VOICE 3 "EUREKA"

「おーいっ、お爺さぁん!」



 あたしがブンブンと左手を振ってそう呼びかけると、薄い緑にペイントされたベンチに腰掛けていたお爺さんが、ゆったりと顔を傾けて相好を崩した。



 あたしの名は水原倭柳、十一歳。……訳あって、この水原と言う名前の前に神無という姓を貰っていたコトもある。ほんの数年しかつかっていなかった名前だけれど、その神も何も無いのだと言いたげな無一物的名字が気に入ってはいる。昔も、今も。



「おお、来よったねぇ。このところは殆ど毎日立て続けだ」

「うん、夏休みに入ったからね。ごめんね邪魔しちゃって……」

「邪魔なんかであるもんかい、わしは大いに嬉しいさ」



 かんらかんらとお爺さんは笑う。あたしもつられて、ヘラヘラと笑った。

 一学期が終った後にやってくる夏休み。…のちょっと前、理科の課題で植物観察をしていた時のことである。あたしとお爺さんが現在いるこの公園は、近所の公園の中でもとりわけ緑が多いので、あたしはここで観察を続けていた。

 お爺さんはいつも、このベンチに座っていた。

 緑に埋もれる緑色のベンチで、杖に顎を凭せ掛けながらいつもいつもここにいた。

 それだけ。

 うん、『なんとなく』気になったので、とある土曜の午後に――あたしは声をかけてみた。まァ、お昼でもご一緒しませんか、なんて言うちょっとワザとらしいぐらいのセリフではあったんだけれど……この好々爺さんは笑顔で承諾してくれまして。おにぎりやらお茶やら卵焼きやらナゲットやら、月並みなお弁当をつつき終わる頃には、もうお友達になっていた。

 そして夏休みになってからというもの、あたしは時間の許す限りここにいる。一日の殆どをここですごしている。幸い定位置のベンチは常緑樹を背後にしていて涼しい木陰なので、殆ど日光が当たらない…すごしやすいトコなのだ。



「のう、イルちゃん」



 お爺さんはあたしをイルちゃんと呼ぶ。あたしが気に入ってる綽名がイルだからそう呼んでもらってるんだけれど、そういやお爺さんがそれを聞いた時に楽しげな感じで眼を細めてたのは……なんだったんだろ。懐かしそうな眩しそうな悲しそうな、どこか不思議なカンジのする笑顔になり切れていない顔。

 同じ名前の友達でもいたのかなと適当に納得しているけれど、『イル』はちょっと見ないだろう。それが綽名ならなおさらだ。何か感じるものがあったのかもしれない。まああたしは空気の読める小学生なので、そこに触れたことはない。うん、読み違えてはいないはず。多分。きっと。

 そこはそれ、閑話休題としてっと。



「なぁに?」

「うん、ちょっと遠くの博物館の割引券を仕入れたんでのう、一人で行くのもなんなので一緒にこんかね。息子も娘も仕事で付き合ってくれんのでなァ」

「へぇ、今度はどこ?」

「不破博物館と言うところじゃよ。なんでも面白い催し物をやっているらしくてな」

「わぁ、行こう行こう! 博物館大好き、色んな展示やってるもん! 常設展でも面白いし! あ、でもウチの門限―――」

「五時じゃろ? 間に合うて、隣の県とは言ってもそんなに離れちゃおらんしなぁ」

「そだね、うん、行こうかな!」



 お爺さんはしょっちゅう、美術館や博物館の割引券を貰うことが多かった。一人で行くのもなんだけれど、行かない手もないというので――あたしはいつもおまけの様にお爺さんにくっ付いて行った。『お孫さんですか』と聞かれる度にお爺さんがくすぐったそうにしてたのは、本当の孫がつれない所為なのかなァとか、ぼんやり考えながら。

 ま、人の家の事に立ち入っちゃいけませんな。ん、せんなってちょっとおじさんっぽいな。まあ良いか。電車に乗っているだけでもわくわくできるのは小学生の特権だ。門限は怖いけれど――うちの父は公僕くんなので五時と他の家庭よりちょっと早い――、だからってお爺さんを一人送り出すわけには行かない。歳だって言ってたし、いざと言う時の為にあたしは付いて行くのだ。なんて冗談は、ちっとも笑ってもらえないけれど。

 とにかくあたしは、お爺さんと一緒に美術館巡りをするのが嫌いじゃなかった。

 謎な事に、年齢差半世紀以上のあたしたちの関係は確かに『お友達』というモノだったのである。



「うへぁ……すごいすごい、眼がチカチカするっ!」

「ふむ、世界最大のピンクダイヤモンドとか書いておるな。ピンクのダイヤは小さく希少なんで、こういう風に展示されることもあるんだろうが―――」

「あ、どっかの所有者さんから借りてるんだって書いてるね。すごい大きさ…それにすごいキラキラしてるっ」

「向こうは真珠の展示もしてるらしいぞ? …やれやれ、もうちょっと俗物思考から抜け出た物を展示しようとは思わんもんかのぅ」



 お爺さんはぼやきながらも歩みを進めて展示スペースへと行く。あ、気をつかってくれてるんだなぁ……あたしが以前、好きな宝石を聞かれて真珠って答えた所為かも。

 真珠って、貝にしてみれば不純物って感じなんだろうけれど、あたし達にとってはスゴク綺麗な物だもんね。うん、綺麗すぎて手が出せないくらい。自然が、何の欲目も無く作る、スゴク綺麗なもの。あたしはそういう綺麗なものはなんでも好き。基本的には、お祭りでつかみ取りなんか出来る不規則な色取り取りのプラスチックの塊なんてのも結構好きなんだよね。透き通ってて綺麗だから。結構お手軽価格でお安いのだ、あたしは。綺麗なものなら何でも好き。女の子ですからダイヤや真珠なんて宝石類も大好き。いつか信じられる人が出来た時に指輪にして欲しいなーとかちょっと乙女チックなことを考える程度には、興味津々なのだ。と言うわけで真珠のコーナーに行ってみる。お爺さんと手を繋いで。

 いーなあこう言うの、ホントにお爺ちゃんと孫みたい。うちはどっちも遠方住まいだからこういうことはないし、あたしは貰われっ子だから接し方が解らないんだろう、ぎくしゃくされちゃうのだ。一応何にも知らないふりで無邪気に孫を演じてるけど。嫌われてはいないと思う、ランドセルや机も買ってくれたし。うん。

 くすぐったいのはあたしの方なのかもね。なんて。

 真珠を見る。オオシャコガイから取れたというそれは結構不格好で、縦三十センチ横六十センチ、時価にして百億円だと説明プレートには書いていた。それから改めて真珠の方に向き直る。



(あ――――れ?)



 ふ、と違和感。



「どうしたね? イルちゃん」

「あ……ううん、なんか」



 ふ、と違和感があった。

 目の前のショーケース。その周りを囲う立ち入り規制のロープ。

 ショーケースの内側には、眼を見張るほどの大真珠―――なんだけれど。

 あれぇ………?

 なんか、違和感。

 なんか、変。

 素直に綺麗と思えない。さっきのピンクダイヤを見た時みたいな、どきどきする、ワクワクする、そういう気持ちが無い。

 しらける。

 こんなの真珠じゃないよ。真珠っていうのは、もっとこう艶々してて、光を取りこんでいながら更に弾いてるような、そんな綺麗なはずだもん。これは真珠の綺麗さが無い気がする。なんか違う。いくら形が多少不格好でもそれは変わらないはずの印象だ。なのに、なのに――



 …ちょっと待って。

 それって物騒じゃない?

 これ、

 偽物ってコト?



「ふむ…質の悪いイミテーションじゃな」

「へ、イミテー…ション?」



 間抜けな声を出しながら、あたしはお爺さんを見た。お爺さんは淡々と語る。



「判るわいな、艶が違うし安っぽさがある。石のような硬さがあろうともそれは変わりない。半分近くは勘じゃが、コレでも眼は肥えておるのじゃよ――あの戦さえなければ、コレとてわしらの……」

「……」

「さて、次に行こうか。偽物見ててもつまらん」



 イクサ? 戦って……戦争のコトかな。社会科で習ったような気がする。そっか、お爺さんの世代は、戦争を経験してるのかもね、リアルな現実として。あたし達戦後世代の知らない、食うか食われるか、死ぬか殺すかの一線って言うモノを。

 でも、そのあとの『わしらの』ってナニ?

 そういえば、あたしの語ることは沢山聞いてくれるけれど、お爺さんはけっして自分のコトを語らないヒトだなぁ……。家も家族も、娘と息子がいることぐらいしか知らない。自宅にも招かれたことはない。逆にあたしが誘うと遠慮がちに良いのかのう、なんて言いながらお茶に呼ばれたりしてくれる。お母さんは料理上手なのだ。夏休みがほぼない元機動隊の父は今は交番のおまわりさん。滋兄は中学一年なので夏期講習があり、自由参加のそれに恙なく参加している。だから家に一日中居るお母さんは暇なのだ。お弁当作ったりお茶菓子を作ったりの事は、結構楽しんでやってくれる。

 お爺さんは家に残している家族とどういう関係を築いているんだろう。訊いてみようかな、と思ったところで繋いでいた手が解かれた。



「っ……」

「……お爺さん?」



 ある程度人込みを離れた休憩スペースで、お爺さんがいつもの着流しの胸辺りを押さえた。



「どうしたの、具合悪い? ヒト呼ぶ?」

「っ……ぐぅっ……」

「お爺さん!? 待ってて、すぐに誰か呼ぶからっ」

「駄目じゃっ……!」

「!?」



 あたしのスカートの端をしっかりとつかんで、お爺さんは引き止めた。必死の形相をして、脂汗を浮かべながら――その眼は、ただただ必死に。

 あたしをとめている。

 どうして?



「どこが悪いわけでも……ない、ちっとばかしな。年を取りすぎて、どこもかしこも弱っとるだけじゃて」

「だから、ヒト呼ばなきゃ駄目でしょ? そんでお医者様呼んでっ」

「すぐ治まる! ここに居れ、ここにっ……」



 なんでそんな顔してるの?

 どうしてそんなに必死なの?

 あたしを、止めてるの?



「……水鳥みどり……」

「え…なに、緑?」

「水鳥、お前が生きておったらばな――……」



 お爺さんが息を整える。ゼェゼェとしたその息遣いは傍目に判るほどに尋常なものじゃない。



 ゾッとした。

 危ない?

 『おかあさん』?



「ああ……落ち着いたわい……。済まんな、驚いたじゃろ? これでも結構な年よりなモンでな、こういうコトも多々あるんじゃよ」

「お爺さんっ……」

「ちっと……長居をしすぎた。この世に」



 長居も出来ずに死んだ人もいるんだよ。子供を抱けずに死んだヒトもいるんだよ。子供に、名前もくれないまま死んだヒトもいるんだよ。

 だから、生きてるヒトは、生き抜かなきゃ。長居しすぎたなんて弱気なこと言っちゃ駄目だよ。


 言いたいことはあるけれど、あたしは人生の先輩にそんな判り切ったことも言えない。子供だからだ。でも生きて欲しいのは本当で、ぎゅっとその背中に縋りつく。待って。置いてかないで。あたしが人生最後の友達なら、お願いだからまだ置いていかないで。覚悟も何にもなく放り出すのは止めて。いつまでもベンチに座っているだけなんて嫌だよ。何にも知らないのに、知らされていないのに。

 ぜえぜえ言う音が背中から伝わって来る。それが段々収まって行く。心臓の音は不穏なリズムを残していたけれど、それも段々落ち着いているようだった。ホッとして、泣きそうになってた目をくすぐる。ぽんぽん、と背中に縋りつく手を叩かれ、そのしわの深さを思い知る。



「ちっと……、な。そろそろかもしれん」

「お爺さん?」

「のうイルちゃん、ちょいと付き合ってくれんかな?」



 付き合ってくれといわれたその先は、予想に反して――あたしの住む街だった。あの公園のある、あたし達の住む街。

 ただ行き先を絞り込むと、ちょっと変な場所だった。いつもの住宅地ではなく、オフィスビルの並ぶビル通り。そこを、躊躇いも無くずいずいと進む。あたしは足取りがしっかりとしているお爺さんの後に従った。勿論手は繋いだままで。今度こそ、崩れ落ちてしまわないように。

 辿り着いたのは一件のビルだった。

 とりわけ大きいビル。

 てゆーか、高いビル。

 総帥の部屋の展望はとにかく凄いらしい。地上数百メートルのその社長室は、スカイラウンジなんていう笑っちゃう名称を貰っているんだから、どっちかって言うとちょっと変なビルという印象が強かった。たしかそこはあたしの兄さんが通っている中学の理事総裁をも勤めてる―――



(宇都宮コンツェルンの本社……?)



 お爺さんは、明らかにそこへと向かっていた。



「お帰りなさい」



 ……ほへ?

 ビルの玄関前には女の人が佇んでいた。

 女の人……じゃない、女の子だよ。雰囲気が凄く威圧的だけれど、まだ少女って年 齢。背が高くて、上に結い上げた髪もスゴク長くて膝裏まで届いている。落ち着いた雰囲気なんだけれど―――どこか、そう。



 炎の華。



 そんな静かに鮮烈な雰囲気。



「おお、アヤちゃんかい。ばれたかのう?」

「ばれますよ、あれが上で待ってます――それで、その子が?」



 眼だけで見られてギョッとする。

 ちょっと規格外に小さめのあたしから見ると巨人の域に入るそのヒト(それでも一六〇センチぐらいかな)はすごく綺麗な顔をしていた。その不思議な目で見られるのは、どきどきする。あたしが男の子だったら一目惚れしてるだろうな。

 その、目尻が下がる。

 唇が、弧を描く。

 真っ黒なワンピースと白い顔。なんか古い映画みたいにモノクロームなカンジ。口唇だけが紅く、微笑はあくまで優しげな。



「お噂はかねがね聞いている、水原倭柳殿。私は九頭竜綾姫くずりゅう・あやきといって、こちらのご老体に縁のある者だ。ご迷惑かもしれないが、お茶の一杯でも馳走になっていってくれると嬉しいな」

「は、はいっ」



 中性的な物言い。中性的……うーん、無性的なのかもしれない。どっちでもある、というより……どっちでもない、って感じがする。それでいて時代掛かったような、微妙なモノの言い方。誘われた所為で断われず、あたしは居心地悪くビルに足を踏み入れた。



「お、お爺さん?」

「ああ、この子は婿の妹でな。係累としてなんというのかは判らんが、まあわしからしたら身内みたいなもんじゃ」

「さっきお帰りなさいって言ったけど……」

「ここはわしの自宅も兼ねておってな」



 あ。

 あたしはお爺さんに三つ目の質問をする直前に、ソレを見た。

 ―――あ。

 宇都宮コンツェルン創始者肖像。肖像って言っても絵じゃなくて、大きなパネルの写真。

 背広着てて、ちょっと薄くなった頭をしてて、厳しい目つきをしていて。

 ちょいと若い。でも判る。

 あれはお爺さんだ。

 てコトは、

 ……もしかして……もしかしなくても……



「お、お爺さん!?」

「うぅむ、昔の写真を見られるとなると少々ばかり照れるわいな。今はこんな老いぼれじゃが、コレでも昔はワンマンと呼ばれておったんじゃよ」

「じゃ、お爺さんはっ……宇都宮の……!?」

「会長じゃよ。まァ、ゴツイのはうわべだけで、割とのんびりしておるんじゃが」



 ちょっ……!?



 のんびりって、だって宇都宮コンツェルンってアレでしょ? 世界中に支店を持ってて、手を染めていない事業なんか無いって言われてるぐらいで、ソレはもう学校法人から飛行機製造、果てはゲーム会社や芸能プロダクションなんてモノまでやってる今日の日本経済を支える金字塔! 世界に名立たる名士と誉れ高きその初代!

 おにぎり大好き好々爺のお爺さんが、そんなのだなんて、嘘でしょぉ~~!?



「……あんなぁ、イルちゃん」

「え、はい?」



 エレベーターの中でお爺さんがしみじみとしながらあたしに声をかける。ずんずん高度の上がる景色が、窓ガラス越しに見えていた。耳が、ちょっとだけキンとする。



「わしはこの宇都宮コンツェルンを一代で築いた。ヒトは、わしを豪傑と呼んだが―――実際は当時の世情に通ったただの頑固親父でのう。妻は外に出さず、子供にはわしの思う通りの道を行かせ、家族も社員の様に手の上で暮らさせておった」



 訥々とした内容は、

 初めてお爺さんから聞かされる――身の上話。

 綾姫さん……は、それを聞いているのかいないのかもわからない無表情で扉の前に佇んでいた。婿の妹って言ってたから、息子って言うのはその人の事なのかな、なんて考えて。正直パニックになっていた頭がやっと落ち着きを取り戻す。お爺さんのしわがれた声によって。

 よく聞いてみれば、声だけに集中してみれば、あたしの祖父達より年を取ったしゃがれさがあって、改めてこの人が『老人』なのだと理解する。



「しかし、いくら家族を見張っていようとしてもわしは社長だったからのう、家に寄りつく事もせなんだな。……そしてある日――娘に話を切り出された。わしの子供は三人いてな、どれも娘だったんじゃが……一番目を掛けておったその娘がな、言ったんじゃよ。『結婚がしたい』と」

「――……」

「反対しちまったんじゃ。誰よりも名声のある男に嫁がせて、何不自由なく暮らさせてやろう。それがわしの親心だったんじゃが……娘はそれを要らんと言うた。好きな男が出来た。その男以外とは幸せになどなれん。許してくれ、とな」



 失礼だけれど、あたしはお昼のメロドラマのワンシーンを思い浮かべていた。

 泣きながら結婚の許しを乞う娘。

 頑なに拒否する頑固な父親。

 その結末はいつだって、どの時代だって――……



「わしは寝耳に水のそれに強く反対した。どうあっても許すことなどできん、お前にはもっと相応しい男がいる。現実を見詰めて、しっかりと別れるんだ。……恋する乙女には残酷な言葉なんじゃろうなぁ、こういうのは」

「……そーなのかも……世間的には」

「イルちゃんがそう言われたら、どうするんじゃ?」

「わかんない。あたしは、そう言える人にまだ巡り合ってないし……小学生の子供の恋愛なんて、幼いもんだよ。純粋なだけしか取り柄がなくて、タダ綺麗なだけで……」



 幼すぎて純粋すぎた。

 だから、現状を保った。

 綺麗なままで終らせた。

 滋兄だって知らない、あたしの初恋だ。

 滋兄。

 あたしは引き取られた時から、滋兄がそう言う意味で好きだった。

 好きでなければ寂しくて怖くて死んでしまいそうだった。

 大好きだった孤児院の仲間達がいないのを、それで誤魔化そうとしていた。

 本当、幼いだけの、恋心。

 それが恋ではないと気付いたのは、いつだったか。



「そんなもんかな? 果たして」



 お爺さんは窓の外に目を向けてから、続ける。



「まぁ、娘は解ったと言ったんじゃよ。それでわしは安心しておったんだが――とんだ竹箆しっぺ返しでな。一週間と経たんうちに、娘は男と姿を晦ましおった。探したが、見つかる気配もなく……そのまんまじゃ。もう十年も経つのが嘘みたいでな。頑固なところは、この爺に似たようじゃ」

「お爺さん……」

「もしかしたらと五年。まだ希望があるかもと十年。もう少しだけと…それでも、みつからなんだ。諦めかけておったところにな。ひょいと、神託が訪れおったんじゃよ」

「シンタク? 神様の御告げの、あの神託?」

「ああ。もともとわしは神道なんじゃが、来よったのはなんと基督教の…なんと言うんじゃったかな、あの頭から黒ずくめの尼さんは」

「シスターです」

「おお、それじゃ、すまんな綾ちゃん。まぁそれが来て、わしは巡り合った」



 …シスターか、久しく聞いてない単語だな。そういえばシスターもファーザーも元気かなぁ、リューやユーリもどこかに養子に出たのかなァ……。エイミも今頃どうしてるんだろう。あの教会はどうなったのかな。

 ふっと思い出される『家族』は、やっぱり四歳までを過ごしたあの教会の事だ。お父さんやお母さんには悪いけれど、そっちがあたしの家だったように思う。場所も解らない、今や誰の行方も知れなくなってしまった、でも、温かかった場所。僕と滋兄はそこから引き取られ、水原の名を貰った。中途半端な名付けだけれど、あたしはそれもそれで良かったのかな、と思えている。倭柳の名前も好きだしね。



「生憎と、娘は死んでおった。その相手も行方知れずじゃ。しかし、孫だけは生き延びておってな」

「じゃあ、今は一緒に暮らしてるの?」

「いや……」



 チン、とベルが鳴ってエレベーターが止まる。扉が開いたら、そこはもう室内だった……目の前に空が広がっている。いや、向かいの壁全体がガラス張りなんだ。

 そこは最上階――だった。



「孫は、な。養子に出ておった。そこで幸せに暮らしておる。裕福と言うほどでもないが安定した収入の公務員の親父さんと、十人並だが優しいお袋さんと、少々過保護な兄上に囲まれてな」



 ……え?



「ようこそ、我がスカイラウンジへ」



 マホガニー製のどっしりとした机に向かっていた男の人が、よく通る声でそう声を掛けた。後ろに流してある前髪の所為で大人くさく見えるけれど、ちょっと幼い顔をしている。

 けれど、柔和な笑顔の裏に。

 変な光を蓄えてる。



「さて。これが我らのカタンなるお嬢さんか――どうぞお座りなさい、『神無倭柳かんな・しずる』殿」











「おいっ……なんだよコレ、なんなんだよ……イル!? イル、おい起きろ!」

「騒ぐなナル! それに動かすんじゃない!」

「なんなんだよ、なんでっ……」



 オレは膝をついて顔面蒼白なイルを覗き見た。瞼が僅かに反応して、力なく痙攣する。



「……追手……捲いた……」

「ああ」



 弱々しく紡がれる単語に、努めて平静を装っているジルが相槌を打つ。



「薬……うたれた……」

「ああ」

「薬? なんの」

「黙ってろ」



 ジルに言われ、問いかけは出来なくなる。隈の出来たイルの顔はまたその青白さを増すように歪む。



「地下に入れて……ピンと一緒に……」

「ああ。解ったから、もういい。眠るんだ。いいな?」

「……ナル……」

「あ……?」



 弱い光をたたえる眼差し。

 ゾクリとする。

 一瞬気持ち悪いと思ったその蒼白な顔が、



「ごめんね」



 声はなかった。

 けれど、震える口唇は確かにそう動いたような気がする。読唇術なんて洒落たことは出来ないけれど、『なんとなく』そんな感じがした。

 それだけだった。イルの意識は、混濁に捲かれるようにその表情から消えた。



「瀬尋、イルを部屋に連れて行ってくれ。俺は鍵を探すから」

「鍵?」

「イルが勝手に作った地下室の鍵だよ。場所はイルしか知らないんで、イクォールに訊かなきゃならないが……どうやら薬を抜くには荒療治が一番らしい」



『鍵は旧約聖書に…』



「さっき……イクォールが言ってた。『鍵は旧約聖書に挟んである』とか……」

「イクォールが? お前、イクォールと話をしたのか?」

「いや……そうじゃないが」

「聖書……シスターに貰った聖書か、だったらイルの…早くイルを連れてってくれ」



 言われるままオレはイルの身体を両手で抱え込んだ。あまりの軽さに一瞬拍子抜けして、さっきより近くなった蒼白な顔を見る。

 口唇に、傷があった。

 何かを堪えようとして噛んだのか。それとも、殴られたのか。



「……バカガキ……」



 色気もクソもない部屋。本棚にはとんでもない数の書籍が並び、それでも入りきらなかったものが平積みにされていた。壁という壁が書架に埋められ、コンセントと電灯のスイッチ、ベッドのスペースを残して全ては本だらけである。ジャンルに節操は無い。それ以外は硬質的なイメージのあるよく解らん機械だらけの部屋――とても、中学一年女子の部屋とは思えない。

 安っぽいパイプベッドにイルを横たえると、間をおかずしてジルが入ってきた。灰色の本棚から厳つい革表紙の本を取り、パラパラとめくる。小さな鍵がその手に滑りこんでくると、床に膝をついてカーペットを持ち上げる。そこには鍵穴が穿たれていた。



「イルが勝手に作った地下室とか言ってたけど…どうやってそんなモン勝手に作れるんだよ?」

「ウチは夏冬の長期休みを利用して、ちょっとした旅行に出るのが恒例でな。まあ遠くても祖父母の所だが――父さんの仕事の関係で市外に出るには申請が必要だし。その間にちょっとずつ、作ってもらっていたらしい。俺も聞かされた時は豪く驚いた」

「…作ってもらってたって、誰に」

「企業秘密だ」



 コレのどこが隠し事されてないってんだよイクォール、本日既に二回目の企業秘密発言だぜ……と、オレは脳裏にあのピンク色をしたイルカを思い浮かべて舌打ちする。



「今年の旅行は結婚十五周年って事で俺達が親父達にプレゼントしたんだ。夏休みにかぶらせると父さんの仕事で休みがないからって、無理矢理行かせた。だから留守番しちゃいるんだが……さて、どうなるやらって所だな……」



 カチャリと音がして、フローリングの床が持ち上がった。中にはちょっと急な階段が見えている。こんなモン作るって言ったら、周囲の水道管やら何やらまで調べなきゃならないはずだって言うのに、簡単に、しかも周囲に気取られること無く地下室なんて物を作れるなんて…全く、どうなってんだ。



「イルを連れてこい。これが終ったら、一つ……お前に秘密をばらしてやる」



 ジルはそう言って、睨むように眼を細めた。

 オレは再びイルを抱える。やっぱりその身体は軽すぎて妙に悲しかった。

 痩躯には無駄が何一つない。まるで身軽に出来るところまで軽量化したオモチャの様にも思えた。

 ガキが、なんで。

 お前はガキだろ。

 オレもガキだろ。

 なんで、こんな、悲しい――……

 急な階段。暗い室内。

 ジルがカンテラのようなモノに明かりをつけると、そこはコンクリート製の箱みたいな形をしてる。子供三人でも閉塞感は拭えないし、何もない殺風景すぎる場所で一体何のためにあるのかも解らない。しかし、多分、必要な場所ではあるのだろう。



「イルを下ろせ」

「ど……どこに?」

「床でイイ。それ以外に場所はないからな」



 オレは躊躇いつつもイルを下ろした。手に触れたコンクリートの床はひどく冷たい。反して、イルの身体は熱を持っているのか……熱かった。

 それでも、顔には相変わらず血の気がない。

 もう気持ち悪いとは思わなかったが、それがなくなると妙に胸騒ぎがする。生きてるのか死んでるのかもわからなくて、ザワザワと胸が騒いだ。



「イル、起きろ?」



 ジルが片膝をついて横たえられたイルの肩を叩くと、イルは解らないほどに薄く瞼を上げた。



「ピンは、ここに置く。これでいいんだな?」



 小さくその首は縦に動いた。か細いような命を感じ、オレはそれを見ているのが無性に辛くなる。つらい。生死の境にいる危篤の病人を見るようで、つらい。

 ジルは明かりを消す。



「出るぞナル。ボーッと突っ立ってるんじゃない、お前はいるだけで空間の体積を大幅に奪ってるんだからな」

「悪かったな馬鹿でかくて。それより、イルは……」

「置いていくんだ。回復したら出てくる」

「え?」



 ステンレスの階段を上り、モグラの気分になってイルの部屋に出た。そして一瞬、名残惜しそうにその暗い穴を覗き見て―――ジルは扉を閉じる。

 そして、鍵を、掛けた。



「おい、鍵なんか掛けたらイルが出られないじゃ…」

「ピンは置いてきたから平気だよ。内側にも鍵穴はあるんだ」

「だ……からって、あの状態じゃ階段も上れないだろ? それより医者に見せた方がいいんじゃないのかよ、げっそりしてて見ちゃいられない」

「なら見るな」



 ようやく彼岸から戻ってきた常識的な判断力は、ここでは必要とされずに闇に葬られた。オレはジルを見て、結局それだけだった。何も言えずに息を吐く。



「あそこで薬を抜く。本人が言ってたんだから、何か自白剤か……麻薬みたいなものを打たれるかしたんだろう。それを中和するのも手ではあるが、俺達では中和薬なんかは手に入れられない。ルートからアシが付く危険性もあるしな。だから薬が抜けるまであそこに放りこんでおくしかないんだ」

「……どうなるんだ……イルは」

「多分、禁断症状か何かで地獄の苦しみを味わうだろうな。激しい嘔吐感やいらつき、暴れ出したくなるほどの衝動。そこで精神がもたずに崩壊するか、もしくは戻るか――……」



 耳を塞いでジルを殴り飛ばしたくなった。

 どうしてそんなに淡々としていられるんだよ、オレでさえこんな気持ちになるんだぞ? 実の兄であるお前がそんなに落ち着いてるのって、おかしいじゃないか。

 絶対……おかしいだろ……!?



「薬が抜けたら自力で出てくるよ、そのためにピンをいれたんだから。鍵開けっていうのは慎重な作業だから、薬で震えた手や歪んだ視界じゃいくらイルでもムリだからな」

「なんで……だよ?」

「ナル?」

「なんでだよ!? なんでお前はそんなに落ち着いていられるんだよ、妹だろ!? お前の妹なんだろ……家族なんだろ……!? それがあんな目にあってるのに、どうしてそんなに落ち着いていられるんだよ!?」



 オレがそう怒鳴ると、ジルは溜息をついた。

 その顔に、オレは初めて――狼狽によく似たものを読み取り、言葉を失う。



「『家族だから』、帰ってこない『妹』の身を案じる時には最悪の方向を考えちゃいけない? 『家族だから』、満身創痍で帰って来た『妹』を見て取り乱し、パニックにならなきゃいけない? ――手前のモノサシがどこでも通じると思ってんじゃねぇよ、ナル」



 ギクッとする。

 刹那的に見せた狼狽すら、その顔からは消えていた。

 そこにあるのは、怒りというよりもむしろ――憤り。

 それは紛れもなくオレに向けられている。オレに対して、怒っている。本気で――いつも温和なマイペース、低血圧のジルからは考えられないことだった。始めて見た気がする、こんなジルは――いや、『水原滋留』は。



「こんな時だからこそ必要なのは冷静な判断力を持つことだ。お前ははっきり言って素人だからそんなことは出来ないだろう? だから俺がするしかない、俺が冷静であるしかない。そうであった方が、イルの役に立てるからだ。イルの役に立つために俺は自分を偽らなきゃならない、イルのためにいつでも冷静でいなくちゃならない、イルのために――全ては、イルのためだけに――……。……だから俺は冷静でいる。それが今、俺がイルのために出来る唯一のことだからだ」



 眼差しは、ひどく真っ直ぐ。

 真っ直ぐすぎて、曲がることが出来ない。曲がったら最後、自分を制御していられない。そんな危うさと一緒にジルが出来るのが、真っ直ぐである事……冷静で、いること。

 だからイルのために。

 でもイルのために。

 それでもイルのために。

 ……感情に、

 走りすぎたな。オレ。



「悪い。勝手なこと言った」

「……ったく……『だから』、か」

「え?」



 よく聞こえなかったボヤキに、そう聞き返す。



「イルが言ってたんだよ。お前は潔い、ってな。お前は真っ直ぐなんだ、自分に」

「…お前には負ける」



 ジルほどに清廉潔白で真っ直ぐじゃない。それに比べたらオレは曲がりたい放題だ、針金みたいにぐにゃぐにゃしてる。ハリガネムシより性質が悪い、二人にとっては寄生虫も良い所だ。



「で? 秘密を一つばらしてくれるんだろ? はやく教えろ」



 急かしながらオレはイルのベッドに座った。青と白のストライプのベッドカバーが、視界の端にある。性格は子供くさいくせに、どうも内面的には大人くさすぎるらしい、イルというヤツは。

 ジルも机の方から椅子を引出してきて座った。背凭れを脚の間にはさみ手で掴みながら、体重を掛ける。ギシギシ鳴ってはいるが、耐久性的には問題ないらしい。イルの机の上は意外にきちんとしていて、会社の机のようにも見えた。



「俺と、イルのことを教えてやる」

「……へえ?」



 目で続きを促す。……今更この兄妹の事を聞いても始まらないので、どちらかと言うと嵌められた感があった。



「俺達は兄妹じゃない。赤の他人なんだ」











 神無。

 確かに、この人はそう言った。

 そんなはずない。そんなの、知ってるはずは無い。あたしがあの名字をつかっていたのは、ホンの数年の間だけで…それも、知ってる人なんか殆どいないワケで。

 それに、それを知ってるって事は、あたしのことを知ってることになる。

 ずっと怖かったこと。皆にばれてしまうこと。

 あたしが孤児だって、皆にばれてしまうこと………!

 綾姫さんに促されて、操られる様にあたしは椅子に座った。身体が埋もれるほどに柔らかいその来客用の椅子はどうも落ち着かないし、それに疑心暗鬼ばかりであたしはどうにも―――そわそわしてた。給仕の人が運んできてくれた紅茶にも手はつけられない。

 だって。

 口先では友達といったって、結局は他人だもの。あの子は違う、私達と違う、それだけで差別は生まれる。あたしがのほほんと生きていくには、あたしが孤児だという事は…ヘビーな事実は、隠しておかなきゃいけない。

 すっかり自分があの家の娘だと信じているフリをするのは難しかった。子供なりの処世術として、あたしは思い出を忘れたフリして生きてきた。

 あの家の子供じゃないこと。

 血は、繋がっていないこと。

 それは隠さなければならないコトだから、あたしが平和に生きるために忘れていた方が楽なことだから。

 なのに……

 どうして……!?

 どうしてそんなことを知っているの、この人!?



「どうやら、警戒されてしまったようだね」



 社長さんらしい人はそう言って苦笑し、手で紅茶を飲むことを促してきた。でも、あたしは動かない。隣に座ったお爺さんを見ることも、傍らに佇んでいる綾姫さんに目を向けることも出来なくて、固まる様にしていた。

 現状を把握することが出来ない。

 すっかり馴染みになったお爺さんとの博物館巡り。

 具合の悪くなったお爺さん。

 付き合ってくれと言われてやってきた、大企業の本社。

 何故か通された最上階のオフィス。

 あたしの、誰にもばれたくない秘密をアッサリと語った社長(らしきヒト)……。



「君の名字については、聖クラレンス教会のシスター殿が教えてくださったんだよ」

「シスター……シスター・ルイーサが?」

「ああ、あの銀髪に金色の瞳をしたシスター殿だ。こちらが必死になって君を探していたら、ひょいと現れてね。君の事を教えてくれたんだ」

「あたしを……探す……?」



 鸚鵡返しみたいにしながら、あたしはようやく社長さんを見た。その顔はやっぱり若い。若いって言うよりも…年齢を感じないカオしてて年齢どころか真意も掴めない。そしてその目は最初に思ったとおり、何かを隠してる。まだ話は前振り段階でしかない。



「そうだ」



 社長(もう社長で決定する)は頷いて立ち上がり、応接セットの方にやってきた。言葉を繋ぐのはお爺さん…会長、さん。



「わしが探しておった娘というのが、赤ん坊を産むと同時に……ぽっくり逝ってしもうたらしい。それをようやっと探り当ててからわしは沈んでしまってな。もしもあの時結婚を反対せなんだら、娘は死なずにすんだかもしれん……そう思うと、申し訳なくて、とにかくその孫だけでも探さねばと思った。が、どこの孤児院を巡ってもそれらしい子供は居らぬ。養子に出されてしまったのか、それならばその生活を掻き乱すのは極力止めよう、それでも会いたくて……一言、謝りたくて……そんな時じゃった。あの尼さんが現れたのは」



 一旦区切られた言葉を、もう一度社長が繋ぐ。



「彼女は、その子供を知っていると言った。会長が孫を探していることは水面下でのみ行われていたことだから、突然訪ねてきて会長に面会を求めたシスターがどうしてそんなことを知っているのか謎でね、思った通りに訊ねてみたよ……しかし、彼女は答えてはくれなかった。自分の教会でその子を育てていた。その子は今、この町にいる。そして、養子に出した先の住所まで教えてくれた」



 ……シスター……

 シスター、ファーザー。小さな教会に七人の家族。

 小さな教会。小さな孤児院。小さな家族。

 シスター・ルイーサ。お喋りで優しいけれど、あたし達よりお転婆だったお姉さん。

 ファーザー・フロウ。寡黙で怖いけれど、ただちょっと不器用なだけだったお兄さん。

 この国には伝導のためにやってきたのだと言っていた二人の異邦人。

 仲間達、兄弟達、姉妹達。

 リューと、ユーリと、エイミと。

 ジル兄と、あたしと。

 あの教会はもう場所さえわからない。



「さすがに教会が孤児院の真似事をやっているとは思わなくてね、確かにそのシスターの言う通り…調べてみると間違いない。さて、神無倭柳殿」



 あたしは顔を上げて思い出に浸ってた頭を切り替えた。

 直接言われるまで考えまいとしていたこと。



「君は、こちらの宇都宮翁の実孫なのだよ」



 お爺さんが、お祖父さんなんて考えなかった。



「……でもっ……あたしはっ……」



 『でも』が、一体何に掛かっているのか解らなかった。

 あたしは。

 あたしは今、水原倭柳で。お父さんがいて、お母さんがいて、お兄ちゃんがいて。あの教会でとても渇望していたモノがある。偽りだけれど、普通の家族がいる。差別もなく学校に行ってる。それなりに、幸せしてる。

 どうして今頃出てくるの?



「あたしの『おかあさん』は……あたしを抱くより前に、死にました。あたしの声を聞くより先に死にました。だからあたしに名前をつけてくれる事もなく死んでっ……それで……」



 シスターがいつだったか言ってた。ここの子供達の名前は、皆私がつけたのよって。

 日本人の名前がよくわからないから、辞書と格闘しながら頑張ったんだって。あたし達は、誰もが平等に受けるべき最初の愛を…『命名』をしてもらえずに、教会へとやってきたから。だからシスターが最初に愛をくれた。名前をくれた。あたしに、『倭柳』って名前をくれた。

 あたしの母親はシスターと、今のお母さん。

 それだけでいい。それ以外はいらない。

 それだけで、充分なの。



「教会の暮らしは辛くなかった、楽しかった。養子に出されてからも、並外れてつらい事なんかなかった。あたしは運が良かった。だから、あたしはっ……」



 何が言いたいのかよくわからない。支離滅裂。

 大人になったかなって思ってたのに。あの頃よりも色々なことが解るようになって、色々なことが出来るようになって。でも現実のあたしは子供、いきなり現実がガラリと変わってどうしようもなく声を詰まらせる事しか出来ない子供。結局なにも出来ない子供なんだ。

 ――そうなの?

 本当は、大人のほうが愚かで可哀相なんじゃなくて?

 ……大人になって色んなコトを知るほど弱くなってしまうのが、真実なの?



「ああ……無論君が望むのであれば、君の暮らしは極力今のままでいられるよう配慮するよ」



 社長は言う。



「ただ、君には与えられた仕事がある。君にここへと足を運んでもらったのは、他ならぬその仕事についての事を君に告げなくてはならないからなんだ」



「仕事……?」











「まぁ、そう言うわけだ」



 ジルがそう言って、溜息をつき……話し疲れたように首をガックリと落とした。



「ちょっと……待て。つまり、お前とイルは同じ孤児院からこの水原家に引き取られた。親父さんともお袋さんとも血は繋がってない。そして、お前達自身も……血の繋がりはない。そういう事なのか?」

「そう。省略ご苦労様」

「ああ、どうも……って違う! あー……、ついでに吐いてもらいたい事もあるんだが」

「モノに寄るが、なんだ?」

「宇都宮との繋がりは一体なんだ?」

「企業秘密」



 うわ、ムラムラと湧きあがるこの三度目の殺意をどうしてくれようか。



「じゃあ、別口」

「どうぞ?」

「血の繋がりが皆無なのだとしたら――なんでお前は、そこまでイルに肩入れする?」



 そうだ、こいつらが赤の他人だと言うのならば。

 どうしてジルはあそこまでイルに肩入れするんだ?

 だからイルのために。

 でもイルのために。

 それでもイルのために。

 ――その根底にあるのが、血の繋がりでないとすれば……なんなのだ?



「俺がシスコンだから」

「実の妹じゃないんだろ」

「俺がロリコンだから」

「二つしか離れてない」

「むう、突っ込みが早いな。俺とヨシモトに行くか?」

「ドコだそれは。……はぐらかすなよ。お前がオレに教えるって言った、『お前とイルのこと』に含まれるだろ? これは」

「……まぁ、な」



 ジルは椅子の上にあぐらを掻いた。こうして座り直すのは、一体何度目だろうか。



「血の繋がりはなかったけれど、生まれてこの方離れた事が殆どない。そういう仲には、やっぱり血の繋がりよりも多少濃いものが出て来ても……おかしくは、ないだろう?」

「そうかも……しれない。よく解らんが」

「そういう、モンなんだよ。俺達の仲って言うのは」



 そういう仲、か……。厳しいなぁ、そういうのは。ちょっとオレの常識の範疇を越えている出来事の連続で、キャパシティは広がっていると思っていたんだけれど。

 奥の深いアリジゴク。深く知るほど謎は増えるばかり。

 オレを慮って黙っててくれたのかな。あの頃のオレの、今より格段に狭かった常識じゃ、全部を話されたとしてもオーバーワークで知恵熱出すか…もしくは本気にしないで終らせる。ちょっとずつ慣らされてるからどうにか受け入れている。ギリギリだ。



 ジルはイルと兄妹じゃない。

 そして、二人共それは百も承知なんて。

 厳しいなぁ……。



 何が厳しいって、思春期入ってるであろう赤の他人の男女同士が、今この家に二人きりで留守番中だったって事なのかもしれんが。こいつらに限ってソレはあるまいが、間違いが起きないっていう可能性もなきにしもあらず……



「不純な考えを巡らせてるんなら弁解するが、オレにも理性ってのはあるぞ」

「なっ!?」(何を根拠にそないなコトを)

「顔に出てる」



 どんな顔だよ、鼻の下が伸びているとでも言うのか。



「まぁ、そういう目で見たこともあるけれどな。オレはイルが好きだよ……だからこそ、ここまで尽くすのかもしれない。あんまり表に出したくない事ではあるんだがな」

「……アレに色目を? お前……」

「色目じゃねえって。ただ、なんか……『なんとなく』だよ。心配すんな」

「じゃあそういう事にしとく……って、何でオレが心配しなくちゃならんのだ? 別にオレには関係ないけど気になるけれど」

「別に」



 オレは別にあんな貧弱に手を出すほど……

(最初に見た時、ジルはすっかり忘れてたけど)

 飢えてない……

(イルの事はしっかり憶えてた)

 ハズだ……



 違う! オレは断じて違うっ!



「おやおや葛藤に入ったか」



 ちょっと待て、オレにとってのイルはあくまで仲間だ! それ以上でもそれ以下でもない、ただソレだけなんだ、ソレだけだったらそうなんだ! 違うっ!



「まぁ、とりあえずお前は泊まっていけよ。イルのこと心配なんだろ?」



 ニヤニヤしてジルがそう言い、部屋を出る。オレはイルの部屋に取り残されるのが嫌だったので、家に連絡を入れるためという意味も込めながら慌ててそこを出た。

 出る瞬間、

 カーペットの一角を見る。その下にあるシェルターのような扉の奥で、イルが苦しんでいるんだと思うと…

 無性に、胸騒ぎがした。

 眼を閉じる。一瞬だけ。

 祈るように、祈るように、祈るように――

 一瞬だけ眼を閉じた。



「ちなみにジル、訊ねていいか?」

「今度はなんだよ、一遍にまとめてくれ」

「お前はどうして突然オレにそれをバラしたんだ?」



 イクォールが口を滑らせた時でさえ口を噤ませたクセに、まるで掌返すみたいに。



「…イクォールはアレでしっかりしてる。知られちゃマズイ事を他人の前で易々言わない、腐ってもイルの分身なんでな。そのイクォールがお前の前で平然と、オレとイルの事を口にした。……だからだ」

「でもお前、イクォールに黙れって」

「釘刺さないとすぐに調子に乗るからな、今の事も黙っといてくれ」



 ……結局妹扱いしてないか、あのイルカのコトを。



「で……取り敢えず、推測でイイから聞かせてくれよ。イルに何があったと思うんだ? ……イクォール」



 ジルがさっきと同じようにデスクに向かい、イルカに訊ねていた。オレもさっきと同じようにその脇にいる。ピンク色をしたイルカは憂うような瞳をぎこちなく表示しながら、少々言いよどんでいるようだった。



『推測ならば、ジル君の得意分野だろ』

「お前の意見が聞きたい。最先端のエレクトロニックドールならば、こんな小手先しか進化の無い人間風情よりもさぞ突飛な仮説を披露してくれるんじゃないかと――期待してるんだが。なんだよ、こんな人間と大差が無いってーのか? それとも……自信が無いのか」

『はいはい、四の五言わずに聞かせろって言えばイイじゃないのかしらァ? …確かにあたしは最先端なんだけれどねぇ…何度も言うけどイルのコピーだからさ。うん、考え方自体は君達人類と変わらないんだって事を了承の上で――……聞くコト。イイね? 御二方。あたしの考えはあくまで一般論の域を出ないことなんだから、感情的になって本体にヤツアタリするのだけは勘弁よ』



 息を吸いこむジェスチャー。これが滑らかなグラフィックであったならば、オレは更に混乱して……この、『意識』のようなものを持ったイルカを見ていたのであろう。

 心だけは生物である、生命無き人形――か……。



『推測するにイルは昨夜、不破博物館に行ったんだろうね。それはジル君も確認したらしいから確定的だろう。しかし、何かしらの予測していない事態が起きたか――これは無いと思うんだけれど――イルがドジを踏んだのかして、向こうに見つかった。しかも警察に引き渡す事をしない、自分達にも後ろ暗いところがあるモノと思われる、無頼の連中に。そして待っていたのは拷問か監禁か、およそ穏やかではないこと。イルはジル君に薬とか追っ手とか言っていたんだから、自白剤かそれに勝る、タチの悪いものを体内に注入されたんだろう。それでもどうにか意識を保ち、あまつさえ追っ手を捲くという事をして、帰巣本能に逆らいながらここへと帰って来た。大雑把にはこんな所、ジル君の考えと齟齬はある?』

「……ない……な、まだ」



 ジルは答え難そうにしていた。義妹と同じ感性を持つ者にそれを語られると言うのは、本人による無感動な報告を聞くようなものなのか――その表情はいつもに増して強張っている。いつも強張っているわけではないが仕事の時は大体強張っている表情が、ダイヤモンドのような硬さを滲み出させていた。いつものぽややんとしたのは演技だったのか、それともどちらも真実なのか。

 ……薬に拷問、監禁……か。

 イルはそれでも死に逃げることをせず、口を割ることもせず、耐えたんだろう。

 なんなんだよ。アンバランスすぎる。

 チビの癖に、ボケの癖に。どうしてそんなに強情で優秀なんだ。

 対してオレはなんだ? 中途半端でバカで、

 ……カッコワリィ……。

『そうかい、ならいいさ。さて、細部に入ろう。イルの踏んだドジに関しては情報が少なすぎるから保留するけれど――どんな仕打ちを受けたのかは、かなりの推測が出来る。ちょいとコレを見てくれる?』



 画面の中にもう一つの画面が現れ、人体の模式図のようなものが表れる。標準的な大人の体格ではあるが―――たぶんイクォールは、これをイルの身体に見立てるだろう。



『いい? いま地下にいるイルの身体を分析したところ、赤い部分に外傷や内出血が確認されたの』



 案の定予想は当たり、身体の輪郭内に赤い点滅が表れた。それの場所は、ほぼ腹部と顔に集中している。右頬、左頬、鳩尾近く。手首にも見える。その輪郭にイルを重ねると目を背けたくなった。



『見ての通り、頭部と腹部に集中してるね? ちなみに深刻な傷は認められてないし諸内臓類は平気だよ、幸いドコも破裂していない。棒状のもので殴った痕跡や、靴に蹴られた痕、あとは素手。さて、変なトコが一つあるのは解るかい?』



 顔面。頭部。集中している―――のに、

 一つだけ違う。

 とても小さな点滅が、頭部でも顔面でもない場所に見えた。



「左腕の間接あたりの…か?」



 オレは始めてマイクに向かって話しかけてみた。イルカは頷く。



『その通り、これは針の痕なんだ。注射針って考えて差し支えない…消毒もしてない粗悪品の、ね。さあ、そこから推測出来ることは自白剤の投与でしょ? 逃げ出さないための麻薬とかじゃあないと思うね、ちなみに手首の点滅はどうやら手錠のようなモノによる擦過傷らしいから。そんで、肝心の薬なんだけれど……ああ、データが本社から来たみたい。さっき問い合せたんだ。どうやらちょっとした内乱のある国やらで軍事用につかわれる――スパイ用なんかの自白剤ね。一本打たれるだけで十分に発狂出来るってヤツみたいよ、けれどその前に洗い浚い喋らせるっていう片道切符系統。耳が痛いけれど、イルが今こっち側に留まってるのは殆ど奇跡みたいな精神力のお陰だわ。いつ彼岸に飛んでもおかしくない……ああ、始まった』



 人体の模式図が消えて、ほの暗い空間が切り取られたように画面に張りつけられる。何もないその空間は――真ん中に転がってる人間は――地下室のイルか? 始まったって何が……



「っ……おい!?」



 イルがのた打ち回る。口が大きく開かれ、喘ぐ様に仰け反り、とにかく暴れる。口からは何やら水っぽい吐瀉物が流れていた。床から何か小さなモノを拾い、階段を上って扉を開けようとする。しかし苛立ったようにまた拾ったもの――多分置いて来たピン――を床に投げつける。そしてとにかく暴れる。暴れる、取り乱す、のた打ち回る。



「なんだよ、なにっ……おいイクォール!?」

『禁断症状みたいなものかな。体内から完全に薬が抜けるまではコレが続くよ』

「んな悠長なっ……どうにか出来ないのかよ、こんなっ」



 言葉を飲み込む。

 望んだのはイルだった。自分から荒療治を望んだのだと、ジルは言った。

 だけれど。

 理性は無い。のた打ち回るばかり。苦しみ嘔吐し、泣き喚く。

 見てるだけで痛ぇよ……見てられねえよ、こんなの。

 オレが、痛え。



「っ……薬が抜けるって、どのくらいかかるんだよ」



 あとどれほどの時間、イルは苦しむんだ?



『さて、ね。イル次第じゃない? 下手するともたないでのたれ死ぬわ』






「あいつは生きる!」






 ジルが叫ぶ。

 のた打ち回るイルの映像を、眼を背けることもせずに真っ直ぐに見据えながら。

 そう、叫んで、イクォールを見た。










 ああ、

 シスター。ファーザー。ユーリ。リュー。エイミ。ジル。

 綾姫ちゃん。皇児こうじ伯父さま。お祖父ちゃま。お義父さん。お義母さん。

 ナル。

 ああ、

 ナル。

 ああ、

 コレは夢じゃあないの。逃げられないの。

 いつだって、いつだって、いつだって。

 逃げることなど出来ない現実しか見詰められない。

 僕はどうして『僕』になったの?

 どうしてなの?

 どうしてこんな事ばっかりあるのかな、どうしていつもこうなるのかな。

 多分イイコトしてるはずなのに。

 イイコトしてるはずなのに。

 ナル。

 鳴砂。

 キミのささやかな親切があの時どれほどインパクトを与えたかって知ってますか?

 キミのスペースがこの心の中でどんどん膨張します。どんどんまき込みたくない人になります。

 なのに何時の間にかキミがこんなにも核心に食い込んで、必要になってるなんて――

 皮肉です。

 ひどいです。



 僕達は煉獄を見てるのかもしれない。

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