第三章 第四話
四月の別室登校は、何事もなく過ぎた。母は、空き部屋でずっとわたしに寄り添い、静かに勉強を教えてくれた。その物理的な安全は、わたしにとっては、嵐の前の静寂のようで怖かった。しかし、その静寂の中で、「わたしは普通じゃない」という事実の重さだけが、ひたすら増してゆく。
そして、五月になった。
空き部屋の窓から見える、校庭の緑が濃くなり始めた頃、母は、いつものドリルを片付けながら、わたしにそっと提案した。
「亜矢ちゃん。少しずつでいいよ。五年生になって、もう一ヶ月経つでしょ?」
母は、わたしの目をまっすぐに見つめた。母の視線は、穏やかで、強制するような圧力はない。
「このクラスの新しい担任の先生は、とてもいい先生よ。あなたのことも、理解してくれてる。だからね……ちょっとずつ、授業に出てみるのはどうかな?」
「授業に……」
わたしの体が硬直した。空き部屋は、安全だ。しかし、教室は、優子たちの嘲笑、前の先生の怒鳴り声が染み付いた、「恐怖の空間」だ。
「怖い……」
正直な気持ちが、喉の奥まで込み上げたけれど、母の次の言葉が、わたしの口を閉ざす。
「もちろん、強制じゃないよ。無理しないでいいの。でもね、亜矢ちゃん。あやちゃんも心配してたけどずっとこの部屋にいると、せっかく先生が変わったのに、どんどん普通の子の生活から離れて行っちゃうよ。そうでしょ?」
普通の子の生活から離れていってしまう。
その言葉は、わたしにとって、キーホルダーを壊された時と同じくらい、致命的なものだった。わたしが何よりも恐れているのは、優子たちのいじめや、先生の怒鳴り声よりも、「普通ではない子」として、社会から永久に弾き出されることなのだ。
母は、わたしを心配しているのだろう。わたしが「普通」のレールから外れることで、母自身が「問題児の親」と見なされるのを恐れている、そんなふうにも取れた。
わたしは、母の期待を裏切りたくなかった。そして、これ以上、普通から脱線するのが怖くて仕方がない。
「……うん。わかった。出る」
わたしは、心に大きな嘘をつきながら、頷いた。母は、満足そうに微笑む。その笑顔は、わたしを褒めているのではなく、「よくぞ、わたしの望む道を選んでくれた」と、自分自身を褒めているようにもみえた。
翌日。
母は、新しい担任の先生に事情を説明し、わたしは、五時間目の算数の授業に、参加することになった。
授業開始の五分前。母と担任の先生に連れられ、わたしはクラスの教室のドアの前に立つ。教室の中からは、生徒たちの、普通のざわめきが聞こえてくる。
先生が、静かにドアを開けた。そして、わたしは、三ヶ月ぶりにクラスメートのいる教室に足を踏み入れた。
教室全体が、シン、と静まり返る。
わたしは、頭を下げることしかできなかった。全身から、冷や汗が噴き出す。優子たちの教室ではない。この学校の教室だ。それでも、恐怖で足が震える。ポケットの中のキーホルダーを、力いっぱい握りしめた。
先生が、教壇に立ち、穏やかな声で言った。
「みんな、北崎さんが、今日から少しずつ授業に参加してくれることになりました。先生から、みんなにお願いがあります」
先生は、わたしをちらりと見てから、クラス全体に強く言った。
「みんな、北崎さんのことを、ジロジロ見たり、異物のように扱ったりしないようにしてね。それと、むかしのことを詮索したり、腫れ物に触るような態度も、絶対に取らないでください。普通のクラスメートとして、自然に接しましょう。いいですね」
先生は、わたしのために、完璧な「防御壁」を築いてくれた。
クラスメートたちは、先生の言葉に頷いた。わたしは、少しだけ安堵した。これで、みんな、わたしを普通に受け入れてくれるだろうか。
わたしは、教室の後ろの空いている席に、静かに座る。母は、教室の外の廊下で、わたしを待っている。
授業が始まった。
しかし、わたしが座った瞬間から、その場の空気は、不自然な緊張に満ちていた。
先生は、わたしを庇うために「ジロジロ見ないように」と指導した。けれど、その指導自体が、わたしを「特別に見てはいけない異物」として、クラス全員に認識させてしまったのだ。
誰もわたしを「ジロジロ」見なかった。しかし、それは、「見てはいけないもの」として、意識的に視線を避けていることを意味する。
わたしは、肌で感じた。生徒たちが、わたしがいる方向を向かないように、不自然に首を傾げているのを。わたしがいる側の空間だけ、空気が冷たく、密度が薄くなっているのを。
わたしが、先生に問題を当てられて答える。その時、教室が一瞬、静まり返る。わたしが、鉛筆を落として拾う。その音に、何人かがビクッと肩を震わせる。
誰も、わたしをいじめようとはしていない。むしろ、みんな、先生の指導を真面目に守ろうと、最大限に気を遣っているのだ。
しかし、その「気を遣われている」という事実は、わたしにとって、優子たちにいじめられているのと同じくらいずっと辛かった。
腫れ物に触るような態度。
先生は、「腫れ物に触るような態度を取るな」と言ったけれど、生徒たちは、わたしを「触れたら破裂する、繊細なもの」として扱っていた。わたしがここにいるだけで、クラス全体の呼吸が浅くなっているのがわかった。
わたしは、この教室で、空気のように存在を消すことすら、許されていない。わたしは、クラスの平和を乱す、「異物」なのだ。
わたしがここにいる限り、この教室は、「普通」には戻れない。
わたしは、授業の内容なんて、全く頭に入ってこなかった。ポケットの中でキーホルダーを握りしめ、冷や汗を流しながら、「早く、この時間が終わってほしい」と、ただそれだけを願った。
授業が終わると、わたしは、一秒でも早く、この異質な空気を逃れたくて、誰にも声をかけずに、教室を飛び出した。
廊下で待っていた母の顔を見た瞬間、わたしは、もう二度と、この教室には戻りたくないと、強く思う。
普通になりたかった。でも、授業に参加した結果、わたしは、「普通の子たちの空間に、無理やりねじ込まれた、修復不可能な異物」であることを、痛感しただけだった。
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