第3話 村の夜明けと調律

第3話 村の夜明けと調律

夜の匂いは、藁と水と果実の残り香が混ざっていた。

藁葺きの家の中は静かで、眠りの紋が置かれた人たちの呼吸が、重ねた布のように揃っている。

外の星は薄いが、薄い星の方が長く見える。

長く見えるものは、覚える。

覚えたものは、橋になる。

俺は橋を落とさないために、手のひらの紋に指を座らせたまま、夜明けまでの時間を村の中に配分することにした。


セリアは戸口近くで灯りを低く保ち、灰色の目で空気の揺れを測っている。

彼女は測ることが上手い。

上手い人間は、余計なものを足さない。

マリアは竈端の腰掛けに座って、小さく歌を置いていた。

歌は空気の端に布を引く。

布があると、足は冷えない。

冷えない足は、長く歩ける。

俺は彼女の拍に糸の深さを合わせ、村人の眠りが夜を渡りきるかどうかを耳で確かめる。


「優真、拍は今のままでいい?」

マリアの声は低く柔らかい。

彼女は合わせるのが早い。

早いことは強さだ。

俺は頷き、藁床の端に膝をついた。

老人の呼吸は深くなりすぎず、浅くなりすぎず、丁度いいところに座っている。

女のひとりは手を胸に置いたまま眠っていて、その手の重さが呼吸の針を静かに押さえていた。

男は膝を緩めたまま、寝返りを打たない。

寝返りがないのは、緊張が取れた合図だ。


「今はいい。

夜明け前に一度だけ、拍を半分落として。

眠りが明けに向かうタイミングで、紋を薄める」

「了解」

セリアが戸口の布を少し持ち上げ、外の気配を見て頷いた。

彼女は「了解」とは言わないが、代わりに視線で合図をくれる。

合図が正確だと、糸の長さを無駄にしない。


俺は人数分の「沈静」から、村全体に広がる「調律」へ移る準備を始めた。

眠りと覚醒のバランスを取るための紋をひとつ、村の中心――この家の梁の節に置く。

節は力の集まるところだ。

集まるところに置く紋は、派手に見せない方がいい。

見栄えは古い保持の敵だ。


梁に手を当てる。

木の肌が冷たい。

冷たさは指を正直にする。

正直な指は、余計な糸を出さない。

数珠の留め具が指の腹に座り、座った感覚が背骨に伝わる。

背骨が座ると、糸が座る。

糸が座ると、橋が座る。

橋が座れば、落ちない。


「優真、どんな紋を置く?」

セリアが問う。

彼女は問うとき、灯りをわずかに落とす。

言葉が空気を乱さないように。

俺は梁の節に意識を落としたまま、短く答えた。


「『眠り』『覚』『呼吸』の三拍子で調律する。

入口を広げ、出口を狭め、滞留を薄くして、朝の光を受けた時に自然に呼吸が起きるようにする」

言いながら、指で空中に見えない輪郭を描く。

円はひとつ。

円の内側に細い糸を三本。

一本は眠りの起点、一本は覚醒の起点、一本は呼吸の交点。

交点に薄い「安定」を座らせ、三本の糸が互いに喧嘩をしないように間をやわらげる。

間がやわらぐと、音が良くなる。

音が良くなると、眠りは素直になる。


「拍を、少しだけ上げる」

俺が囁くと、マリアが音をほんの少し明るくした。

明るさが、梁の節に置いた糸の端を温める。

温めすぎないように、俺は「抑」を薄く被せた。

抑は布だ。

布は重さにならない。

重さにならない抑は、良い抑だ。


梁から、家全体へ糸を伸ばす。

伸ばし方は、縫いではなく撫で。

撫でれば、木は怒らない。

怒らせない支援は長持ちする。

長持ちするものは、橋になる。

ゆっくり確実に、梁から柱へ、柱から床へ、床から土へ。

紋の輪郭を家の骨組みに合わせて置いていく。


「優真、糸の配分を教えて」

セリアが横に来た。

彼女は知りたがる。

知りたがる人間は、橋を覚える。

覚えた橋は、落ちない。


「柱には『呼吸』を厚く。

床には『眠り』を薄く。

土には『覚』を細く。

家の中にいる人は、夜の間『眠り』の布で守られて、朝に『呼吸』が柱から起きる。

そして『覚』は足元で細く芽吹く。

上から起こすと焦る。

下から起こすと落ち着く」

「理にかなっている」

セリアは短く頷き、灯りの位置を家の中心へ移した。

光は強くない。

強くない光は、影を濃くしない。

影が濃くないと、罠が隠れない。

隠れない罠は、避けられる。


村の外から、遠い鍛冶の打音が一つだけ聞こえた。

夜明け前の準備を誰かが始めているのだろう。

打音は一定で、早くない。

早くない音は、紋に合わせやすい。

合わせやすいと、糸が無駄に太くならない。


「リリィ」

戸口の布の向こうから、彼女が軽く返事をした。

彼女の声は柔らかい。

柔らかさは今、硬さを隠さない。

隠さないことは、誠実だ。

誠実な声は、糸を乱さない。


「灯りをもう一段落として、外の通りの角に『静』を一つ。

村に入る音が強すぎると、朝の『呼吸』が驚いてしまう」

「わかった」

リリィは脚の運びが静かだ。

静かな足は、橋の上で邪魔をしない。

足音が消えると、外気の湿りが戸口に薄く座る。

湿りは落ち着く。

落ち着いた戸口は、空気の出入りを整える。

整った出入りは、呼吸だ。


俺は梁の節の糸を一度だけ撫で直し、家の内側に「間」を置いた。

「間」は紋の中では目に見えないが、非常に重要だ。

詰めすぎると、人の心が窒息する。

空けすぎると、焦りが入ってくる。

程よさは、橋の幅だ。

幅が合っていれば、落ちない。


「優真、その『間』の置き方、教えて」

マリアが興味津々の目で近づく。

彼女は天真爛漫だが、吸収が早い。

早さは利点だ。

利点を持つ人間は、支援の友だ。


「間は、拍で置く。

拍をひとつ分、音を置かない。

置かない時間が、紋の呼吸になる。

呼吸があると、糸は疲れない。

疲れない糸は切れない」

「なるほど……じゃあ、拍の『無音』を織り込むんだね」

「そうだ。

無音は、支援の武器だ」

彼女は嬉しそうに頷き、歌に無音の拍をひとつ織り込んだ。

家の空気が、ほんの少し柔らかくなる。

柔らかくなった空気は、指の腹に座る。

座った指は、糸を落とさない。


時間がゆっくり流れ、夜の濃さが少しだけ薄くなった。

薄くなると、匂いの層が変わる。

果実の甘さは奥へ引き、土の湿りが前に出る。

湿りは落ち着く。

落ち着く匂いに合わせて、俺は「眠り」を薄め、「覚」を細く足す。

細い「覚」は、足の裏から芽吹く。

芽吹いた途端に引き抜かないように、薄い「抑」を被せる。

抑は布だ。

布は重さにならない。


「優真、朝になったら、この紋はどうするの?」

セリアが問う。

紋は置けば終わりではない。

置いた後の扱いが、橋の寿命を決める。


「家の梁に置いた『調律』は、朝の呼吸で一度だけ薄める。

そのあと、昼に『覚』を切らないで、『眠り』を外に出す。

夜になったら、外から戻ってくる『眠り』を家の中に薄く引き、朝にまた薄める。

循環させる。

切ると焦る」

セリアはそのルーチンを聞きながら、灯りをさらに柔らかくした。

彼女は「ループ」の扱いが上手い。

上手い人間は、無理をしない。

無理がないものは、長い。


戸口の布が揺れ、リリィが静かに入ってきた。

彼女の目は濡れていない。

濡れていない目は、強い。

彼女は俺の手のひらを見る。

手のひらの紋は光っていない。

光らない方がいい。

古い保持に光は似合わない。


「君のやり方は、村のためだ」

彼女は言った。

言葉は柔らかく、着地が柔らかい。

柔らかい着地は足を痛めない。

痛まない足は、次の一歩を踏める。


「王城のためにもなる」

セリアが補う。

彼女はいつも、場と群と扉を区別する。

「王城は場。

人は群。

依頼は扉。

あなたは鍵」――彼女のその言い方は、俺の脳の中で橋の図形に変換される。

図形に変換される言葉は、分かりやすい。

分かりやすいものは、強い。

俺は頷き、糸の余りをしまった。


呼吸が村に広がるのを確認するために、家の外へ一歩だけ出た。

外気は冷たい。

冷たさは指を正直にする。

村の通りはまだ暗いが、暗い方が音がよく聞こえる。

遠くの鍛冶の打音は一定。

近くの井戸の水の匂いは、静かだ。

静かな水は、朝に向いている。


「優真、外の通りにも『調律』を置く?」

リリィが隣に立ち、声を落とす。

彼女は落とし方がうまい。

うまい落とし方は、場を守る。


「置く。

ただし、家ほど厚くしない。

外は風が運ぶ。

風は橋だ。

橋に橋を重ねると、重くなる。

重い橋は、渡る前に折れる」

「風に『間』を……置ける?」

マリアが戸口から顔を出す。

彼女は風にも歌を置ける。

歌は風の友だ。

友なら、任せる。


「置ける。

風の拍は、朝は遅い。

遅い拍に無音を織り込む。

無音は橋の幅だ」

三人で通りに出る。

セリアは灯りを最低に落とし、光の輪を小さくした。

小さい輪は、影を濃くしない。

影が濃くないと、罠が隠れない。

隠れない罠は、避けられる。


通りの角ごとに、薄い「静」と「間」を置く。

置き方は撫で。

撫でれば、石は怒らない。

怒らせない支援は、長持ちする。

長持ちするものは、橋になる。

村の空気に糸が薄く混ざり、匂いの層がゆっくり動く。

動きはゆっくりでいい。

ゆっくりだと、確実だ。


「優真、こういうの、王城は数字にできないね」

リリィがぽつりと言う。

彼女は実務に強い。

数字に強い人間は、数字にできないものを恐れる。

恐れは合図だ。

合図は速度を決める。


「数字は王城の仕事。

橋は俺の仕事」

「……そうだね」

彼女はほんの少し笑った。

乾いていない笑いは、体に良い。


村の中心へ向かう途中、井戸の側で、眠りの紋が過剰に働いた跡を見つけた。

夜に水を汲みに来た誰かが、井戸の石に「沈静」を厚く置いたらしい。

厚すぎると、朝に水が重くなる。

重い水は、喉が嫌う。

嫌うものは、体に良くない。

俺は井戸の縁に薄い「抑」を被せ、重さを外に出す。

出しすぎないように、風の拍に合わせて無音を置く。

無音は橋の幅だ。


「こういう過剰は、村人にも教えないとね」

セリアが言う。

彼女は育てることを知っている。

知っている人間は、橋を長くする。

長い橋は、村を渡す。


「教える。

『支援は生きるための術』『やりすぎない』『足りなくしない』『拍と無音』『撫でて置く』。

この五つを、村の子供にも伝える」

「五つ……わかりやすい!」

マリアが目を輝かせる。

輝きは朝の光に似ている。

似ているものは、ぶつからない。

ぶつからないと、糸が切れない。


村の広場に着くと、夜明け前の薄い気配が広がっていた。

広場は村の心臓だ。

心臓には「拍」がある。

拍を乱さないように、広場の中央に薄い「呼吸」を置く。

置くのは一本だけ。

一本を太くせず、長くする。

長い一本は、村全体の拍をゆっくり揃える。

揃えることは、強さだ。

強さは静かだ。


「優真、ここに『名』を置く?」

セリアが問う。

「名」は紋の中で特別だ。

名があると、紋は人の心に座る。

座った紋は、動かない。

動かないことは、場を守る。

守るものは、重くなる。

重すぎると、折れる。

慎重に扱うべきだ。


「置かない。

広場は誰のものでもない。

名を置くと、誰かのものになる。

村の『拍』は群のものだ」

セリアは短く頷き、灯りをさらに落とした。

灯りはもう、ほとんど役割を終えている。

夜明け前の薄い光は、広場の石の亀裂に座り、座った光が拍に混ざる。

混ざると、呼吸が起きる。


「拍、半分落とします」

マリアが囁き、歌をひとつ低くした。

無音の拍が広場の空気に布をかける。

布があると、朝の足音が柔らかくなる。

柔らかい足音は、橋に優しい。


村の家々から、起き出す気配がゆっくり広がる。

扉が軋む音、水の音、木の音。

全部がゆっくりで、確実だ。

確実な音は、橋に乗る。

橋に乗った音は、落ちない。


「優真」

背後でリリィが呼ぶ。

彼女の声は柔らかい。

柔らかいのに、今は硬くない。

硬くない声は、橋に乗せても重くない。


「戻ってきて、とここでも言わない。

君の橋は、ここに今、必要だった。

これからも、必要な場所に架けてほしい」

彼女は言う。

彼女は正しい。

正しいが、選ぶのは俺だ。

選ぶことは、怖い。

怖さは合図だ。

合図は速度を決める。


「俺は、俺を選ぶ。

村の『拍』を整えたあと、王城の依頼も、必要なら渡る。

場は王城。

群は人。

扉は依頼。

鍵は俺の手のひら」

セリアが薄く笑った。

彼女は比喩を好む。

比喩は橋の図形だ。

図形は分かりやすい。

分かりやすいものは、強い。


村の広場に、朝の光が最初に座った。

座った瞬間、家の梁に置いた「調律」が一度だけ薄まり、柱の「呼吸」が自然に起きる。

床の「眠り」は外へ出て、土の「覚」が足の裏から芽吹く。

芽吹いた呼吸は、焦らない。

焦らない呼吸は、長く続く。

長く続くものは、橋になる。


老人がゆっくり目を開けた。

女たちが肩の力を抜き、男が膝を伸ばす。

子供の笑いが音程を取り戻す。

村の声は軽い。

軽いが、深い。

深い軽さは、長い。

長いものは、覚える。

覚えたものは、橋になる。


「ありがとう」

村の端から端まで、同じ質量の言葉が少しずつ届く。

重すぎない。

軽すぎない。

程よさは橋の幅だ。

幅が合っていれば、落ちない。


数珠の留め具が、朝の光で少しだけ温かい。

温かさは指を正直にする。

正直な指は、余計な糸を出さない。

俺は手のひらの紋を一度だけ撫で、余りをしまった。

しまうことは、次の橋のためだ。


「優真、次は?」

セリアが問う。

彼女は次を急がない。

急がないことは、強い。

強い人間は、落ちない。


「村の『拍』が昼までに乱れないかだけ見て、それから王城へ。

紋章庫の奥はまだ眠っている。

眠りの部屋は落ち着いた。

覚醒の部屋も整えた。

でも、まだ『記憶』の部屋があるはずだ。

記憶は重い。

重いものは、薄い顔をする。

そこでは、もっと細い糸が要る」

セリアの灰色の目が、朝の光の中で少しだけ熱を持った。

冷たい人間が熱を隠さない時、正確なタイミングで出せる。

出せる人間は、好きだ。


「マリア、村の拍を昼まで見てくれ。

無音の拍を忘れずに」

「任せて。

歌は布。

布は重くない。

重さにならない布は、良い布」

彼女は笑った。

笑いは乾いていない。

乾いていない笑いは、体に良い。


リリィは広場の端で、誰かに指示を出していた。

彼女の指示は短い。

短い指示は、強い。

強いが、傷を作らない。

彼女は現場で誠実だ。

誠実さは、時に痛いが、今は痛くない。


俺は深呼吸をひとつ。

吸う、吐く。

吐く時に、手のひらの紋を少し薄める。

吸う時に、背骨を座らせる。

座った背骨に、橋が座る。

座れば、落ちない。


朝の村は、ゆっくり確実に歩き始めた。

歩幅は小さい。

小さい方がいい。

小さいと、落ちない。

落ちないと、長く行ける。

長く行けるものは、覚える。

覚えたものは、橋になる。


俺は自分の歩幅を少しだけ小さくし、王城へ向かう頭の中の地図に、一本の糸を置いた。

糸は細い。

細いが、切れない。

切れない糸は、次の扉の位置を教えてくれる。

扉の刻印はまだ見えない。

見えない方がいい。

見えない刻印は、大声を嫌う。

嫌うものに、静かな手を。

静かな手は、支援の手だ。


ゆっくり、確実に。

村の夜明けは終わり、次の橋が少しだけ見えた。

俺は橋を落とさない。

これからも、落とさない。

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