第二章 第四話
六月から八月にかけての長い夏休みは、わたしにとって、優子たちが残した呪いと、新しい学校への恐怖に苛まれる、長く重苦しい時間だった。
転校の日、優子と美香の手紙に書かれていた「逃げてもムダ。またね」という言葉が、わたしの頭の中で、繰り返し響き渡る。わたしは、リビングの扉を閉めて、カーテンを閉め切って、一日中、優子たちが本当にわたしを探しに来るのではないか、家のポストをまた覗きに来るのではないかと、怯えて過ごした。
母は、わたしのそんな様子を見て、理解できないようで、やはり母はあんまりわかっていないと思う。
「せっかく転校が決まったのに、なんでそんなに暗いの、亜矢ちゃん。もっと新しい生活に期待を持ったら!」
母の言葉は、いつもわたしの胸を締め付けた。母は、わたしを心配してはいるけれど、わたしが抱える「優子たちの呪い」という、目に見えない恐怖を、全く理解できていない。
新しい学校は、九月から始まる。私立の女子校だという。わたしは、そのパンフレットを見るたびに、また別の種類の恐怖に襲われた。
女子校。
インターネットで調べた情報や、母の友人たちの話から、女子だけの空間は、外には見えないドロドロとした人間関係がある気がしてならない。優子たちのいじめは、直接的で残酷だったけれど、女子校の陰湿な空気は、もっと複雑で、どこから来るかわからない恐怖があるかもしれないと思った。
わたしは、不安と恐怖で、母に当たってしまうことが増えた。
「なんで、女子校なの?共学の方が、まだ普通でしょ!」
「もう、学校なんてどこも行きたくない!」
そう言って、母に感情をぶつけると、母の顔は一瞬にして、優しい母から、ヒステリックな支配者の表情に変わりかける。
「何なの!せっかくママが、亜矢ちゃんのためにいい学校を見つけてやったのに!感謝の一つもないの!?」
わたしは、母のヒステリーの片鱗を見るたびに、すぐに口を閉ざして、泣きそうになりながら謝った。そして、わたしはまた、母の「優しさ」を維持するために、自分の感情を押し殺さなければ行けないことを知る。
そう理解したのに、わたしはどうしても逃げ場がなくて、母の優しさを壊しそうになる。
長い夏休みが終わり、九月になった。
わたしは制服に袖を通した。
見慣れない濃紺のブレザーは、わたしを「普通じゃない子」から、「私立学校の子」という、別のレッテルに変えてくれるはずだった。
新しい学校は、以前の学校とは全く雰囲気が違っている。校舎はきれいで、生徒たちは皆、お嬢様のような毅然とした立ち居振る舞いをしている。
けれど、わたしの不安は、すぐに現実のものになった。
わたしのクラスの担任になった女性の先生は、高圧的で、気分次第で怒鳴り散らす人だった。
朝のホームルーム。
一人の女子が、忘れ物をしたことを正直にいった瞬間、先生は顔を真っ赤にして、その生徒を罵倒し始めた。
「忘れ物?わたしたちの学校に来る生徒のやることなの!そんなこともできないなら、学校なんか辞めてちゃえば?!あなたの親の顔が見たい!」
その怒鳴り声を聞いた瞬間、わたしの全身の血の気が引いた。
前の学校の教頭先生ににている。
教頭先生が、応接室でわたしに言ったときの冷たくてわたしを否定するような怒鳴り声が、そのまま脳内で再生された。
「いじめられる側にも問題がある、ということを、あなた、いつになったら理解するんですか!」
新しい環境に来て、これで解放されるはずだったのに、わたしを責める「大人の声」は、同じパターンで、わたしに襲いかかってきたのだ。わたしは、恐怖で体が震え、机の下で、ギュッと自分のスカートを握りしめた。
「逃げてもムダ」。優子の呪いが、また頭の中で響く。
友達は、すぐにできた。優子や美香のような、はっきりとしたグループはいなかったけれど、わたしに話しかけてくれる子はいた。
けれど、わたしが仲良くなったのは、全員、どこかが「普通じゃない」友達だった。
一人は、いつも顔色が悪く、体調不良を訴えてよく早退する子。もう一人は、家がお金持ちすぎて、誰も彼女の生活についていけず、少し浮いている子。そして、わたし、前の学校でいじめられて逃げてきた子。
わたしたちは、表面上は、明るく、他愛もない話をした。けれど、3人で一緒にいる時、わたしはいつも感じていた。わたしたちは、「普通の子」のフリをしているだけで、本当は、みんながどこかに「傷」を抱えているのだ。
わたしの友達は、「普通じゃないわたし」だからこそ、できた友達だった。
わたしは、その空間で、自分自身を偽り続ける。
前の学校での暗い過去は、誰にも言わなかった。母に言われた通り、「ちょっと引越しもしたし環境を変えたかった」と曖昧に答えた。
そして、みんなの前では、無理に明るく振る舞った。
大きな声で笑い、みんなの話にオーバーなリアクションをし、いつも「楽しい!」「大丈夫だよ!」と言い続けた。そうしなければ、わたしが抱える「いじめられっ子」という重い闇が、漏れ出てしまう気がしたからだ。
「亜矢ちゃんって、いつも明るいよね!」
友達にそう言われるたびに、わたしは胸が張り裂けそうになった。
明るい。
違う。わたしは、明るい仮面を被っているだけだ。その仮面の下では、前の学校の教頭先生の怒鳴り声に怯え、優子たちの呪いに怯え、そして、この新しい学校の先生の怒鳴り声に、常に体が硬直している。
無理に明るく振る舞うことが、どんどん辛くなっていった。本当のわたしは、もっと暗くて、怯えていて、いつも誰かの顔色を伺っている、弱くて、惨めな子なのに。
わたしは、いつになったら、「普通の子」に戻れるのだろう。
わたしは、いつになったら、無理に明るく振る舞うことをやめられるのだろう。
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