第10話 ここに、咲く

春が近づく仙台は、冬の名残と新しい季節の匂いが同居している。

広瀬川沿いの桜並木はまだ蕾のままだが、枝先はほのかに赤みを帯びていた。

その下を歩く誠は、数ヶ月前の自分とは違う足取りをしていた。

背筋はまだ完全には伸びていないが、足元に確かな重さがある。

胸の奥には、誰かの声に救われた記憶と、その声に返した“ありがとう”が残っている。

まる。の配信は、あの日から止まったままだった。

スマホの通知欄には、もう彼女の名前は浮かばない。

だが誠の耳には、今でも彼女の「ありがとう」と「続けてください」という声が残響していた。

それは消えることのない“灯”のようだった。

誠は転職活動を経て、仙台市内の中小の福祉施設に勤めることになった。

高齢者の生活支援をする仕事だ。

最初は戸惑い、うまく話せない自分に落ち込む日もあった。

だが、利用者たちが「ありがとう」と言ってくれるたびに、胸の奥に小さな光が灯るのを感じた。

声を届けることは、仕事でもできるのだと知った。

家では、相変わらず菜々がスマホをいじり、沙織は淡々と家事をこなしていた。

けれど、ひよりは誠の配信に時々こっそり参加しているようだった。

ある夜、ひよりがぽつりと言った。


「パパの声ね、保健室の先生みたいって友だちが言ってたよ。落ち着くって」


その言葉に、誠は笑ってしまった。

自分が誰かにそう思われていることが、恥ずかしくも、うれしかった。

ある日の夕食後、沙織が食器を洗いながら、ぽつりと話しかけてきた。


「この前ね、たまたま……あんたの配信、少しだけ聞いた」


誠は思わず手を止めた。

沙織は皿を洗う手を止めず、淡々と続ける。


「……悪くなかった。 あんた、あんな声出せるんだね」


誠は返す言葉を見つけられず、ただ「そうか」とだけ呟いた。

だが、その瞬間、長い間張り詰めていた何かがほんの少しだけ緩んだような気がした。

沙織の背中が、いつもより少しだけ柔らかく見えた。

夜、誠は自分の配信を開く。

画面に映るのは、相変わらずシンプルなコメント欄。

だが、そこには見慣れない名前が一つあった。


「初めてですが、落ち着きます」


その一文に、胸がじんわりと熱くなる。

かつて自分がまる。の声に救われたように、今度は自分の声が誰かに届いているのだ。

誠はマイクに口を近づけ、静かに微笑む。


「ようこそ。ゆっくりしていってください」


その声は、冬の終わりの夜気に溶けていくようだった。

部屋の窓の外には、まだ固い桜の蕾が風に揺れている。

だが誠は知っていた。

その蕾は、いつか必ず咲くことを。

まる。の姿は、もう画面の向こうにはない。

だが彼女の声は、確かに誠の胸に根を下ろしていた。

そして今、その根から芽生えた小さな芽が、誰かに届こうとしている。 仙台の夜空には、薄い雲の切れ間から星が一つだけ見えていた。誠はその光を見上げ、胸の奥で小さく呟いた。


「ありがとう。

ここから、咲かせていくから」


その声は、もう誰かに向けたものではなかった。

自分自身に向けた、約束のような声だった。

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