第五章 第四話

遠足当日。わたしは、彩花を取られたくないという、強迫観念に近い感情に突き動かされ、行きたくない気持ちを押し殺してバスに乗り込んだ。

バスは、窓際にカーテンで区切られたタイプの二人席だった。わたしは、席が埋まってしまう前に、何としてでも彩花の隣を確保しなければいけない。

わたしは、周囲の生徒たちの動向を注意深く観察しながら、彩花が席を決めるのを待った。彩花が窓際の席に座るのを確認すると、わたしは、すかさずその隣の通路側の席へと滑り込む。

「亜矢ちゃん、隣、いいの?やった!」彩花は、屈託なく喜んでくれた。

わたしは、心の中で深く息を吐く。これで、最初の関門は突破した。バスが動き出し、わたしは、シートの背もたれに体を預け、ようやく一息つくことができた。外の景色が、音もなく窓を流れていく。


この二人きりの空間は、一時的に安全だ。彩花という普通にちかいことの象徴が隣にいる。他の生徒は、カーテンと通路を隔てていて遠い。

「これで、遠足の最初だけは、普通の子として過ごせる」

けれど、わたしは、気づいていた。

安心しても、いつもそのあとには、絶望が待っている。

キーホルダーを握りしめている時もそうだった。母子登校の空き教室でホッとした時もそうだった。その「安心」は、必ず、それを打ち砕く「現実」の前触れだった。

このバスもたぶんそうだ。バスに揺られている時間は、わたしにとって「猶予期間」でしかない。バスが止まったら、自由行動になる。

自由行動。それは、「彩花を他の誰かに取られる」可能性が、最も高まる時間だ。わたし達が二人で一緒にいても、他の生徒が「邪魔」だと気づかずに、気軽に割り込んでくるかもしれない。特例校の生徒たちは、人間関係に不器用だからこそ、そのあたりの距離感が、無遠慮なのだ。

わたしは、ポケットの中でキーホルダーを握りしめ、彩花に話しかけるフリをしながらも、頭の中では、「誰が彩花に近づいてくるか」という、監視体制を敷いていた。

そうこう考えているうちに、バスはゆっくりとスピードを落とし始めた。

キィ……というブレーキ音とともに、バスが完全に止まる。

「着いたよ、亜矢ちゃん!」

彩花は、立ち上がりながら、無邪気に言った。

「早く降りよう!わたし、あの建物、早く見たいんだ!」

彩花は、前向きで、行動が早い。わたしは、慌ててシートから飛び降りた。

遅れたら、彩花が取られるかもしれない。

その恐怖が、わたしの全身を支配する。彩花に追いつこうと、わたしは、必死に早足で歩いた。

降りた場所は、古い街並みが保存された観光地だった。生徒たちは、降りるなり、それぞれの興味に惹かれ、散らばり始める。わたしは、彩花の背中を追い、誰にも割り込まれないように、壁のように彩花の隣に寄り添って歩いた。


それでも、わたしは、運が悪い。

わたしが「絶対にこうなってほしくない」と願うことは、必ず現実になる。それは、この十三年間の経験が、わたしに叩き込んだ「人生の不文律」だった。

案の定、その「不文律」は、残酷な形で、わたしに襲いかかった。

わたしと彩花が、資料館の入口に向かって歩いている。少し油断していた。

「あ、彩花」

背後から、少し沈んだような、暗い声が聞こえた。

彩花が振り返る。そこにいたのは、同じクラスの女の子、菜摘なつみだった。

菜摘は、入学当初から、クラスの中では浮いた存在だった。ほとんど誰とも話さず、いつも一人でいる。由季や梨々の排他的な結界にも入れず、美沙のような暗い孤立とも違う、「他者と関わりたいけれど、関わり方がわからない」という、迷子のような雰囲気を纏っている。彼女も、この特例校に来た、やっぱり普通じゃない子だった。

菜摘は、わたしには、ほとんど話しかけたことがない。その菜摘が、彩花の明るさに惹かれたのだと思う。それで、わたしと彩花が二人でいるところに、音もなしに割り込んできた。

「ね、ねえ、彩花。あの、このパンフレットに載っている、岬屋っていう古いお店、一緒に行かない?」

菜摘は、おずおおずと、彩花に話しかけた。

彩花は、その優しさから、菜摘の誘いを無下にはできない。

「あ、うん、いいよ!楽しそうだね!」彩花は、菜摘のパンフレットを覗き込み、にこやかに答えた。

そして、その瞬間。

菜摘は、わたしと彩花の間の、僅かな隙間に、スッと体をねじ込んだ。

彩花と菜摘は、顔を突き合わせるようにしてパンフレットを見て、会話を始めた。わたしは、二人から、明確に空間的に弾き出される。


わたしは、菜摘の背中越しに、彩花の横顔を見つめることしかできなかった。わたしの努力は、一瞬で無かったことにした。

わたしは、三月の最後の旅行で、一人ぼっちの、誰からも必要とされない存在に戻ってしまったのだ。

わたしは、心の中で、菜摘を激しく呪った。そして、「わたしは運が悪い」という、長年の絶望の確信を、改めて強く噛みしめる。わたしは、彩花を失う恐怖と、再び一人になった孤独に、全身を支配されたまま、遠足の街並みを歩き始めた。

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