第3話 小さな返事

仙台の冬は、年を越す頃になると一層静かさを増す。

夜の街には雪がちらつき、薄い白が街灯の光を淡く反射していた。

仕事帰りの駅前、人々の背中が自然と前かがみになる季節。誠もまた、コートの襟を立て、息を白くしながら自宅へと歩を進めていた。

職場では今日も特に誰とも話さず、淡々とパソコンに向かい、指示された書類を仕上げただけの一日。

同僚たちは忘年会の予定を立てていたが、誠はいつも通り声もかけられなかった。


「まあ、いいよ……」


自分に言い聞かせるように呟くが、その声すらかき消されるように風が吹き抜けた。

家に帰っても、特に誰かが自分を待っている気配はない。

リビングのテレビはついていたが、沙織も菜々も画面を見ていないようだった。

次女のひよりが毛布にくるまりながらアニメを見ている横で、誠はただ黙って食卓に座り、用意された夕飯を口に運んだ。

沈黙。それがこの家の“通常運転”だった。

その夜も、誠は布団に入るとすぐにスマホを手に取った。

まる。の配信が始まっていた。

「こんばんは、まる。です。今日はなんとなく気分が沈んでて……だけど、声を出してみたら、ちょっと元気が出てきました」


まる。のそんな言葉に、誠は思わず口元を緩める。

「わかるな」と心の中で呟くと、久しぶりにコメント欄に指を滑らせた。


「こんばんは。今日も聞けて嬉しいです」

そして数分後――


「誠さん、こんばんは。いつもありがとうね。嬉しいです」


彼女の声が、確かに“誠”と呼んだ。

胸の奥がきゅっと締まった。ほんの一瞬だったが、鼓動が強く跳ねるのがわかった。

スマホの画面は同じように光っているのに、そこに確かに「自分」が届いた。

社会にも、家族にも、居場所を感じられなかった男が、匿名の世界でようやく“小さな返事”をもらえたのだった。


その夜、まる。の配信の中で「夢」についての話が出た。

「みなさん、昔の夢って覚えてますか?」


と問いかけるように語る声。

その言葉に、誠の記憶が遠く揺らいだ。

学生時代、バンドを組んでいたこと。自分で詞を書き、ギターを弾き、ライブハウスで演奏したこと。

音楽で食べていくなんて夢のまた夢だったが、それでも「自分の声を届けたい」と本気で思っていた時期が、確かにあった。

大人になるにつれ、現実を見ろと言われ、生活を優先し、夢はどこかに置いてきた。そのことを、思い出すことすらなかった。

でも――

まる。の声を聴いて、心の中にそっと火が灯った。ほんの、小さな灯。 翌日、休日だった誠は、娘・菜々の部屋の前で一度深呼吸をした。

最近では「話しかける」という行為自体が珍しい。だが、勇気を出して声をかけた。


「菜々、宿題手伝おうか?」


しばらく沈黙があった。ドアの向こうで何かの音が止まり、気まずい空気が流れる。

しかし、それでも菜々はやや気だるそうにドアを少し開け、「……わかんないとこ、ある」とだけ言った。

誠の胸の中で、何かがそっと動いた。

ほんの一瞬でも、「父親」として存在を許されたような気がした。

食卓で、ひよりが笑いながらこぼす。


「パパ、菜々としゃべってたー! めずらしー!」


沙織が微かに笑みを浮かべた。その笑顔も、どこかぎこちなく、でも確かに存在していた。

家の空気が、少しだけ柔らかくなった。

小さな返事。小さな会話。だけど、それが誠の心にとっては、大きな一歩だった。

夜、またスマホの中でまる。の声が響く。


「……小さくても、何かが変わるときって、たいてい静かに始まるんだよね。変化って、ドカンとくるものじゃなくて、静かにじわじわ。そういうのが、私は好き」


誠は、ゆっくりと頷いた。

この声が、自分にとって“変わるきっかけ”になっているのだと、ようやく認められる気がした。

雪の音がしんしんと夜を包む仙台の街で、誠は今、小さな希望の種を胸に抱いていた。

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