第三章 第二話
約束の月曜日が来た。
朝、目覚めても、わたしの腹痛は治っていなかった。いや、正確には、「学校に行かなければならない」という精神的な重圧が、物理的な痛みを、さらに増幅させている。
「うう……いた、い……」
わたしは、布団の中で小さく呻いた。
母が、わたしの部屋に入ってくる。母の顔には、昨日までの「優しい母」の仮面と、期限を破られるかもしれないことへの「苛立ち」が、半々に混ざり合っていた。
「亜矢ちゃん。今日は、月曜日よ。約束したでしょ。腹痛なんて、気の持ちようだよ。起きて」
母の言葉は、冷たかった。わかっている。わたしが約束を破れば、母はたちまちヒステリーの支配者に戻る。その恐怖に、わたしは耐えられなかった。
「……うん」
わたしは、重い体を引きずって布団から出た。顔を洗っている間も、お腹の奥がキリキリと痛む。学校が怖い。高圧的な先生も、裏切った友達の事も、そこにはいないけれど学校にいると思い出す優子たちの呪いも。
その全部が、教室でわたしを待ち構えている。
制服に着替える。ブレザーが、まるで「逃げ場のない檻」の鉄格子のように、重く感じられた。
母に行くことをいって、家を出た。母は、わたしが約束通り学校に行くことに、満足したように頷いている。
家を出て、最寄りの駅から電車に乗った。いつも通り、乗り換え駅で別の路線に乗り換えないといけない。
電車を降り、乗り換えのためのホームを歩いていると、急に足元がふらついた。
もう、行けない。
体が、完全に拒否反応を起こしている。これ以上、あの学校という悪意の集合体へ向かうことはできないきがした。足の裏が、コンクリートの床に、張り付いてしまったように、急激に進む速度が遅くなる。
頭の中で何かが叫んでいる。頭が割れるように痛い。視界が明滅する。
わたしの背後から、人がざわめきながら通り過ぎていった。わたしは、立っているのもやっとで、全身から冷や汗が吹き出てくる。
「だめだ……このままじゃ、倒れる……」
わたしは、ホームのベンチに座り込むことすらできず、壁にもたれかかった。体が、鉛のように重い。
その時、近くを通りかかった、制服を着た駅員さんの姿が、わたしの目に飛び込んできた。
わたしは、最後の力を振り絞って、その駅員さんに、助けを求める
「あの………」
わたしの声は、細く、掠れていた。駅員さんが、不審に思って立ち止まり、わたしの顔を覗き込んだ。
「お客さん、どうされましたか?顔色がものすごく悪いですよ」
「学校に……行けないんです……。怖くて……。倒れそうで……」
わたしの口から出たのは、「腹痛」ではなく、心の底から湧き出た「恐怖」だった。もう、嘘をつく余裕もない。
駅員さんは、わたしの尋常ではない様子に、すぐに気づいたようだ。
「わかりました。無理しなくていいですよ。ここに座りましょう」
わたしは、駅員さんに支えられ、ベンチに座り込んだ。駅員さんは、すぐに無線で連絡を取り、別の駅員さんが、わたしのために温かいお茶を持ってきてくれた。
「お母様か、どなたかに、連絡しますか?」
わたしは、震える手で、家の番号を伝えた。駅員さんが、公衆電話から母に連絡を取ってくれた。
「はい、お母様。娘さんが、大庭東駅で、体調を崩されています。精神的なショックが大きいようで……」
「精神的なショック」。駅員さんが、正確にわたしの状態を理解してくれたことに、わたしは涙が溢れた。
三十分後、焦った様子の母が、駅に駆けつけてきた。
「亜矢ちゃん!大丈夫!?」
母は、わたしを抱きしめた。その顔には、怒りの色はなかった。わたしが倒れそうになるまで、無理をして家を出たことを、理解してくれたようだった。
駅員さんに、丁寧に頭を下げて謝罪した後、母はわたしを車に乗せた。車が走り出してから、母は静かに、わたしに尋ねる。
「亜矢ちゃん。何があったの。なんで、突然、学校に行けなくなったの?」
母の声は、優しかった。わたしが、もう、「腹痛」という嘘では、母を納得させられないことを知っている。
わたしは、一週間前のキーホルダーの件以来、ずっと胸に秘めていた「依存」の事実を、話さなければならないと思った。
この優しさが、怒りに変わるのが怖くて仕方がなかったけれど、話さないと、永遠にこの地獄から抜け出せない。
「ママ……あのね……」
わたしは、言葉を選びながら、絞り出した。
「あのキーホルダーね……あれ、パパが買ってくれたからとか、そういうことじゃなくて……わたし、あれがないと、怖くて仕方がなかったの」
「怖かったって……どういうこと?」
「優子たちの呪いみたいな言葉とか、先生の怒鳴り声とか、ひとりでいると、全部聞こえてくるみたいで……あのキーホルダーを握りしめていると、誰か優しい人が手を握ってくれている気がして、それが一つだけの安心だったの。だから、先生に壊されて、もう、どうしていいか分からなくて……」
わたしは、「依存していた惨めさ」と、「それが唯一の命綱だったという辛さ」を、涙ながらに話した。話している間、母の顔は、驚きと、悲しみと、そして「娘がそこまで追い詰められていた」という、動揺で固まっていた。
わたしは、怒られることを覚悟した。
「いつまでもそんなものに依存して!子供のくせに!」と、怒鳴られることを。
しかし、母は、わたしを怒らなかった。
車を路肩に停め、わたしを強く抱きしめた。
「ゆるして、亜矢ちゃん。ママ、気づいてあげられなくて、本当に申し訳ないと思ってる。」
母の声は、心から、わたしを理解してくれた、温かい声だった。わたしは、「誰にもわかってもらえない」という孤独から、一瞬だけ解放された気がして、安堵する。
その夜、母は父と話し合い、わたしの今後のことについて決断した。
翌日、母は、わたしに穏やかな顔で告げた。
「亜矢ちゃん。もう、無理しなくていいよ。学校には、ママから連絡したよ。三月いっぱいは、お休みしていいからね。心を、ゆっくり休ませるのよ」
そして、母は、わたしに、さらに「普通」から離れた、それでも「安全」な道を示した。
「四月から、あなたは五年生になるでしょう。そのタイミングで、担任の先生も変わる。だから、四月からは、『別室登校』にしよう」
「別室登校?」
「そう。教室には行かなくていいよ。ママが、学校の職員室の近くの空き部屋で、亜矢ちゃんとずっと一緒にいる。そこで、二人で勉強すればいい。新しい先生に、あなたがどんな子か、ゆっくりと理解してもらうのよ」
母は、わたしが最も恐れていた「孤独」と「恐怖」を、完全に排除する道を選んでくれた。
わたしは、再び「普通の子」の道から大きく外れることに、寂しさを感じたけれど、それ以上に、母がわたしを守ってくれるという、絶対的な安心感に包まれた。
優子たちの呪い、先生の怒鳴り声、そして孤独。それらは、母との別室登校という、「二人だけの世界」の中では、届かない場所にあるのだ。
わたしは、頷いた。
「うん。わかった。ママ」
わたしにとって、それは、「敗北」ではあったけれど、「生存」のための、唯一の選択だった。
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