、王家の印。
皇女アナスタシア。
彼女が、こちらを覗き込んでいる。
――だめ。そんなに入れたら――
口がそう動く。伸ばされた手。
地面が傾き、光樹が天に吸い込まれ、視界はぶつ、と切れた。
反動。魂膜が撥ね、陣がきしむ音が“ここ”にも漏れた。セリナが叫ぶ。
「先生!」
ライゼルは左手を床につき、深呼吸を二度。術式は安定している。手の甲に走った細い裂傷から、血が一滴落ちて蒸発した。
「大丈夫だ」
「今の、見えたのは……」
「学院裏庭。黒衣が注入。最後に――皇女」
セリナの喉がからからに鳴る。
「先生、皇女殿下は……ご存命です」
「そうだ。だから、疑問が生まれる。なぜ“死者の最期”に、生きた皇女が映るのか」
ライゼルは術式を丁寧に畳み、封印を閉じた。
「記録を保存する。解析用の鍵は二重。私と、倫理官の署名でしか開かない」
「はい」
解剖室の静けさが戻る。遠くで冷却炉の唸りが、骨の奥へ沈んだ。
「検体の処置を終え次第、学院へ行く。薬学棟の在庫記録を照合する。同行するか?」
「もちろんです」
◇
午後、皇立学院。尖塔の白壁は古いままに磨かれ、敷地の大半は実務のために拡張されていた。薬学棟は裏庭に面している。正門の警備がライゼルの許可状を読み、一瞬だけ目を泳がせた。
「……医務院の方が、直接?」
「記録の確認だ。関係者を呼んでくれ」
薬学棟の地下にある薬剤庫は、乾燥と冷涼を保つために厚い扉で区切られている。扉の前に立っていたのは、薬学主任のフェルド教授。白髪に金縁の眼鏡。笑みだけは軽い。
「医務院の博士が直々とは、光栄ですな。学生が倒れたとの報告は受けておりますが……」
「導管安定化剤の在庫と、出庫記録を」
「ふむ。未承認薬に関しては、実験の段階では――」
「未承認薬は、登録者しか触れない。登録者の名簿を」
「もちろん」
フェルドは余裕綽々と鍵を回し、記録台帳を差し出した。だがライゼルは台帳ではなく、棚の隅に積まれた空箱の角を撫でた。紙が乾いている。積層の微妙な歪み。
「これは五日前に動かしている。台帳には三日前の出庫とある。二日分の差異は、どこに吸収された?」
「……おや、博士は紙の匂いまで嗅ぐのですかな」
「紙も死体も、嘘は同じ臭いがする」
セリナが在庫番号を読み上げ、ライゼルが写し取る。一本、二本、三本。合致する。だが安定化剤の試験系列――青い封筒に入った細針用カートリッジが、棚の奥に空箱で三つ。台帳上は未開封。
「未開封扱いの空箱が三つ。誰が開けた?」
「知りませんな。鍵は私と補佐しか……」
「ならば貴方が開けた可能性が最も高い」
笑みが薄く剝がれ、フェルドの目に陰が落ちた。
「証拠は?」
ライゼルはコートの内側から小さな袋を取り出す。ルミナ紙に写した、遺体の胸骨上の痕跡写真だ。そこに浮かぶ紋型は、学院薬学が用いる安定化剤の配合式に固有のものだった。
「紋のパターンは配合式に紐づく。これは学院の式だ。さらに、注入角と刺入深度は、貴方が学生実験で使わせる“簡易二段階投与”の癖が丸ごと出ている」
「偶然だ」
「偶然は、死体が最も嫌う言葉だ」
扉の外で、靴音。学院警備の制服二名が現れ、フェルドを挟む。
「主任、少し……」
「ふざけるな。私は帝国に奉職し、教育に身を置いてきた。学生が望んだのだ、強い魔法を使える体に――」
「結果、ひとり死んだ」
ライゼルの声は、冷却炉と同じ温度だった。
「死を教育の代償にする権利は、誰にもない」
フェルドがなおも言い募ろうとしたとき、セリナが一歩だけ前に出た。
「どうして女の子が倒れても、暴走死で済ませたんですか」
「暴走死なら事故扱いだ。学院は傷つかない」
吐き捨てるような声。彼の口から出た言葉は、彼自身の保身の輪郭をはっきりと描いた。
学院警備は教授を取り押さえ、連行した。薬剤庫からは注入器具と、未申告のカートリッジが見つかった。笊目のような管理だ。だがミニ事件としての答えは出た。
導管安定化剤の過量投与。
黒衣の人物。
裏庭。
そして、魂視の最後に映った皇女――あれは何を意味するのか。
◇
帝国医務院の会議室。長椅子の並ぶ静かな場所。壁には帝国の地図。窓の外は、雨。
上層部が並び、報告を待っている。参事官は痩せた指でペンを回した。
「結論から」
「死因は導管安定化剤の過量投与。学院薬学主任フェルドを拘束」
「よろしい。魂視の記録は?」
「ここに」
ライゼルは黒い封筒を差し出した。参事官が受け取り、封を切り、映像を再生する。白い光が卓上に落ち、裏庭の景色が現れる。黒衣が注入。少女が倒れる――映像はそこまでで、ふっと途切れた。
「……続きがあるはずだ」
「機器の不調かもしれん」
上官が軽い声で言った。
「私の術は正常だった。ログにも異常はない。切断は、再生段階で――」
「博士。君の見間違いでは?」
「魂視は嘘をつかない」
「記録が残っていない以上、証拠はない。帝国は証拠に基づいて動く。わかるね?」
セリナが椅子の縁を強く握ったのが見えた。ライゼルは彼女の方を見ない。
参事官が紙束を整え、卓上に置いた。
「学院の不祥事だ。内々に処理し、公表はしない。遺族には相応の補償が支払われる。博士の功績は記録する」
「……了解しました」
彼は短く答え、席を立った。扉に手をかける前に、振り向かずに言う。
「記録の“欠落”は、いつから医務院で許容されるようになった」
返事はなかった。
◇
廊下に出ると、雨の匂いがした。窓ガラスを洗う水の筋が、遠い音で室内に響く。セリナが駆け寄ってきて、言葉を探すように口を開いた。
「先生……さっきの、皇女殿下の映像」
「見た」
「なのに、会議では……」
「記録がなければ、何もないのと同じだ」
「先生は、信じないんですか。自分の目を」
「目は、しばしば嘘をつく。死体は嘘をつかない」
「それは――」
「魂視は“死者の最期の視界”を借りる術だ。そこに介入がないと、いつから言えた?」
セリナは言葉を飲み込む。
ライゼルは窓外の灰色の空を見た。水の薄膜に街並みが滲む。
「君は祈ると言ったな」
「はい」
「祈りは、いつも生者のためにある。死者は、祈りがなくても真実を置いていく。私たちはそれを拾うだけだ」
セリナはゆっくり頷いた。
「……拾い続けましょう。どれだけ削られても」
彼はそれに答えず歩き出した。
自室へ戻ると、机の上に封蝋の押された一通が置かれていた。宰相府の紋。
〈皇女アナスタシア殿下専属医務官 任命書〉
署名は宰相、自署は硬い。依頼文には、殿下の近習が簡潔に事情を記している。「最近、殿下のご体調に前例のない乱れが見られる。医務院最高位の監察医による“見立て”を請う」と。
ライゼルは封を切らず、指で一度だけ紙の厚みを確かめた。
窓の外の雨脚が強くなる。
机の端に置かれた術式筒が、封印の下で微かに震えた気がした。昼に見た魂視の最後の一瞬――皇女の唇が確かに動いていた。
音は落ちない。だが、読める。
助けて、ライゼル。
そう、見えた。
彼は椅子に腰を下ろし、灯を少しだけ落とした。指先に残る微かな血の線を拭い、白紙を引き寄せる。
一行目に、いつもの文言を書いた。
〈死体は嘘をつかない。嘘をつくのは、いつも生者だ〉
ペン先を止め、目を閉じる。
事故死という言葉は、どこまでも都合が良い。誰にとって。学院にとって。帝国にとって。あるいは、皇室にとって。
魂視という術は、便利すぎる。真実に肉薄するのと同じ速度で、真実を“編集”する誘惑にも近づく。記憶は映像ではない。生体の最期に走る電気の“痕”を、術式が映像に再構成しているに過ぎない。ならば――
「途中で、誰かが手を入れた」
瞼の裏に、白金の髪が揺れた。あの眼差しは、作り物のものではない。
窓を叩く雨を見ながら、ライゼルはゆっくり笑った。
> 「死を診る者だけが、生の真実に触れられる……か」
扉を叩く音。セリナが顔を覗かせる。
「先生。倫理官が来ています。魂視記録の“鍵”の確認を」
「通してくれ」
黒衣の倫理官は、色の薄い目をしていた。
「博士、任命書を」
「受け取った」
「殿下の件は極秘だ。あなたの術は、帝国のために使っていただく」
「私はいつも、死者のために使っている」
「同じことだろう」
「似ているが、同じではない」
倫理官は肩をすくめ、卓上に一枚の紙を置いた。
「魂視装置の再調整が必要だという意見が上がっている。今日の“欠落”は機器由来の可能性が――」
「機器は正常だった。欠落は、人為だ」
「根拠を」
「死体がそう言っている」
倫理官は苦笑し、首を横に振った。
「あなたの“詩”は好きだが、政治の席には似合わない」
「詩ではない。報告書の一行目だ」
倫理官はわずかに諦めたような顔をして、ペンを取り出した。封印鍵の署名を済ませ、視線でセリナを呼ぶ。
「助手、君の署名も」
セリナが緊張しながら名を記す。
「博士、殿下の御前は明日だ。宮城の医務室で、まず“診察”を。良いですね、“診察”です。“魂視”ではない」
「診察の結果、必要ならば魂視を行う」
「許可が下りれば」
「死者が望めば」
倫理官は肩を竦め、去った。
扉が閉まると、部屋の空気が軽くなった。セリナが息を吐く。
「先生。皇女殿下の“診察”……私、同行できますか」
「依頼状に助手の記名がある。君だ」
セリナが目を見開く。
「どうして私なんです」
「今日、君は“祈る”と言った。私は祈らない。だから、ちょうど釣り合う」
セリナの唇が震え、すぐに笑みに変わった。
「祈りは、生者のために」
「そして記録は、死者のために」
窓の外で、雨が途切れ、雲間に薄い光が差す。
ライゼルは術式筒を密封し、鍵を机の引き出しに収めた。机を離れる前に、もう一度、任命書に触れる。紙は重い。紙の重さは、しばしば血の重さに等しい。
明日、皇女の前で、彼は何を見る。
魂視の映像で動いた唇――助けて、と。
たった二語の形が、頭蓋の内側に居座る。表層の疑念は、時間で薄まるだろう。だが骨の冷たさに宿った違和感は、消えない。
夜、解剖棟。最後の点検に戻ると、廊下の灯は半分落ちていた。空の屍台が並ぶ広間に、わずかな人の気配。
「こんな時間に、誰が」
声に出すまでもなく、ライゼルは気づく。
魂視筒の室に、わずかな温度変化。
扉を押すと、暗がりに人影が立っていた。
「――参事官」
振り向いた影は、薄く笑った。
「博士。勤務熱心だな」
「あなたも」
「機器の確認をね。欠落は困る。帝国は、完全を好む」
ライゼルは視線で室内を掃いた。術式筒の封印は無傷。記録棚も乱れはない。だが、空気の層に、触られたあとのようなざらつき。
「完全は、よく嘘の衣を着る」
「詩人めいたことを」
「報告書の一行目の延長だ」
参事官は笑って肩をすくめた。
「明日の殿下の診察、楽しみにしているよ。博士の“見立て”は、帝国の財産だからね」
「死者のものだ」
「明日、生者のものにもなる」
参事官が去る。ライゼルは術式筒の封印をもう一度確かめ、部屋の灯を落とした。
廊下を歩きながら、自問する。
――魂視は真実か。
術は、最期の神経発火の軌跡を拾い、映像に再構成するだけだ。そこに“演出家”がいないと、誰が言える。
だが、死体は嘘をつかない。
その二つは、矛盾するのか。
答えは、まだ出ない。
寮へ戻る途中、裏庭に面した中庭を横切る。医務院の裏庭にも、学院のそれによく似た月白土が敷かれている。雨に洗われ、灯を細かく反射する砂の粒が、美しくも冷たい。
靴底に、砂が少しだけ絡む。彼は立ち止まり、指で一粒を摘んだ。
砂はいつも、真実に近い。無名で、無関心で、記録を積む。
人が書き換えるのは記録で、砂ではない。
彼はその粒を手の平からこぼし、寮のドアを押した。
夜半、雨はやみ、遠くの塔鐘が静かな音を落とした。
ライゼルは簡素なベッドに背を預け、明日の手順を反芻する。診察、問診、触診、体表導管の反応、魔力量の揺れの測定。王城の医務官たちは介入を嫌う。彼らは皇室の健康を守ると同時に、皇室の威信を守る。
威信はしばしば、真実の上に立つ。
あるいは、真実の上に立つふりをする。
彼は眼を閉じ、短く眠り、短く目を覚まし、窓の向こうの気配を聴いた。
遠くの風の音のなかに、微かな声が混ざる。
――助けて。
錯覚だ。
錯覚でないなら、なお悪い。
彼は片手を額に当て、呼吸を四つ数え、また眠りに落ちた。
◇
朝は、冷たく澄んでいた。白い灯が再び息をしている。解剖棟の扉を閉める前に、ライゼルは屍台を振り返った。夜のうちに、ハンナの遺体は清められ、遺族のもとへ送られる準備が整っている。
「さよなら」
彼は誰にともなく言い、灯を落とした。
外に出ると、セリナが待っていた。髪の結び目をいつもよりきつくしている。
「準備、できてます」
「行こう」
二人は医務院の馬車に乗り、宮城へ向かった。坂を上るにつれ、石畳は光を硬く返し、遠くの塔の先に朝の雲が薄く裂ける。
王城の門が開く。衛兵の槍が光り、文官が書類を改める。
任命書は重く、扉は軽い。
扉の向こうにいるのは、生者だ。
彼はそっと手袋を確かめ、ポケットのなかの小さな鍵に指を触れた。魂視の鍵。倫理官と自分の署名でしか開かない。
今日、それが必要になるかは、まだわからない。
だが、確かに聞いた。
――助けて、と。
死者ではなく、生者が。
死体は嘘をつかない。
嘘をつくのは、いつも生者だ。
ならば、生者の嘘をどうやって剥がす。
彼は、朝の空気を胸いっぱいに吸い、馬車の窓から見える白い塔をじっと見た。
塔は、静かに立っている。
真実を知っている者は、いつも静かだ。
第一監察医ライゼル・クロウは、扉へ向かった。
この扉の先で、彼は“生きている皇女”の体に触れる。
命の温度は、嘘をつくだろうか。
それとも、やはり――黙って、真実を置いていくのだろうか。
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