VOICE 4 "EXPERIENCE" 1

 あのね、あのねシスター。

 『あたし』は幸せです。シスターのように優しい人に育ててもらえました。優しい兄弟や姉妹がいます。そして、偽りとはいえ愛すべき両親も出来ました。

 あのね、シスター。

 本当の『お母さん』を見ました。とても優しげな風貌をしています。優しい人だったのだと、『お母さん』のお父さんが言います。あたしも優しい人だと思います。

 でも、シスター。

 あたしはその人に抱きしめられたこともない。名前すらも貰えなかった。

 そうです、その人はあたしを産むと同時に亡くなってしまったのだからしようが無い事だとは思います。いわゆる不可効力というヤツです。知っています、解っています。

 それでも、シスター。

 あたしにとってのその人は、あくまで『優しそうな貴婦人』です。

 『お母さん』じゃ……ないんです。



 そんな人でもお母さんだというのです。あたしは、お母さんの放り出してしまった仕事をしなければならないと言われました。



 痛いです。

 怖いです。

 死んでしまいそうです。



 シスター、『僕』は特別な子供なのだそうです。出来ないコトなど何も無いハズなのだそうです。

 でも、僕には、幸せが無いんです。

 幸せになることは出来ないんです。

 色んなことが出来るようになりました。色んなコトを教えてもらいました。けれど、出来ないコトなど何もないというのは嘘なのです。それは、絶対に嘘なのです。

 幸せにはなれないから。

 ジルをまき込みました。

 ナルをまき込みました。



 痛いです。

 怖いです。

 死んでしまいそうです。



 シスター。会いたいです。

 頼ることが出来る人間なんて、あなたしか思いつけません。

 いつでも正しく私達を導いてくれた貴方なら、きっと進むべき道を照らしてくれると思うから。会いたいです、シスター。どうか、どうか。



 どうか。











 頭が痛くて吐き気がする。…ここはドコだ? オレは何をしている?

 ここはドコだろう。身体の下には冷たいコンクリートの床が敷かれていて、容赦なく体温を奪って行く。四方の壁も灰色の味気ないコンクリートだった。辛うじて目が慣れた暗い明りの中に上へと続く階段が見えている。……身体が痛い。節々がギシギシと鳴っているようだ。

 リアルな感覚。けれどドコか曖昧な。

 ここはドコなんだろう。身体は動かない。

 曖昧さが思考を蝕む。

 指もまともには動かなかった。瞬きもままならず、オレはグッタリと重力に身を任せ、熱の移動を感じている。コンクリートの床に移動する体温はすぐに打ち消され、全てが冷たく沈黙していた。火照った身体にはそれはいっそ心地良いが、長居すればくしゃみぐらい出そうな寒さだった。

 身体が痛むのを再度確認する。しかしそれはコンクリートというモノの上に眠っている所為ではなく、身体中に痛みの元凶たる傷のようなものを抱え込んでいる所為らしい。



 ここは、

 ドコだ?



 目尻を流れる液体の感覚。オレは泣いてるのだろうか。…何に対して?

 そもそも、コレはオレの感じる感覚ではあるが、この身体が自分のものなのかは別の話だ。オレはダレで、ここはドコなんだ? オレはどうしてこんな所にいるんだ?

 オレはダレだ? どうしてこんな所に眠っている? どうして、こんなボロボロの身体をこんな所に横たえているんだ。



 オレは、

 ダレだ?



 ガンガンと頭痛がする。顔を顰めたくてもそれすらままならない。タチの悪い二日酔い――小学生の頃に大人に勧められて酒を飲んだ時以来なった事はないが――に罹ってる気分だった。

 爪の先で冷えた空気が揺らめいている。リアルな感覚。

 身体が動かないのに。

 感覚だけがリアルだなんて。

 気持ちが悪い。今まで気にならなかったニオイが鼻腔をくすぐっていた。酸っぱいようなそのニオイは自分の吐瀉物のものと知れる。ついさっきまで所構わず胃の収縮に任せていたのだから。

 ついさっき? それはいつだ?

 口の端で刻一刻と乾いていく唾液と胃液の混合物。

 わからない。ついさっきっていつだ? こうして壁を見詰めながら脱力する体勢になる前の事はまるで解らないのに。

 ここはドコだ? オレはダレだ? この身体は誰のものだ? さっきっていつだ?


 増えるばかりの疑問符を頭から振り落とそうとして、オレは頭を振った。腕をついて身体を立て直し、頭を押さえながら起き上がる。



 頭痛は相変わらず思考をぼやけさせて、視界をもぼやけさせていた。色取り取りの本の背表紙を目線で辿りながらどうにか立ち上がろうとするが、本棚に手をついてしまう。

 ここはドコだ? オレはダレだ?

 細く空いた扉が室内へと平行四辺形の光線を伝えてくる。しかしそれは妙な形に……人間の形に切り取られて影を落としていた。ジルだ。ジルは呆れ顔をしてオレを見ている。そうか、ここにジルがいるのならオレはジルではないし、この身体もジルのモノではない。じゃあ、ダレなんだ?



「ナル、お前何やってるんだ? フラフラして本棚ひっくり返したりしたら、イルに泣いて怒られるぞ。母さんが模様変えで適当に本をしまったりすると、『余計なコトするな!』って言って凄い剣幕で怒鳴りながら、泣いて本を元通りにするんだから」



「あ…あ?」

「寝惚けてるのか? 見張りが寝てどうする」



 急激に思考が醒めた。ナル。そうだ、オレの名前は瀬尋鳴砂、泥棒だ。五月八日生まれ。私立十波ヶ丘大学付属中学三年F組十一番、応援団長。愛称はナルナル、コードネームはナル。思い出してみれば何ともふにゃふにゃしたプロフィールだが、すぐに出て来た。何やってるんだオレは、寝惚けている場合じゃないってのに! ジルに頼んでイルの部屋を借り、いつ出てくるか解らないイルを待ってるんじゃねーか。暇つぶしにイルの蔵書読んでて……眠っちまったのか、アホだな。


 むー、と悪夢の元凶になった本に眼を移した。『魔女の槌』と書いてあるが——ええい、どうしてこんなものを読んでるんだオレは。活字は苦手だというのにこの部屋にはそんなものしかない。しかも、一様に全てが悪趣味なタイトル若しくは小難しいものなのだ。頭が痛くなるのも頷ける。小説っぽい物かと思ったがこれもオカルト本だし、中身はぐるぐるだ。ラノベも満足に読めない俺には敷居が高すぎた。古典も現文もダメとかオレ欠点多すぎる。否ラノベは現文に入るのか? 太宰が現文だった時代もあるだろうし、まあ入れといて問題はないだろう。多分。閑話休題。

 内科・外科・家庭医療に精神病理と続く一連の医学書。神道、仏教、ヒンドゥー教、イスラム教に聞いたこともない宗教も混じり、果ては黒魔術・白魔術の類まであるオカルト本。ついでに法律系統、六法全書、古典文学、節操の無いジャンル。頭イテエ。

 こんな所でこんなモン読むから変な夢見たのかなァ…オレは眼をこすった。そこに波での気配がないのを訝る。あれ? 俺、泣いてなかったっけ? 夢の中で――そう、変な夢の中で―――



 変な夢?

 ……どんな……夢だった?



 すわっ、憶えてねえし。嘘だろ、変な夢だったっていうのは覚えてるにもかかわらず肝心の内容が頭の中にからっきしってのはどういう事だ!? くそ、寝惚けてる間にすっかり綺麗に消え去っていやがる…このムカツキはなんなんだ。胸の中にないことが逆に胸やけを引き起こしている。矛盾だ。疑問だ。苛立ちだ。

 なんなんだ? なんの夢を見ていた?



「イルは?」

「まだ出てこない。……それより、平気なのかよ? 本当にちゃんと出て来れるのか、鍵掛かってるんだろ?」

「ライトも小さくだが点いてるし、問題ないだろう。コレで出て来れない女じゃないって、お前も解ってるだろう?」

「まぁ……な……」



 そうだ。今はあいつを信じてやらなきゃならない。夢なんてほっぽって、俺は地下室への入り口を見る。

 でも、やっぱり。

 不安なんだよなァ、この足の下でイルがのた打ち回ってる実感すらも朧なくせに。しかも、ちゃんとイルが出て来てくれるのかも本当は判らないのに。

 いろんな事が信じられない。どこだか判らない時点から、すべてに信憑性が薄れていく。

 机の上に乗せられた小さな鍵をとって、地下への扉を開けてしまいたくなる。

 ああ、頼むよ。

 オレを止めてくれ。

 イルをダメにしそうになる。

 頼むよ、頼むから。早く出て来てくれ。早くその扉を開けてくれ。その扉を自分自身の手で開けてくれ。

 頼むよ、イル。

 頼むよ。



「で……? なんか用なのか、ジル?」

「え? あ——ああ、夕飯どうする? インスタントなら場所教えるから勝手に作ってくれ、自分で作る時も同じだ。勝手にしろ」

「いや……エンリョする。気分じゃねーんだ」

「……俺もだ」



 ああ、

 そうか。

 誰よりもこの扉を開けたいのはジルなのかもしれない。

 だからオレをここに置いてるのかもな。オレでさえその衝動を抑えているんだから、冷静でいる事を維持し続けるべき自分が開けるわけにはいかないと。

 そして、万が一オレが開けようとしていた時には止めようと。

 つらいのはオレじゃない。

 誰よりも苦しんでいるイル本人だ。

 一番長い時間を共に過ごしているジルだ。

 中途半端な部外者のオレじゃない。

 オレなんかじゃ、ない。



「……なぁ、ジル」

「なんだ?」



 さっきと同じように脚の間に背凭れを挟んだ形で椅子に座っているジルを横目に、オレは何を言うのかもよくわからないままそう声を掛けていた。

 何を話そう。話す事なんて何も無いにもかかわらず、コイツと沈黙を続けるにはオレの精神はちと脆弱すぎる。いつものぽやぽやした生徒会長モードの方がよっぽどやりやすいぐらいだ。だが今はそんな状態であるわけには行かない。少なくともイルを待つ上では、こっちの顔の方がベターなんだろう。

 何を話そうか。じっと捲れたカーペットを見つめているその横顔に、何を問いかけようか。



「その……イルとお前の孤児院時代ってどんなんだったんだ?」



 興味もないクセに、語り出すと長そうなことを訊ねてみた。それを語ってくれれば、勝手に話していってくれれば——この居心地の悪い沈黙は回避出来る。いつものようにのらりくらりと『企業秘密』でかわされない限りだが。

「……ん……」

 意外にもジルは少々考えこむ。話してくれるらしい。

「子供が五人と、シスターとファーザー——ファーザーってのは神父の事だ——が一人ずつ。小さな教会だったと思う。二人共若かったな…どう多く見積もってもせいぜい二十代前半ってトコだったけど、そのクセ人間として出来てた。伝導のために日本に来た外国人だったんだけれど、どこの国の人かは今も知らない」

「へえ……」

 教会が孤児院だったのか。珍しいな、と単純に思う。大体にして教会と言う存在が根付いていないのだ、この街には。一体二人はどこで生まれてそこに行くことになったんだろう。ちょっとは興味深い。それがどこだったのかも含めて。

「で、その二人が俺達の両親だった。五人のヤンチャなガキ共を抱えていたにもかかわらず、柳みたいに飄飄としてて———その人達が大好きだった。俺もイルも、他の三人も、みんな親に死なれたか捨てられたかした孤児だったんだけどな。普通は色眼鏡で見られがちなそういう境遇を全く無視して、一個の人間として扱ってくれた。正しいことと正しくないことをしっかりと叩きこんでくれた。殆どは赤ん坊の頃からだ。叩かれた事や折檻を受けた覚えはないけれど、そんなの必要なかったぐらいだった。みんな自然と行儀良く育ってな……俺達は、あの人達に育てられて……幸せだったんだと思う。今の両親に引き取られた時に俺は六歳だったんだけれど、離れたみんなのことは今でも鮮明に覚えてるんだ。切り取られた写真みたいに鮮明だ。酉里ゆうりも、有弓あゆみも、隆介りゅうすけも。シスター・ルイーサも、ファーザー・フロウも。小さな教会もそこで習ったことも、全てが鮮明すぎて——……。俺達は孤児だったことを嘆いたことはあるけれど、あそこで育ったことは一度たりとも嘆いたことは無いんだ」

 ルイーサ。フロウ。スペイン系の名前かな、と適当に見当を付ける。目を閉じて薄く笑みを浮かべるジルに、俺も少し心の固まってた部分が取れた気がした。

「……そりゃ……よっぽど居心地よかったんだな」

「まぁな。今の両親には言えない事だ」

「だろうな」

「だから、ずっとアタマの中にしまってた。イルに至っては忘れてるもんだと思ってたんだけれど、覚えてたらしくてな…三つ子の魂百までとはよく言ったもんだ」

 あいつなら腹の中にいた頃の事も覚えてそうだ。オレは根拠なくそう思う。勿論そんな事はあるまい。だってあいつも孤児だったんなら、父母の事を少しぐらい覚えてたっていいはずだからだ。多分知らない、覚えてない。

「みんながもうどこかに養子に出されたって聞いてる。行った先もよくは解らないし、結局もう十年も会ってないけれど、どこかで偶然遭うことがあったとしたら絶対解ると思ってる。俺達はなんつーか…同じ星の下に生まれたような、そういう繋がりを持ってたと思うから」



 星の下、ね。

 オレにはよく解らない。ごくごく一般的な家庭で生まれ育ち、ガキ大将なんて時代遅れな経験までして、小さな頃の夢は正義の味方だった……そういうあらゆる意味で普通のガキだったオレには、二人のようなこういう特殊経験の坩堝のような人生はイマイチ解らない。

 ただ、二人にとってそれは苦痛でなかったらしい事はわかる。

 それはむしろ普通よりも幸せであったのかもしれない。

 オレの勝手な印象だが、それはそれで幸福だったんじゃないかなんて。



 とは言えオレはもしも自分が父母の子供じゃないなんて聞かされたら絶対信じない自信があるけれど。目元が親父そっくりだと生まれて来てからずっと言われてきたことだし。もしも血が繋がってなくたって、経験が感情に結びついてやっぱりその形は『親子』と呼ばれるものになっているだろう。

 それを考えると水原家の両親の思うところも気になる。滋留なんて六歳だったって言うんだからいつ何を思い出して話し出すか分からないじゃないか。イルだって四歳だ。十分記憶を保持してておかしくない年頃である。

 元々転勤族で、家の頭金が固まってからこの家を買ってこの街に定住するようになったとは聞いているけれど、行く先々で冷や冷やしたことだろうとは予想できる。ジルも中学に上がり、油断し始めた所でこれだ。今度は衣琉の心配。話せやしないだろう。流石のオレでも察するところ余りある。



 目を閉じて少し背筋を伸ばした滋留が続ける。



「……あの頃の俺達は満たされていたのかもしれない。何一つ変わらずに、昨日と同じ日が繰り返されるのだと信じていた。目が醒めても同じ一日、進歩も進化もいらない、あの小さく大きな家族が永遠だと思っていた、が……それは違って。……家族はみんな離れてしまった。それは、元々重なるはずのなかった運命の糸とかいうモノがお節介な奴によってほどかれ、戻っただけだったのかもしれないけれど——その時の喪失感はひどいものだった。一緒にいることで補い合っていた空所がポッカリと空いてすべてを飲み込みかけていた。それを埋めたのは自分であり、新しい形の家族であり、新しい経験たちだった」



 足りないものを補い合うための家族、か。

 ヘビーだな。そういう関係は。

 オレはもう相槌を打つことをやめて、目を閉じ。頭の中にジルの人生を再現していった。よく解らないけれど教会で二人の異邦人に育てられているシーン。銀の髪をたなびかせた金色の瞳の女性。金の髪が後光のような男……眼の色は灰なのか銀なのかわからない。大家族のようにたくさんいる兄弟、姉妹。女が二人に男は三人計五人の子供。その内の一人が薄い色の髪をちょっと長くしているジルで、一人が今も変わらない長いとも短いとも言えない長さの黒髪をしたイルで。

 けれどそれはきちんと思い浮かべようとするほどに霞んでよく解らない、のっぺらぼうみたいなものに変わっていってしまう……。

 ある日知らない大人に連れられて、知らない町の土を踏む。知らない家が自分の家になり、仲間は妹に 固定される。

 そうして過ごす幾星霜。

 何事もなく普通の家庭に馴染み出す頃に、

 突然前ぶれなく訪れる非日常——……。

 ヘビーだ。かなり。



「だから俺達は補い合うのをやめられなかった。あの教会で他の五人に埋めてもらっていたモノを、今度は側にいる一人に求めなくてはならなくなった。つまり、俺のイルに対する思いはそういうモノなんだよ。ただ、足りないものをどこかに押し込めて埋めてくれる存在——家族より近くて遠い、そんな……」



 誰もいない部屋で一人膝を抱えて自衛に入る。誰もいない。今まで人で溢れかえっていた部屋にはもう誰もいない。孤独だ。隣にいるのはたったの一人。それだけで今までのものを維持して埋め合わせなくてはならない。とても足りない。仲間より少ない。けれど家族よりもよほど多い。

 だから背中を合わせてぬくもりを補い合って。心の洞を埋めあって。まるで疑似恋愛のように身体をくっつけ合って、体温を確かめ合う。シスコンだからと言い訳をして。ブラコンだからと言い訳をして。

 ……なんだそりゃ。

 厳しすぎるぞ。



「——余計なこと話した気がする」

「そうか?」



 俺は眼を開ける。ジルはちょっと赤い顔をしながら自分の色の薄い髪をぐしゃぐしゃと混ぜていた。今更恥じ入るところなのか、これ。別に良いじゃねーか、オレだって今は仲間なんだから。違うって言われたら泣くぞ。生徒会長配達便もやめてやる。

 オレだってお前たちの仲間なんだ。何かを埋めることや補うことは出来ないけれど、それでもオレだって精一杯に手伝っているつもりなんだ、これでも。もし本当に邪魔だったら、玄関近くで見張りぐらいしかさせないだろう。

 それすら邪魔だとしたら、莫根のように実行犯にはさせずネットワークの端末として動かせばいい。下手な嘘しか吐けない俺には全く向いていないことながら。

 ジルは手櫛で髪を整える。


「そうだ。お前はなんか話したくさせる」

「……なんだそりゃ」

「でもそう思うだろ——イル?」



 え?



「そう、かもね」



 おい?



 幻聴かと思った。カチリと床に穿たれた空洞へ通じる扉が鳴る。鍵が開かれる。幻かと思った。ゆっくりとそれが開く。扉が持ち上げられる。思わずベッドから立ち上がると、扉と床の隙間には白く細い指が見え隠れしていた。塗り薬と溶剤で指紋を消している指。冗談だろ。ちょっとだけ乱れた髪がのぞき、どんぐり型の大きな目がオレを見、———笑う。

 いつかの夜のように、あどけなく笑う。



「じゃぁん…奇跡の大復活、なんちってね」



 へへ、と疲れた笑みを浮かべてイルが言った。薄いシリコン製のアンダースーツ、防弾具。装備しっぱなしの仕事着。所々跳ねている髪はまるで寝起きのよう。

 ああ、やっと帰って来たと——

 オレはイルがこの家のノブを回して以降、初めてようやく、安堵した。











「あーっ、もうお腹空いたお腹空いたぁ! マル一日殆どなんにも食べてないし、地下で思いっきり吐きまくったしぃ! あー、胃液で喉いためちゃった…もぉ、こっから咽頭ガンになったらどーしてくれるのさって感じだね! あ、このシチュー美味し♪ ジャガイモが溶けちゃってるのも良いけど軽く火を通しただけでも案外行けるもんなのね、次はカレーで作って欲しい気分」

「お前……そんないきなり元気に……」

「へっへーん、僕を誰だと思ってるのかなぁナル? 君はまだ僕を理解していないようだ、あーんな軍用の自白剤ごときに負けるのは動物園で怠惰の見本を見せているジャイアントパンダ君ぐらいのものなんだからっ! あ、作ったのナルなの? 家に嫁に来てよ」

「いや行かねえよ。一発彼岸行きとかイクォールは言ってたぞ?」

「だからぁ、僕だって堅気じゃないんだってば。あらかじめ解毒剤は飲んでるもんなの。毎日の食後に軽い毒も仕込んでるし……忍者とかそうでしょ? 毒に身体を慣らすために毎食毒を嗜む、っての。それそれ。本棚になかったっけ、忍者もの。ナルには仮面の忍者赤影ぐらいが似合うかもだけど。あ、イクォールに会ったの? ウルサイでしょあの子、よくキレなかったねナル」

「物理攻撃はどちらかと言うとジルがしてたぞ。起動遅いって」

「ジルの部屋のノートPCからじゃ繋がらないからね、隠密ケーブル」

「それも言ってたが何のことだか分からん……」

「『スポンサー』と直で繋がるケーブルを別引きしてるのさ。ああそっか、イクォールに会ったって事は『スポンサー』の事も教えなきゃだよねえ……ジル、麦茶一杯」

「はいはい、お姫様」

「お前たちは一体何をやっているんだ」

「「執事とお嬢様ごっこ」」

「昔からよくするんだよねー」

「なー」


 『なー』、じゃねえよ『なー』、じゃ。



 パクパクむしゃむしゃモグモグ、ごっくん…プハッ。



「ナルぅ、おかわり!」

「お前もうちょっとで鍋一杯空くぞ!? その身体のどこに入るんだどこに!?」

「え? 食道と胃と小腸と大腸の辺りに」

「全部に通してるのか!?」

「だってお腹空いてるんだもぉん! いいでしょ、僕はちょっと臨死体験までして空腹感じてるの! 一日分食べなくちゃこのスレンダーバディが持たなぁいっ!」

「何ぬかすかこのチビッコが! チチもケツもくびれもある歳じゃあるまいが! 棒体形! 童顔!」

「なっなにぃ! 巨神兵! 頭空っぽ! 夢詰め込み放題!」



 軽口をたたき合いながらなんとなく安堵している。イルがイルのままで、安心している。ジルも冷静さをどこか和らげているようだった。やはりつらかったのだろう。しんどかったのだろう。『兄』としても、『ジル』としても。俺は寝こけてたって言うのに。薄暗い印象だけが残る夢の中でグースカ寝ていた、オレと違って。

 オレは口角泡飛ばしながら生ゴミの始末をしていた。ニンジン一本半、ジャガイモ四個、たまねぎ四個、鶏もも肉六百グラム…通常の約一.五倍の材料がごった煮になっていたはずの巨大鍋産――パスタパンと言ってスパゲッティをゆでる時に使うらしい縦長の寸胴鍋だ――オバケシチューは、もはやかなりの量がイルの腹の中に消えている。一日分とはいえ一気にそんな大量に食ったら逆に身体に悪いんじゃないかと思ってジルを見ると、慣れているとでもいいたげに麦茶の入ったコップに氷を入れてイルに差し出していた。イルはそれを受け取って一気に飲み干す。

 地下を出て一番に風呂に入りたいとごねてシャワーで我慢することを渋々了承し、その間に急ぎで作ったシチューをたいらげて……

 なんとも、アッサリ不安を打ち破ってくれる。



「で? もう本調子なんだろうな?」



 ジルがそう訊ねるとイルはにやりと笑う。



「オフコースっ! 僕を誰だと思ってんの?」



 再びそう言い、イルは皿に残ったシチューを一気に食い終えた。…鍋一杯完食オメデトウ、だな。……なんつー胃袋。

 俺は鍋を水に漬けてそこにイルの皿とスプーンも放り込む。料理慣れはしていないが出来ない事じゃない。どっちかって言うと肉より魚の方が得意だが。俺のそれも三つ子の何とやらだ。小さい頃から躾けられている。もしもいつかとーちゃんが倒れたとしても、即戦力になれるように。

 つーか俺の代まで魚屋続けんのかな。昔競りにも連れて行かれたが意味不明だったぞ、あのやり取り。それもいずれとーちゃんに教えられるのだろうか。

 ぼんやりしているとこつんとジルにコップで頭を小突かれる。衣琉が飲んだ麦茶の物だろう。これは別にして置いて、っと。イルを見ると腹をポンポン叩いて満足げにしていた。正直力作とは言えないが、そうされるとちょっと嬉しくなる。



「ぷひゅーっ、生き返ったぁ♪ さすがに今回は冷や汗かいちゃったんだよねっ、この僕でもっ。で、二人はちゃんと仲良くしてた? 囚われのお姫様を助けに行くナイト役の取り合いなんかしてなかっただろうね? それともプリンス・チャーミィの方かな? カボチャパンツの取り合い、あはははー」

「願い下げだそんなもん。そんな下らねえ事言うのはこの大食いな口かコラ?」

「いひゃぁい〜〜! 僕一応病みあがりなのにぃ〜〜っ!」

「ケッ、心配かけるんじゃねえよこのボケが!」

「え、心配? したの?」



 無神経な言葉にオレは一瞬プッツリとした。



「……ったり前だろこのバカ!」

「ひゃわっ」



 耳元で思いっきり怒鳴るとイルは肩を竦めてきょとんとする。きょとんとしたくなるのはオレの方だ、コイツが帰らなくてどれだけ心配したか……帰って来ても、どんだけ懊悩したか……あー、心配して損したぞ本当に!



「深夜の騒音は近所迷惑」

「でッ」



 ゴイーンっ…と鉄の震える音が響く。い、いてぇ…ジルのヤツ、いくらなんでも中華鍋で殴らなくたって。このシスコン大魔神がっ。



「でもなイル、俺達は心配したよ? お前が捕まって、俺達に危害が及ぶとかそういうのじゃなくて……本当に、お前の心配をしたんだ。それなのにそんなこと言われたらいくら鈍い朴念仁のナルだって怒る」

「ああ今のセリフには怒るぞジル」

「細かい事は気にするな」

 細かくねえよ。大体朴念仁ってなんだ。そこまでのボケではないぞ俺も。

「で? リベンジはいつ?」

「あしたっ! あした、夜中に!」


 夜半になってからひゅうひゅうガタガタ煩く鳴り出した風の音が聞こえた。窓や玄関のドアが音を立てている。そう言えば台風の予報が出てたよな、と俺は思い出しながら――嵐に負けないように息を吸い込む。


「あのなぁ…」

 顔の筋肉が引き攣ることというのは実際にあるらしい、事実今オレの頬はヒクヒクと引き攣っている。

「昨日の今日でお前はアホか、そのうえ明日だと!? 学習能力あるかバカ!?」

「最初に言っただろう、実行は三日後だと。明日でなくちゃ意味がない、出来なければこのミッションはおじゃんだよ。連中もまさかそう来るとは思わないだろうから、コレは絶好のチャンスなんだ。解ってくれ、ナル」

「でもお前っ……」

「僕は平気だ。僕を誰だと思ってるんだ? うん?」



 こいつは、



「お前はっ……」



 ———こいつは。



「了解……だ、バカ野郎」



 いきなりいつものイルに戻りやがった。狡猾な犯罪者の横顔を取り戻しやがった。……卑怯だろ、そんなのは。

 心配するのがアホらしくなる。あんなに胸を潰していた自分が馬鹿みたいに思える。何だって俺は、俺達はこいつの事を痛ましく思っていたんだか。謝ったあの唇の動きは何だったのか、訊かせてもらいたいもんだった。だが無駄だろう。いつもの『イル』になったこいつには、もうその言葉を発する意味も義務もない。

 ……呆れる、諦める。胸の中で何度か唱えてから、オレは大きな溜息を吐いた。



「僕は野郎じゃないってばぁ…。じゃ、ちょっと準備しとこうねっと」

 イルはそう言って、PCのデスクに向かう。

「あーあ、ジル達にパスワード知られちゃったなら変えなくちゃね」

「いいだろ、こっちは便利だ」

「駄目だよぉ、コレは僕のなんだから。———EUREKA」

 けたたましいクラッシュ音の裏側に、ピンクのイルカ———イクォールが、本日三度目のご登場を果たした。

『お帰り』

「ただいま、イクォール。伯父さまに繋いで」

『了解、おーい総帥——っ!』

 イクォールがそう叫ぶと画面の一角から発生した小さな四角形がだんだん拡大し——画面を覆う。背景に夜空を背負って、夕方と寸分違わぬ形の男が座っていた。その時とは違って随分イクォールが言葉少ななのは、イルの体調を慮ってのことなのだろうか——だとしたらオレ達の心労はどうでもイイってコトになる……自己中心的、そう思えば確かにイルのコピーだ。他人の心配なんてはなっから受け付けないんだろう。そういうふうに設定されている。そういうふうに刷り込まれている。

 あれ。でもおかしいな。

 こいつは『水原倭流』のコピーだと自称していた。物部衣琉でも、イルでもなく。

 そっちの方も捨て鉢な所があるのだろうか。

 しかしこっちから逆にあの社長――もとい総帥か?――を呼び出せるって事は、あの時のハッキングめいた強硬策はジルにとっても危険な綱渡りだったのかもしれない。

 出来るだけ人を排した部屋の中で、一人机に向かって総帥とやらが待ち続けていたのは――イルなのか。この人も、イルを心配していた一人なのか。



『お帰り、イル』

「ただいま、伯父さま。急なことをお願いしてもよろしいですか?」

『ああ、なんでも聞こう』

「武装ヘリを一機と電動滑車を一セット———これは二百キロ以上の重量に耐えられるレベルのものを———貸してください」

『…ミッドナイトウォリアの件だね。いいだろう、すぐに用意するよ』

「アリガトウございます」



 ……武装ヘリ? 伯父さま?

 ——ちょっと待て。

 なんじゃそりゃ。



「イクォール、もういい。次はヨウとヨルに繋いで、あとキョウちゃんにも」

『三人だけ? DOLL全体じゃないのね?』

「そこまでは要らない。あの三人で充分だ」



 キョウってのはイルのクラスメートである莫根のことだとして…あとの二人はなんだ? ヨウとかヨルとか…。

 途端に画面は二転三転し、チャットのようになる。そこにはハンドルネームが三つ出ていた。『ヨウ』『ヨル』『キョウ』…さっきのイルの話に出ていた三人らしい。



 やっほうお三方、いつからそこにいたんだい? イルに応えたのは『ヨル』だった。午後からずっとイクォールに召集かけられてたよ。スタンバッとけってさ。

 捕まったって聞いたよおドジさん……『ヨウ』が打ちこむ。

 ドジッちゃったワケじゃないもん、とイルが返した。用件に移るけれど、と繋げる。

 不破博物館にミッドナイトウォリアを預けている持ち主の裏を探って。かなりのどんでん返しがあるハズなの……アレはただの珊瑚じゃないわ。

 どういう事ですか? 『キョウ』、莫根が問う。

 どうもこうもないの、泥棒ひっ捕まえて警察に突き出すでもなく自白剤打って来る連中だったからね。カタギじゃないのは確実だ。外人部隊の借り物でもしてるのかもしれないし――とにかく頼むよ御三方。キョウちゃんとヨルはカーゴ運び屋をお願いね、ヨウは縒り師として情報をまとめた最終報告を…期限はとにかく早く。ホントに頼むよ?

 同じ文字列が三つ一緒に出た。

 『了解、元締め』

 …なんなんだこりゃあ。



「さて、と。ナル……混乱してるよね。ちょっとだけバラそうかな」



 イクォールとの回線を切り、PCをシャットダウンし、椅子を回転させてイルがそう言った。

 オレは唾を飲む。

 どうやら、

 この数日でオレを巡る位置はずいぶん核心に近くなったらしい。



「これはすべて真実だ、ってことを念頭において聞いてくれ。実は……僕とジルは、本当の兄妹じゃ……ないんだ」

「それは俺が話したよ、イル」



 ジルが口を挟んだ。



「そーなの? 早いなあ……これで結構緊張した告白のつもりだったのに。どこまで話したの?」

「教会で育ったことだけだ。先に必要な情報だったろう? イル」

「そだね、それじゃ、その続きからいきますか。あのね、この家族に引き取られた後、僕の『本当の』家族が見つかったのは二年前だった。その時の事はこの際おいておくんだけれど、そこで見つかった肉親って言うのは母方の祖父と伯父だけだったの。生きているハズの父親の行方はしれないし、母親は僕を生んだ時に死んじゃったから。お祖父ちゃまは僕に、ある仕事をして欲しいって言った。それは本来僕の母親の仕事だったのだけれど、母親はもういないから、娘の僕がそれを継がなくちゃいけないと言うワケ。『スポンサー』として助けてくれるのもその繋がり、かな。そしてその仕事が他でもないこの———ドロボウなんだ」



 ……ドロボウが仕事って……どんなだよ。受け継いできたって、ルパン三世か?



「この際言っちゃうと僕のお祖父ちゃまは宇都宮コンツェルンの前会長で、伯父さまって言うのはその現総帥さんなの。そして今まで僕達のサポートやらをやってくれていたのも、みんなその関係。イクォールを筆頭にした『ネットワーク』だって企業同士のそれを僕用にカスタマイズしてるものだしね。みんな、僕の継いだお母さんのするはずの仕事を手伝ってくれている『スポンサー』なのさ」



 ジルが雨の降り出した外を見ていた。

 風の音が遠くに聞こえる。イルの声が近くに聞こえる。

 ひどく、近くに。

 とても、近くに。

 イルの声だけが聞こえる。

 風も、雨も、なにも聞こえない。

 イルの幼い声だけが聞こえる。

 言霊が、聞こえる。



「でも、ただのドロボウじゃない。いままで僕達がやって来たことは、限りなく何事もなかったかのように装うことを重視してきたよね。かならず精巧なイミテーションを置いてきて、何もなかったようにして、極力表沙汰にしないようにしてきた。それは——死んじゃったお祖父ちゃまのご遺志でもある。お祖父ちゃまは、なるべく穏便に進めろと僕に仰って亡くなった。そう僕に、言葉willを遺した。僕らはそれに従い、限りなく細心の注意をはらって行動してきたんだ。そして——あるモノを集めている」



「あるモノ…」

 鸚鵡返しにして牛のように反芻する、というのもなんとも動物くさい表現だ。ぼんやりとそう思うと、意識がどこかに飛んでいるのがありありと感じ取れる。

 飛んでるなぁ、オレの常識。

 オレの日常。

 いつの間にここまで来てしまったんだろう。この数日か。何をしたと言う事もないと思うのだが、せいぜいがイクォールとの接触か? 『スポンサー』とのご対面か? どっちにしろ、俺のいる位置は何処になっているのか分からない。昨日よりも近くなっているのは確かだ。遺言。漏らされた言葉はもしかしたらいつものスタンスを崩していたのかもしれない。いつものように企業秘密、で誤魔化していれば、いつものこいつでいれば、だんだん浮いてきた顔の痣もなかったかもしれない。

 この接近はまるで彗星のように重力に引っ張られているだけな気がしないではない。ずるずると状況に引っ張られているだけだ。そして――いずれはリンゴの皮に阻まれてジ・エンド。歯が立たない現実にあわくって溺れるのが見えている。何も叶えられない願い星になって、消えるのがオチだ。オレには何もできない。何も、叶えられない。出来るのは邪魔くさく纏わり付く心配だけ。ああ本当、何だって俺はここにいるのかと問い詰めたい気分だ。自分自身に。



「僕の頭を疑わないで、そして驚かないで聞いてね」



 今までのところは、取り敢えず驚いていない。むしろスッキリした、宇都宮と関係があるのは予想がついていたけれどそれがどういう繋がりなのかはわからなかったからだ。それが『血』でもって、『仕事』でもって説明されたんだから。

 これ以上どう驚けっていうんだ?

 世界屈指の大企業が泥棒の手助け? しかもその泥棒ってのは、どうやらその家の家業めいたものらしい? それを受け継ぐのがこの華奢な体躯の頭でっかちな後輩だって? はは、は。

 それで驚けないオレに何をどう驚き、疑えって言うんだか……。笑ける覚悟ならいくらでも出来てるぞ。参ったか、お嬢様め。



「僕達の奪ってきたものは、取り返してきたものは———すべて呪われたモノだったんだ」

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