第二章
第二章 第一話
週末が終わり、月曜日になった。今日から六月が始まる。
窓から差し込む朝の光は、もう夏の強さを帯びていたけれど、わたしの心の中は、相変わらず冷たい灰色のままだった。昨日の萌子たちとの喧嘩が、胸に鉛のように残っている。優子たちの悪意から逃げた先で、「普通」であることを求めたのに、結局は、その最後にひとつ残された「普通」の輪からも自分自身で弾き出されてしまった。
布団から出ると、体全体が抵抗しているのを感じた。
保健室に行きたくない。
保健室の先生の優しさが、わたしを「病人」や「弱者」として特別扱いしているようで、辛かった。教室には行けないくせに、保健室の特別待遇も嫌がるなんて、わたしは本当にわがままな人間なのだと思う。
リビングへ行くと、母が朝食を用意していた。母は、昨日の夜、わたしが部屋に閉じこもったことについて、何も聞かない。ただ、穏やかな笑顔でわたしにあいさつを言った。
「ママ……」
わたしは、勇気を出して言った。
「わたし、今日、教室に戻ろうかな……」
声が震えた。教室に戻りたいわけではない。むしろ怖い。
けれどただ、保健室に行くのが、自分の「普通」をどんどん蝕んでいくような気がして、怖かったのだ。
母の笑顔が、一瞬だけ、硬直した。
「な、何を言っているの、亜矢ちゃん。ダメだよ。あの子たちが、またあなたに何を仕出かすかわからないじゃない。一昨日、あんなに疲れて帰ってきたばかりでしょ?」
母の声に、僅かにヒステリーの前の苛立ちが混ざった。わたしは、すぐに悟る。ここでわたしが「教室に戻る」という選択をしたら、母のあの穏やかな優しさは、たちまち消え去り、雷雨のような怒りに変わるだろう。わたしを心配する母ではなく、自分のプライドを守ろうとする支配者に戻ってしまう。
「……ううん。やめる。やっぱりわたし、保健室に行くね」
わたしは、すぐに訂正した。母の顔に、再び安堵の表情が広がるのを見て、わたしはまた、「優しい母」を維持するためには、わたしが弱者でい続けなければならないことを再認識した。
結局、わたしは重い足取りで学校へ向かい、そのまま保健室へ直行した。
保健室は、いつもと変わらず、清潔で静かだ。保健の先生は、わたしのために、窓際の明るい席を用意してくれた。
数時間、誰もいない空間でドリルと向き合った。わたしは、集中力が途切れるたびに、カーテン越しに見える、教室棟の窓を見つめた。あの窓の向こうに、わたしの席がある。優子たちがいる。
昼休みになり、給食の時間が終わった頃。わたしは、水筒の温かいお茶を飲みながら、窓の外をぼんやりと眺めていた。みんなが遊びに出たのか、校庭からざわめきが聞こえてくる。
コン、コン。
突然、保健室の扉が、軽くノックされた。
わたしは、心臓が跳ね上がった。こんな時間に、保健室に来る生徒は、ほとんどいない。人が来た時は先生が開けることが多い。
保健室の先生が、少し不思議そうな顔をして、扉を開けた。
「はい、どちら様?」
先生の表情が、一瞬で固まった。
わたしは、座っている場所からは扉の向こうの人物は見えなかったけれど、先生の硬直した表情と、空気の変わり方で、誰が来たのかを瞬時に理解した。
優子たちだ。
優子の、あの高いのに低くて、甘ったるい声が、扉の隙間から漏れてきた。
「あの……失礼します。ちょっと、先生にお話があって」
先生は、すぐに「あなたの居場所ではない」という声色に変わった。
「昼休みは、生徒はここで休むことになっていません。何か体調が悪いなら、一回担任の先生に相談してくださいね」
「あの、そうじゃなくて……亜矢ちゃんに、お話があるんです」
優子は、わたしの名前を、まるで親しい友人のように、甘く発音した。その甘さが、猛毒のようにわたしを襲う。
先生は、眉をひそめて、優子たちを追い返そうとした。
「北崎さんは、今、静かに休んでます。あなたたちのお友達じゃないでしょ。用があるなら、放課後にしなさい」
しかし、優子は、先生の言葉を遮るように、さらに声を絞り出した。
「ちがうんです、先生。あたしたち……謝りたいんです」
「え……?」先生の声に、迷いが混じった。
「わたしたち、亜矢ちゃんにひどいことをしちゃいました。このままじゃ、あたしたちの気持ちがおさまらなくて。ちゃんと、直接謝りたいんです。先生、お願いします」
「謝りたいんです」という、優子の声は、まるで涙を堪えているように、か細く、切実だった。そして、優子の後ろで、美香と他の三人の女子も、一斉に深く頭を下げたらしい。
保健室の先生は、おそらく優子の演技に一瞬戸惑ったのだろう。そして、生徒の「謝罪したい」という意図を、無下にすることはできないと判断したのかもしれない。
先生は、わたしの方を振り返った。
「亜矢さん……どうしますか?優子さんたちが、あなたに謝りたいと言っているんですが」
わたしは、体が全く動かなかった。謝罪。優子たちが。信じられない。これは、間違いなく罠だ。優子たちが、こんなに簡単にわたしにあやまるはずがない。
わたしが、答えに詰まっていると、先生はため息混じりに言った。
「……わかった。じゃあ、廊下で少しだけ話をしなさい。ここは、静かに休む場所ですからね。五分だけですよ」
先生は、わたしを促した。逃げられない。わたしは、なんとか立ち上がった。この保健室という「安全地帯」から、一歩踏み出さなければならない。
わたしは、処刑台に向かうように、重い足取りで保健室の扉をくぐった。
扉が、スッと閉まる。
廊下は、昼休みで誰もいなかった。静寂が、わたしの耳の奥で、異様に響く。
目の前には、五人の女子が立っていた。優子、美香、残りの三人の女子たち。
優子は、さっき保健室の先生に見せていた「か弱い謝罪の表情」を、一瞬で消し去った。その顔は、前に見た、冷たく、底の見えない、嘲笑に満ちた笑顔だった。
「おっそーい。亜矢ちゃん、病人みたいに寝てたの?ふふっ」
優子が、わたしに向かって、一歩踏み出した。
そして、優子と美香、そして残りの三人の女子たちが、半円を描くように、わたしを取り囲んだ。逃げ場がない。背後には、閉ざされた保健室の扉。わたしは、優子たちの支配の輪の中に、再び閉じ込められたのだ。
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