第2話 古代紋章庫の闇
第2話 古代紋章庫の闇
灯りは、石の壁に薄い輪郭を置いていた。
青白い魔晶光が、苔むした刻印の縁だけを拾う。
外の夜は深いが、ここはそれ以上に静かだ。
足音を消そうとする意識が、逆に音を増幅させる。
自分の呼吸、自分の心臓、指先の血流。
全部が耳の中で大きくなる。
俺は耳を塞がない。
塞げば、橋は落ちる。
音は渡るために要る。
支援魔法使い――優真。
ここでは、俺の魔法は「保持」ではなく「対話」だ。
古い紋が息をしている。
生きているものには、乱暴に触れない。
触れれば拒絶する。
拒絶は揺れになり、揺れは足場を奪う。
俺は手のひらに意識を落とし、糸を細く、静かに、石の呼吸に合わせる。
セリアが左側に立ち、灯りをわずかに落とした。
光が弱まると、刻印の凹みが逆に見えやすくなる。
彼女は理に強い。
理に強い人間は、光の量を経験で決める。
彼女の灰色の瞳は揺れない。
揺れない目は、紋のリズムを見落とさない。
マリアは俺の右側で、小さな歌を置いた。
音程は低く、拍は一定。
彼女の歌は橋の上に敷いた布だ。
布があると、足が冷えない。
冷えない足は、長く歩ける。
俺は彼女の拍に、糸の深さを合わせる。
後方には扉の向こうから、灯りがひとつ強すぎる輪郭を作っていた。
ケイルとリリィ。
彼らの光は鋭い。
鋭さは美しいが、古い紋の肌には合わない。
合わない光は影を濃くし、濃い影は罠の形を隠してしまう。
彼らが近づいてくる音は、正確に一定だ。
一定なのに、急いている。
急ぐ一定は崩れやすい。
俺は背中に薄い「緩衝」を置いた。
彼らの急ぎが俺の橋にまで乗ってこないように。
「優真、床の紋の配列を見て。
ここ、四角四付の織りが崩れている」
セリアが低く言い、足先で触れない距離から指し示す。
四角四付――古い保持紋の基盤だ。
四隅に「安定」、中に「沈静」、四辺に「再結」の糸を通す。
崩れているのは、四辺の右側。
再結の糸が張力を失っている。
俺は膝を折り、指で空中に糸を描く。
見えない。
見えない方がいい。
見えない糸は、古いものに恐れられない。
恐れられなければ、受け入れられる。
ゆっくり、確実に、右辺の張力を補う。
補うとは、足すことではない。
失われた方向を思い出させることだ。
「拍を、二つ落とす」
俺が囁くと、マリアがすぐに拍を落とした。
彼女は合わせるのが上手い。
上手いことは、強いことだ。
拍が落ちると、俺の糸も少しだけ太く出来る。
太い糸は、短く置く。
短い太さは、崩れた織り目に負担をかけない。
セリアの灯りが、紋の凹みに触れたとき、空気がひと呼吸だけ深くなった。
石が吸う。
吸うときに糸を送る。
吐くときに糸を留める。
呼吸は対話だ。
対話は保持の土台だ。
「リリィ、光を落として」
セリアが振り向かずに言う。
彼女の声は冷静だが、命令ではない。
依頼に近い。
依頼は、相手の尊厳を残す。
尊厳を残す言葉は、橋を守る。
少しの間があり、灯りがわずかに柔らかくなる。
リリィは理解が早い。
早いことは、強いことだ。
ケイルの杖が魔力を流しすぎる癖は、石の反応を試すには向かない。
試せば壊れる。
彼は壊してから組み立てる方が得意だ。
得意なことは、ここでは使わない方がいい。
彼自身も、それを察しているのか、今は静かだ。
静かなケイルは、珍しい。
珍しいものは、慎重に扱う。
奥へ進む。
床の紋は、部屋ごとに性格が違う。
ここは、眠りの部屋だ。
眠り――村の病の原因は、この部屋に繋がっている。
石の匂いに、果実の甘さが混じる。
甘い匂いは、脳の緊張を解く。
解けすぎれば、眠りに落ちる前に不安が立ち上がる。
不安は眠りの入口に釘を打つ。
釘が打たれると、夢の橋が揺れる。
揺れる橋は渡れない。
「セリア、ここ、香気の保持が古い」
俺は嗅覚の記憶をたぐり、指で空中に円を描く。
円の内側に細い糸を三本、外側に六本。
三本は「抑」、六本は「循」。
香気の保持は、匂いを抑え、匂いの循環を促す。
促しすぎると匂いが熱を持つ。
熱い匂いは心に焦りを置く。
焦りは眠りを拒む。
「循が強い。
抑を細く足して」
セリアの声に合わせ、俺は三本の糸の一番外側に薄い糸を重ねた。
重ね方は、縫いではなく添え。
添えた糸は目立たない。
目立たない方がいい。
古い保持は、見栄えを嫌う。
マリアが歌の音程をさらに一段落とす。
彼女の声は匂いを冷やす。
冷えた匂いは落ち着く。
落ち着くことは、眠りの入口を広げる。
入口が広ければ、釘は役に立たない。
釘は入口にだけ効く。
広い入口には、釘の長さが足りない。
壁際の刻印に、古い文字が混ざっていた。
読む必要はない。
読むと、意味が可視化される。
意味は保持の邪魔になる。
意味は短距離走の武器だ。
ここは長距離の場所だ。
俺は指で文字の縁だけをなぞる。
縁は触れていい。
中身は触れない。
触れないことは、敬意だ。
「優真」
背後から、リリィの声。
柔らかい。
柔らかいのに、硬い。
彼女は硬さを隠さない人だ。
隠さないことは誠実だ。
誠実さは、時に痛い。
「ここまで入っておいて、君は……君の橋を渡るの?」
「渡る」
短く答えた。
短い言葉は、橋を短くしてしまうことがある。
だが今は、短さが合っている。
ここで説明をすると、糸が揺れる。
揺れは足を奪う。
「君の保持は、王城のためにも必要だ」
彼女は続ける。
彼女の言葉は正しい。
正しいが、今は俺の橋の上にはない。
橋は、一つずつ渡る。
二つの橋を同時に渡ると、足が割れる。
割れた足は動かない。
「リリィ」
セリアが静かに名を呼んだ。
呼び方がうまい。
うまい呼び方は、相手の皮膚に傷を作らない。
リリィは一瞬だけ黙り、灯りをさらに落とす。
彼女はやはり理解が早い。
ケイルは杖を肩に担いだまま、目を細めて紋を見ている。
彼は見る力がある。
見る力は早い。
早い視線は、見えないものを見落とす。
見落としを自覚できるなら、早さは利点だ。
彼の眉間がわずかに緩んだ。
緩むことは、良いことだ。
部屋の中央に、低い台があった。
台は石で、表面に微細な織り目。
織り目は指の腹でしか分からない。
目で見える織り目は、印刷だ。
指で感じる織り目は、布だ。
古い保持は布を好む。
布は撫でられ、折られ、洗われ、干され、使われ、また撫でられる。
布は覚える。
覚えたものは、橋になる。
俺は指を置いた。
置くだけ。
動かない。
動かない時間は、糸の太さを決める。
太さが決まると、長さが決まる。
長さが決まると、置く場所が決まる。
置く場所が決まると、渡る順番が決まる。
順番が決まると、落ちない。
「ここだ」
囁いて、糸を一本だけ送った。
糸は台の織り目に吸われ、どこにも見えないまま、温度を少し下げた。
温度が下がると、香気が落ち着く。
落ち着いた香気は、眠りの入口に布をかける。
布があれば、釘は押し込めない。
マリアの歌が一呼吸だけ変わり、布の端を指で整えるように、音の角が丸くなる。
彼女は無意識に合わせる。
合わせることは、天才の仕事だ。
彼女は天真爛漫だが、天才でもある。
天才は無邪気だ。
無邪気は危うい。
危ういものを守るのが、支援の仕事だ。
「眠りの部屋と村の症状、これで繋がった」
セリアが灯りをさらに落とし、台の周囲を一周だけ歩いた。
その歩幅は一定で、角で止まらない。
止まらないことは、切らないことだ。
彼女は切らない。
切らない魔導士は、珍しい。
「古物の石、ここから運ばれたものだな。
保持の循が強すぎて、村の夜に焦りを残した。
抑の糸が抜けていた。
今、足した」
俺が言うと、セリアは頷いた。
頷きは短い。
短い頷きは、信頼の印だ。
印は刻まない。
刻めば重くなる。
重い印は、動かない。
動かない印は、橋に向かない。
台の背後に、もうひとつの扉。
小さい。
人一人がやっと通れる幅。
刻印は薄い。
薄い刻印は、強い。
強いものは、薄い顔をしている。
見る者を油断させる。
油断させるものには、先に礼をする。
礼は糸の形でやる。
糸を引き、結び、余りをしまう。
余りは見せない。
見えない方がいい。
扉に手を置く。
冷たい。
冷たさは、指を正直にする。
指が正直になれば、嘘は出ない。
嘘が出ない糸は、拒絶されない。
拒絶されなければ、鍵は動く。
「優真」
背でケイルの声。
短く、低い。
彼の声に、珍しく笑いの皺がない。
皺がないケイルは、不機嫌ではない。
彼の不機嫌は目尻で分かる。
今日は、ただ真剣だ。
「俺は壊してから組み立てるのが得意だ。
ここじゃ、壊せない。
だから、お前に任せる」
彼は言った。
彼の言葉は素直だった。
素直なケイルは、まっすぐだ。
まっすぐなら、持ち上がる。
俺は振り返らず、指に糸を巻きなおす。
巻きなおすのは、心の準備だ。
「任されるなら、落とさない」
扉が息をし、鍵の音が落ちる。
細い、確かな音。
音は、橋の起点を知らせる合図だ。
合図に合わせ、足を置く。
置いた足は、動かさない。
動かさない時間が、長い。
長くていい。
橋は、急がない。
扉の向こうは、さらに静かだった。
音が減ると、不安が増える。
不安は音の居場所だ。
居場所がなくなると、不安は広がる。
広がった不安は、足場を濡らす。
濡れた足場は滑る。
滑らないように、俺は足首に薄い「安定」を置く。
自分に支援を編むのは、贅沢じゃない。
生きるための術だ。
小部屋の中央に、石の器。
器には透明な液体。
液体は匂いを持たない。
持たない匂いは、逆に強い。
匂いは無いのに、香気はある。
香気は、器の周りの空気に薄く布をかける。
布の端が床に触れ、眠りの重みを地面に移す。
移し方が強すぎると、眠りは落ちる前に立ち上がる。
立ち上がった眠りは不眠になる。
不眠は、眠りの影だ。
「これが、村に持ち込まれた古物の核だろう」
セリアが器の縁を見て、息を止める。
息を止めた瞬間、灯りが揺れない。
揺れない灯りは、器の肌を正確に見せる。
肌は滑らかだが、底に微細な織り目。
織り目は「循」。
循が強すぎる。
「抑を足す。
だが、器の内側からでないと効かない」
俺は器の表面に指をかざし、糸の端を液体の中へ落とす。
落とすのは怖い。
怖いことは、ゆっくりやる。
ゆっくりやれば、怖さは合図になる。
合図は、速度を決める。
糸が液体に触れた瞬間、舌に果実の甘さが載った。
甘さは薄い。
薄い甘さは長い。
長い甘さは、眠りを呼ぶ。
呼びすぎると、心が焦る。
焦りは眠りの入口に釘を打つ。
釘は打たせない。
「拍を、さらに落として」
マリアがすぐに応え、声を低いところで安定させる。
彼女の声が床に布を重ねる。
布が厚くなると、足音は消え、器の周りの空気が落ち着く。
落ち着いた空気に、糸を一本だけ足す。
抑の糸は、循の糸の内側に入る。
内側に入る糸は、見えない。
見えないことは、良いことだ。
「優真、液体の温度を下げすぎるな。
眠りが落ちる」
セリアの声は冷静だが、鋭い。
鋭さは、指の温度を正す。
指は正直になる。
正直な指は、余計な糸を出さない。
余計な糸は、橋を重くする。
重い橋は、渡る前に折れる。
糸の流れが器の底で丸くなり、その丸が小さく、一定に回る。
回ることは、生きている証拠だ。
生きているものは、止めない。
止めるのは死の仕事だ。
俺は止めない。
丸を少しだけ楕円にする。
楕円は、呼吸だ。
呼吸は、眠りに似ている。
似ているもの同士は、喧嘩をしない。
「……これで、村の夜は落ち着く」
囁くと、器の甘さが舌から離れ、空気に薄く溶ける。
溶けた香気は、焦りを持たない。
焦りを持たない夜は、眠りの入口を広げる。
釘は、役に立たない。
その時、小部屋の入り口で、灯りが少しだけ強くなった。
リリィの手が震えたわけではない。
ケイルの目が、器の光を見て、ほんのわずかに眩しさを増したのだ。
増した眩しさは、影を濃くする。
濃い影は、罠を隠す。
床の隅に、細い線。
線は、器から伸びている。
器の循の糸が、部屋の外へ繋がっていた。
繋がりは、不意打ちだ。
繋がりは、外から断たねばならない。
中から断てば、器が揺れる。
揺れは眠りを落とす。
「外の線、切るな」
俺は短く言い、床の線の上に空気の糸を置いた。
空気の糸は、見えない。
見えない方がいい。
線の上に薄い「緩衝」。
緩衝は、切らない。
切らない緩衝は、線を太らせる。
太った線は、器の循を内側に戻す。
戻ることは、正しい。
ケイルが半歩下がった。
彼は切るのが得意だ。
得意なことを我慢するのは、勇気だ。
勇気は、支援を受け取る第一歩だ。
彼は今日、その第一歩を踏んだ。
しばらくして、器の周りの空気が完全に落ち着いた。
灯りを少し上げる。
上げすぎない。
上げすぎると、影が濃くなる。
濃い影は罠を隠す。
隠すものは、避ける。
避けるものは、歩幅を乱す。
乱れた歩幅は、橋を落とす。
「終わった」
セリアの声は短く、しかし微かな安堵を含む。
彼女は安堵を隠さない。
隠さないことは、誠実だ。
誠実な安堵は、重くない。
重くない安堵は、持ち運べる。
俺は数珠を握り、留め具の冷たさに指を座らせる。
指が座ると、糸が座る。
糸が座ると、橋が座る。
橋が座れば、落ちない。
小部屋を出る。
扉は静かに閉じる。
閉じた音は、鍵の音ではない。
布が重なる音だ。
布は静かに、しかし確かに、世界を柔らかくする。
通路へ戻ると、空気の重さが少し変わっていた。
眠りの部屋の焦りが減り、壁の苔の匂いが強くなる。
苔の匂いは湿りを持つ。
湿りは落ち着く。
落ち着く通路は、歩きやすい。
歩きやすい通路は、長い。
「王城に報告を」
ケイルが言いかけ、セリアが肩をわずかに動かす。
動きは小さい。
小さい動きは、合図だ。
「報告はする。
だが、名と証は優真のものだ。
古い保持の形に触れたのは彼だ」
リリィの目が俺に向いた。
目の縁に、少しだけ濡れた光。
泣いていない。
泣いていないのが、彼女の強さだ。
彼女は泣くべきときを知っている。
今は違う。
「戻ってきて、と言ったら?」
彼女は言う。
言葉は柔らかいが、今は着地が柔らかい。
柔らかい着地は、足を痛めない。
痛まない足は、歩ける。
歩けるなら、橋を渡れる。
俺は答えない。
答えないことは、逃げではない。
橋の上で答えを持つと、足場が重くなる。
重くなれば、落ちる。
落ちないために、答えを次の部屋に置く。
通路の先に、もうひとつの部屋の気配。
今度は眠りではない。
覚醒の部屋だ。
覚醒――心を起こす。
起こしすぎれば、神経は燃える。
燃えた神経は、夜に眠らない。
村の症状に、覚醒の針が混じっていた可能性がある。
針は、小さいほど深い。
深いものには、薄い糸を合わせる。
「次の部屋へ行く」
俺は言い、歩幅を少し小さくした。
小さくするのは、速度を落とすためではない。
足場の変化に対応するためだ。
変化は橋の友だ。
友なら、丁寧に扱う。
角を曲がると、覚醒の部屋の扉が現れた。
扉は細い。
細い扉は、強い。
強いものは、細い顔をしている。
器と同じだ。
礼をする。
糸を結び、余りをしまう。
余りは見せない。
扉の刻印に、古い形の「覚」が混ざっていた。
覚は、目に触れる糸。
目は敏感だ。
敏感な場所に糸を置くなら、細い方がいい。
細い糸を三本。
一本は光の入り口、一本は光の出口、一本は光の滞留。
入り口を狭め、出口を広げ、滞留を薄くする。
光は通るが、長居しない。
長居しない光は、神経を燃やさない。
「拍を、少し上げて」
マリアが笑って、音を一段高くした。
高い音は目を起こす。
起こしすぎない高さ。
支援は、音とよく合う。
音は橋の友だ。
友なら、任せる。
セリアの灯りが扉の縁に薄く触れ、ケイルが杖を下げた。
彼は壊さない。
壊さないことは、学びだ。
彼は早く学ぶ。
早く学ぶことは、強い。
扉が、細い音を立てて開いた。
覚醒の部屋は、眠りの部屋よりも匂いが薄い。
薄い匂いは、神経を締める。
締めすぎると、針になる。
針は痛い。
痛みは合図だ。
合図は、速度を決める。
部屋の中央に、低い柱。
柱の頂に、目の形の石。
石は光を持たないのに、光っているように見える。
見える光は、視神経の錯覚だ。
錯覚は悪くない。
悪くないが、焦る。
焦りは眠りを拒む。
「滞留を薄める」
俺は石に手をかざし、糸を一本だけ送った。
送るのは、少ない方がいい。
多い糸は、光を濁す。
濁った光は、心を暗くする。
暗い心は、眠りを拒む。
拒まないように、糸を細くする。
細い糸は、長くする。
長い糸は、石の周りを巻く。
巻き方は、縫いではなく撫で。
撫でれば、石は怒らない。
「優真」
リリィの声。
俺は手を動かしながら、背中で聞く。
声は柔らかい。
柔らかいが、今は硬くない。
硬くない言葉は、橋に乗せても重くない。
「君のやり方は、美しい」
彼女は言った。
美しい。
美しさは見栄えじゃない。
整いだ。
整ったものは、長く持つ。
長く持つものは、橋になる。
橋になるものは、落ちない。
ケイルが小さく笑った。
笑いの皺が戻る。
戻る皺は、彼の武器だ。
武器は、使い方次第だ。
彼は今日は使わない。
使わないことは、うまさだ。
滞留が薄くなり、石の「覚」が呼吸するようになった。
呼吸は、眠りの友だ。
友なら、喧嘩しない。
眠りと覚醒が喧嘩しない状態を作れば、村の夜は静かになる。
「終わり」
俺は手を下ろし、数珠の留め具に指を座らせる。
指が座ると、心が座る。
心が座ると、糸が座る。
糸が座ると、橋が座る。
橋が座れば、落ちない。
部屋を出ると、通路の空気がさらに落ち着いていた。
眠りと覚醒のバランスが取れた。
バランスは、美しい。
美しさは、長く持つ。
長く持つものは、橋になる。
橋は、渡る。
「王城に戻る前に、村へ」
俺が言うと、セリアが頷いた。
ケイルも頷いた。
リリィは、少しだけ笑った。
笑いは乾いていない。
乾いていない笑いは、体に良い。
帰り道、扉の前で一度だけ振り返る。
古代紋章庫の闇は、眠りのように深い。
深い夜の方が、橋はよく見える。
エレナの言葉が、数珠の冷たさに重なる。
――橋は夜でも架けられる。
夜の方が、橋はよく見える。
俺は橋を渡り終え、外の夜に戻る。
星が薄い。
薄い星は、強い。
強いものは、薄い顔をしている。
俺は薄いものが好きだ。
薄いものは、長い。
長いものは、覚える。
覚えたものは、橋になる。
村へ戻ると、空気の角が少し丸くなっていた。
子供の笑いが音程を取り戻し、大人の目の縁が赤くない。
眠りは、入口に布がかかった。
釘は、役に立たない。
老人が藁の上でゆっくり呼吸をしている。
女が肩の力を抜き、男が膝を緩める。
マリアの弟が舌打ちをしない。
静かな音のない場所に、歌が薄く置かれる。
歌は、橋の上の布だ。
布があれば、足は冷えない。
「ありがとう」
村の声は軽い。
軽いが、深い。
深い軽さは、長い。
長いものは、覚える。
覚えたものは、橋になる。
リリィが俺の横に来て、目を見た。
目は濡れていない。
濡れていない目は、強い。
「戻ってきて、ともう言わない。
君の橋が、今、必要な場所に架かるのを見たから」
彼女は言った。
彼女は、正しい。
正しいが、俺は俺の橋を持つ。
持つことは、選ぶことだ。
選ぶことは、怖い。
怖さは合図だ。
合図は、速度を決める。
「俺は、俺を選ぶ」
短く答える。
答えは短いが、重くない。
重くない答えは、持ち運べる。
持ち運べる答えは、次の橋へ乗る。
ケイルが肩をすくめ、笑いの皺を整える。
整えるうまさは、彼の美しさだ。
美しさは、見栄えじゃない。
整いだ。
整ったものは、長く持つ。
長く持つものは、橋になる。
セリアは灰色の目で村の空気を測り、短く頷いた。
頷きは、印だ。
印は刻まない。
刻めば重い。
重い印は、動かない。
動かない印は、橋に向かない。
夜はまだ深い。
深い方が、橋はよく見える。
俺は数珠の留め具に指を座らせ、歩幅を少しだけ小さくした。
小さくするのは、速度を落とすためではない。
次の橋を探すためだ。
探すことは、支援の仕事だ。
支援は、生きるための術だ。
ゆっくり、確実に。
俺は歩く。
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