第四章 第三話
五月に入り、わたしは、市内の会議室での母との学習さえも拒否するようになった。わたしは、再び、自室に引きこもり、完全に「不登校」という状態に陥っている。母も、わたしを責めずに、ただ静かに見守るしかなかった。
わたしが六年生に進級してからのこの数ヶ月間、母は、わたしを責める代わりに、わたしを「普通に戻す」ための、新たな道を必死で探していた。
午後。わたしがベッドで膝を抱えていると、母が部屋に入ってきた。その手には、一枚のパンフレットが握られている。
「亜矢ちゃん。ママ、色々と調べて、話を聞いてきたの」
母の表情は、どこか切羽詰まっている。わたしが完全に引きこもってしまった現状に、母自身が耐えられなくなっているのがわかった。
「あのね、もしあやちゃんが今の小学校に戻るのが本当に辛いなら、『特例校』という選択肢があるんだよ」
「とくれいこう……?」
「ええ。不登校の子を受け入れるために、特別にカリキュラムを組んでいる小学校よ。この学年、六年生の今からでも、転校できる可能性があるって言われたのよ」
特例校。それは、「不登校児のための学校」だという。
その言葉を聞いた瞬間、わたしは、胸の中に冷たい石を落とされたような感覚に襲われた。
「不登校児」。それは、わたしが最もなりたくなかった、「普通ではない子」というレッテルを、公に貼られる場所だ。
「特例校なんて、嫌だ」
わたしは、顔を上げずに、強い拒絶の意思を示した。
「そこに行ったら、わたしは、ずっと『普通の子じゃない子』になるんでしょ?みんな、わたしが不登校だったって、知っちゃうんでしょ?」
母は、わたしの拒否反応に、少し顔を曇らせる。
「でも、亜矢ちゃん。ずっとこのまま家にいるよりは、いいでしょう?そこなら、あやちゃんのペースで勉強できるし、同じように傷ついた子たちもいるよ」
「嫌だ!」
わたしは、反射的に母の言葉を遮った。わたしが求めているのは、「傷ついた子たちの中での慰め」ではない。わたしが求めているのは、「普通の子」の群れの中に、紛れ込むことなのだ。
わたしは、自分の心に嘘をつき、母の提案を跳ね返した。
「わたしは、今の小学校の系列中学校に行く」
それは、わたしにとって、唯一残された、「普通への道」だった。形式的にでも、「あの私立小学校から、系列の中学へ進学した子」という肩書きさえ手に入れれば、わたしは、過去のいじめや不登校の事実を、新しい環境で塗りつぶせるかもしれない。
「そうよ。ママも、それが一番いいと思っているわ」母は、すぐにわたしの言葉に同調した。娘が、自分と同じ「体裁」を重んじる道を選んだことに、安堵したのだろう。
しかし、わたしが「系列中学校に行く」と言った言葉は、本心ではなかった。
わたしは、どっちにも行きたくない。
特例校に行って、「普通じゃない道」を進むのは嫌だ。
でも、今の小学校の系列中学校に行くのも、嫌で嫌で仕方がない。
あの学校は、わたしにとって、優子たちの呪いが染み付いた空間だ。前の学校よりも陰湿な先生がいた場所だ。系列の中学に行けば、小学校からの内部進学組の中に、必ず、わたしを「教室に入れなかった子」と知っている生徒がいるだろう。
その生徒は、わたしを「腫れ物」として扱うか、あるいは、「問題児」として嘲笑するか、どちらかだ。どちらにしても、わたしは、新しい環境で「普通の子」として、再びやり直すことはできないだろう。
──それだけじゃない。
系列中学校に進学するためには、「出席日数」という、最大の壁が立ちはだかっていた。わたしは、四年生の三月から、六年生の五月にかけて、ほとんど学校に行けていない。会議室での学習も、もうできていない。
「系列中学校に、受かるかも分からない」
わたしは、母の顔を見た。母は、わたしが「系列中学校に行く」と言ったことで、安心しきっている。母は、系列だから、「自動的に」進学できると思っているのだろう。しかし、私立校である以上、最低限の出席日数や成績は、必ず求められるはずだ。
わたしは、自分で「系列中学に行く」と言いながら、心の中では、その道が「絶望的に困難な、そして、たとえ行けたとしても地獄が待っている道」だと知っていた。
わたしは、自分が追い詰められている状況を、全て理解している。
普通じゃなくなるのが怖い。
系列中学に行くのが怖い。
そして、行きたくても、受からないかもしれない。
わたしは、目の前の母の安心しきった顔を壊すこともできず、ただ、布団の中で、自分の選択と、未来への不安に押しつぶされそうになっていた。わたしには、もう、「普通」という名の逃げ場は、どこにも残されていなかった。
※※※
そして、わたしが最も恐れていた事態が、現実のものとなる。
母が、系列中学への進学の条件を知って、わたしは多分しんがくできないといわれた。
わたしは、最後の希望を失った。系列中学への進学という「普通」の体裁は、わたしから完全に奪われたのだ。わたしに残された道は、母が言う「特例校」、あるいは「公立の中学への進学」。
公立には優子たちがいるから行けない。
つまりわたしに残されたのは「普通の子とは違う道」だけになった。
わたしは、自室のベッドで、キーホルダーを握りしめた。
「わたしは……どうしたらいいんだろう……」
わたしは、もう「普通」に戻るための道筋を、一つも見つけることができなかった。すべての選択肢が、わたしを「普通ではない子」という暗闇へ誘う。
わたしは、泣きながら、母に向かって、絶望的な一言を吐き出した。
「ママ……わたし、もう、普通の子じゃなくていいよ……」
その言葉は、わたしにとっての「敗北」であり、同時に「解放」でもあった。長年、わたしを縛り付けていた「普通への執着」という鎖が、今、ついに千切れたのだ。
しかし、その解放感は、すぐに「これからどう生きていくのか」という、もっと重い絶望に置き換わった。
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