VOICE 4 "EXPERIENCE" 3

「午後八時……決行だよ、お二人さん」

「了解」

「了解、イル」



 暗闇の中で雨が煩い。雨が、雨が、風が。

 何もこんな悪天候な日に決行しなくてもいいだろうにと、水が入りこんだスーツの気持ち悪さをおさえる。熱帯夜に汗だくになるのも嫌だが、こんな台風の中でぐしゃっとしているのもかなり嫌だ。

 ゴーグル越しに前方を身軽に駆け抜けるイルを見失わないよう、目を細めて凝らした。闇と雨に遮られて迷子になりそうな不安を覚える。だがそれも、振り切ってしまえば、開き直ってしまえば問題はない。開き直る。自分が悪党だと認めてしまう。それでも一緒に居る連中は変わらないだろうから。



 こうやって夜に駆け抜ける時、

 この街は違う顔になる気がする。

 俺もジルもイルも、知らない誰かになる気がする。



 いつもと違う顔の街を、いつもと違う顔で駆け抜ける。今のオレは瀬尋鳴砂じゃない、誰でもない———

 ただの、名前のない泥棒だ。

 こいつらは仲間だ。

 それだけだ。

 何を知らされたって知らなくったってそれは変わらない。それはたった一つの真実である。



『回線良好?』

『ああ、無事繋がってる』

「こっちもだ。両者確認」



 インカムからイルとジルの声がして、オレは答える。どちらもいつもより少々強張っているような緊張しているような調子だ。

 こんな時こそ、スタンスは崩せない。

 スタンスを崩したらアウトなのだと、この仕事についた時に教えたのはイルだった。ジルの役割がイルの為に冷静でいる事ならば、オレの役目はいつも通りであるためにムードを作るべきなのだろう。

 それが、オレがイルのために出来ること。

 オレが二人のために出来ること。

 仲間っていうのは友達よりも強くて家族に満たない。



 けれど、

 オレ達は最強の仲間達だ。

 誰にだって負けない。

 薬にだって倫理観にだって邪魔されることがない。

 なんてったって首魁が最強なんだから、オレ達だってそうなのだ。決まっている。オレたちは分かち合える何かを持っている訳ではないが、それでも繋がっている。この糸は昨夜ジルが言っていた、運命の糸ととやらなのだろうか。俺はそれにたまたま引っ掛かっているだけなのかも知れない。いつか偉い誰かに勝手に解かれる糸かも知れない。

 だが今は繋がっている。絡まって取れなくなっている。繋がっている限りは応えたい。いつまでも繋がっていたい。それが無理だとしても、今を後悔したくない。この夏も、永遠になるだろう。どの夏とも違ったものになる。唯一の夏に。

 走り抜ける、この真夜中を。

 仲間を見失わないように。



 何もかもを信頼している。手の内は明かしてくれないけれど、オレ達は仲間なんだ。それだけでいい。表面上の秘密なんて、所詮はどうでもいいことで、仲間であるためにそれを明かして欲しいっていうのは……幼稚な独占欲みたいなものだったのかもしれなかった。



『入るよ。僕のあとをちゃんとついてきて』

「りょーかい、イル」



 ゴーグルを通して見える発光する線。イルが偵察にいった時に吹き付けたもの。セキュリティというトラップをくぐりぬけ、赤外線を視認できるゴーグルでゆっくり向かうのは警備員室だ。配電盤に細工をし時間差で停電が起きるようにし、電気的なトラップを無効化して、突如暗くなった中で慌てている警備員を当て身で気絶させる。明かりが戻った時、この博物館は丸裸になるのだ。

 防犯カメラを静止画像に差し替え、いつものように。それはすべてイルの仕事だった。偶に肩車をして高さ調節をするぐらいが、俺の役目。役立たずだが足手まといにはなりたくない。ジルは細身なのでイルを肩車するのがしんどいらしい。オレは軽々その脚を肩に乗せられる。配電盤の仕掛けが切れる。警備員室の電灯がパッと一斉に点くのを確認し、当て身で眠らせた警備員が居眠りと勘違いしてるうちに、すたこらと足音を殺して逃げる。バイザー越しにも、あの赤い線のトラップは消えているようだった。ほっとする。ずり落ちて来たイルを背負いながら。

 細いなあ。軽いなあ。あんなにシチュー食ったのに、全然変わってない気がする。朝昼晩と飯も食っておやつも付いてたのに、全然反映されてない。まあ軽業めいた作業もすることだし、それは悪いことではないんだろうけれど、とオレ達は獲物に向かって走る。

 いつものように、足音も立てず。



『ここが特別展示室。ここの防犯カメラの映像も静止画像に差し替えてるから動くだけ動いてもいいんだけれど、見張りが結構いるんだ。で、ナルに仕事を頼みたい』

「なんだ?」

『そこに通気口があるでしょ、上のほう』

「ああ」

『そっから入って特別展示室の真上にいくの。そして、コレ…催眠ガスの入った缶なんだけど、コレを放りこんで。気をつけてよ、ちょっとの衝撃で一気にブシューだから。ガス自体の重さは丁度イイように調節してるから、上の通気口から抜けずに大体地面から二メートルぐらいのところでフヨフヨするはずなんだ。ガードマン連中はコレで眠らせるの。あと、ちゃんとガスマスクの装備は確認してね……解った?』

「オーケーだ」



 オレは軽くジャンプして通気口に手をかけ、天井裏に入る。渡された博物館の図面を思い起こしながら例の部屋の真上にいき、ちょうど良さそうな場所を探した。

 あった。

 下を覗き見る。ぼんやりと幽かに浮かぶ展示品が一つ、部屋のど真ん中にあった。ドンピシャだ、発光する苔だかなんだかが生えてるって聞いてたからな。



『着いた?』

「ああ。あとはこいつを放りこむだけだな?」


 ばれてしまわないように小声で返す。一瞬キョロッとした外国人のガードマンは、気のせいかとすぐに仕事に戻った。偉い偉い、出来ればそのまま鈍感であってくれ。あと小一時間ぐらいは。

 何気なくデジタルの腕時計を見る。午後八時二十分。台風のさなか、この展示室も時折建物が軋む音が響いている。


『その場所も気をつけて。ヘタに獲物の近くだと、周りを巡ってる赤外線センサーに引っ掛かって計画水の泡だから。ここだけ動力源別なんだよね、昨日の偵察ではそこを確認したかったんだけどそれも出来なくて……悪いけど、頼むよ』

「……全部事前に言えよそういうこと」

『いま言った方が、スリルあるでしょ?』

「悪いけど頼む奴のセリフじゃねーな」

『あんまりお喋りしてる余裕もないぞ、お前ら。警備員室にだって人がいない訳じゃない。定時点検もある。今は眠らせた直後だから問題ないだろうが、時間が掛かるのは危険度が増すだけだ』



 この兄妹、揃ってオレを無能にしたいとしか思えない。



「失敗しても恨むなよ!」

『生殺しにするだけだ』



 ジルの野郎マジだな、声が。

 通気口を開けて俺はひょい、と音も無くその缶を投げる。

 カツンと床に落ちる音の直後に気の抜けるような音が響いた。あとは、バタバタと何かが倒れるような音。…そっと目を開けると…

 成功、らしい。



「成功だ、やったぞコノヤロウ」

『あはっ、オメデト! じゃあ早くそっから下に降りて鍵あけてくれる? 外側に鍵穴が無いと、さすがの僕でもちょいとムリでね』

「へいへい」



 息苦しいガスマスクの装備を忠告通りに点検してから、音を立てないように下へと降り立つ。……夏草や、兵どもが夢の跡……ってのはこんな感じか? そこいらにゴロゴロ転がってる連中はどう見ても堅気ではない、ツワモノって言う表現はかなり当たっている。人相の悪い外国人達がいた。外人部隊ってやつだろうか。ふぉーりん・れぎおん。名前だけは知ってる。

 こいつらが、イルを。

 …舌打ちして鍵の開閉を司るツマミを縦にする。薄く扉が開いて、二人が入ってきた。二人もガスマスクをしているから、顔が分からなくて一瞬ぎょっとなる。初めてでもなしに、慣れない。



「夏草や」

『兵どもが』

『夢の跡? 松尾芭蕉だね、ワリと当たってるかも。そんなのがサラッと出るほど学があるとは知らなかったなァ』

「キサマ……」

『さてと、ジルはアレの用意しててくれる? ナルにはもう一仕事お願いするから』

「またかぁ? なんか今日確率高いぞオレ」

『きっ、気のせい! えーとね、昼間に説明した通り……苔がむしている状態を保つためにサンゴにはカバーがかけられてる。ガラスのね。縦と横と上の直方体。その上に、僕を放り投げて欲しいんだ。脚力じゃさすがに足りないだろうから、ナルの手を使って僕がジャンプする。バレーボールの要領だと思って良いよ。トスだね』

「おう」

『僕はボール。ナルの手に乗ってジャンプするから、そこから見当付けて君が僕をそこに放り投げてくれ。周りはさっきも言った通り赤外線センサーがあるから、それに引っかからないようにね』



 ————さて。

 一メートル足らずの距離を、二メートルない高さを越えて。

 小さな四角形に——イルをトスする。シュートかもしれない。

 単純にはそういう事だな。

 出来るかじゃない。やらなきゃならない。寸分でもずれればアウトだ。…自信は無いが、不可能じゃないだろう。多分。しゅこぉっとガスマスクの上から深呼吸して、オレは一度目を閉じそれを開いた。



「……よし、了解だ」

『おや、どうして中々素直に受けてくれた。——ま、この中で一番身軽なのは僕だし、力があるのはナルなんだから、拒否されたって困るんだけれどね。じゃ……ジル、ケーブル貸して!』

『ほい』

『ありがとっ! じゃ、思いっきりお願いね』



 ったく、

 ホントになんか今日は確率高いっつーの!

 憎しみを込めて放り投げるように、領域の外から中心に向かってイルを投げつける。目を閉じて、トラップの発動か何かを恐れるが…五秒たってもそれらしき音は鳴らない。



『ふぃ……おーい、ナル? 成功だよ成功!』

「そ……っか、あー、アブネぇ——っ……」



 はー、と溜息をつく。今日は綱渡りが多過ぎだ、ホントーに。



『あ、あとの詳しい手筈はジルに聞いてね』

「へ?」

『つーわけで、手順はだな。電動滑車がここにある。今イルが向こうにフックを持っていった。ショーケースのガラス上部を外して本体にワイヤーをぐるぐる巻きにして引っ掛け、天井に設置してある滑車で上まで吊るしてから上を通ってこちら側に持ってくる。解ったか?』

「え…っと、つまりセンサーに引っ掛からないように吊るしてその上を移動するってことで良いのか?」

『そう、それでいい』

『こっちの仕掛け終わったから、ちょっと上げてみてくれる?』



 イルの声がして、ジルが動いた。スイッチをぱちんと鳴らし電動滑車が動く。なるほど、一メートルの百キロならこんな小道具が無くちゃなるまいな。みるみる巨大な幽霊のような呪いの遺物が持ち上げられる。

 そいつは呪われている。

 人を惑わす魔性に取り憑かれている。

 たしかに、仄明るく闇に浮かぶ姿は魔性——……



『———ストップ!』

「えっ?」



 突然のイルの鋭い声に、ジルが反射的にスイッチを切った。どうした、とインカムの向こう側で訊ねる声がする———が、イルは答えずにその下に潜り込んだ。ヘタにそれを吊るしているワイヤーが切れて落ちてきたりしたら恐ろしい事になるハズなのに、よくもまあ恐ろしげもなく……。



『……あっは、面白い仕掛けがあるみたい!』

「あ?」

『本物だよね、本物だ。この珊瑚樹は本物だけれど———』

「なんだ? なんなんだよ」

『本物だからこそ、ってヤツかな? コレ、中身が刳り抜かれてる…本物なのにハリボテなのっ』

「な…なんだそりゃ」

『だって下に取っ手がついてるんだもん。つまり、中は空洞で…代わりの何かが詰まって、こんな重さになってるって事でしょ? さぁて、鬼が出るか蛇が出るか……開けてみようかな? この鍵なら開けられそうだ』

「おい、下手な事はっ」

『ふにゃぁ!?』



 どさどさっという音が響き、イルの声が聞こえなくなる。なんだ、何が入ってたんだ? ショーケースの中を見ると何やらイルがこぼれ出た物に潰されているのが見える。大丈夫なのか、問いかけるジルの声も多少慌てていた。



「イル? イル!?」

『ほえあ、ビビッたぁ……。ん……コレ』

『なんだ、イル? なんだった?』



 ジルが訊ねても、ふんふんと頷く声しか聞こえない。イルが一人で納得しているらしい、オレ達には遠くて何がなんだかわかりやしねぇ。なんなんだ、一体。

 ガラスの箱の中には何か白っぽい粉末が入った小袋がいくつも零れ落ちている。なんだかは解らない、だが、サンゴが張りぼてだと言うのは確かなようでどっしりしている下部分がくりぬかれているようだった。全部ではないが多い。



『面白いモンが出てきた。——確信はないケド、たぶんクラック……ヘロインとかの、麻薬の結晶だと思うよ。小袋に入ってるから自信はないけど、かなり高純度でこの量だからね、うーん、七……八十キロはカタイから末端価格は——百六十億ってところかな?』

「ひゃくろくじゅっ…なんでそんなもんが!?」

『このミッドナイトウォリア自体よりも高額…なるほど、貸すフリしてカーゴ運び屋代わりに使ってたのかな。コレなら税関も欺けるだろうし…うん、珍しいことじゃないのかもね。まあいいや、これ突っ込み直して…続けて、ジル』

『……オッケー』



 ヘロイン? なんだそりゃ、麻薬? なんでそうなる?

 なんでそうなるんだ!? 段々事態がでかくなっているような気がするぞ!? まさかイルが注射されたのもその一種じゃあるまいな!? そう考えると説明のつくところはあるが、持続性があったらまたあんなイルを見ることになるのか!? それとも最初の一回ぐらいでは――駄目だ、イクォールが言ってた。一発彼岸行き。どうなってる。どうなっちゃって百六十億なんてものが出て来る。

 頭がグルグル混乱する。ジルを見た。ガスマスク越しでも、冷静さを失わないようにちょっと冷や汗をかいているのが分かる。オレも混乱してる場合じゃない。ぎゅっと手を握って開く。いつものスタンスに戻していく。オーケィ大丈夫。ちょっと値段が増えただけだ。俺達が泥棒であることには変わらない。俺達が無敵の怪盗であることには全く一寸も変わらない。念じてしゅこーっと溜息を吐く。よし。



『とにかくコレを伯父さまに届けなくちゃね』

「はぁ!?」



 ハリボテ盗んでハリボテ届けてどうする?

 ブツと便乗して戻ってきたイルが折り畳み式の手押し車にそれを乗せた。オレ達はそれを手伝い、走り出す。



『早く早くっ! 約束は九時なんだもん、間に合わなくなっちゃうよ』

「な、何がだ?」

『だから、伯父さま! 今来てるの、ここに!』

「どーやって!?」

『———こーやって!』


 屋上のヘリポートにエレベーターで昇れば、明かりも点けていないのに黒々としたそれが見えるようだった。

 唖然とする、その姿は。

 激しすぎるまでの暴風雨。台風。

 雨、風、雨、影。

 空に映る巨大な黒い影。鋼鉄の——



「武装…ヘリ?」



 アジアでも平和ボケの最たるこの日本で。

 空に、台風にカムフラージュされて。

 そこにあるのは鋼鉄の——完全装備の武装ヘリ!

『伯父さま、時間ピッタリなんて流石ですね……聞こえます? コレ、中に麻薬が詰まってます。空洞なんです!』

『ああ、別にそれでも構わないよ。今代わりを下ろすから、引き換えにそれを引っ掻けてくれたまえ』

『——ご自分で操縦なさってますか? もしかして』

『まあね』



 なん……なんだ。

 宇都宮の総帥の声だ。風やら雨やらのノイズが煩くてよくは聞こえないが、昨日聞いたあの男の声と同じなのだ。

 それが? あのヘリを操縦している?

 そう言えば言っていた。昨日の夜、ヘリと電動滑車と。滑車は獲物を持ち上げるのに使って、更に持ち上げるのは武装ヘリ?



 ふっ……

 ふざけろ……?



 オレは力無くそう思い、目の前で交換される二つの巨大な珊瑚を呆然と見ていた。

 あとはそれを同じ方法で取り替え、何事もなかったかのように細工を元通りになおし(帰りは自分でジャンプして戻って来た。危なかったので俺が受け止めたが、やはり軽かった)、ブレーカーを上げ、警備員室でまだ眠っている警備員の兄ちゃんを横目に差し替えていた画像を戻し――まだ眠っているおっさんだらけだ――。

 夜陰に紛れて——オレ達は逃げた。博物館を出る前にイルが眠ってる外人ガードマンの一人の頭を蹴っていった。どうやらそいつがイルを痛めつけた男らしい…オレも無言で殴っておく。ジルもこっぴどく蹴りをいれたが、まだ薬が効いているらしくそいつはうう、と唸るだけで起きなかった。そのうめき声にすらちょっとビビってしまう俺も俺だが、ジルの蹴りよりよっぽど手加減したと思う。



 ……それにしても。それにしても、だ。宇都宮の総帥がなんだってそんな危険を冒すんだ? 嘘だろ、ジーザス。確かに宇都宮コンツェルンは駐日米軍とも懇意にしていたと思うが、それだけで貸し出されるものじゃないだろう。しかも総帥一人。まるでコトを最小限に隠すように。

 理解したつもりのことがすべて解らなくなって、オレはくしゃみをする。煩いとジルにぼやかれ、イルに笑われ、



 ————『知らないことなど何一つ無いとは思うな』



 九頭竜の言葉だけが回り、オレは結局…風邪をひいた。



「…は…ハナミズとまんねぇ」

「あはは、ナルナルだっさぁー! なに、風邪ひいちゃったの? ……ごめんね、あのヘリ誤魔化すには今日しかなかったモンでさ。悪天選んで決行にしちゃったんだ。アレが今のところ一番厄介なシロモノだったから」

「つったってお前、ひっ…くしょい!」

「唾飛ばすなよ瀬尋」

「ワリ……。で? あれ、偽物だったのか? 結局」

「ううん、偽物じゃあないの。偽物だったらあんなに厳ついガードなんかギャグでもつけないよ」



 衣琉はバスタオルで髪を拭きながらそう言った。

 水原家である。オレ達は一旦ここに帰り、びしょ濡れになった身体を温めていた。季節ハズレに焚かれたストーブの始末が面倒くさいとぼやいていたジルが一番にその前を占領し、オレは少々離れて陣取る。衣琉はシャワーを浴びて昨日と同じキュロットスカートになっていた。次はジルだが、俺は俺の番まで待てない悪寒にぶるっと震える。風呂。風呂で思いっきり温まりたい。

 だが余所者に使わせる風呂がないのが水原家の現在の家訓であるらしい。いつもならオッケーだが今は駄目だと。イルの髪は俺より長いしジルの髪の茶色だ、それにジルの髪も俺より長いのだ、黒髪短髪は俺だけである。こうなると少し疎外感があるが、仕方ないだろう。誤魔化しが効かない、もしもの時に。

 それにしても寒い。ジルがストーブの前に完全に陣取ってるから実質オレの方に熱波は届いていないのだ。寒い。この二日体内環境が狂う夜寝や昼寝があったせいで免疫力が落ちている。そこにこの雨風だ。絶対風邪引くじゃんオレ。



「アレはね、本物をハリボテにしたから意味があったんだと思うよ。誰も本物の中身を刳り抜いて麻薬を運ぶなんて事は考えつかない、むしろ絶対そんなことしないと思うんだ。だからこそ欺く意味があったんだと思う。それって絶対誰も勘ぐらないでしょ、誰も考えつかないんだから」

「だとは思うが、あのサンゴか? あれだってかなり高額なはずだろう?」

「それを差し置いても、ああする意味はあったんだよ、きっと。絶対安全な保管場所だよ? コレから先、世界が腐っていけばいくほど麻薬っていうのはまだまだ高騰する可能性がある——そ、金の卵なのよね。だからどんな犠牲を払ってでもそれの流通に関わる商売に手を出したくなる。そのために、たかだか美術品なんぞは眼中になし。……そう思うと悲しいな、それが呪いだとしても綺麗なものを綺麗と思えなくなるのは……僕はヤダ」



 ふ、っとイルが悲しそうな顔をした。

 オレは、

 オレも嫌だな……と思った。

 何を見ても綺麗と感じられなくなるのは嫌だ。

 ミッドナイトウォリアだってオレには綺麗に見えたんだ。

 なのにそけを繰り抜いて麻薬なんか捻り込んじまうなんて。

 そんなのは何か間違ってると、

 思って——



「…っくしょい!」

「だから唾飛ばすなって」



 頭が痛い、もう駄目だぁ。そろそろバタンキューかも知れんぞ、オレ。



「オレちょっと寝てもイイかぁ?」

「あはは、本格的に風邪ひいちゃった? まあいいや、おやすみなさいナルナル」










 ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい!

 でもあたしにはなんにもできないんです、なんにもできないんです!

 でもあたしはっ…

 やらなきゃいけない? どんなことでもできなきゃいけない? でなきゃだめなの?

 まって、みすてないで、おいていかないで。ひつようだなんていっておだてて、よわくしたままでいかないで。

 つよくなるから、がんばるから、だから、

 あたしをひとりにしないで……



 どんなこまったことがおこったって、どんなくだらないもんだいだって。



「…何やってんだ? 一年? じゃあ新入生か?」



 あたしひとりでがんばらなくちゃ。



「迷子ォ? 入学式のしおりに学校の概略図書いてるだろ」



 ぜんぶじぶんでかいけつしなくちゃ。



「ここが何所だかわからないって…地図見れないのかよ、しょーがねーなぁ…はぐれそうだなお前…手、出せ。ほら、来いよ」



 え?



「…ってワケで、オレはちょっとこの迷子を講堂に届けてくるから。団の方はしばらくお前らでどうにかしてろ」



 …たすけてくれるの?



「当たり前だろ、今日の主役はお前らなんだから」



 どうして?



「どうして、って…困ってる時はお互い様だろ。コレ常識」



 …あ、おもいだした。



「講堂は、ここな。さっさと行けよ。ほら、みんな待ってるって」



 あなたはあのときのひとだ。

 あたしとめがあったひとだ。

 こんなところにいたんだ……。

 このひと、

 おんなじにおいがする。



「じゃーな、もう迷うなよ」



 あたしとおんなじにおいがするんだね。











 夢を見た。

 オレは泣いている。目の前にある塀が越えられなくて泣いていた。

 誰かが耳元で囁く。



『出来るよ、僕がついてる』

『もう一度やろう? もう一度、頑張ろう』

『大丈夫だよ、出来るよ』



 誰だろう。よく知っているようだけれどはじめて聞く声。

 オレは立ち上がる。もう一度助走をつける。

 飛べる、と誰かが囁いた。

 言われた通り、オレは跳ぶことが出来た。

 やったよと言うべくそいつのほうを見るとソイツはもういない。ふと目の前を見ると、すぐにまた壁が立ちはだかっていた。



『さぁ、次だよ』



 そいつはまたオレの脇にいる。

 オレは気付いた。

 コイツはオレなのだ。

 だから、オレを励ましてくれる。親身になってくれている。

 ああ、そうか。

 だから……

 人間ってのは所詮一人なんだ。自分の中の他人に励まされてこうやって走り、跳び、出来なくなっては嘆く。

 励ましてくれるのは自分。

 オレは一人なんだ。



『なにやってィるの、早く早く』

『ほーらっ、こっちこっち! 大丈夫だって言ってんにゃん?』

『出来るよ、あんたなら』



 オレの何をわかってそう言ってるんだ? お前達はオレじゃないのに、どうしてそう言いきれるんだ?



『おいで』



 出来ないよ。

 こんなこと出来ないよ、そんな高い壁なんて越えられないとオレが喚いていた。…オレなのか? 本当に。

 出来ないもん、出来ないもん。そんなこと出来ないよごめんなさい許してください。

 でも出来ないんです。責めないで。ガッカリしないで。

 ごめんなさい。許してください。



 オレじゃない。

 コレはオレじゃない。

 オレじゃない誰かの中にオレが入りこんでいるんだ。

 許してくださいごめんなさい、また『誰か』が言う。違う誰かが口々によく解らない叱咤とも激励ともとれることを言っているのがひどく遠くに聞こえた。耳を塞ぎ、ごめんなさいと喚き、泣き叫ぶ。



 コレは誰だ?

 オレじゃないのか?

 なら、隣に居るヤツもオレじゃない?

 ならば誰だ?



『手、出せ』



 ひどく聞き覚えのある声がして、上を———塀の上を見上げる。



『来いよ』



 逆光を背負っている誰かが手を差し伸べてきた。

 誰だ。

 誰かが手を差し伸べてる。言葉しかわたさないヤツらと違い、ちゃんと手を出して助けてくれる。当たり前のように手を差し伸べて。

 だれ?

 コイツは誰だ?



『ほら、みんな待ってるって』



 そいつの手をとり、

 塀の上に登り、

 見えたのは————……

 学校?



「……ね、もしかしてナルナル寝てる? 寝てるでしょ?」

「……あ?」

「あー、やっぱり寝てたぁ! うー、とか言うから起きてると思ってたのに……もう、ちゃんと聞いてね? 僕の情報網からするとね、あのミッドナイトウォリアの持ち主は……『あっち』の世界では結構な顔利きらしいの。そう、ウラのある人間なのね。だからああいうヤバイモノを大量に日本に持ってくる理由はあった——警察にも結構目をつけられてたらしいよ。だから、すり替えたことはすぐにばれると思うけれど表沙汰にはしてこないと思う。仕事はコレからやりにくくなるかもしれないけれど、まぁ……次段階に続くステップだと思って我慢して? お二人さん」

「ああ……あの三人に頼んでたのはそれか。ってことは『DOLL』ってのはお前のネットワークの名前……か?」



 結局莫根以外の二人は誰だったんだ。



「そーだけど、言ってなかったっけ? じゃあイクォールがばらしたの?」

「あー……うん、そーだっ……た」



 しまった……なんの夢見てたか忘れた。夢見てたはずだよな、なんで覚えてないんだ。昨日もおんなじことやった気がするぞ。

 『DOLL』と言えば——

 結局カタンってーのはいったい……



「……あとねナルナル、台風で学校はお休みだから本当ならもうちょっと寝てても大丈夫のはずなんだけれど……さっきから電話が来てるんだよね」

「電話って……誰から?」

「あは、ナルナルのお母さんっ!」



『ちょっとあんた、着替えも持たずに二日も人様の家に泊まってんじゃないわよ!?』



「げっ、かーちゃん!?」

『ゲッじゃないわよ、早く帰ってきなさい!』

「ってこの台風の中をか!?」

『他所さまの迷惑になるよりマシ! いいわねこのクソガキ!』

「んなっ…」



 耳の奥で問答無用とばかりに受話器を置く音が響いた。ツー、ツー……と断続的な音がそれを追う。……切れた!



「じゃ、お気をつけて」

「え?」



 あれよあれよという間にオレは制服に戻され水原家の外に追い出され———



「はい、雨合羽と傘。壊れたら弁償してね。じゃ、頑張って!」

「ちょ、きりゅ…」



 パタン。

 ドアは無情に閉ざされ、オレは嵐の只中に放り出される。



「くっ…クソガキ————————っ!」



 雨には勝てない叫びがこだました。



「……何やら叫んでおるようだが、放っておいていいものか? 衣琉」

「問題なァーい問題ないっ、と。で? 伯父さまのお呼びがかかったのかな……綾姫ちゃん」

「そうだ。すぐに来るように、と」

「了解……。じゃ、僕行ってくるね、滋兄」

「……ん……」

「……低血圧丸出しだな」

「情けないながら」

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