パーティを追放された俺、なぜか女だけの最強ハーレムパーティを作っていた
自ら Youtubeで朗読verを投稿
第1話 追放の場面
第1話 追放の場面
朝の光は、薄く冷たく、石の床にまだ夜の色を残していた。
騎士団棟の一角、訓練場の奥にある小さな会議室で、俺は椅子に座っていた。
木目の粗い背板が肩甲骨に当たって、わずかな痛みが神経を起こす。
壁には古い地図、王城の紋章、乾いた草の匂い。
窓は細く、風は通らない。
誰かが意図して閉じた空気だと分かった。
支援魔法使い――優真。
俺はいつも、場の空気を編み直すことから始める。
深呼吸。
指先を解き、手のひらの紋に意識を落とす。
保持の糸は細いが、確かだ。
今は編まない。
今はほどかない。
ただ、そこにいることを確認する。
ゆっくり、確実に。
扉が開く小さな音。
分厚い革靴の音が二つ、軽い靴音が一つ。
リリィ、ケイル、そして書記官のナダ。
俺の耳は足音の強さで機嫌を測る癖がある。
ケイルは機嫌がいいと踵を鳴らす。
今日、彼の踵は響いた。
リリィは機嫌が悪いと足音が消える。
今日、彼女の足音は薄かった。
「待たせたね、優真」
リリィが先に口を開く。
声はいつも通り柔らかいのに、背骨に一本刺がある。
彼女の髪は丁寧に結い上げられていた。
そういう日に、彼女は目の動きが少ない。
感情を凍らせるのが上手い。
「構わない。
どうした」
俺は穏やかに言う。
座っているにしては声が立って、床に落ちずに留まる感じがした。
保持をやりすぎないように、胸の奥でひとつ息を整える。
「要点から言うよ。
今週の王城依頼、火力が必要。
あなたの支援は助かっていたけど……新しい体制に移ることになったの。
あなたには、今日付けでパーティーを離れてもらう」
言葉は軽く選ばれ、重く置かれた。
俺はまぶたを閉じず、窓の外の細い光を見た。
光は動かない。
ここが、動かすべき場なのだ。
「理由を聞いていいか」
「効率。
王城は成果を数字で見る。
討伐時間、魔獣の撃破数、被害の少なさ。
あなたの保持は評価されてる。
でも、人手は限られていて……ずっと支援に寄せるより、見栄えの良い火力で押し切る方が、今は早い」
リリィは俯かない。
俯いてしまえば、本心が揺れる人だ。
だから彼女は、まっすぐ見たまま少しだけ眉を上げる。
彼女のそういう誠実さを、俺はきちんと覚えている。
「つまり、俺が遅い」
「遅いわけじゃない。
あなたは”ゆっくり確実に”やる人。
それは危機のときに強い。
だけど今回は、短距離走を競うみたいな依頼が続く。
あなたの良さが活きない」
ケイルが笑って、椅子の背に片肘を置いた。
彼の笑いは人を緩めるための技術だ。
わざと目尻に皺を作り、声を少し低くする。
彼は自分の価値をよく分かっている。
「優真、悪く思うなよ。
世界は選択だ。
サーっと焼いて、ドーンと落とす。
王城はそういうのが好きだ。
お前の支援は、やってる俺たちが一番分かってる。
でもな、今回は数字が先だ。
俺だってお前に飯をおごってやれるくらい稼がなきゃいけない」
ナダが紙束を差し出す。
起案書と辞令の形式で、「パーティーからの離脱確認」とある。
筆頭はリリィ、承認はケイル。
王城の印はまだ押されていない。
ここで俺がサインをすれば、押される。
机の木目が、刃物に削られた跡をいくつも持っている。
ここで幾つもの話が切られ、繋がれ、壊されてきたのだろう。
俺は指先で木目をなぞった。
細く深い溝に、汗の匂いが残り、指はそれを拾う。
人の手は記憶を持つ。
保持は、手から始まる。
「俺の保持の紋は、俺の手のひらにある。
手のひらがある限り、俺の術は俺のものだ」
俺は書類を見ずに言った。
リリィの喉がひとつ動いた。
彼女はこういう時、大げさに説得しない。
それが彼女の正しさだ。
ナダは視線を紙から俺へ移し、すぐにまた紙に落とした。
彼は職務に忠実だ。
「もうひとつ。
王城からの依頼で、古代の紋章庫に入る案件が出る。
保持の痕跡が混ざっている可能性がある。
あなたの紋、寄付してもらえないかな。
王城が研究用に……」
ケイルが言葉を滑らせる。
彼は丁寧に言う時、必ず自分の都合を先に並べる。
その丁寧さは刃だ。
刃は光る。
俺は刃の光り方に気づいた時、いつも手のひらの温度が上がる。
「寄付はしない。
俺の紋は、橋だ。
橋は、渡る人間のためにある。
飾って眺めるものじゃない」
リリィの睫毛が一瞬だけ震え、彼女は息を吸った。
深く吸う呼吸は、言葉を飲み込むための呼吸だ。
彼女は自分の言葉が誰かを傷つけると分かっている。
分かったうえで言うしかないことを、今、言っている。
「優真……ごめんね」
謝罪は軽い方が重い。
俺は首を振らない。
頷きもしない。
謝罪の重さに橋をかけるのは、受け取る側の仕事じゃない。
沈黙は、部屋の構造の一部になった。
窓の外の光が、床に一本の棒のような筋を落としている。
その筋は、俺の靴の先で止まっている。
靴先は、今日磨いていない。
磨く時間は、保持の糸をほどく時間に使った。
ゆっくり、確実に、失うものを手の内で数えるために。
「俺は出る。
サインはしない。
離脱は口頭で十分だ」
「形式が必要なんだ」
ナダが初めて言葉を挟む。
彼はルールの番人だ。
彼が正しい世界の片割れに立っていることを、俺は尊重している。
「形式は、あなたの仕事だね。
俺の仕事は、橋を落とさないことだ」
ナダはわずかに肩を落とし、小さく頷いた。
彼は理解したふりをしない人だ。
理解できないところを、理解できないまま持ち歩く人だ。
そういう人間を、俺は信じる。
ケイルが立ち上がる。
椅子の脚が石を擦り、短い悲鳴のような音を出す。
彼は杖を肩に担ぎ、軽く回した。
魔晶石が空気の成分を撫でて、青白い脈を作る。
見栄えはいい。
見栄えは彼の武器だ。
「優真、最後にひとつ。
俺が悪者に見えるかもしれないが、俺は正しい。
王城は数字を求めている。
お前の支援が、ゼロだとは言わない。
だが、今は百が要る。
百は俺の方が出せる」
彼は自分の正しさを疑わない。
疑わないことは強さだが、長く持たない。
保持は、疑いを糸に混ぜて強度を増す。
俺はそれを知っている。
彼は知らない。
「百を出してくれ。
王城はそれで助かる。
俺は俺の橋を架ける」
ケイルは口角を上げ、俺の肩を軽く叩いた。
叩き方が上手い。
相手の骨格を理解した叩き方だ。
俺はそのうまさを認める。
認めた上で、距離を保つ。
リリィは椅子の背に指を当て、爪を押しつけた。
彼女の爪は短い。
戦う人間は爪を短くする。
爪が長いと、保持の糸が引っかかる。
俺は昔、彼女の爪を切ってやったことがある。
彼女は笑って、「お母さんみたい」と言った。
そういう記憶は、今日の場に似合わない。
似合わない記憶は、足元で静かに眠る。
「じゃあ……荷物は?」
リリィが問う。
彼女は実務に逃げるのが上手い。
実務は逃げ場になる。
俺は椅子から立ち、背負い袋を手に取った。
袋は軽い。
保存パン、水袋、予備の魔紋糸、そして数珠。
数珠には、薄金の留め具。
エレナから譲り受けたものだ。
彼女はいつも言った。
――保持の勘は、手放してから育つものよ。
失う日ほど、指はよく覚える。
指は覚えている。
今日、覚え直す。
ゆっくり、確実に。
扉に手をかける前に、リリィの声が落ちた。
「優真」
呼ばれると、名前が物質になる。
柔らかいのに重い。
俺は振り返らない。
振り返れば、彼女は目を湿らせる。
彼女の涙は、俺が受け取るべき仕事じゃない。
彼女自身の仕事だ。
「戻ってきて、と言ったら?」
彼女は言った。
言葉が通り道を探す音が、胸の奥で微かなチリチリを生む。
俺は目を閉じず、手のひらの紋を見た。
紋は薄く光っていない。
光らない方が、今はいい。
「今さら戻れと言われても遅いんだが」
言葉は静かに出た。
俺の声は俺の方へ戻る道を持っていない。
前へだけ行く。
リリィの息がひとつ乱れ、すぐ整う。
彼女は整えるのが上手い。
上手いことは、強いことだ。
ケイルが何か言いかけ、言わなかった。
彼は自分の言葉が空気を割ると知っている。
今、その空気は薄く割れかけていた。
俺は扉を開けた。
廊下の空気は冷たい。
石の匂いが強い。
光の筋が増える。
訓練場の掛け声が遠くで揺れている。
小さな「今」がいくつも重なり合い、世界は立っている。
歩き出す前に、手のひらで数珠を握った。
留め具が冷たい。
冷たさは、指を目覚めさせる。
保持の糸が、指の腹に置かれ、息を吸う。
視線が背中に集まるのを感じる。
人の視線は重さになる。
重さは肩に乗る。
肩の筋肉を、少しだけ緩める。
緩めるのは、逃げるためじゃない。
持ち運ぶためだ。
廊下を出ると、訓練場の端に風があった。
風は土の匂いを連れてくる。
土は育つ。
育ちたいものを受け入れる。
俺はその匂いに一歩だけ足を止めた。
止めた足は、すぐにまた進む。
ゆっくり、確実に。
門番のラースが手を挙げた。
彼は無口で、目が優しい。
優しい目は、正しい言葉を持たないことが多い。
だから彼は頷く。
頷きは言葉だ。
俺は頷き返す。
門の外に出た瞬間、背中が軽くなった。
軽さは恐さに似ている。
恐さは速度を落とす合図だ。
俺は意識的に歩幅を小さくする。
小さくして、世界の音を拾う。
鳥の声、遠い鍛冶の打音、パンを焼く匂い、人々の朝の足音。
街は、いつものように俺のことを知らない。
知らない街は、優しい。
石畳に、微かな亀裂。
雨の季節にできたものだ。
亀裂は人の歩幅を少し乱す。
俺は足首に薄い「安定」の保持を置く。
自分のために編む支援は、贅沢じゃない。
生きるための術だ。
市場に近い通りはまだ静かだ。
露店が開く前の布の匂い。
色は布の中に眠っている。
目には見えない色の気配が、空気を少し甘くする。
甘さは薄いほど、長く続く。
二筋先の角を曲がったところで、背後から足音。
軽い、地面に乗る直前で浮くような運び。
天真爛漫な人間の足だ。
振り返る前に、声が飛んだ。
「ねえ、あなた。
そこ、踏んじゃダメ」
言葉は軽く、しかし正確に地面の一点を指していた。
苔が濃い。
罠の印。
踏む前に足を引く。
足は従順だ。
従順な足は、よく生きる。
振り向くと、彼女がいた。
金髪をゆるく編み上げた、小さな光を持つ顔。
瞳は夏の空より少し淡い。
マリア。
彼女の名前を知るのは、もう少し後でいい。
今は、彼女の声の正確さが必要だ。
「助かった。
ありがとう」
言うと、彼女は肩をすくめた。
仕草が軽い。
軽い仕草は嘘を持たない。
「あなた、足音がまっすぐ過ぎるからさ。
危なっかしい」
言葉を笑いに寄せながら、彼女は俺の荷の紐を指す。
結び目が緩い。
俺は結び直す。
結び直す手は、保持の糸と同じ動きだ。
ほどき、締め、余りをしまう。
ゆっくり、確実に。
「旅人?」
「追放された支援魔法使い」
自分の身分を軽く言う。
軽く言えたことに、自分が驚く。
驚きはすぐに消える。
彼女は目を丸くした。
「わあ……なんか、面白そう」
面白そう。
必要だと言う人間よりずっと少ない言葉だ。
俺は少し笑った。
笑いは乾いていない。
乾いていない笑いは、体に良い。
「何が面白い」
「だって支援って、誰かを最後まで連れていく魔法でしょ?私ね、最後まで行けないの。
すぐ走りすぎちゃって、足をくじくの。
あなたがいたら、足首、保持してくれる?」
彼女は足首を指した。
白い、薄い皮膚。
そこに紋を置く想像をすると、指が勝手に動き出しそうになる。
俺はその動きを止める。
「やれる」
「市場に行きたいの。
新しい布を買って、村へ戻る。
途中、盗賊の噂があるから……お礼は歌。
あなたの歩幅に合わせる歌」
歌。
歌は橋だ。
橋に歌を乗せるのは、悪くない。
俺は頷いた。
紋を指に軽く巻き、歩き出す。
彼女は俺の横で小さく鼻歌を置いた。
音は空気を整える。
整えられた空気は、足を軽くする。
通りの角の影には、少年が一人潜んでいた。
彼は視線だけを出す。
視線は刃物だ。
刃物は触らなければ傷つけない。
俺は影の輪郭に薄い「沈静」を置く。
少年の呼吸がひとつ長くなり、刃物は鞘に戻った。
「あなた、支援は戦うためだけ?」
彼女は歩きながら問う。
足音は軽いが、拍は狂わない。
彼女はリズム感がいい。
リズム感がある人間は、支援に向いている。
「生きるための術だ」
「じゃあ、村に来て。
眠れない人が増えてるの。
目が冴えて、心が落ち着かない。
支援で、眠りを保持できる?」
俺は目を細めた。
眠りの保持。
沈静の紋を柔らかく編み、呼吸に合わせて薄める必要がある。
強すぎれば心を削る。
弱すぎれば届かない。
橋の太さは夜で変える。
夜の方が、橋はよく見える。
「やれる。
優しくやる」
「ありがとう!」
彼女の声が少し高く跳ね、空気に小さく花が咲く。
俺は目の前の石畳の継ぎ目に薄い「安定」を足し、足が滑らないようにする。
支援は目に見えない方がいい。
見えないものは、長持ちする。
市場の入口で、彼女は足を止めた。
布屋の娘が店を開け、鮮やかな色が空気に溢れる。
色は音だ。
音は匂いになる。
匂いは記憶になる。
俺は自分の記憶が今、ほどけないように、数珠を握った。
留め具の冷たさが、指の腹に座る。
彼女は布を選ぶ。
白、青、藍。
藍は夜の色だ。
眠りの紋のイメージに、藍を重ねる。
具体から抽象へ、抽象から具体へ。
橋を架ける。
「あなた、ゆっくり確実にやる人だね」
彼女が言う。
褒めでも感想でもない。
観察だ。
観察は信頼の前段階だ。
「急ぐと落ちる橋が多い」
「でも、追いかけられてるときは?」
「落ちない速度で走る」
彼女は笑う。
笑うと、周りの色が少し柔らかくなる。
柔らかくなった色の中で、俺は足の指を一本ずつ意識した。
意識は保持の糸になる。
糸は見えない。
見えないことは、良いことだ。
買い物を終え、彼女は布を肩にかける。
肩掛けの重さは軽い。
軽い重さは、心を落ち着かせる。
彼女がふと空を見上げたとき、別の足音が近づいた。
硬い革、一定の拍。
規律のある足音。
その拍は、空気を二つに割る。
「あなたが保持の支援魔法使い?」
冷静な声。
セリア。
噂で知っていた名は、目の前の灰色の瞳とよく合う。
彼女の視線は強いが、押し付けない。
押し付けない視線は、信頼を育てる。
「そうだ」
「助言がある。
今夜、王城から古代の紋章庫の調査依頼が出る。
保持の痕跡が混ざっている可能性がある。
あなたに価値がある。
行くべきだ」
王城。
朝の部屋の空気が、さっきまで背中に貼り付いていたのに、今は遠い。
遠いものは怖くない。
怖いものは近い。
近いものは、自分だ。
俺は自分の手のひらを見た。
手のひらの紋は変わらない。
変わらないことは、強い。
「俺はさっき、追放された」
「王城は場。
人は群。
依頼は扉。
あなたは鍵」
彼女の言葉は短い。
短い言葉は強い。
俺は少し笑った。
比喩に弱い俺に、比喩がやさしく届く。
エレナの声に似ていた。
「報酬は?」
「名と、証。
古い保持の形に触れられるなら、あなたは伸びる」
伸びることは甘い。
甘さは薄い方が長い。
俺は薄い甘さを好む。
「行く。
ただし条件がある。
彼女の村の眠りを編む時間をくれ」
セリアは頷く。
頷く速度は一定で、強さも一定。
彼女は自分を保持している。
「わかった。
私も行く。
あなたの紋を見たい」
彼女の灰色の目に、薄い熱が灯った。
冷たい人間が熱を隠すと、必要な時に出せる。
出せる人間を、俺は好きだ。
夕方、マリアの村へ入る。
空気が角ばっている。
眠れない村は、色が乾く。
子供の笑いが音程を外し、大人の目が縁を赤くする。
俺は数珠を手にし、薄い「沈静」を空気に散らす。
散らすというより、置く。
置くものは、動かない方が効く。
藁葺きの家に入ると、女が三人、男が二人、老人が一人。
目はみな、少し荒れている。
泣いた後の目だ。
眠れないのは体の問題だけじゃない。
心の端が濡れている。
濡れた端に紙を当てるように、俺は紋を編む。
「夜になると、胸が詰まる。
息が浅い。
夢を見る前に目が覚める」
老人が言う。
彼の声は砂利のように低く、乾いている。
乾いた声は、濡れた心に触れると音が良くなる。
「沈静の紋を置く。
強くない。
呼吸に合わせる。
橋は細く、しかし切れない」
俺は言い、指を動かす。
空気に薄い線。
吸う、吐く。
吐く時に、少し紋を深く。
吸う時に、少し紋を薄く。
沈静は削ぐのではない。
重ねる。
女の一人が肩を落とし、男が膝を緩め、老人が目を閉じる。
効きが早い。
早すぎる。
何かがここで眠りを拒んでいる。
それが、今、わずかに流れた。
「王城から持ち込まれた古物を、祭りで披露した。
光る石。
それだ」
老人の口から、眠りに落ちる直前の言葉が出た。
セリアが入口で頷く。
灰色の目が村の空気を測る。
「紋章庫と繋がる。
やはり今夜だ」
彼女の言葉は短い。
短い言葉は、準備を始める合図だ。
俺は村の空気に紋を薄め、夜の橋が切れないように重みを分配する。
眠りの保持は、夜に渡す。
夜は、橋をよく見せる。
村を出る頃には、星が薄く光っていた。
マリアは肩掛けを直し、俺の隣で歌を置く。
歌は夜を柔らかくする。
柔らかくなった夜は、足に優しい。
森の入口にセリアが立つ。
彼女の横には、背の高い男。
影が顔を隠す。
彼の声は熟した穏やかさ。
「エレナから伝言。
『橋は夜でも架けられる。
夜の方が、橋はよく見える』」
エレナの名が出た瞬間、数珠の留め具が冷たくなる。
冷たさは指を目覚めさせる。
俺は頷き、手のひらに意識を落とす。
保持の糸は細い。
細いが、切れない。
王城へ向かう道は、古い石の匂い。
古代の紋章庫は地下にある。
城壁の端、影の濃い場所。
影は濃いほど、境がはっきりする。
はっきりした境は、扉の位置を教える。
そこで、背後から、あの足音。
踵を鳴らす男、ケイル。
足音を消す女、リリィ。
彼らは予定よりも早く来たらしい。
灯りが強すぎる。
強い灯りは影を濃くする。
リリィの声が、夜の温度を少し上げた。
「優真」
俺は振り向かない。
扉は目の前だ。
扉は呼吸をしている。
石と金属が混ざる音が、薄く流れる。
手のひらの紋が、扉の刻印と会話を始める直前だ。
「戻ってきて」
彼女は言う。
言葉は柔らかいが、着地が硬い。
硬い着地は、足を痛める。
俺は足首に薄い「安定」を置く。
自分のためだ。
「今さら戻れと言われても遅いんだが」
俺は言い、手を扉に置いた。
冷たい。
冷たさは、指を確かにする。
保持の糸が刻印に絡み、刻印が糸を受け取る。
会話が始まる。
言葉のない会話は、最短距離で真実に触れる。
「勝負しよう。
どちらが早く核に辿り着くか。
勝った方が古い保持の形を取る」
ケイルが声を上げる。
彼の声は戦を呼ぶ。
戦は橋を落とす。
セリアの声が夜に線を引いた。
「核は壊すものじゃない。
触るものだ。
急ぐ者を拒む」
彼女の言葉は冷たいが、世界に優しい。
俺はゆっくり息を吐き、糸を深くする。
扉が息をし、鍵の音が夜に落ちる。
細く、確かに。
開いた。
闇は眠りのように深い。
眠りは村の夜に似ている。
俺は灯りの前に立ち、薄い「安定」を空間に置く。
揺れない影は、足場になる。
足場は、橋だ。
一歩、二歩。
床に古い紋。
保持の形。
古いが生きている。
指がなぞり、糸が足される。
セリアは灯りを脈に合わせて調整し、マリアは歌を呼吸に合わせて置く。
三人の歩幅は揃う。
揃うことは強い。
強いことは、静かだ。
背後で、ケイルの杖が強く魔力を流す。
床が拒絶し、揺れが起きる。
揺れは足を奪う。
俺は短く紋を重ねる。
「沈静」を床に。
「緩衝」を脚に。
「安定」を空間に。
揺れが落ちる。
ケイルの手首に小さな痛みが残る。
痛みは合図だ。
速度を落とせ、という合図。
核は目の前。
心臓ではない。
心でもない。
橋の起点だ。
古い保持の形が集まり、静かに脈を打つ。
俺は手を置く。
震えない。
震えは昨日に置いてきた。
橋が、音を立てて世界に架かった。
鍵の音に似た、細く長い音。
夜は深いままだが、橋はよく見える。
俺は渡る。
彼らは彼らの橋を選べばいい。
リリィの名前が、背中で誰かに呼ばれる。
柔らかい。
柔らかいが、届かない。
届かない声は、悪くない。
届かないことは、選択だ。
俺は自分を選ぶ。
数珠の留め具が、指の腹で冷たい。
冷たさは確かだ。
確かなものだけを持って、俺は前へ出る。
ゆっくり、確実に。
それが、俺の第1歩だ。
今さら戻れと言われても遅い――そう言った舌の感触を、指が覚えている。
指は今日、よく覚える。
失う日ほど、指はよく覚える。
覚えたものは、橋になる。
橋は落とさない。
俺は落とさない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます