第二章 第七話


先生に「嘘の悪行」をでっち上げられて怒鳴られて以来、わたしの心は、さらに深く、暗闇に沈んでいった。真央と沙織の友達という、僅かな居場所さえ失い、わたしは教室の中で、完全に孤立した。わたしを責める先生の怒鳴り声と、優子たちの嘲笑、真央と沙織の冷たい裏切りが、わたしの頭の中で、昼か夜か関係なく木霊し続けた。

そんなわたしを支えていたのは、キーホルダーだった。

わたしが転校する前に、父が買ってくれた、小さくて、丸い、ガラス製のキーホルダー。中には、薄いピンク色の小さな花が閉じ込められている。

わたしは、そのキーホルダーを、ランドセルのファスナーに付けていた。けれど、先生に怒鳴られてからは、ランドセルに付けるのが怖くなり、常にポケットの中で、強く握りしめるようになった。キーホルダーの冷たい感触が、手のひらにあると、なぜか安心できた。まるで、誰か優しい大人が、わたしの手を握ってくれているような気がしたのだ。

わたしの学校には、明文化されていないけれど、「派手な装飾品禁止」という、先生たちの気分次第で適用される、不文律の校則がある。一回、わたしがポケットからキーホルダーを握りしめているのが見つかり、先生に「こんなもの、すぐに外しなさい!」と怒鳴られたことがあった。

それでも、わたしはキーホルダーを手放せなかった。キーホルダーがないと、優子たちの呪いに、先生の怒鳴り声に、押しつぶされてしまうような気がして、怖くて仕方がなかった。それはわたしにとって、お守りなんて言う無くても平気なものではなくて、命綱で、依存の対象になっていた。

二月になり、冬の寒さが身に染みる頃。学校に来るのが、ますます憂鬱になっていた。

そして、その日は突然やってきた。


二月二十二日。


放課後。わたしは、誰にも見つからないように、キーホルダーをポケットにしまいながら教室を出ようとする。

「北崎さん、ちょっと来なさい」

担任の先生が、わたしの名前を、高圧的な声で呼んだ。

わたしは、心臓が飛び出るかと思った。何をしたのだろう。また真央か沙織が、わたしについて嘘の告げ口をしたのだろうか。

先生に促され、わたしは職員室へ向かう。

職員室に入るやいなや、先生は、わたしのポケットを指差した。

「あなた、持ってるでしょ?その不健全なものを、出しなさい」

「……何のことですか」わたしは、とっさに嘘をついた。

先生は、わたしの言葉を無視して、一歩踏み込んできた。

「嘘をつきなさい。あなた、休み時間もずっと、ポケットを握りしめているでしょう。出さないと、強制的に出すことになりますよ」

わたしは、逃げられなかった。先生の、すべてを見透かしたような、冷たい目が怖かった。わたしは、ゆっくりと、ポケットからガラスのキーホルダーを取り出した。

先生は、キーホルダーをわたしから乱暴にひったくる。

「これです!これが、あなたのきもちを不安定にさせています!こんなものに頼って、どうするんですか!あなたはもう、小学生でしょう!大人になりなさい!」

先生は、キーホルダーをわたしの手の届かないところに掲げた。

「返してください!それは、わたしの……!」

「ダメです!こんなものがあるから、あなたはいつまでも甘えて、問題行動を起こすんです!」

先生は、次の瞬間、わたしが止める間もなく、キーホルダーを、目の前の重いデスクの角に、叩きつけた。

キンッ、バリン!

鋭い、ガラスが割れる音が、職員室に響き渡った。

キーホルダーは、原型を留めず、粉々に砕け散る。中のピンク色の小さな花は、砕けたガラス片にまみれて、先生のデスクの上に散乱した。

「……」

わたしは、声が出なかった。

わたしの全身を支えていた、最後の「命綱」が、目の前で、暴力的に破壊された。

先生は、砕けたガラス片を一瞥すると、冷たい声で言う。

「これで、もう安心ですね。あなたは、もう、どこにも頼れませんよ。これからは、自分の力で立ちなさい。いいですね」

そして、わたしを廊下に突き出した。

「もう帰りなさい。二度と、こんな馬鹿げたものに依存しないように」

わたしは、足元が崩れ落ちるような絶望を感じながら、学校を出た。冷たい冬の風が、わたしの涙を乾かしていったけれど、心の底から湧き出る虚無感は、拭い去れない。

「もう、何も、ない」

優子たちの呪い、母のヒステリー、先生の怒鳴り声。そのぜんぶから、わたしを守ってくれるはずの、最後の砦が壊された。

普段使っている最寄りの駅から、電車に滑り込む。


しかし、乗り換え駅のホームで、立ち止まってしまった。

もう、一人で帰れない。

このまま家に帰ったら、母にキーホルダーのことを聞かれるかもしれない。母は、わたしがキーホルダーに依存していたことを知ったら、きっと「そんなことで悩むなんて、馬鹿な子だ」と、ヒステリーを起こすかもしれない。

わたしは、改札を出て、ホームから離れた場所にある、古びた公衆電話の前に立ち尽くした。

震える手で、硬貨を入れ、家の番号を押す。

「もしもし……ママ?」

「亜矢ちゃん?どうしたの、もう家に着く頃でしょう?」

母の声は、まだ穏やかだった。わたしは、この穏やかな声を、壊したくなかった。

「あのね……今日、先生に……キーホルダーを壊されちゃった」

「キーホルダー?あの、パパが買ってくれた?」母の声が、少し険しくなった。

「うん……職員室で、怒鳴られて、無理やり……」

そこまで話すのが、精一杯だった。先生にキーホルダーを壊された恐怖、そして、それがわたしの唯一の拠り所だったという、依存していた惨めな事実。その辛い気持ちは、どうしても母に話せなかった。

「わかった。そこにいてね。すぐに迎えに行くから。どこの駅?」

母は、怒り出すことなく、迎えに来てくれると言った。安堵と、言葉にできない孤独感に襲われる。

三十分後、母が車で迎えに来てくれた。車に乗ると、母はわたしの震える手を握りしめる。

「怖かったでしょう。もう大丈夫よ。あんな、人のものを勝手に壊すなんて、教育者として失格よ!ママが、明日、学校に電話してやるから!」

母は、「先生が人のものを壊した」という、社会的なマナー違反と、「自分の娘の持ち物を粗末に扱った」という点で怒っていた。母の怒りのベクトルは、いつも通り、わたしを苦しめている本質的な原因とは、かけ離れている。

母は、わたしを優しく慰めてくれた。キーホルダーは、また新しいものを買ってくれると言ってくれた。

けれど、わたしは、その優しさに、感謝することが出来ない。新しいキーホルダーを買ってもらっても、あれとは違う。

あの光景は消えない。

「ママ、わたしはね、あのキーホルダーがないと、優子たちの声が聞こえてくるみたいで、怖かったの。あのキーホルダーに、依存してたの。だから、壊されて、もう生きているのが辛い」

この、心の底からの叫びは、最後まで、母には伝えられなかった。

わたしが、キーホルダーに依存していたという惨めな事実を話したら、母は必ずわたしを「精神的に弱い子」と見なし、優しさを剥ぎ取り、怒鳴りつけるておもう。

わたしは、母の優しい仮面を、壊すことができなかった。その結果、わたしは、「誰にも理解されない孤独」という、冷たい海の中で、一人で漂い続けることになった。

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