山中の呼び声

かたなかひろしげ

メリット

 秋も終わろうというこの時期に、俺が東名高速を飛ばしてこんな山奥にまで来たのは理由があった。


 付き合ってもう3年にもなる彼女に、ごく最近振られたのだ。

 言うならば、いささかみっともない話ではあるが、まあ、そのいわゆる傷心旅行というやつになるだろうか。


 そんな傷心を癒やすべく、殆ど観光客もいないような山奥を探すのも、今どきはとても簡単だった。ちょっとWebで検索するだけで、実に都合よく俺の望みを叶えてくれそうな場所が見つかったのだ。


 気がつけば俺はなにかに背中を押されるかのように、決済ボタンをクリックし、宿泊を決めてしまっていた。決めた場所は、宿屋比較サイトにも掲載されていないような、小さな旅館である。ここであれば、いや、ここだからこそ、俺の心の傷も癒やしてくれるに違いない。


 宿に付いたのは丁度チェックインの可能な夕刻だった。宿からかなり離れた駐車場に車を停めた頃には、あっという間に夕闇が濃くなっている。そこから徒歩で山道を数分、ようやく目の前に現れたのは、急斜面にしがみつくように建つ、一軒のふるびた旅籠のようだった。


 風雨に晒された板壁は黒ずみ、縁側に吊るされた提灯は破れてとうに色褪せている。周囲の木々はざわめき一つなく、人声も車の音も届かない。宿の木戸を開く音が、都会の喧騒から遠く離れてしまったことへの、一抹の不安を覚えさせた。


 宿に入ると、背中の丸い老主人が快く迎えてくれた。

 その日は簡単な夕食を頂き、そのままそっと眠りに就いた。その建物の作りの古さに相反して、準備されているこの布団は近年に交換したものだろうか? ほぼ新品のような品である。建屋に入った時に覚悟はしていたものの、思いの外、快適に眠れたのは有り難かった。


 ───翌朝の俺の遅すぎる目覚めは、案の定、朝食を昼食にする羽目になった。


 老主人は、こちらの疲れを気遣う言葉をかけるかたわら、俺が観光するような場所を尋ねるまでもなく、宿の山から15分程登った山の麓に、観光名所である珍しい巨木があると教えてくれた。

 主人曰く、なんでも「山に入るには、丁度よい頃合い」らしい。昨日宿に入る時に遠目に見た時にも、密度の濃い紅葉が遠くからも見えたのを思い出す。恐らくはあれのことを言っているのだろう。


 布団を申し訳程度に畳み、ゆっくりと昼飯を頂いてから、宿を出て、薦められた山道に入った。主人からは出掛けに、夕焼けが綺麗な山ですが暗くなる前に戻ってきてください、と言われている。確かに手元には照明もないのだから、山道は暗くなると動けなくなるだろう。そもそもそんなに遠出する気分でもないのだから、問題では無いだろう。


 店主が言っていた「観光名所」の巨木は、山道を30分程度登るだけで簡単に見つかった。

 しかしこれは……言葉は悪いが、ただの大きな楓の樹である。午後の爽やかな秋風にそよぐ巨木の姿は壮観ではあるが、其れ以上の特段の感情を喚起させるものではない。都会で暮らしていれば、まず眼にする光景でないのは確かだが。


 しかし程々に山を登ったこともあり、気分は案外悪くはない。だがしかし、そんな空気感をゆるゆると味わっていると、もう夕刻が近いことに気がついた。山の陽は動きが早い、よくよく気づけば夕焼けの赤光は、木々を照らしはじめていた。


 さてはこれはもう潮時かと、宿に帰ろうと踵を返す。

 そうしてつま先を一歩前に運んだ矢先に、俺の背後の巨木の奥から、誰かを呼ぶ、まるで震えるような女性の声がした。


 俺は思わず拳を握り絞め、背後の巨木を振り返る───


 もしかして、誰かを呼んでいる?

 宿の関係者であれば俺を呼ぶこともあるかもしれないが、あの古宿は背の曲がった老主人一人でやっているはずだ。だから宿の関係者の線は薄い。

 だとすると、自分と関係の無い女性がこんな山中の奥深くまで分け入り、誰かを呼んでいるということになる。


 好奇心が鎌首をもたげはじめた俺は、「こんな山中を独りで歩いている女など、どうせ訳ありなのだから、首を突っ込むのはやめておいた方がいい」という至極真っ当な考えをひとまず棚に上げ、巨木の裏側に回り込んでみることにした。


 巨木の幹は大きく、周囲の木も巻き込んでいるように見える。これを周りこむには足元に突き出た根を、器用に跨いでいく必要がある。根には古い苔がみっしりと生え揃っており、足場はよくない。


 慣れないことをしていることもあり、もたもたとしている間にも女性の声は間違いなく、色濃い木々の向こうから聞こえてきており、夕方の湿った空気を震わせている。誰かを呼んでいるのだけはわかったが、その名前までは聞き取れない。


 ようやく巨木の裏側に這々の体で回り込み終えると、その奥に広がる木々を覗いてみる。そう遠くない距離から聞こえてくるような気がしていた女性の声は、巨木のすぐ裏側でしていたのではなく、どうやらこの途方もなく続く木々の奥から響いてきているようだった。


 流石にこの獣道すらない木々の間をいく勇気は俺にはない。鎌首をもたげていた俺の無粋な興味は、自然の壁の前にやすやすと白旗を挙げた。気がつけばすっかり夕刻である。俺は慣れない運動で少しだるくなった足を気にしながら、宿に戻ることにした。


 常緑林も茶色い葉が増えてくる季節だから、宿の前は枯れ葉が吹き溜まっている。残念ながら、あの老主人ひとりでは、清掃が追いついていない様だ。この時期の山は、毎日枯れ葉を掃いていたとしてもキリがないに違いないし、そもそも掃き掃除を諦めてしまっているのかもしれない。


 旅館で振る舞われた晩飯は思いの外、美味しいものが並んでいた。聞けば、老主人には若い頃、料理の心得があり、夫婦で料理店を営んでいたらしい。成る程、この味であればさぞや流行ったであろう、と主人を持ち上げると、彼はなんとも言えぬ寂しげな顔で笑顔を返した。


 主人の気分を良くしたところで、俺は先刻体験したことを、主人に尋ねてみることにした。


「そういえば、先程山に入って、教えて頂いた巨木を見に行きました。それで、不思議な話なのですが、例の木の奥遠くから、誰かを呼ぶような女性の声が響いてきまして。ここらへんは民家も殆ど無いと思うのですが、どなたか山で迷ったりすることはあるのでしょうか?」


「それは……あの山には言い伝えがありましてネ。なんでも昔、丁度今頃のような紅葉の季節に、あの山で恋人に置き去りにされた女がいたらしいんです。それで毎年この時期になると、自分を置いて去っていった恋人の名を呼びながら山を彷徨さまようらしいですよ。それかもしれませんネ」


 あまり喋らない男だと思っていた老主人は、いままでの静謐せいひつさが嘘のように、せきを切ったかの如く朗々と言葉を続けた。


「その声を聞いた者は、その年のうちに ”最も大切にしている人” を失うそうです」


 ───みれば、今では老主人の口元には、うっすらと笑みすら浮かんでいるように見える。


「商売をはじめてみるとわかったのですが、この山はなんとも不思議な土地でして。少し宣伝をしただけで、何故かこんな田舎旅館にも客が来るんです。なんで料理店を畳んでこんな山奥で潰れそうな旅館を買い取って、商売を始めたか? ですか? だって、私はもう大事な人を亡くしてしまいましたから。自分だけが大切な人を失うなんて、理不尽でしょう?」


 にたりと笑う主人に、俺は心にもなくおののいてみせた。


 仕草だけではなく、言外に悪意を漂わせていたこの店主が、その内心に何等いくらかの俺への敵意のようなものを抱えていることは、最初に訪れた日からわかっていた。それなのに、わざわざ慄いてみせたのは、この老いた男が持てる精一杯の勇気を出して吐いたであろうこの独白に、俺なりの幾ばくかの敬意を払ったからである。同情と言ってもいい。



 ───だが、俺にも告白すべき話がある。


「ええ。実はその話。こちらの山に来る前に知ってたんです」


 俺は手元の電子タバコのスイッチを入れた。老主人にしてみれば、渾身の告白であったに違いない。俺が怒り出すと思ったのか、びくりと身体を揺すったものの、思いの外、俺が落ち着いていることに、逆に動揺しているようにも見える。


是非ぜひ! 是非ぜひ詳しく聞かせてください。そのたたられる ”大切な人”って、こちらが大切に思ってさえいれば、効果あるんでしょう? 実は俺、最近彼女に浮気されて振られたばかりなんですよ」


 別れ話の時の、俺を蔑むような彼女の笑顔が、今でも脳裏にべったりと張り付いて、瞼の裏からも離れない。

 あの時の顔だけは、いくら寝ても覚めても絶対に忘れられない。


「でも諦めきれなくて・・だから ”” と想って、ここに来たんです」


 俺は店主の先程の顔を真似るように、無理矢理口角を上げ、似合わぬ作り笑顔を見せた。

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