第二章 第五話

新しい学校での日々が過ぎ、わたしは仮面を貼り付けたまま、「普通じゃない」友達との関係を維持しようと必死だった。

体調不良でよく休む真央まおと、家が飛び抜けて裕福で少し浮いている莉子りのこ、それからわたしと同じように暗い過去を隠して無理に明るく振る舞う沙織さおり。わたしたち三人は、いつからか、教室の隅で固まって過ごすようになった。それは、「普通の子たち」の輪から、少しだけ距離を置いた、不確かな居場所だった。


放課後。

いつものように、莉子りのこと三人で昇降口へ向かおうとした時、莉子が、急に立ち止まった。

「あ、今日、わたし、用事があるから」

莉子は、わたしと沙織に向かって、そう言い放った。その声は、ふだんの、少しおっとりとした声とは違い、明確に冷たかった。

「え?用事って、何?一緒に帰らないの?」

わたしは、思わず尋ねた。

莉子は、わたしと目を合わせようとせず、バッグのストラップを握りしめたまま言う。

「うん。なんか、ちょっと、今日はいいや」

「いいや」という言葉は、わたしを拒絶している本音を晒していた。わたしは、胸の奥が冷たくなっゆくのを感じる。

「そっか。じゃあ、また明日ね」

沙織が、すぐに空気を察して、明るく言った。沙織のその対応は、「これ以上、深入りしてはいけない」という、暗黙のルールを理解しているようだ。

莉子は、わたしたちを一瞥すると、そのままスタスタと、一人で昇降口を出て行ってしまった。

残されたわたしは、その場に立ち尽くすしかなかった。胸の中に広がるのは、寂しさではない。それは、「見捨てられた」という絶望にかんじた。

「どうして……?わたし、何かしたのかな?」

わたしは、隣にいる沙織に、縋るように尋ねた。

沙織は、いつも通りの、明るい笑顔を貼り付けたまま、わたしに答える。

「大丈夫だよ、亜矢ちゃん。莉子、いつもあんな感じだよ。気分屋なんだから、気にしなくていいって」

その言葉に、わたしは、一瞬だけ安堵した。しかし、沙織は、わたしにさらに顔を近づけると、さっきまでの「明るい仮面」の下に隠された、冷たい目をしてわたしをみる。

そして、小声で、冷徹な一言を囁いた。

「……でもね、亜矢ちゃん。正直、莉子、亜矢ちゃんのことは嫌ってるよ」

「え……?」

頭が、真っ白になった。まるで、背後から鈍器で殴られたような衝撃だった。

「なんで、そんなこと言うの……?」

わたしの声は、震えている。

沙織は、肩をすくめた。その表情は、どこか楽しんでいるようにも見えた。

「だって、見てればわかるじゃん。亜矢ちゃんってさ、いくら明るく振る舞っても、なんか影があるんだもん。それに、莉子ちゃんって、ああ見えて、自分の周りが普通じゃないと、嫌なんだよ」

沙織の言葉は、優子の嘲笑よりも、深くわたしを貫いた。沙織も、わたしと同じように「暗さ」を隠して「明るい振り」をしている子なのに、その沙織に、わたしは「暗い」と指摘されたのだ。

「わたし……わたしは、普通じゃないから……」

わたしは、そう呟いた。沙織は、フン、と鼻で笑った。

「みんな、いろいろあるよ。でも、亜矢ちゃんは、わたしたち以上に普通じゃないんだよ。それが、莉子には、ちょっと重すぎたんだと思う」

沙織は、そう言って、わたしの背中をポンと叩いた。その叩き方は、励ましではなく、「亜矢ちゃんは、わたしたちの中でも最下層だ」と突きつけるような、冷たい確認だった。

わたしは、絶望した。わたしは、「普通じゃない子」の群れの中でさえ、「一番普通じゃない子」なのだ。

家までの帰り道、わたしは、沙織の言葉と、莉子の冷たい態度が、頭の中でぐるぐると回っていた。わたしは、どこへ行っても、誰からも、「異質なもの」として弾き出されてしまう。


わたしは、自分の部屋のベッドで、毛布をかぶっていた。六月の転校から、もう半年近く経つ。クラスの友達は皆自分の部屋で一人で寝ている。それは、この学校に来て、わたしが知った「普通」の一つだ。

けれど、わたしは、自分の部屋で一人で寝るのが、怖くて仕方がなかった。

優子と美香の呪いの言葉が、暗闇の中で、はっきりと聞こえてくる気がする。


「逃げてもムダ。またね。」


それに、わたしは、一人になると、自分が「普通じゃない」という事実を、直視してしまう気がした。一人でいると、わたしを責める教頭先生や、嘲笑する優子、そしてわたしを拒絶する莉子の幻影が、部屋の隅に浮かび上がってくる。

今日からわたしは一人で寝ることにしていたのに、できない。

わたしは、意を決して、両親の寝室のドアをノックした。

「ママ、パパ……」

母が、電気をつけた。

「どうしたの、亜矢ちゃん。一人で寝たいって言ったよね。一人で寝なさい」

母は、迷惑そうな顔をした。母の優しい仮面が、剥がれ落ちそうになるのを、わたしは察した。

「でも、今日だけ……今日だけ、一緒に寝たいの。どうしても、一人だと、怖くて」

わたしは、ほとんど泣きそうな声で訴えた。

母は、諦めたようにため息をつく。

「はあ……もう。仕方ないか……約束したのに」

母はそう言いながら、ベッドの端を少し空けてくれた。わたしは、その小さなスペースに、体を丸める。父は、すでに深い眠りについているようだった。

両親の間に挟まれて寝る。それは、わたしにとって、最後の安全地帯だった。優子たちが、この部屋まで踏み込んでくることはないだろう。母の温かい体温が、わたしの凍えた心を、少しだけ温めてくれる。

わたしは、目を閉じた。

「みんなは、一人で寝られるくらい、もう大人なのに」

「みんなは、わたしを拒絶できるくらい、少しは普通なのに」

わたしは両親のぬくもりに、未だにしがみつかなければ、夜を越えられない。

わたしは、他の誰とも違う。優子にも、萌子にも、莉子にも、沙織にも、そして、自分の両親にすら、わたしは、違う。

やっぱり、わたしはちがう。

その絶望的な結論だけが、わたしの心の中に、深く刻み込まれていた。

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