第3話 医療教会の密約
翌朝、帝都の空は濁っていた。
灰のような雲が尖塔の先を覆い、鐘の音は布越しに聞くように鈍い。
帝国医務院の執務室に入ると、机の上に封蝋の付いた公文書が置かれていた。帝国紋章――の下に、もうひとつ、見慣れぬ“聖環の紋”。医療教会の印だ。封を切る前から、祈りではない匂いがした。薬液と鉄、そしてわずかな香。滅菌の香り。
「博士、それ……教会印ですね」
セリナが湯気の立つ茶を盆ごと運び、そっと机に置いた。
ライゼルは封を割り、音読する。
『第一監察医ライゼル・クロウ殿。医療教会本部への出頭を命ず。
件:魂視解剖技術に関する倫理審問。期日、即日。』
「……“即日”か。いつも急だな」
「審問、ですか?」
「おそらく“尋問”だ。だが、行く」
茶の香りが一瞬、鉄臭に変わった気がした。ライゼルは外套を取り、鞄の留め具を確かめる。小型の霊圧計、ルミナ紙、記録帳、携行用の術式筒、そしてセリナが綴る白紙の束。
「聖都アルカディアだ。君も来い。証言者は一人より二人の方が、真実に厚みが出る」
「はい」
◆
帝都の石門をくぐり、馬車道を北へ。冬枯れの草地を風が渡る。空は鈍い鉛色。巡礼の群れが幾つもすれ違い、背に縫い付けた標語が視界を横切る。
〈魂視は神への冒涜〉
〈死は神聖にして不可侵〉
〈導管に触れるな〉
セリナが小さく息を飲んだ。「……こんなに」
「恐怖は感染する。死の匂いより早く、広く。医療はいつも、恐怖の手前で躓く」
「先生は、怖くないんですか」
「怖い。だが、嘘を積み上げる方がもっと怖い」
道中、古い橋を渡るとき、川面から冷気が立ち上る。ライゼルはふと、掌の焼痕に指を当てた。第2話で受けた薄い赤線が、まだ微かに熱を持っている。命の熱だ。死の熱ではない。
セリナが視線で訊く。
「昨夜よりは落ち着いた。……ただ、この熱は“どこか別の生”と糸で結ばれている感覚を残す」
「皇女殿下と、ハンナの……」
「断定はしない。断定は、死体の上でしかしない」
◆
聖都アルカディア。
白金の回廊、光を跳ね返す大理石の床、聖水の池が連なる中庭。すべてが清浄で、すべてが“滅菌”されている。
入口で白衣の修道士に名を告げると、冷たい瞳がこちらを測った。
「第一監察医ライゼル・クロウ殿。神官長セラフィエル様がお待ちです」
「案内を」
「……魂視者に“神の庭”を歩かせるとは」
囁きは祈りではない。善悪を測る枠の音だ。
長い回廊を抜け、聖堂の扉が開く。
中は光ではなく、音に満ちていた。
低く続く聖句、導管波を整える水晶柱の微振動、そして――名前にならない“うなり”。無数の声が重なり、空間そのものが呼吸している。
「博士……聞こえます?」
「ああ。“祈り”の音だ。死者の名を呼び、記憶を撫でる。魂を“集める”装置とみなすなら、完成度が高すぎる」
◆
聖壇の前に座す老神官――セラフィエル。
白髪、銀糸の法衣、眼光は刃のように細い。彼はライゼルを見るなり、笑みを薄くした。
「噂の“死を解剖する医師”か。ようこそ、博士」
「招かれた覚えはありません」
「呼んだのは真実ですよ。我々はそれを確かめたい」
「ならば、どうぞ。死体は嘘をつかない」
老神官の笑みが深まる。
「魂視――素晴らしい技術だ。だが神の奇跡を奪う行為でもある」
「奇跡は法則の隙間に生まれる。法則を学ぶことが罪なら、医療も罪です」
「医療は救い。魂視は“支配”だ」
「違う。私は覗き込まない。耳を澄ますだけだ。最期に残る“痕”へ」
セラフィエルは背後の幕を引いた。
金属と血管を模した導管が絡み合う巨大な器具――人型の“導管像”。
無数の魔石が脈を打ち、淡紅の液が管を流れる。ところどころに刻印。教会式の紋と、帝国標準の計測規格が併記されている。
「これが“再導管儀式装置”です」
「……死者を再び“動かす”装置か」
「動かす? 蘇らせるのです。魂を神の声と同調させ、永遠の器を作る」
「魂移植を神の奇跡と呼び換えた」
「名を変えれば罪は消える。あなたも官庁で学ばれたろう」
セリナが震える。
「そんなことをしたら、死者が泣きます」
セラフィエルは慈愛の微笑を崩さず答えた。
「泣くのは生者の方だ、娘さん。死者はただ従う。従い、救われる」
ライゼルは一歩進み、冷えた声を置く。
「死を聖化するのは結構だ。だが神を盾に実験するな。死体は信仰の証明具ではない」
「博士。あなたは“死を解く者”。我々は“死を越える者”。立場が違うだけだ」
「越えたつもりで、死に追いつけた者はいない」
◆
床下の導管像が低く唸った。
赤い光が床石の隙間を走り、空気が震える。
ライゼルは反射的にセリナの肩を引いた。「下がれ」
耳を裂くような“音”――無数の魂の声が重なり、聖堂全体が呻く。
セリナが膝から崩れ、その手の甲に赤い細紋が浮かぶ。焼痕。ライゼルの掌の焼痕が応答するように熱を持ち、共鳴の脈が跳ねた。
視界が二重に割れた。
泣き、笑い、叫ぶ、無数の顔。
“生きたい”と“もういい”が重なり、波になる。
――裏庭、白い光樹、倒れる少女。黒外套の腕。
――皇女の瞳。
――助けて、ライゼル。
ライゼルは歯を食いしばり、儀式陣の縁に掌を叩き付けた。
「解離式第七項――《断絶》」
白光が爆ぜ、空気が裂け、音が落ちる。
セリナの呼吸が戻った。セラフィエルの口角が、初めてほんの少しだけ下がる。
「……なるほど。あなたの技は神をも拒む」
「神に拒まれたことはない。ただ、死者の代弁をしているだけだ」
「それを人は“傲慢”と呼ぶ」
「沈黙の間は、誰かが口を開くべきだ。私はそれをしている」
◆
審問と称する質疑が続いた。
魂視の原理、記録の方式、倫理審査の手順。ライゼルは事実のみ淡々と述べ、解釈は書面に委ねる姿勢を崩さなかった。
やがて、彼は別室に“保護”の名で拘束された。厚い壁、鉄格子、香の匂い。
扉の向こうで靴音。現れたのは倫理官――カイル。宰相府第四課の若い文官だ。
「博士。危うかった。……だが、あなたは見すぎた」
「見なければ、死者がまた黙らされる」
「黙らせたい者がいる。帝国と教会が“密約”を結んだ。皇女殿下を“神の器”にする契約だ」
「やはり、そこへ行き着いたか」
「“再導管儀式”はそのための装置。殿下の導管に死者の魂を縫い込み、永遠の生命を得る。帝国は神を創ろうとしている」
ライゼルは笑いもしない。
「神を創るつもりなら、まず死を理解しろ。死を知らぬ神は、最も不完全だ」
「あなたが言うと思っていた。……だから忠告する。今夜、逃げてください。私は鍵を落とす。偶然のふりで」
「お前はどちらの側だ」
「真実の側です。あなたと同じ。ただし私は“生き残る”方を選ぶ」
机に鍵が置かれ、若者は去った。鍵の音は、祈りよりも優しかった。
◆
夜半。
聖都の鐘が十一を打つ。
ライゼルは拘束具を外し、静かに扉を開けた。廊下の曲がり角でセリナを抱き起こす。彼女はまだ顔色が悪いが、目は澄んでいる。
「動けるか」
「はい。……わたし、あの“音”の中で、誰かに名前を呼ばれました」
「誰だ」
「“ハンナ”。でも、呼んだのは私自身の声でした」
「記録しろ。後で意味に追いつく」
二人は祭壇裏の扉から外へ出た。冷たい夜気が肺を刺す。
背後で靴音。黒衣の修道士たちが短杖を構え、導管針が光る。
「逃がすな! 神に仇なす魂視者だ!」
ライゼルは片腕でセリナを支え、もう片腕で閃光瓶を投げる。白光が弾け、闇が裂ける。修道士らが目を覆う間に、回廊の影へ身を滑らせた。
掌の焼痕が脈を打つ。血の代わりに、記憶が流れる。ハンナの笑い声。皇女の嗚咽。重なって、遠のき、また近づく。
「まだ、生きている――」誰にともなく呟く。
庭園の壁の陰に潜り、呼吸を整える。セリナが苦笑いした。
「先生、走るの速い」
「死に追われると、誰でも速くなる」
「冗談を言えるなら大丈夫ですね」
「冗談は、境界線の確認だ」
◆
外縁の港に辿り着く。霧の中、小船が一艘。夜明けはまだ遠い。
船頭の老人が無言で手を上げる。銀貨二枚。
板に乗り移る瞬間、背後から矢音。甲板に木屑が跳ねた。
修道士の弓兵だ。
ライゼルは身を丸め、セリナを庇う。二の矢、三の矢――矢羽の擦過音。
老人が太い腕で舵を切り、舟は霧に沈むように滑った。
「すまない」
老人は片目だけ笑った。「死人の使いは、いつも急ぎだ」
水の匂い。湿った冷気。舟のへりを打つ波の音。
セリナが小さく囁く。「帰れるんでしょうか」
「帰る。死者の側に戻る。それが“生きる”ということだ」
「わたし、怖いです」
「怖い方がいい。恐れは、命の証だ」
霧の向こうで、聖都の塔が影のように沈む。
ライゼルは焼けた掌を握り、低く言う。
「死体は嘘をつかない。……だが、神々は嘘をつく」
◆
帝都に戻る道は、行きより長かった。
道中、巡礼の列の間に、噂売りが紛れている。
〈魂視は魂盗り〉
〈皇女は神の器〉
〈医療教会、奇跡の儀式へ〉
言葉は薄い刃だ。触れれば切れる。
医務院に戻ると、上層からの通達が既に着いていた。
〈魂視装置の使用は一時停止。博士の研究室は封鎖〉
封鎖――という語の中に、懲罰と“保護”の両方の匂い。ライゼルは封を破り、壁に立てた。
「先生!」
セリナが駆け込む。「ログが……書き換えられてます。皇女の映像部分が、また」
「削られている。できるからだ」
「どうして、こんな」
「安定のため、という名目で。だが、死体の記録は書き換えられない」
封鎖札のかかった扉を見つめ、鍵束を握る。開かない扉は多い。ならば、書く。
新しい手帳を開き、冒頭に記す。
〈死体は嘘をつかない。嘘をつくのは、いつも生者だ〉
次の行に淡々と事実を書く。皇女の導管痕、夜九刻の発作波形、聖堂の装置、導管像の紋、帝国規格との併記、倫理官カイルの忠告。
そして“推測”を明確に分けて記す。
〈推測:皇女の導管に死者の記憶の“反響”がある。魂移植の前段“再導管儀式”は、教会・宰相府の共同計画〉
◆
夕刻。
王城からの召喚状が届く。
〈殿下の体調再診のため、今夜、城内医務室へ〉
文末の書体に、前回にはなかった震えが混じっている。書き手の手が迷っている。
ライゼルは術式筒を点検し、必要最低限の器具だけを革袋に移した。
「セリナ。城へ行く。――ただし、魂視はしない。診察のみ」
「はい」
王城の医務室。白い灯、静かな床。
アナスタシア皇女は、前より少し痩せていた。それでも姿は整い、気品は微塵も揺らいでいない。
「博士。お戻りになったのね」
「診に来ました」
「わたくし、昨夜“夢”を見ました。聖堂の天井。…いいえ、夢ではないのでしょう?」
「記憶の反響です。貴女の体は“誰かの最期”を繰り返す」
「その“誰か”は、ハンナ」
「名を与えれば、少しだけ楽になる」
触診。導管圧の測定。脈拍の連続読み取り。
夜九刻までまだあるのに、波形は既に浅く乱れていた。
「発作の前兆が早い。城内に“何か”が持ち込まれた」
セリナが窓辺を見て、小さく指差す。
床の端に、青銅の小片――導印片(二型)。教会の刻線ではない。王城式。
ライゼルは手袋越しに拾い、布に包む。
「媒介が置かれている。記憶を“響かせる”目的で」
そのとき、入口に気配。
宰相府の文官が二人、倫理官カイルが一人。
カイルは目で合図し、わずかに首を振った。ここで深入りするな、という合図。
宰相府の文官が淡々と告げる。
「博士。殿下の症状は“疲労と導管疲弊”。記録にもそうある」
「私の記録には、そうない」
「帝国は安定を好む」
「安定は、嘘の衣をよく着る」
皇女が静かに言葉を挟んだ。
「博士、わたくしは怖い。……でも、真実から目を逸らす方が、もっと」
「真実は、往々にして遅れて到着する。遅い真実に間に合うよう、今夜は“声”を静める」
ライゼルは掌を重ね、痛みの流路を探る。導管の谷間に小さな静けさを差し込む――第2話で行った安定化の応用だ。
皇女の呼吸が整う。波形が深い谷へ沈む。
セリナが計測器を見て「落ち着きました」と頷いた。
文官らは視線を交わし、何も言わずに去る。カイルだけが踵を返す前に、短い囁きを落とした。
「“明日”を生かすための今日です」
それは祈りではなかった。約束でもなかった。ただ、生者の言葉だった。
◆
夜。
医務院の宿舎に戻り、灯を絞る。
机の上に、封も印もない封筒が置かれていた。差出人の名はない。中には、王城の簡略図と、塔の最上階へ続く階段の印。そして赤い字で一語。
〈今夜〉
セリナが眉根を寄せる。「罠の匂いがします」
「罠であれば、噛み痕が残る。真実の歯形だ」
「それ、死体の話じゃない」
「生者にも適用できる」
ふたりは灯を消し、静かな夜の城へ向かった。
最上階の手前で立ち止まり、空気を嗅ぐ。
「香」
「香?」
「導管を静める香。教会の配合に似ているが、微妙に違う。王城式だ」
扉に耳を当てる。微かな衣擦れ。
ライゼルは指で三つ数え、静かに押した。
部屋には、赤い外套の男がひとり。フードを外すと、宰相府第四課のカイル――昼の若者。だが目の色が違った。夜を見慣れた人間の目だ。
「遅かったな、博士」
「誰のためにここにいる」
「帝国のために。……そして、あなたのためにも。博士、真実に耐える準備はできているか」
机上に銀皿。蓋を外す。褪せた赤色の欠片。乾いた花弁に似た、導管の断片だった。
「導管片?」
「魂の“衣”のようなものだ。医療教会の保管庫から出た。――ハンナ・イェルクの導管片だ」
部屋の温度がわずかに下がった。
「なぜここに」
「皇女殿下の導管と“再縫合”する計画があった。今は棚上げだ。あなたがいるから。あなたが記録してしまうから」
「私が邪魔だというのか」
「必要でもある。あなたがいなければ、真実は形を持てない」
カイルは皿を包み、窓辺に寄った。
「博士。頼みがある。これを記録してほしい。誰が、何をしようとしていたのか。あなたの最初の一行は、いつか道標になる」
「依頼主は」
「“書けない名前”だ。帝国はいつも二つに見えて、実は三つ以上ある。私は第三の観測者」
「観測者は、いつか観測される」
「そのときは、あなたの記録が武器になる」
足音が近づく。近衛の靴音。
カイルは出窓の細い梯子に足をかけ、振り向かずに言った。
「ここで会ったことは“ない”。失礼」
夜が彼を呑む。
扉が開き、近衛が顔を覗かせた。「博士? こんな時間に」
「夜風が強い。窓を閉めに来た」
◆
戻る道すがら、セリナがぽつりと言う。
「先生、わたし、怖いだけじゃありません。怒ってます。誰かが“祈り”を口実に、死者を使い捨てている」
「怒りは燃料だ。ただし、炎上は治療にならない。火加減を覚えろ」
「はい」
「それでも、祈るか」
「祈ります。生者のために。先生のために」
「ありがたい」
宿舎で灯を点け、ライゼルは手帳を開いた。
〈死体は嘘をつかない。嘘をつくのは、いつも生者だ〉
その下に、導管片(二型)のスケッチ、刻線の相違、王城式儀式具との符合、カイルの言葉。そして、はっきりと一文。
〈皇女を“神の器”とする密約あり。帝国+教会。第三の観測者、介在〉
書き終えると、掌の焼痕が疼いた。痛みは在る。境界の痛みだ。
夜の深いところで、窓の向こうに一瞬だけ人影の気配。息を潜め、過ぎ去る。
◆
明け方、夢を見た。
裏庭。月白土。青い光樹。黒い外套。
注射器の針が、肌へ沈む。
視界が白く、真っ白に――
目を覚ます。胸が跳ね、額に汗。
セリナが椅子でうたた寝していた。毛布が肩から落ちている。ライゼルはそっと掛け直した。
机に向かい、夢の形を言葉にする。
〈夢記録:視点は“彼女”。裏庭の湿度、土の粒径、香の配合。外套の糸のほつれ。針の角度は四十五度。刺入深度は浅。二段階投与の癖〉
事実を積み、推測を区切る。
〈推測:夢は“侵入”でなく“再演”。媒介が近い。王城内に導印片〉
◆
朝。
王城への再召喚。
医務室の窓を開けると、空は薄い白。
アナスタシア皇女はいつも通り整っていたが、瞳の奥に疲労の影。
「博士。夜は、静かだったわ」
「導印片を片付けたからです」
「ありがとう。……博士、あなたは怒っている?」
「怒りは、真実の輪郭を太くする。だが、線が太いだけでは図面にならない。図面にするのが私の仕事だ」
診察。導管圧、脈拍、皮膚温。
セリナが読み上げ、数字を刻む。
皇女は小さな声で言う。
「博士。わたくしの中に、わたくしではない“誰か”の心音が混ざる感覚があります。昨夜、それが遠のいた」
「媒介が外れたからだ。……貴女は貴女だ。混ざりきらない限り、境界は保たれる」
そこへ、医務長グラントが現れた。濁った目は相変わらず、声は穏やかに整えられている。
「博士、城での騒ぎは控えていただきたい。帝国は安定を――」
「安定は嘘の衣を着る。衣を剥いでも、皮膚は残る」
「言葉遊びは詩人に任せなさい。医師なら、静かに治せばいい」
「静かに治せる嘘なら、いくらでも剥がす」
短い火花が散り、グラントは退いた。
皇女が目で「ごめんなさい」と言う。
「謝罪は要らない。謝るべきは別の者たちだ」
◆
昼過ぎ。
医務院に戻ると、研究室封鎖は続いたまま。
にもかかわらず、机の上にまた封筒。
〈返歌〉の文字。中には、王城式の導印片の細密図。刻線の一部が欠けている。
欠けの形は、医療教会の刻線と繋がる。二つを重ねると、ひとつの文様になる。
――帝国と教会、二つの刻線で“1つの儀式”。
セリナが息を呑んだ。「……これ、証拠になりますか」
「“証拠”にはまだ弱い。だが、“記録”には十分だ」
ライゼルは図を手帳に貼り、注釈を添える。
〈刻線合成:帝国規格+教会式=完全儀式紋。第三の手は“重ねる者”。観測者は、重ねられた図形の外側にいる〉
◆
夕刻、医務院の会議室。
上層部と宰相府文官、倫理官。
宰相府の文官が机を指先で叩く。「博士。帝国はあなたを尊重している。だが、秩序が先だ」
「秩序を盾に、どれだけの死が“事故”として処理されてきた」
「言いがかりだ」
「言いがかりで結構。死者の側に立つのが私だ」
倫理官カイルがひとつ咳払いをし、乾いた声で割って入る。
「博士。あなたの記録は残る。……今日のところは、殿下の安定が最優先だ」
ライゼルは短く頷いた。「同意する」
会議は散会。廊下でカイルが立ち止まる。
「博士。私は“第三”だ。あなたが怒ると、私の立ち位置が危うくなる」
「私が怒らなくても、君の立ち位置は危うい」
カイルが笑った。「その通りだ」
◆
夜。
ライゼルは手帳に最後の行を書き足す。
〈補遺:明日、学院裏庭の砂を再度ふるい、導印片の分布と波形残渣を地図化。王城内の導印片は回収予定。教会の“装置”の管路設計を写図する必要あり〉
ペン先を置き、灯を落とす寸前、窓ガラスが小さく鳴った。薄い雨。
掌の焼痕が、雨の冷たさに反応したように、かすかに熱を放つ。
痛みは在る。
境界は在る。
――そして、向こう側から時折、言葉が届く。
助けて、ライゼル。
彼は静かに目を閉じた。
> 「死体は嘘をつかない。嘘をつくのは、いつも生者だ。……なら、私は生者の嘘を剥がし続ける」
夜が深くなり、都市は眠った。
けれど死者の記憶だけは、眠らない。
彼らは黙って、真実を置いていく。
拾う者がいれば――それは、物語になる。
拾う者がいなければ――それは、祈りになる。
ライゼルは眠りにつき、短い夢を見た。
夢の中で、彼は解剖台の白布をそっと折り、静かにこう告げる。
「さあ、語ってくれ」
声は、夜明け前の空の色に溶けた。
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