第二章 第二話

保健室の扉が閉まり、廊下の真ん中で優子たち五人に囲まれた瞬間、わたしの体は金縛りにあったように動かなくなった。優子たちの目に宿る冷たい光は、謝罪などという生易しいものではなく、明確な悪意と報復の予告だった。

「ねぇ、亜矢ちゃん。保健室って、暇でしょう?一日中寝てるの?」

美香が、わたしを値踏みするように、頭のてっぺんからつま先まで見下ろした。

「ほら、教室に来ないから、みんな知ってるんだよ?亜矢ちゃんのママがまた学校に乗り込んで、大騒ぎしたから、亜矢ちゃんは逃げたんだって」

「逃げたって言わないで!」わたしは、何とか弱くて細い声で反論した。

優子が、嘲笑を深める。

「あら、違うの?じゃあ、なんでここにいるの?あたしたちが、ちょっと面白半分でいじめたら、すぐ泣いてママに言いつけるくせに。わたしたち、亜矢ちゃんのママのヒステリー芸、もう見飽きたんだよね」

彼女たちの言葉は、わたしが最も恐れていたものだった。わたしが保健室にいることが、彼女たちにとっての「勝利の証」になっている。

優子が、わたしの顔にさらに顔を近づけた。その目が、底なしの井戸のように暗く、わたしの心を見透かしている。

「ねえ、亜矢ちゃん。本当は、ママに怒られるのが怖くて、ここにいるんでしょう?ママに『また教室で問題を起こしたのか!』って怒鳴られたくないから、病人ごっこしてるんでしょ?」

その言葉は、鋭利な刃物だった。わたしの心の奥底にある、「優しい母の維持」という本当の動機を、優子は正確に言い当てている。

「違う……!」

わたしが否定しようとした、その時だった。

カチャリ。

背後の保健室の扉が、突然開いた。

「……五分、経ちましたよ」

保健室の先生が、強い語調で、扉の前に立っている。先生の顔には、さっきまでの迷いはなく、五人の生徒が、明らかに「謝罪」ではない、威圧的な雰囲気でわたしを取り囲んでいることに気づいた、厳しい視線があった。

優子たちは、一瞬にして表情を変える。先生の登場は、彼女たちにとって予想外だったのだろう。

「え、もう?先生、わたしたち、これからちゃんと謝ろうと思ってたのに……」美香が、残念そうな顔を作る。

その瞬間、廊下のさらに奥から、もう一人の人影が早足で近づいてきた。

「どうしたんですか、こんなところで」

それは、わたしたちの担任の三谷先生だった。おそらく、保健室の先生が優子たちに声をかけた時、何か不穏なものを察して、三谷先生を呼びに来たのだろう。

三谷先生は、優子たちがわたしを囲んでいるのを見ると、すぐに事態を理解した。

「優子さん、美香さん、何をしていますか!謝罪をするなら、場所を考えなさい。それに、集団で囲むのは、いじめ行為ですよ!すぐに教室へ戻りなさい!」

三谷先生は、昨日までのわたしの訴えを真剣に聞いてはくれなかったけれど、今回の状況は、明らかにまずいと判断したようだ。

優子と美香は、唇を噛み締め、悔しそうな表情を浮かべた。けれど、担任の先生に逆らうことはせず、不満げにわたしから離れていった。

「わかりました、先生。でも、亜矢ちゃんが、私たちの謝罪を聞いてくれなかったからですよ!」

優子は、最後にわたしを非難する言葉を残し、三谷先生に連れられて、廊下の角を曲がって行った。

わたしは、その場に立ち尽くしていた。保健室の先生が、心配そうな顔でわたしを中へ招き入れてくれる。

「大丈夫?怖かったね。もう、あなたを一人で外に出したりしないからね」

保健室のベッドに座り、温かいお茶を出してもらったけれど、わたしの震えは止まらなかった。五分間という短い時間だったけれど、優子たちは、わたしという存在の弱さを、骨の髄まで突いてきた。

午後、母がパートを終えて、学校に迎えに来てくれた。保健室の先生は、母に優子たちがわたしを囲んだことを、丁寧に伝える。

母の顔は、昨日の穏やかさとは打って変わって、怒りの色を帯びた。けれど、それはヒステリーではなく、燃えるような、静かな怒りだった。

「……もう、結構です。先生。これ以上、この子を危険に晒すわけにはいきません」

母は、わたしを立ち上がらせると、保健室の先生に深く頭を下げた。

「亜矢ちゃん。帰ろう」

家に着くと、母はわたしをリビングのソファに座らせ、わたしに向き直った。

「亜矢ちゃん。もう、学校に行くのはやめようね」

母の言葉に、わたしはすべてを投げ出したくなった。

「うん……もう、行きたくない。怖い……」

わたしは、声を出して泣いた。昨日までの「普通でいたい」というプライドも、「優しい母を維持したい」という打算も、すべて優子たちの報復によって打ち砕かれた。

「優子ちゃんたちが、怖い。あんなに、わたしのきもちを……家の中のことを……知っているのが、怖いよ」

わたしは、優子たちを憎んでいるわけではない。

彼女たちが、なぜあんなに残酷になれるのか、わたしには分からない。けれど、きっと彼女たちにも、わたしと同じように、何か辛いことや、満たされない孤独があって、それが彼女たちの心を荒ませているのだろう。わたしは、そんな彼女たちの背景を、頭の片隅で理解しようとしてしまう。憎むことは、わたしにはできない。

けれど、憎むことと、怖いことは、全く別だった。

わたしは、優子たちの底の見えない悪意に、もうこれ以上触れたくなかった。彼女たちのいる場所に、もういたくない。学校という建物全体が、わたしには、悪意に満ちた檻のように感じられた。

母は、わたしを強く抱きしめる。

「わかった、亜矢ちゃん。もう行かなくていい。ママが、あなたを守るから。もう、あの子たちのいる場所になんて、行かなくていいのよ」

母の腕の中で、わたしは安堵と、永遠に「普通」の世界から切り離されてしまったという絶望を、同時に感じていた。母は、わたしを優しく守ってくれたけれど、その優しさは、わたしを閉じ込めるためのものになりつつあった。


次の日から、母は豹変した。これまでのヒステリーや、わたしへの過度な期待は影を潜め、娘を守る戦士のように、熱心に動き始めた。

「もういいよ。あんな学校、二度と行かせない。あんな教育しかできない場所で、亜矢の心が壊されるのは許せない」

母は、わたしのために、新しい学校を探し始めた。リビングには、様々なパンフレットが広げられ、母は一日中、電話で教育委員会や、私立の学校に問い合わせをしている。


「別の学区の公立に移るには、申請に時間がかかるの。それに、引越ししないと難しいって。お引っ越しは、パパの仕事の関係ですぐには無理でしょう?それにうちは持ち家だから。」

母は、パンフレットを広げながら、わたしに言った。

「だから、私立の学校を探したの。ここは、教育方針がしっかりしていて、一クラスの人数も少ないから、先生が一人一人に目を配ってくれるんだよ。環境を変えるには、ここが一番よ」

母が指差したのは、少しお洒落な制服が写っている、私立小学校のパンフレットだった。

私立の学校。

わたしにとって、それは、優子たちから、そして教頭先生から、完全に「解放される場所」のように感じられた。遠い場所、全く新しい環境。わたしの過去も、母のヒステリーも、優子たちの嘲笑も、何もかも知らない人たちに囲まれて、一からやり直せる。

ここに行ったら、わたしは、また普通の子になれるのだろうか。

そう思った瞬間、心に差し込んだ光は、あまりにも眩しかった。優子たちから逃げるだけでなく、この「いじめられっ子」という重い鎖を、完全に断ち切ることができる気がした。

「うん、行く。わたし、ここに行きたい」

わたしは、すぐに頷いた。母は、その返事に満足したように、目を細める。

「そうでしょう?ママも、そう思ってたよ。やっぱり、亜矢ちゃんは賢いね。自分の居場所をちゃんと自分で選べる」

その言葉は、わたしを肯定するものだったけれど、同時に、「わたしの選んだ道を選んだね」という、母の支配の延長線上にいることを示唆しているようでもあった。それでも、今のわたしには、この道しかない。

数日後、母は私立小学校への転入手続きを済ませ、具体的な転校日が決まった。


夕食後、母はわたしに、少し躊躇したように尋ねる。

「あのね、亜矢ちゃん。転校先は、ここから遠いから、もう二度と会うこともないでしょう。だから、今の学校のみんなに、お別れを言いに行く?」

その質問を聞いた瞬間、わたしの全身が、冷たい氷に包まれた。

お別れを言う。それは、再び優子たちと顔を合わせることを意味する。そして、「わたしはあなたたちから逃げます」という宣言を、自ら優子たちに向かって行うことを意味した。わたしがどれほど傷つき、屈服したかを、彼女たちの前で晒すことになる。

「嫌だ……」

心の中では、悲鳴を上げていた。彼女たちの嘲笑を、もう一度聞くなんて、耐えられない。

けれど、母の優しい顔と、母の言う「普通」という言葉が、わたしの口を動かした。

普通になりたい。

「普通の子」は、転校する時、お別れを言うものだ。お別れを言わずに逃げ出すのは、やはり「いじめられっ子」の行動だ。わたしは、最後の瞬間まで、「わたしはいじめられて逃げたわけじゃない。円満に転校するのだ」という体裁を整えたかった。

「……うん。言う」

わたしの口から出た言葉は、わたしの本心とは真逆のものだった。

母は、少し驚いたようだったけれど、すぐに満足げに微笑んだ。

「そう!それがいいよね。ちゃんと、筋を通すのよ。それが、大人の対応というものなんだよ。さすが、わたしの子だね」

母は、やはり「筋を通す」とか「大人の対応」といった、体裁を重んじる部分で、わたしを評価した。わたしを心配してくれているわけではない。「わたしの娘は、逃げ出す時でさえ、立派だ」という、母の自己満足を満たすためだ。

わたしは、母に向かって、再びうんとだけ言った。

「うん。わかった」

そう言ったけれど、わたしの心は、深く沈み込んでいった。明日、教室で優子たちの前に立ち、お別れの言葉を言う。それは、わたしにとって、これまでのいじめの中で、最も残酷な最後の罰になるのだろう。優子たちの、あの勝利に満ちた笑顔を、わたしは、どんな顔で受け止めればいいのだろう。

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