第2話 まる。との夜

その夜、誠は静まり返った寝室の片隅で、布団にくるまりながらスマホの画面を見つめていた。

日中の仕事は相変わらず空気のように過ぎ、家では誰ともろくに会話せず、ただ時間に押し流されるようにして帰ってきた。

リビングでは、妻の沙織がテレビの音をつけっぱなしにしたまま、無言で洗い物をしている音がかすかに聞こえる。長女の菜々は部屋に閉じこもり、ドアの向こうから時折イヤホンの音漏れが聴こえてくる。次女のひよりは早くに眠ったらしい。

家の中にいても、誠の居場所はなかった。

彼は音を立てぬよう、スマホのアプリを立ち上げる。「LiveSpace」――昨夜、偶然見つけた配信アプリだ。

まる。という女性ライバーの名前が「ライブ中」と表示されている。心が自然と引き寄せられる。

タップすると、画面の向こうから聞こえてきたのは、やさしい声だった。高くも低くもない、柔らかで穏やかな、どこか懐かしさを感じさせる声。


「……こんばんは。まる。です。今日も、なんとか一日が終わりました。みなさん、お疲れさまでした」


その挨拶だけで、なぜだか誠の目頭が少し熱くなった。

彼女の話す内容は取り立てて特別なものではなかった。

日中に見かけた街の風景、近所のカフェで飲んだカフェラテの話、疲れたときの心の持ち方。でも、その一言一言に込められた「誰かを気遣う気持ち」が、画面越しに確かに伝わってくる。

自分のために言われた言葉ではない。けれど、誰に向けられたものでもない「やさしい声」は、誠の心をそっと包み込んだ。

初めてコメントを送ってみようと思ったのは、配信開始から15分が過ぎた頃だった。

画面下のコメント欄に指を滑らせ、「こんばんは。初見です」とだけ打ち込む。


それだけのことなのに、心臓が少し早く打つ。


「お? 初見さんいらっしゃい。来てくれてありがとう。ゆっくりしていってね」


しばらくして、まる。が彼のコメントを読んだ。

その声が、スマホ越しに自分の名前を呼んだ気がした。

もちろん、「こんばんは」とだけしか言っていない。だが、それでも“自分という存在”が確かにそこに認識されたのだ。

誠は、何かがふっと緩むのを感じた。

それは、長いこと誰にも話を聞いてもらえなかった人間が、初めて自分の声に応答してもらったような、そんな感覚だった。 配信は深夜近くまで続いた。話のテーマはとりとめもなく、時にリスナーからの質問に笑いながら返事をし、時に静かに思索するように言葉を紡ぐ。

誠はただ、画面越しにその声を聴き続けていた。言葉の内容は頭に入っていない。けれど、心は確かにその声に寄り添っていた。

その夜、誠は久しぶりに眠る前に息を吐き、少しだけ肩の力が抜けた気がした。

それから数日、誠の生活は変わり始めた。

家族には変わらず言葉少なだったが、夜になると彼はまる。の配信を開くことを習慣にした。

コメントをする日もあれば、ただ耳を傾けている日もあった。

「今日はどんな声が聴けるんだろう」と思うことが、誠の1日の終わりを支えるようになっていた。


ある日、まる。がふと、こんなことを言った。


「誰かの“生活の中の一部”になれてたら嬉しいです。

もし、あなたが今日ちょっと疲れてたり、寂しかったりしても…… 少しでも、声が寄り添えたらいいなって思います」


まるで誠の心を見透かされたような言葉に、誠はスマホを強く握りしめた。

画面の向こうの誰かが、自分の存在を許してくれているような気がした。


まる。は本名も顔も明かさず、私生活についても多くは語らない。だが、それでも誠は彼女の声の中に、確かな“温度”を感じていた。 見知らぬ誰かの声が、こんなにも心を動かすとは思わなかった。

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