第四章 第二話

十一月に入ってからの適応指導教室は、わたしにとって、再び「恐怖の空間」へ変貌した。優しかったはずの先生たちは、高圧的で、理不尽に怒鳴り散らす存在になり、わたしは毎日、胃のあたりがキリキリと痛むのを感じながら、登校している。

特に、わたしを追い詰めたのは、キーホルダーに対する執拗な攻撃だった。

「北崎さん、そのキーホルダー、まだ持っているの?」山村先生が、冷たい目でわたしのポケットを見た。

「あのね、亜矢さん。あなたはもう、ここで頑張っているでしょう?いつまでも、そんな『お守り』みたいなものに頼って、どうするんですか!それは、あなたの甘えの象徴よ!いい加減、外して来なさい!」

わたしは、キーホルダーがないと、優子たちの呪いや、前の先生の怒鳴り声が鮮明に蘇り、体が震えてしまう。それは、母に依存を打ち明けて、特別に許可された最後の命綱だった。

「許してください……でも、これがないと……」

「言い訳しない!いつまでも、特別な子でいるつもりなの!ここに来ている他の子たちは、みんな自分で頑張っているのよ!あなたがいつまでもキーホルダーに頼っているから、いつまでも学校に戻れないんじゃないの!」

理不尽な怒鳴り声は、日を追うごとに増えていった。わたしが問題を間違えるたびに、誰かの意見と違うことを言うたびに、先生たちの怒りの矛先は、わたしに向けられる。

それでも、わたしは、歯を食いしばって通い続けた。

「普通に戻る」という、唯一の目標を失いたくなかったからだ。系列中学への進学という、「普通への最後の道」を閉ざしてしまうのが、何よりも怖かった。出席日数を稼ぐため、わたしは、先生たちの理不尽な叱責に耐え、教室の隅で、キーホルダーを握りしめる日々を送った。

十二月、一月、二月と、地獄のような時間が過ぎていった。

そして、三月。進級を目前に控え、進路の最終決定の時期になった。

山村先生と佐々木先生は、わたしと両親の三者面談の場で、恐ろしい「条件」を突きつけてきた。

「北崎さん。来年度、四月からも、この適応指導教室を継続したいというお申し出ですが……」山村先生が、冷たい目でわたしを見る。

「この教室は、あくまで『学校復帰』を目的とした施設です。北崎さんは、この半年、一度も自分の学校の教室に足を踏み入れていませんね」

佐々木先生が、畳み掛けるように言った。

「ですから、来年度もこの教室を続けるためには、三月中に、一度だけ、自分の小学校の教室に登校すること。これが条件になります」

「えっ……!?」母が、絶句した。

「そんな!規則に、そんなことは書かれていませんよ!」父が、怒りを露わにする。

父が正しかった。適応指導教室の規則には、「元の学校への登校」を義務付ける条項は、どこにもない。これは、先生たちの恣意的な「指導」だった。

「規則にはありませんが、これは、指導方針です」山村先生は、表情一つ変えない。

「このまま、元の学校へ戻る意思がない生徒を、無期限にここで受け入れるわけにはいきません。一度、行って、『自分は戻る意思がある』という姿勢を見せることが必要です」

先生二人の冷酷な姿勢は、まるで「あなたは甘えている」と、わたしの努力すべてを否定しているようだった。

父の怒りは、頂点に達する。

「ふざけるな!亜矢がどれだけ苦しんでここに来ていると思っているんだ!規則にないことを、勝手に強要するとは、どういう教育者だ!」

父は、普段は穏やかな人だけれど、キーホルダーを壊された時のように、わたしの安全が脅かされると、静かに激昂した。母も、その父の怒りに便乗するように、声を上げる。

「そうです!もう結構です!これ以上、亜矢を苦しめないでください!こんな理不尽な施設、もう二度と通わせません!」

父と母の抗議の結果、四月からの適応指導教室の継続は、不可能になった。

わたしは、一瞬、絶望した。「普通への最後の道」が、目の前で閉ざされたのだ。わたしは、系列の中学への進学に必要な「出席日数」を、完全に失うことになる。

しかし、両親は、わたしを失意のままにさせなかった。

六年生になった四月。母は、またも奔走した。そして、市と掛け合い、「自宅と適応指導教室以外での、個別指導」という形で、わたしの出席日数を認めてもらう道を探し出したのだ。

「亜矢ちゃん。大丈夫よ。ままが、新しい居場所を見つけたよ」

それは、市内の別の施設にある、会議室だった。

「市が、わたしたちに、その会議室を『学習スペース』として使えるようにしてくれたの。ままが、そこで、あやちゃんと二人で勉強するよ。そうすれば、出席日数は、ちゃんと認められるからね」

再び、「母との二人きりの学習」という、わたしが最も安全だと感じる環境が、整えられた。

わたしは、安堵した。これで、中学への道は繋がった。

しかし、その会議室での生活も、すぐに辛いものへ変わってゆく。

会議室は、殺風景で、誰の気配もない。母と二人きりの空間は、孤独を深くした。そして、この会議室で勉強しているという事実こそが、「わたしは、どの学校にも、どの指導教室にも受け入れられない、特別な不登校児である」という、逃れようのない現実を、毎日突きつけてきた。

わたしは、また、「頑張る意味」を見失った。

母は、わたしを励ますけれど、わたしの心は、すでに疲弊しきっている。

「ママ、もう……お腹が痛い」

五月になった頃。わたしは、また、「腹痛」という嘘を、母に告げた。そして、会議室での学習も、完全にできなくなってしまった。

わたしは、「普通の子」に戻るための、すべての道を、自分の手で、そして他人の悪意によって、閉ざしてしまったのだ。

わたしは、もう、「不登校」という現実から、逃れられなくなっていた。

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