第三章 第三話

三月いっぱいの欠席期間を終え、新しい年度、五年生が始まった。

四月。わたしは、母と二人で、学校へ向かうことになった。約束通り、「別室登校」の始まりだ。

母は、わたしのために、完璧な環境を整えてくれた。母が一緒にいる。そして、教室という悪意の空間には、足を踏み入れなくていい。理論上は、わたしが最も安全で、最も守られている状態のはずだった。

学校の門をくぐり、母と手を繋いで校舎に入った瞬間、わたしの中で、その「安全だという理想」は、音を立てて崩れ去った。

学校という場所は、何も変わっていなかった。

廊下の空気、床を這う冷たい光、聞こえてくる他の生徒たちの楽しそうな、あるいは無関心なざわめき。そのすべてが、わたしの中に、過去の恐怖をフラッシュバックさせた。

「逃げてもムダ。またね。」という優子の呪い。

冷たい目でわたしを拒絶した、莉子と真央の顔。

職員室で、わたしの「命綱」を容赦なく叩き壊した、先生の怒鳴り声。

それらの記憶は、この新しい年度、新しい先生、母の存在をもってしても、微塵も消えることはなかった。わたしの体は、学校という空間全体を、「恐怖と暴力の場所」として認識し、自動的に硬直した。

職員室の隣にある、小さな空き教室。そこが、わたしの新しい居場所だった。

母は、その部屋の机に、わたしの新しい教科書と、文房具を並べてくれた。

「ほら、亜矢ちゃん。ここで、ママと一緒に勉強しましょう。誰も、ここには入ってこないから、安心してね」

母は、穏やかで、優しかった。わたしのために、仕事を休んで付き添ってくれている。その事実に、感謝の気持ちはあったけれど、わたしの胸を占めるのは、感謝よりも、深い恐怖だった。

春休み中に、父と母は、壊されたキーホルダーと全く同じものを、探し出して買ってきてくれた。

その新しいキーホルダーは、ランドセルのファスナーではなく、先生の目線が届かない、服のポケットの中に、大事にしまわれている。

わたしは、勉強中も、そのキーホルダーを強く握りしめた。握りしめていると、確かに心臓のバクバクが、少しだけ落ち着く。

けれど、この新しいキーホルダーは、以前のキーホルダーの代わりには、どうしてもならなかった。

以前のキーホルダーは、「誰にも言えない秘密の依存」だった。わたし一人が、こっそりポケットの中で握りしめ、自分だけの安心感を得ていた。

しかし、この新しいキーホルダーは、違う。これは、「母に依存を打ち明けた結果、特別に許されたキーホルダー」なのだ。

母には、「キーホルダーがないと怖い」という事実を、一度打ち明けてしまった。そして、母はそれを理解し、新しいキーホルダーを買い与えてくれた。

そして、母は、わたしがキーホルダーに依存しているという事実を、職員室の新しい担任の先生にも、全部話した。

わたしが、空き部屋で勉強を始めて数日後。新しい担任の先生が、わたしと母のいる部屋を訪れた。

先生は、静かで、穏やかな女性だった。前の先生のような高圧的な雰囲気は、全くない。

先生は、わたしに向かって、優しい声で言った。

「北崎さん。お母さんから聞きました。キーホルダーのことね。大丈夫ですよ。あなたが安心できるなら、学校にいる間、ポケットの中で握っていても、誰も文句を言いません。あなたが、ここで安心して勉強することが、一番大切ですから」

特別扱い。

わたしは、頭にふっと浮かんだその言葉に、またしても全身の血の気が引くのを感じた。

先生は、わたしを理解してくれた。先生は、わたしに優しかった。そして、わたしの「依存」を、特別に許可してくれた。

けれど、それは、わたしを「普通の子」から、さらに遠ざけるものだった。

他のクラスメートは、不文律の校則に従い、キーホルダーなんて持っていない。でも、わたしは、先生と母の「特別許可」のもとで、ポケットの中にそれを隠し持っている。

わたしは、「キーホルダーがないと登校できない、精神的に不安定な子」というレッテルを、先生と母によって、公に貼られてしまったのだ。

わたしが学校にいるという事実は、母がつきっきりであることと、特別にキーホルダーの所持を許されているという、二重の「特別扱い」の上に成り立っている。

わたしは、完全に、普通の子のレールから外れた。

「キーホルダーを握りしめていること」が、わたしの心をどれだけ落ち着かせても、そのキーホルダーを握りしめていることが、わたしが「普通じゃない」ことの、揺るぎない証拠になってしまった。

わたしは、母の隣で、ドリルを開きながら、ポケットの中で、ガラスの冷たさを感じていた。

キーホルダーがあることは、安心だ。

けれど、キーホルダーがあるから、わたしは普通じゃない。

わたしは、どちらを選んでも、辛いという、絶望的な状況にいるのだ。別室登校は、「安全な檻」ではあったけれど、その檻の中で、わたしは「普通」という光を、ほとんど永遠に失ってしまったことを、痛感していた。

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