VOICE 5 "PURIFY"

 ラフな格好だなぁ、といつも思う事は思う。でも、思うだけ。だってあんな動きづらい布を何重にもグルグル捲きにするのは動きにくくて仕方ないんだもん。

 いつも通り、いつも通り。

 下手なことなんてしない方がいい。いつも通りの自分のスタンスを守って、伝統やら何やらも取り敢えずは取り込んで。でも、基本は我が道を行くってことで。

 だからこんな面倒くさい事をする時でも、あたしの格好はいつもと同じ。メチャクチャ普段着のポロシャツとキュロット、ちょっと少年っぽい格好。コレが一番動きやすくて楽なんだもんね。

 ナルナルは無事に帰れたのかな、なんてぼんやり考えながらあたしは爪をカリカリと掻いた。悪いコトしちゃった、せめて送ってあげるべきだったのかな。



 ナルナル……について、近頃は幾分後悔する事が多い。

 まき込まなければ良かったと、今更ながら後悔しちゃってるのだ、情けないコトに。

 ……だって、ね。いろんなコトにまき込みすぎてる。元々部外者だったのに、こちらの事情は殆ど明かしちゃってる。悪いと思ってはいるのだけれど、今となっては食い込み過ぎて解放してあげる事も出来なくて、ちょっとしたジレンマ……感じる。

 悪いとは思ってるよ。

 でもね。

 ナルナルだけだったんだよね、スゴク自然に手をのばしてくれたのって。

 あんなトコで迷子になってた間抜けなあたしを、当たり前のように助けてくれたのって。



「で? 衣琉、お前は結局式服を着ない主義なのか」

「うん、だって重いんだもん。狩衣も直垂も十二単も、御免被るね。……しかし……綾姫ちゃんって変わってるよねぇ、何着ても全然違和感ないんだもん。……ううん、どれでもしっくりするのかな。水干姿はいつ見ても格好良いよね」

「そうか? 実家では昔から巫女の格好をさせられて育ったゆえに、和服に馴染んでいるだけだろうよ」

「……じゃあ伯父さまはどうしてあんなに違和感あるのかな……」

「アレは……問題外だ」

「綾……そんなひどいことを言うとお兄ちゃんは泣くよ」

「おや、兄のつもりだったのですか?」

「少なくとも、私はね」



 むー、とあたしはそんな遣り取りをする二人を横目に見ながら角膜照合パスワード入力――指紋と掌紋はこの仕事を始める時に消してしまったから役に立たない――その他諸々で、宇都宮コンツェルン本社地下の開かずの間の鍵を開いた。

 ここを開けられるのは、現在この世にここにいる三人だけ。非合法な開け方だったら機械に強い天才君ぐらい入るのかもしれないけれど、正当なる遺産の相続人は……あたしと、皇児伯父さまと、綾姫ちゃんだけなのだ。

 この部屋は、お祖父ちゃまの遺産。

 お祖父ちゃまがあたしに残した———遺産。

 薄暗い部屋の中には幽霊のように苔を光らせる巨大な珊瑚。———昨夜盗み出した、ミッドナイトウォリア。中身は抜いてあるから恐ろしいほど軽くて一瞬ぎょっとしたほどだ。

 今からこれを祓うのが、あたし達の本来の目的。



「イクォール?」



 あたしは手元のパネルにパスワードを打ちこんで自分の分身を呼び出す。家で呼び出す時の数倍の速さでダウンロードされ、そのピンク色のイルカはぐんっと背伸びをしてあたしをまっすぐ見詰めて来る……どうしてイルカのデザインにしたかっていうと、あたしの綽名が『イル』でイルカっぽいと言うだけなんだよね(なんていいかげんな……)。そしてお祖父ちゃまから貰った本来企業用情報ネットワークであったはずの『DOLL』だって、イルカ———Dolphinの捩りなんだから。

 ぐにぐにとあちこちを運動――と言う名の可動域確認をしてイクォールが出てくる。ホログラムだと判っているけれど、ホントに生き物に見えるから凄いわ…流石に本社直結、企業コンピュータは侮り難し!



『は・はーいはぁーいっ? 呼ばれて飛び出ましたよんっラブリードルフィン・イクォールでぇーす! あー、イルの家のパソコンは窮屈だから……やっぱこっちの方が良いわね、CGだってこぉんなに滑らかァ! で? 術式は?』

「未定……かな、綾姫ちゃん?」

「まだな」

『オッケーオッケー、それじゃあ標準装備にしておくね! えーと、——水脈固定、道具類も万端、人の気配もなし、妖しい装置の反応もなし。術者は三人。これでイイんだね? 最終チェック完了、プログラム「除術」…施行!』



 イクォールがそう言うと、なにもないと思われていた壁面に妖しげな文字が光ながら踊り出る。もちろん科学的な仕掛けがあって、単なるネオンみたいなものなんだけれど……古今東西の陰字を光によって表すことの効果は、呪術的にそれなりの意味がある。……らしいと聞いてる。

 あたしの分身はこの術部屋の管理が本職なのに結構出たがりでしゃばりな傾向がある所為で、警戒心もなくナルナルにも色々とバラしかけたみたいだ。滋兄がぼやいてたみたいだし。まあ頭脳面のサポートは流石に機械だから助かっちゃいるんだけど、やばいことも丸投げだから、いつか誰かにハッキングをされたとしたら怖い物はある。その辺は伯父さまが鉄壁のプログラム組んでくれてるけれど。理系なのだ、伯父さまは。文系も出来るらしいけれどプログラマーから入った会社だし、そっちを武器にしているんだろう。あたしや綾姫ちゃんと言う表向きには関係ないと思われる人間の為に、ちゃっかり裏道を用意してくれたりしているし。



 ともかく宇都宮コンツェルン本社ビル地下。

 あたしの部屋の地下は、サイズの小さな獲物を一時保管するためのもので———実際きちんと品物を保管するのはこのビル地下の方なのである。今回は更に別の部屋で、まずは———これにかかった呪いを解かなくてはならなくて。

 ……一体いつからだったかな、あたしが人前で『僕』と言うようになったのは。あたしは緊張感を解すために取りとめもないことに頭を委ねる。ああ、みんなの期待に応えることが出来なくて、突然始められた英才教育についていけなくて。そう、その頃だったわ。あたしはあんまりに孤独で、あんまりに寂しくて、自分の中に他人を創ったのだったっけ。



 いつも側に居てあたしを抱き締めてくれる人間を。

 あたしを励まし、手を差し伸べてくれる人間を。



 それはあたしの理想。だからあたしは頑張った。『自分』に引けを取らないために、とにかく頑張るしかなかった。

 あたしは結局いつでも一人なんですね、シスター。

 自分の中の他人に頼っている姿はバカみたいですね。

 でも、

 そういうヤツに育っちゃったんですよ。紆余曲折のあったこの十年近いの生活の中で。

 大好きな人はいますよ? 義父も義母も、伯父さまもその妹の綾姫ちゃんも。

 滋兄も、

 ナルナルも。

 大好きだから、こうするしかないんです。自分を偽って、誰にでも頼ってもらえる自分でなくちゃいけなくて、だから、あたしは、僕になった。

 イルはあたしになり、

 あたしはイルになる。

 …これも悲しい処世術ですよね。



「———怒ってるね」

「怒ってるな」



 綾姫ちゃんが答える。



「ヤバイですかね」

「やばいだろうねぇ」



 伯父さまが言う。



「やりますか」



 溜息ついでに一歩踏み出すと、頬をカマイタチめいたものが掠めていった。小さく血が出るけれどあまり気にしない。腕や足にも同じような裂け目が出来る、どうやら向こうは威嚇しているつもりらしい。綾姫ちゃんは流れるような動作でそれをかわす。赤と白の鮮やかな水干……白拍子姿は、動きやすさとちょっとした呪いらしい。

 姿形は呪いになると、あたしに教えたのはこの人だった。



「伯父さまは下がっててくださいね」

「心得ておこう」



 伯父さまは墨染めの葬式姿で後ろに下がる。この人はあくまで、お祖父ちゃまの代理…見届け人だから、あたし達のように闘えないし見ることも出来ない。……ハズ。時折鋭い言葉が飛んでくると確かに綾姫ちゃんのお兄さんだと思うけど、この二人は二人で秘密があるんだろう。DOLLでも手を付けられない、だからマークはしていない二人。

 必要になったら教えてもらえるのかな。なさそうな気もするけれど。この二人の関係は僕には関係ないと言う事なんだろう。今はまだ。いつか刻が来たら、教えてくれるのかな。


「出るぞ」

「はいっ」



 すらりと紅白の布地が広い地下を駆ける。ぼんやりと浮かぶのは苔の発光じゃない。

 コイツの瘴気だ。

 あたしはまだそれほど場数を踏んでいないので、一人で除術は出来ない。よってこの道の玄人である綾姫ちゃんにいつも経験値を分けてもらい、レベルを上げている状態なのだ……情けない事に。頑張ってどうにかなるものならいくらでも努力根性熱血を費やすのだけれど、流石に経験勝負じゃ役に立てない。大体どうして綾姫ちゃんが玄人なのかもよく理解が出来ない。お家が神社とは聞いているけれど、だったら皇児伯父さまの立場が無くなっちゃうんだから……やっぱり、そういう特別なことをしてきたヒトなんだろうな、と、あたしは独鈷杵を床に付き立てた。

 遣えるものは親でも遣え、か。

 異教のものでも力があるならなんでも遣っちゃえってヤツだわ。魔術的踏切マジカルステップ――禹歩うほを踏んで要所要所に法具を置き結界を敷く。綾姫ちゃんも違う術を遣う。



「曩莫三曼多縛曰羅多仙多摩訶盧舎多耶蘓婆多羅耶吽多羅多含満———…」



 伯父さまが更に何事か呪文を唱えて、結界は三重になった。



「衣琉」

「なに?」

「任せた」

「はぁ!?」

「よく見ろ、どうという事の無い小物だよ。今のお前にはちょうどよいレベルであろう……ただの金欲の権化だ。ただ、小賢しい術で少々瘴気のコーティングがあっただけ。それも異法三重の結界では流石に無効化したらしい。私は高いのだ、こんなヤツにただ働きなどしてやれぬ」

「ふ、普通ただ働きしたくないのは強いヤツの時なんじゃないの!?」



 あたしは切りつけてくる真空の波をフラフラと避けながらそう言った。張った結界からコイツはもう外に出られないだろうけれど、あたしは結界の内側にいる。思いっきり集中砲火の真っ最中なのだ。



「私は私の邪魔になるものを祓うだけゆえにな、他人のモノサシとは逆なのだ」



 すとん、と床に降り立ち———綾姫ちゃんは結界を抜ける。



「ちょっと嘘っ、冗談キツッ!」



 対象物が一つになった所為であたしに寄せられる攻撃は格段とレベルアップする。千鳥格子じゃなくて千鳥足、タンタンと外れたリズムに乗ってあたしは舞う。綾姫ちゃんの水干みたいにふわふわ綺麗に舞えないのは残念——あら、余裕あるわね結構。

 でも、避けられるなら。

 攻撃も——不可能じゃないかもしれない。



「——悟るぞ? あの子は賢しい」

「もう悟っているかもしれないからです」

「駄目押しか」

「そういう事ですね」

「見て——判るかな」

「判るでしょう。血とはそういうものだと、翁も仰ってましたから」

「あの人は——特別なのかな。いや、水鳥さんが特別だったのかもしれない。どちらにしても普通を選んだ私には……あまり縁の無い事だ」

「そうですね。——衣琉、よく見ろ! 大した相手ではなかろうに! 逃げまわる必要などないハズだぞ!?」

「そ、そんなこと言ったってっ……どーなっても知らないんだからぁ!」



 えーとえーとっ、あたしは普通の人よりある意味ずば抜けた知識をフル稼働させて現状打破を考える……前に、空気に逆五芒星を描いて自分の前に障壁を作る。陰陽五行術の一つに入る防御術——と、習った。

 …さぁ、これでどうにか壁は出来たけれど——それからどうする? 原型が珊瑚ってことから考えるにコイツは属性が木らしい……うん、それは間違いがない。のか? たしかサンゴって卵で増えるよね。ああでも、一度居ついたらそこからは離れられないって辺りは木性とも言えるかもしれない。

 ならば打破は?

 木に剋つのは?



「なんつったかしら……木剋土、土剋水、水剋火、火剋金、金剋木——金気、木に克つ…ってコトは——五剋は金?」



 ドクン、と空間が揺れた気がした。

 鼓動が聞こえる。感情から来る動揺だ。

 ——反応した!



「ははっ、木性を止めるのは同じく地より出ずる異なモノ——金性なのかな? なのね? って事は金属性で相殺中和が可能——綾姫ちゃん、独鈷杵取ってください!」

「ほう、気付いたな」

「それはまぁ、僕だって」



 独鈷杵は金属で出来てるから、それにちょっとばかし呪文を掛けてやれば…多分掛けられているしゅを中和してあげられる。紀元前に大陸で唱えられた五剋説——陰陽道に唱えられる五元素が相殺し合う性質を持つという説——が正しければの話、だけれど。



「ちょっとは精進してますからね! ——帰命不空光明遍照大印相摩尼宝珠蓮華焔光転大誓願っ!」



 受け取った独鈷杵に口を近付けて呪文を掛け、それを投げつける。周波数の高い、耳鳴りみたいなものが激しく頭を揺さ振った。

 頭を、

 揺さ振る——のは——



 あ、



「——おとこのひと——おじさん——じゅつをかけたのは——これは、」



 一瞬で巡る物の記憶。あたしの記憶。モノの記憶。

 あたしの記憶じゃない。

 こいつが過ごしてきた何百年かの記憶が——

 淡くて青いソーダ水の中を流れるように泡で見えなくなるようなみんなに笑顔を与えていた記憶がなのにどうしてああ何をするの真っ白になって真っ暗になって真っ黒に——



「——コワサナイデ——」



 小さな物欲を司っていた珊瑚の化身。

 貴方を洞に変えた男は——

 その、男は——



 ピシピシ、っと音が鳴って、パンッてした。

 人を惑わせる変化の呪いを受け、それを利用された憐れな『綺麗』は、内側から膨らまされた風船みたいに破裂する。

 儚い光になって霧散した姿が——最後の綺麗。



「……っ……っあ……」



(——壊しちゃった……)



 瞬間に胸の内にあった記憶の羅列は波が退くように去っていった。あたしはやっとあたし一人に戻り、フルフルと頭を振る。一瞬だけ胸にポッカリ穴の空いたような焦燥感があって、けれどすぐにそれが埋まって思い出せなくなったことが……それだけが、何故か無性に悲しかった。



「限界だな。呪いの強化に弄られすぎたし、おまけにこれはうろ——ウロでしかなかったから……支えるべき根底がない。まあ、しようがない結果ではあったのだろう」

「僕っ……失敗しちゃったのかな、『綺麗』が壊れちゃって、僕……それに……」



 恣意的にこれに呪いをかけた男の人。

 あたしは見た、術者を見た。胸に軋轢のような亀裂が走る。

 あれは、

 気持ち悪い。ああ、なんてイヤな感じになるんだろう。

 あれはっ……

 モノを祓うことなんて何度もしてきたのに、今回はたまたま綾姫ちゃんがメインじゃなかったってそれだけなのに。

 どうしてこんなに気持ち悪いんだろう。吐き気がする。頭の中が早鐘を打ち鳴らすように、まるで馬鹿な祭りでもしているかのように混乱に似た狂騒を来たしている。

 ああ煩いな、これは一体なんの音?

 これは、

 あたしの心臓の音だ————……



 気持ち悪い、あたしじゃないのに。まるで自分の術を反されたかのような気持ち悪さ。綾姫ちゃんとの特訓でも返された時はこんな感じだったな、なんて思い出す。

 自分の術を取り除かれたたみたい。気持ち悪い、苦しい、つらい、熱い、痛い、怖い、……イヤだっ!

 あたしの半身が、

 繋がった血が、

 それを伝える。

 ——もしかしたらという可愛い疑惑という名の芽は、確信という妖艶な花をつけてしまった。



「最後の御別と進る玉串の榊葉の露の白玉に

 情も取り添えて手向け奉る状を

 御心平穏に享受えと慎み敬い白す——」



 思考がフッと途切れるような、心地良い眩暈を呼び起こされる。



「綾姫ちゃん……なにそれ?」



 あたしは習った覚えのない呪文を早口で呟く綾姫ちゃんにそう言葉をかける。けれどそれに答えたのは伯父さまだった。



「祭詞というやつでね、神道の葬式で唱えるコトバの一つだよ。死者の魂魄は式を終えるまで祝いのコトバ——祝詞で送ってはやれないので——それまでは祭詞を語りかけるものなんだ」



「弔いの——祭詞——……」



 ……初仕事。

 失敗したのかもな、あたし。



「伯父さま、綾姫ちゃん」



 あたしは二人からちょっと離れ、距離を取って目線を合わせる。ちょっと小さめのあたしは二人を見るにかなり首を上に傾けなくちゃならないから離れたほうが楽なのだけれど——今のあたしはそういういつもの調子ではなく若干の警戒心のために、かたや水干、かたや葬式の如き墨染め黒装束の二人から離れた。

 ラフな格好しているあたしの方が部外者みたいだけど、中心はあたしだ。事の中心は、あたしにあると言って良い。本当は少しずれているけれど――誤差の範囲内だろう、そんなの。



「僕はいま、モノの記憶を見ました。そこには、ワザとアレの容姿に妖艶なる呪いをかけた男が……映っていました。外国人ばかりが映っていた中で、一人見えたソイツだけは明らかに東洋の——日本人です。僕はソイツが……」

「……」

「そいつ、がっ……」

「続けろ、衣琉」



 綾姫ちゃんの言葉に背中を押され、あたしは目線を逸らさない様に頑張る。

 二人は知ってる。

 だからあたしから目を逸らさない。

 だから、

 あたしは目を逸らせない。

 


 こんなにはっきりしている事なのに、二人はあたしの口から言わせようとする。あたしはそれに逆らえない。真実は舌の上に転がっている。それを吹きだすのは至難の業だ。べっとりと染みついて、取れそうで取れなくて。でもあたしはそれをはぎ取って口から出さなきゃいけない。吐き気がする。身体が震える。助けて。助けて、『イル』。


 震えが止まる。『僕』は二人を見やる。俯くことはしたくないと最初に決めたんだ。泣くことはしないと。どんなちっぽけなミスにだって、僕は負けない人間でいたい。でないと崩れる。崩れた屑は誰も拾ってくれない、組み立ててくれない。だから僕は、崩れるわけには行かない。

 身は削られようとも立ち続けることを宿命づけられた。だから僕は言う。



「あの男は——あの男は物部波瀬人もののべ・はせと、僕の父親です」



 会ったこともない、見たこともない。

 どんな男かなんて知らない。

 母親と認識できない貴婦人が心の底から愛し、お祖父ちゃまが拒んだ、あの男の人は……

 判る。身体の奥底で感じる。血とか、そういうモノが一気に騒ぐ。あの男は。


 関わっちゃいけない。詮索しちゃいけない。

 面倒な仕事が余計に面倒になる。

 関わっちゃいけない。詮索しちゃいけない。

 嫌な予感がする。今の持ち主にアレを贈ったのはあの男。

 関わっちゃいけない。詮索しちゃいけない。

 だけどあれに呪いをかけたのは他の誰でもないあの男!

 詮索は罪でしょう!?

 だけれど今の持ち主がこんな仕事に手を出し始めたのは、明らかにこれをあの男に贈られてから!



 ああ、関わらずにはいられない。

 僕はもう、あの男に関わっているんだから。

 それは生まれるよりも前から——

 深い、深すぎる繋がりが……



「二人共、知ってたはずですよね。二人共、あの男が裏側にいるのを知っていましたよね? い……今まで綾姫ちゃんが祓い行事のメインをやってたのは……僕に、裏側のあの男を見せないためだったんですか? お祖父ちゃまが言ってました、僕の父方の名字である『物部』は『物述べ』の隠し名だって、命なき物の声を聴くものの名前だって、だから僕に祓いをやらせたらそれを見てしまうから……聴いてしまうから……」



 なんでも知っているハズだったんだけれどな。ちょっと前、台風の中。綾姫ちゃんがナルナルに言ったとおりだ、世界はもっとたくさんいろんな事を隠している。イクォールですら知らないことを。

 知ってるつもりになんてなるんじゃなかった。あたしはナルナルより始末の悪い、『無知の無知』ってヤツだったみたい。けれど、でも、どうして、当事者であるハズのあたしさえ知らないことがあるっていうのはどういうことなのさ?

 あたしは――僕は……

 僕まで……

 騙されている側にいるの? 知らない側にいるの?



 あれは、あの男は。

 関わっちゃいけない。詮索しちゃいけない。

 『お父さん』なんかじゃない。



「否定したいのか?」

「……したいよ!」



 聞かなかったことにしたい見なかった事にしたいそんなの聞きたくない何にも聞かなかったことにしたいああ嫌だな僕の日常ってどこに行っちゃったのかなこんなはずじゃなかったはずなのにいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつも

 『あたし』は――



「でも出来ない! 僕には現実を否定するなんて愚かしい事は出来ない……アレは父だ、僕の身体、この半身の元になった男なんだ! それがどうしてこんな事をしている!? 返ってくるであろう呪いの式を自ら打ち、どうしてそんな愚かなことをしているの!? 僕は物部衣琉でも水原倭柳でも、宇都宮水鳥でも……そのどれでもありながらどれでも有り得ない、全ての出来そこないなんだ! あれは僕の父で、僕の——半身だ!」



 痛い痛い痛い痛い痛い! 身体中が抉れる、自分の術を打ち返されたように痛い!

 僕はどうしてこんなコトしてるんだろう? どうして普通の人生は僕の方を向いてくれないんだ?

 あたしは誰だ?

 神無倭柳だ。

 水原倭柳だ。

 物部衣琉だ。

 『僕』は誰なんだ?

 僕は、



 ——イルだ……。



 それで統一するしかないことを悟ったから、あたしはイルになったんだろう?

 自分で自分に名前をつけるしかないから、他人に受けた自分の名前という呪いなんて不確定でコロコロ変わるものだから、

 だから僕は自分に名前をつけた。

 自分で自分に呪いをかけた。

 真名は自分で決めた。

 あたしは他人につけられた名前ではもはや測れない、ドロドロとした不安定で不確定なもの以外にはなれないのかな。

 じゃあ『イル』である僕にとってのあの男はなんだろう? それでもそれはやっぱり一辺倒の答えでしかないのかな、それ以外は出てこないのかな。

 どう足掻いても、

 あの男は僕の父親でしか……ないのかな。



「僕は……」



 僕は誰なんだろう?

 イル、って誰?

 それが僕の名前なの?

 こんなにつらくてしんどくて、

 何をやっても空回りにしかならない、

 どうしようもない存在が『イル』ならば。

 僕はどうしようも、ないじゃないか――……。



「衣琉——黙っていたことは謝る。私もこれも、それは知って黙っていた」



 自分なんてモノは不安定で不確定な水よりももっといいかげんな、



「……綾姫ちゃん」



 形状なんて最初からないそんなモノに自分を固めようとして、



「翁の———私に対する遺言だった。お前が一人前の術師になるまでは、父親のことを告げてくれるなと」



 僕は自分の掘った墓穴に片足をとられかけているんだ。



「……お祖父ちゃま、が……」





『のう、イル。

 黙っとったが……これでもな。少々わしの身体にはガタが来はじめておる。脈拍や血圧が無駄に低くなって——老いておるんじゃな。老衰じゃという。

 ずっと黙っておったことじゃが。

 水鳥だと思っておった。わしは、今回の百年を浄化する一族の者は——わしの娘の、お前の母親の、水鳥だと思うておった。あれは昔から様々のことを夢に見て言い当てるという特技があってな。だからこそ、きっとこの百年分の後始末をつけるのはアレだと思っておった。

 だが、水鳥は——死んだ。

 ああ、違う。確かに水鳥は無理をしてお前を産んだらしいが……責めておるのではないのじゃよ、泣くな?

 水鳥はお前を遺してくれた。わしは水鳥よりも長生きしてしまったが、それでもお前という孫に巡り合えて、今まで過ごせたことはとても嬉しい。

 だからこんな遺言willを遺すのは不本意じゃ。

 お前にはな、

 水鳥のするはずであった仕事を……引き受けて欲しいのじゃ。

 世界中に呪われた遺物が散らばっておる。世の中は邪なるものでパンク寸前なのじゃ。

 それを浄化するのが、

 宇都宮家に伝えられた家業なのじゃ。

 頼む、お前にしか頼めぬ。

 わしの、表の財力は皇児に託したが、裏の遺産はまだ残っておる。

 お前に、託そう。

 お前に託すよ。わしの、裏の遺産すべてを。

 お前の瞳に宿る憎しみのようなものには気付いているさ。これでも老成しとるからな。お前に与えた美術眼と大して変わるものでもない。

 それでもお前に——つかえ、つかうが良い。宇都宮の名も財もすべてを最大限につかって良い。どうせわしはもういなくなる。皇児はわしの遺産になぞ手をつけまいからな。継ぐ者はお前しかいないのだから。

 詳しくは、皇児と綾ちゃんに言い含めておるから。

 頼むぞ、

 頼むぞ——イル……』






 お祖父ちゃま。



「世界中に散らばっている宇都宮の秘宝たちの調査をするごとに、謎の男の存在は明らかになっていった。男はどうやらシンジゲートを率いる、裏の世界の男だということらしい。世界各国にコネがあり、国によっては半分が意のままだという。調べればその男はこの東洋の、小さな島国の出身ということだった——男の名は……君の言う通り、物部波瀬人。君の父親だ」



 ……あたしは誰で。

 どうしてココにいて。

 コレからどこにいくのでしょう。



 今だそんな事に拘る自分は小物なんだろうけれど、他の誰よりも自分が一番判らないっていうのはどういう事なんだろう。そんな他人とまったく逆な奴はきっとこの世にあたししかいないんだわ。あたしは多分みんなと違うんだ。

 あたしは普通じゃないんだ。

 異常なんだ。

 普通になれないんだ。

 たとえばナルナルと普通に出会っていたら、きっと楽しい先輩後輩になれたのに。たとえば滋兄だってもっと違う出会い方だったらもっと楽しいことをたくさん一緒に経験できたのに。たとえばキョウちゃんとだってもっと普通に友達出来て、ヨウやヨルとだってもっともっとフツーに……ホントに、普通に……。

 たとえば『お父さん』や『お母さん』とは、もっと普通の親子だったら。

 きっとこんなに胸が痛んで苦しい事なんてなかったんだろうな。



「翁は、その事実を知った時にお前が戸惑うようであれば……これからもこの仕事を続けることは強要しないと言っていた。それが、私の賜った遺言のすべてだ」



 お祖父ちゃま。

 ——見くびらないで下さい。



「綾姫ちゃん。僕を誰だと思ってるの?」

「衣琉……」

「伯父さまもだよ。僕はイル、数多の呪わしい美品たちをこの手で盗み出してきた怪盗だ」

「……そうだな」

「今の僕は、物部衣琉なのか水原倭柳なのかもよく判らない。けれどお祖父ちゃまの教えてくれた、偶然にも僕自身が自分の名として選んだこの魂の持つ真の名だけは変わらない。僕はイルなんだよ。怪盗であり、祓い師でもある、宇都宮であり物部であり水原であり神無でもあり——全てが真実でありながら、同時にどの名も偽りである。そんな不確定で不安定な水よりも変幻自在なもの。それが僕で、その僕は結局ただの——イルなんだ」



 僕はイル。

 真実の僕。

 偽物でありながら真実である、表裏の一体化しないバランスの取れていない。

 それがきっと僕と言うものなんだろう。結局。

 不確定で不安定。それでいいか、安定してたら老成してるみたいだし確定していたらそこから進化も退化も道化も何一つ変われない、動けないような気がするから。

 不安定で不確定な自分でもいいのかもしれない。

 ……個人的には、ヤだけれどさ。



「僕はこんなことに躓くほど——弱くなれないんだ」

「それが傷つくことだとしても?」



 ……傷つく事は怖くないけれど血が流れてその後それに苛まれるのがイヤだっていうのはどういうコトなんだろう。



「それで……も、——僕は走り出した事態を止めるほどの力もないから……」









……誰か助けて下さい……

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