エピローグ 声の向こうで
宮城県南部、雪解けの早い小さな町。
白石優香(ライバーネーム・まる。)は、母が暮らす古い家の縁側に腰かけていた。庭にはまだ冬を引きずる風が吹き込むが、日差しは少しずつ柔らかくなっている。
湯気の立つ緑茶を手に、優香は静かに空を見上げた。
あれから数ヶ月、彼女は配信を完全にやめていた。
母の介護と生活費を稼ぐ仕事の合間に、配信をする余裕はなかったし、心が求めていなかった。
だが、ときどきイヤホンを耳に差し込むと、どこからか“あの声”が聴こえてくる気がした。あの静かな男性の声――soraと名乗っていた人の声だ。
画面越しのやりとりだけだったのに、あれほど心に残っているのは不思議だった。
“声”だけで人は誰かに触れられるのだと、彼女は実感していた。 最近、母が夜寝付くと、優香は台所で小さなノートを開いている。
配信で話した言葉や、リスナーからもらったコメントを、思い出せるかぎり書き留めているのだ。
それは彼女にとって“声のアルバム”だった。
そのノートの一番最後のページに、彼女はそっと書き込んだ。
「soraさん、ありがとう。
あなたがいてくれたから、私は話し続けられた。
あなたの声も、誰かを救っていますように」
インクがにじんで、文字が淡く揺れた。
でも、優香の顔は静かな笑顔を浮かべていた。
ある夕方、買い物の帰りに立ち寄ったカフェで、優香は何気なくスマホを開いた。
たまたま目に入った配信アプリの通知。
「soraのひとりごと」
――それは誠の配信だった。
迷った末、イヤホンを耳に差し込む。
「こんばんは、soraです。
今日は、春の空気について話します。 冷たい風の中にも、あたたかさが混じっているって、なんか不思議ですよね……」
その声は、かつてより少し落ち着き、柔らかくなっていた。
誰かに向けているというより、自分自身の中から溢れている声だった。
優香は、胸の奥に小さな光が灯るのを感じた。
“もう、私の声はいらない”と思っていたのに、あのとき支えた声が今も確かに息づいている。
それだけで、十分だった。
彼女はそっと画面を閉じた。
コメント欄には何も書かなかった。 ただ、胸の奥で静かに呟いた。
「……よかったね」
その夜、誠の配信に一人の新しいリスナーがコメントした。
「初めて聞きました。落ち着きますね」
誠は、いつものように静かに笑い、マイクに向かって言った。
「ようこそ。ゆっくりしていってください」
優香はその声を聴きながら、窓の外に目をやった。
庭の梅の蕾が、ほころびかけている。
その姿を見て、彼女は小さく息を吸い込み、決心する。
「母の体調が落ち着いたら、また声を出そう。 名前を変えて、姿を見せずに……でも、もう一度」
それは誰かのためか、自分のためかはわからない。 けれど、声を出すことの意味を、彼女は知っていた。
仙台から少し離れたこの町の夜空には、まだらに雲がかかっている。
その隙間から星がひとつ、静かに光っていた。
誠の見上げた星と同じ星かもしれない。
声は、姿が見えなくても、どこかでつながっているのかもしれない。
優香は空を見上げ、唇だけでつぶやいた。
「ありがとう。私も、ここから咲かせるね」
その声は、夜気に溶け、誰にも届かないようで、
どこかの誰かに確かに届いているようでもあった。
(エピローグ 完)
声の向こうに咲く花 凱 @Guy-0802
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