第二章 第三話
転校する日。
母は、わたしをいつもより丁寧に身支度させ、わたしが新しい人生の舞台に立つときのように、誇らしげな表情をしていた。母は、わたしが「逃げた」のではなく、「より良い未来を選んだ」という体裁を、完璧に整えたいのだと思う。それは、わたしも同じだ。しかし、わたしは本当を知っているからそんなに晴れ晴れとした顔ができない。
わたしは、母の車で学校へ向かい、昇降口で母と別れた後、三谷先生に連れられて、教室棟の廊下を歩いた。
廊下は、いつもより長く感じられた。わたしの心臓は、全身の血を絞り出すように激しく脈打っている。一歩進むごとに、全身から冷たい汗が伝ってゆく。
ブラウスが、背中に張り付く不快感があった。
逃げたい。
そう強く思ったのに、わたしの体は、硬い鎖でここに縛り付けられているように、先生の後を律儀に追い続けた。これは、母の期待に応えたいという最後のプライドなのか、それとも、「お別れを言う」という儀式を終えなければ、優子たちから完全に解放されないという、呪いのような思い込みなのか、わたしにはわからなかった。
教室のドアの前で、三谷先生が立ち止まり、わたしに振り返った。
「亜矢さん。大丈夫ですか。あなたは、何も間違っていません。堂々としていればいいんですよ」
先生の言葉は、昨日までのわたしの訴えを真剣に聞こうとしなかった先生のものとは違っていた。もうほとんど他校の生徒だから、どうでもいいのだと思う。
わたしは、先生に背中を押されるように、教室に入った。
五十人近いクラスメートの視線が、一斉にわたしに突き刺さった。わたしは、その視線に耐えられず、すぐに床に目を落とした。優子や美香の顔を見る勇気は、どこにもない。
三谷先生が、教壇に立ち、クラス全体に告げた。
「みんな、静かに。今日で、北崎亜矢さんが転校することになりました。みんな、最後にお別れの挨拶をしましょう」
先生の合図で、クラスメート全員が、起立した。そのざわめきすら、わたしには、遠い世界の音のように聞こえた。
わたしは、教壇の脇に立ち、顔を上げずに、ただ絞り出すように言った。
「……短い間だったけど、えっと……えっと……」
「……」
それ以上の言葉は、出てこなかった。「楽しかった」なんて、嘘はつけなかった。
わたしが頭を下げると、クラス委員の女子が、教壇に向かって歩み出てきた。彼女は、優子たちのグループではない、中立的な立場の子だった。彼女は、丁寧に、両手で、わたしに一つの厚い紙袋を差し出した。
「亜矢ちゃん。みんなで、メッセージを書いたの。転校しても、頑張ってね」
紙袋には、クラスメート全員からのお別れの手紙が入っているようだった。
わたしは、その紙袋を受け取った。紙袋から伝わる重さが、鉛のようにわたしの手を重くした。優子たちの手紙も、この中に入っているのだろうか。そう思うと、紙袋を持った手が、ぶるぶると震えた。
お礼を言いたかったのに、声が出なかった。わたしは、彼女たちの親切に、どうしても心から感謝することができない。なぜなら、この優しさは、わたしが「逃げ出した後」に初めて与えられたものだからだ。わたしが苦しんでいた時には、誰も助けてくれなかったのに。
わたしは、その場から逃げ出したい一心で、ただ俯くことしかできなかった。クラス全体に、妙な沈黙が広がった。
「はい、それじゃあ、北崎さん。新しい学校でも、頑張るんですよ」
三谷先生が、わたしを促すように、背中に手を添えた。わたしは、そのまま教室を後にした。もう二度と、この場所に戻ってくることはない。
なんでわたしは、こんなに嫌な終わり方しかできないのだろうか。
母の車の中は、エアコンが効いていて涼しかったけれど、わたしの全身から溢れ出る冷や汗は、止まらなかった。
母は、運転しながら、上機嫌だった。
「良かったじゃない、亜矢ちゃん。ちゃんと、お別れを言えたね。みんな、寂しそうだったでしょう?」
「……うん」わたしは、曖昧に答えた。
母は、助手席に置かれた紙袋に目を向けた。
「あら、素敵なプレゼントだね。みんな、いい子たちじゃない。早速読んでみたら?」
わたしは、母の言葉に押され、恐る恐る紙袋を開けた。中には、色とりどりの便箋が、何十枚も入っていた。
わたしは、ランダムに数枚を手に取った。そこには、ありきたりな「お元気で」「頑張ってね」というメッセージが並んでいた。
そして、その中に、異様に豪華な便箋と、裏側に小さなイラストが描かれた便箋が、目に留まった。
豪華な便箋には、流れるような字で優子の名前が書かれていた。裏にイラストが描かれた便箋には、美香の可愛らしい文字で名前が書かれている。
心臓が、喉元まで飛び出しそうになった。優子と美香が、わたしにお別れの手紙を書いた。
これは、いったいどういう意味なのだろう。
先生に無理やり書かされたならいいけれど、そうでは無いかもしれない。
わたしは、母に気づかれないように、震える手で、優子の手紙を開いた。
優子の手紙は、一般的な便箋の体裁をとっていた。
> 亜矢ちゃんへ
> 転校できてよかったね。
> もう少し一緒に遊びたかったけど、亜矢ちゃんのお母さんが、もっといい学校に行かせたいみたいだから、仕方がないね。
> でも、寂しくなんかないよ。だって、亜矢ちゃんが逃げた先で、また新しい子たちと仲良くするのを見るの、すごく楽しみだから。
> あ、そうそう。亜矢ちゃんって、ヒステリーなママに、何でも言いつけちゃう子だもんね。新しい学校でも、またすぐ問題を起こして、ママを怒らせるんだろうな。楽しみ!
> 新しい学校でも、元気でね。
> でも、また私たちが笑えるような、面白いことが起きるのを、心待ちにしてるよ。
> 優子より
>
わたしは、手紙を読み終えた瞬間、呼吸が止まった。
震えが止まらない。
手紙は、一見、お別れの挨拶に見えるけれど、その裏に隠されたメッセージは、明確な脅迫だった。
「よかったね」という言葉は、「あなたは敗北した」という嘲笑だ。「逃げた先で、新しい子と仲良くするのを見るのが楽しみ」というのは、「どこへ行っても、私たちはあなたのことを知っている」という監視の宣言だ。
そして、「またすぐ問題を起こして、ママを怒らせるんだろうな」という言葉は、わたしが抱える最大の弱点、母のヒステリーを、最後の最後まで嘲笑し、わたしを呪い続けている。
わたしは、次の瞬間、美香からの手紙を開いた。裏側に描かれた小さなイラストは、笑っている女の子が、片手にビデオカメラを持っている絵だった。
美香の手紙は、優子のものよりも、さらに短く、ぞっとするものだった。
> 亜矢ちゃんへ
> じゃあね!
> 私たちは、亜矢ちゃんちの家のポストも、ママの怒鳴り声も、全部知ってるよ。
> 逃げてもムダ。またね。
> 美香より
>
「逃げてもムダ。またね。」
その言葉が、わたしの頭の中で、鉄槌のように響いた。
わたしは、転校すれば、完全に解放されると思っていた。優子たちとの関係は、この学校を出ることで、「過去」になるはずだった。
けれど、彼女たちは、わたしに最後のメッセージとして、「あなたをどこまでも追いかける」という、恐ろしい呪いをかけてきたのだ。
わたしは、恐怖のあまり、その二通の手紙を、ぐしゃぐしゃに丸めた。
「どうしたの、亜矢ちゃん?何か書いてあった?」
母が、バックミラー越しに、わたしの顔を覗き込んできた。
わたしは、丸めた手紙を、必死で服の中に隠した。
「……ううん。何でもない。ただの、普通の、お別れの手紙だよ」
わたしは、また嘘をついた。母には、優子たちの悪意を見せてはいけない。なぜなら、母は、この優子たちの「呪い」を払うどころか、自分の娘がまた問題に巻き込まれたという事実に、ヒステリーを起こすだけだからだ。
わたしは、どこへ行っても、優子たちの「監視」から逃れられない。そして、わたしを守ってくれるはずの母も、わたしにとっては「脅威」でしかない。
学校が変わっても家を知られている以上、干渉される可能性が高い。手を離されたように見えて、わたしはまだ彼女たちの籠の鳥だ。
新しい学校での生活は、解放ではない。それは、逃亡の始まりだった。
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