第三章
第三章 第一話
キーホルダーを壊されてから、わたしの心は完全に折れてしまった。先生の暴力的で高圧的な行動は、前の学校での教頭先生の怒鳴り声や、優子たちの嘲笑をすべて結びつけ、わたしを「どこへ行っても、大人の権力と悪意から逃れられない」という、絶対的な絶望へ突き落とした。
その三日後、月曜日。
目覚めると、胃のあたりが、ずっしりと重かった。起き上がろうとすると、その重さが、少しだけ鋭い痛みに変わる。
「……いたい」
心の中で呟いた瞬間、わたしは、その「痛み」を、掴まなければならない「救命具」のように感じた。
学校に行かなくて済む。
この痛みがあれば、母はわたしを責めずに、休ませてくれるかもしれない。教室の冷たい空気、先生の怒鳴り声、真央と沙織の憎悪に満ちた視線から、逃れることができる。
わたしは、布団の中で、痛みをわざと意識に集中させた。心理的な恐怖が、身体的な症状になって現れているのだろう。その痛みは、偽物ではない。けれど、わたしは、その痛みを最大限に利用することに決めた。
母が朝食の準備をする音が聞こえてくる。わたしは、布団を深く被り、声を殺して呻いた。
母が、わたしの部屋に入ってくる。
「亜矢ちゃん、朝ごはんだよ。早く起きてね」
「……うう、ママ」
わたしは、布団から顔を出し、顔を歪めて、腹部を押さえた。
「お腹が、痛い……」
母は、すぐにわたしの表情の変化に気づいた。昨日のキーホルダーの件で、母はまだ「優しい母」の仮面を被っている最中だ。母の顔には、すぐに心配そうな色が浮かんだ。
「お腹?どこが痛いの?」
「ここ……」わたしは、胃の辺りを指差しながら、痛みをオーバーに表現した。実際よりも、もっと酷く顔を歪ませ、涙を滲ませた。
「なんか、昨日の夜から、ずっとキリキリするの。立つのも、ちょっと辛い……」
「そう……」母は、わたしの顔色と、押さえている場所を確認した。「ちょっと触らせてみて」
母が、そっとわたしのお腹に触れた。
「……うん。熱はないよね。でも、顔色が良くないね。昨日のことで、よっぽどストレスが溜まったのね」
母は、「キーホルダーを壊されたストレス」という、原因をすぐに結びつけた。わたしが「キーホルダーに依存していた」という本質的な原因を隠蔽しているおかげで、母は、「娘を傷つけた学校が悪い」という、自分の正義の枠の中で、わたしを庇うことができるのだ。
「仕方ないね。今日は、学校を休もうね。あんな先生の顔、今日また見たら、もっと悪化するよね」
母の言葉に、わたしは、心の中で深く安堵した。成功だ。
「ママ……」
わたしは、母に抱きつきそうになる衝動を抑え、あくまで病人としての演技を続けた。
その日から、わたしの腹痛を利用した欠席が始まった。
火曜日。朝起きると、わたしは昨日と同じように、腹痛を訴える。
「ママ……やっぱり、今日も治ってないみたい。ちょっと、吐きそう……」
水曜日。今度は、「昨日の夜、痛くて眠れなかった」という、時間差の症状を訴えた。
わたしは、もう、学校に行くことが怖いのだ。
それは、先生の怒鳴り声だけではない。優子たちの呪い、萌子たちからの拒絶、莉子の冷たい目、真央と沙織の裏切り。そして、そのすべてを、親にも先生にも、誰にも理解してもらえないという、絶対的な孤独。
学校という場所は、わたしにとって、「悪意と拒絶の集合体」になってしまった。前の学校も、今の学校も。
「わたしは、この場所で、もう二度と安全に過ごすことはできない」
その思いが、わたしの全身を支配していた。だから、腹痛は、わたしにとって、唯一の「生存戦略」だった。
母は、初めのうちはわたしを心配し、家でゆっくり休ませてくれた。けれど、欠席が三日、四日と続くと、母の中の「優しい母」の仮面が、少しずつ、ずり落ち始めた。
金曜日。
「亜矢ちゃん。もう、四日目よ。そんなに長引くなら、病院に行こう。でも、本当に大したことないんでしょ?単に、学校が嫌なだけなんじゃないの?」
母の声に、苛立ちが混じった。
わたしは、布団の中で、ギュッと身を硬くした。この質問が、一番怖い。
「ち、違うよ!本当に痛いの。でも、病院に行くのは、怖い。注射とか……」
わたしは、子供らしい「注射が怖い」という言い訳を使い、病院行きを拒否した。病院に行って、「異常なし」と診断されたら、わたしの唯一の逃げ場が塞がれてしまう。
「学校が怖い」という、本質的な理由は、絶対に言えない。それを言ったら、母は必ずヒステリーを起こす。
「あの学校は前よりマシでしょ?すぐに慣れるでしょ!また逃げるつもり!?」と、わたしを責めるかもしれない。
わたしは、布団の中で、腹痛の場所を、さらに強く押さえつけた。痛みを作り出すのではない。痛みを増幅させるのだ。
「うう……いた、い……ママ、今日は、休ませて……。お願い」
わたしは、涙を滲ませて、必死に母に懇願した。
母は、しばらく無言で、わたしを見下ろしている。母の目は、疑念と、諦めと、そして「また、この子は私に手間をかけさせるのか」という、うんざりした色を帯びていた。
「……わかった。今日までだよ。来週の月曜日からは、何があっても行ってね。これ以上休んだら、進学に響くよ。系列の中学に行くんでしょ?いい、亜矢」
母は、そう言って、部屋を出て行った。
わたしは、母の言葉に、安堵の息を漏らしながらも、来週の月曜日という「期限」を突きつけられたことに、新たな恐怖を感じた。
「来週の月曜日……」
わたしは、ベッドの上で、膝を抱え込んだ。わたしは、もう、あの学校に行きたくない。学校が怖い。
優子たちの呪いが届かない場所に行きたい。大人の権力に怯えなくて済む場所にいたい。誰にも裏切られない場所が欲しい。
わたしは、身体の痛みを利用して、一時的な安寧を手に入れたけれど、その代償として、「嘘つき」という罪悪感と、「いつかバレる」という、さらなる恐怖に苛まれ続けていた。
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