VOICE 2 "LOST"
「…イルが帰ってこない」
幾分緊張した顔で、ジルはオレに告げた。低血圧を吹き飛ばしてしっかり開いたその眼の周囲には薄黒く隈が縁取っている。どうやら、眠らずにイルを待っていたらしいと伺えるその表情には、心配よりも困惑が色濃く滲んでいた。
「帰ってこないって……オレは昨日途中まで一緒に帰ったぞ」
かくいうオレも混乱しつつ、ジルにそう言った。ジルはやれやれと言うように肩を竦めてオレを見据える。
「その後だ。イルは不破博物館に下見に行ったんだよ———それが帰ってこない。いつもは遅くても日の出前には帰ってくるはずなんだ、何かあったのかもしれない」
「下見、って…いつもそんな事やってたのか?」
「やってたよ、ナルが知らないだけでね」
「なんでイルに行かせる? 危険すぎるだろ、しかも一人でなんてっ…」
「首謀はあいつだからしようがないし、一番身軽かつキャリアが長いのもイルだ。合理的な方法だよ、俺やお前みたいな足手まといがいなくて済むんだからな」
「足手…まとい?」
朝、いつもよりも長い睡眠をとってクリアーだったはずのオレの思考にいきなりスモークが焚きつけられた。珍しく朝から頭のはっきりしたジルにつられて、一番乗りした早朝の教室で奴と差し向かいに座っているその感覚までもが遠のく。いつもオレ達の間にいたイルがいないのはひどく———違和感があった。
本来、オレとジルは当たらず触らずという、どちらかといえば疎遠な方であった。生徒会長と応援団員だから、公の場で同席する事が多かったにもかかわらず、それほど話をした事もない。
そんなオレ達を繋いだのがイルだった。
開きすぎてもいないが近くもないその隙間を埋めていたイルが突然いなくなると、ジルとオレとの間がひどく広がったように錯覚する。ただ元に戻っただけだというのに、それは例えるならばヘッドホンで聴いていた音楽のボリュームを一旦上げて、また元に戻した時……どこか物足りなく感じるのに似ているのかもしれない。
それより、だ。頭を現実に向けろ。
まだこの仕事に入って月日の浅いオレは、いくら基礎体力や小手先の器用さがあっても不慣れな事を差し引けば足手まといだと納得せざるを得ない。しかし、しかしだ。ジルまで足手まといってのはどういう事だ? オレが出会った時、既にコイツらはコンビだったはずじゃあないか。そんなジルまで足手まといってのは——
「俺まで足手まといというのが変か?」
こっちの疑問を見透かしたように、ジルが言った。オレは頷き肯定する。ジルは自嘲気味に笑って目を閉じた。睫毛が長い。呑気に思う。黙ってりゃ綺麗な顔だ。ちょっと吊り目気味だけど。ラブレターぐらい貰ったことがありそうだ。オレと違って。飛ぶ思考をふうっと溜息を吐くジルに掻き消される。現実逃避だったのかもしれない。
「足手まといなんだよ、俺自身もね。お前には言ってないから知らないだろうけれど——元々この仕事をしていたのはイル一人だったんだ」
「……なに……?」
「まだ小学生の時からね。でも、さすがに自由も限られてたから——半年もしないで俺に見つかった。俺は理由を聞いて親には口を噤み、その交換条件としてアシストを申し出たんだ。けれどすぐに後悔したよ——アシストどころか、足を引っ張る事しか出来なかったんだからね」
「でも……たった半年たらずなんだろ、差なんて」
まだ半年も経っていないオレからすれば、二人はもうプロだと思っている。何のプロだかは解らないが、でも俺よりはずっと玄人だ。ジルだってキャリアはあるんだから、やっぱり足手まといと言う言葉は似つかわしくないと思える。
「最初何ヶ月かの差は長いぜ、ナル。イルは本格的な活動を起こすより前から下準備を始めていたんだから、実質的な差はそれ以上と思っていい。こんな俺がついて行って何になる? 足手まといになり罠に引っ掛かり、よしんば逃げきれたとしても向こうの警戒を強めるだけだ。俺だってイルに言わせればお前と大差ないんだよ」
……そんなのアリかよ。日本はいつから小学生が億単位の泥棒を出来る国になっちまったんだ、頭を抱えたくなるじゃねーか。長寿大国日本はパリに次いで犯罪天国になるのか? 少なくとも、それはまだ先だと思いたい。未来と前途のある若者の俺としては。そしてすでに前科もある俺としては。
「で……イルは、不破博物館に行ったはずなんだな」
「『はず』じゃない——行ったのは確実だ。朝方に伺い見てみたら、スプレーが吹き付けてあったからな」
スプレーというのはルート確認のためにイルが吹き付けていくスプレーの事で、仕事道具の一つである特殊なスコープから覗くと発光して見えるものだ。普通に見れば汚れにすら見えないという。イルがこれまた、伯父さんからかっぱらったものだと笑っていた。
……って、コトは…。
「最悪の事を考えると、だ。インドからはるばる来日してきた珊瑚樹。それはとても高価なので、ガード——しかも非合法をやってのける奴らである可能性がひどく高い——警察に突き出すことをしていないからな――ぐらいはついていただろう。そして、イルは、捕まった」
「……ヤメロよ」
「覚悟はしておけ。イルに限って密告は有り得ないだろうが——万が一って事があるからな」
「ヤメロ、ジル」
「ナル。現実から眼を背ける時と場合じゃない。その気になればいくらでも助けは望めるが、それじゃあなるべく穏便かつ隠密に事を進めろという故人の遺志から外れてしまう——のっぴきならなくなるまで、奥の手は遣いたくないからな」
「ヤメロよ。なんなんだよ、故人とか遺志とか……死んだヤツに引っ張りまわされて、それでオレはこんな事に捲き込まれて、心配してるって言うのかよ? イルはこの仕事が遺言だとかなんとか言ってたけど、一体それは誰の遺言なんだ? これは、オレ達を動かしているのは、一体誰の遺志なんだよ?」
ジルは黙った。もしかしたらジルでさえも知らないのかもしれない、それならオレと殆ど同じ立場になって——オレのコンプレックスが少しは治まってくれるのかもしれない。一人仲間外れにされるのは御免だ、だからオレはジルが答えない事を願ってさえいた。……矛盾してる、まったく。
「言えない」
きっぱりと、オレの希望は叶えられた。
叶えられた、そうなんだ。たしかにそれは答えられる事がなかった。
けれど、それは、秘密という形で——……。
「イルがお前に言っていないのなら、俺はお前に何も言わない。それは、イルの意思に反する事になる」
一瞬ぶん殴りたい衝動に駆られる。しかし、それはお節介な理性に押し止められた。
宣告された。ガンの告知より性質が悪い、個人的に。
『お前は、所詮、部外者だ』。
……仲間だと思ってたのはオレ一人かよ。
※
「あー……。イイ月だなァ、まったく…」
溜息をつきながらオレは歩く。冬場は春休み明けまで自転車通学を了承してくれないケチな学校の所為で、オレは入学式の総合練習の終わり、寒い中を制服の上からマフラーを引っ掻けつつ、四月になったばかりの寒々しい街灯の下を一人歩いていた。月は、満月だったのか十六夜だったのか———よくは判らない。丸っこかった、冴えた冬の空気の名残の中に凛として咲いた花みたいな月。引き立てるように散らばる闇。
見上げた。
オレは、月を、見上げていた。
丸い月はレモン色。美味そうな目玉焼きみたいだった。自信はないけれど、それはそれでまん丸の卵焼きって事で。美味そう…月を見てそんなことを思うのはきっと日本中探してみてもオレぐらいだろうな、と、笑った。
笑みから抜け出てもう一度月に焦点を合わせる。
月が遮られた。
何かがオレと月の間を通った、もちろん空気以外のものだった。人間。細身の少女がどちらかというと短い髪を靡かせて、飛んでいた。
飛んで…いた。
それがパラシュートを広げて落ちていくさまを見て、どこか高高度から落ちてきたのだと悟る。飛んでるんじゃない、落ちてきたんだ。鳥のように、もしくは天使か悪魔のように。
距離は五〇メートルって所で、逆光で顔も見えない。けれどオレはソイツを見る。そいつの後を追うように付いて来たもう一つの男の影も一緒に視界に入れて、オレは見ていた。月とオレの間にいる、空気以外の何者か達を。
立ち止まって見上げた月。偶然見てしまった少女達。母親が買った趣味じゃない明るい虹色のマフラーがアスファルトの上に落ちた。首筋を突然襲った冷気の攻撃も気にならず———オレは見る。見ていた。冴えた月の夜を破った闇の子供を。
目が合う。
表情は判らなかった。けれど、眼が合った。女の方だ。逸らせない。その眼球だけは見えるような気がする、変な気分だった。
笑う。
下界を見下して笑う神のような傲慢な嗤い———ではなかった。フ、っと笑ったのだ、本当に自然に微笑む。綺麗な笑み。そう、それは荘厳な程の笑顔だった———想像だが。
音をたてて何かが崩れ去った。
多分崩れたのは日常。非日常に、オレの日常は、帰り道は、殺された。
ひどく、ひどく、ひどく。
変な気分だった。
「……尋……瀬尋?」
「あ?」
オレとしては珍しく一睡もできず、昼休みを昼寝に預けていたのだが、間抜けな声でオレは誰かに返事をした。誰かに———誰だ? オレに声をかけたのは。目を擦って顔を上げ、ぱちぱち目を瞬かせると、そこでは柔和な笑みの有名人が佇んでいる。少し茶色っぽい髪は地毛だというが、確かにプリンになっている所は確かにこの二年見たことのない――
「あー、生徒会の…」
「そ、水原。来月の総会についてちょっと話があるんで——顔貸してもらえるか?」
人形みたいににっこり笑ったそいつの顔に促されて、オレは席を立つ。どうせ上の空に終る一日なんだ、誰について行こうがどうでもいい。
花曇りで薄暗い校舎は異世界のように茫洋とした輪郭で、オレの現実感はどうも浮つき地に付かない。
昨日のことが頭に谺する。
アレは夢だったのか?
幻だったのかもしれない。
でも、リアルな、あの女の笑顔は———
なんなんだ。身体中を一瞬で満たして、一滴残さずに引き上げていった。お陰でオレは今日一日どころかしばらくは続きそうな虚無感に、脳を空っぽにされている。今日は入学式なので全校総出だから、一人ぐらい寝てても――いかんいかん、それは。今年度から応援団長なのだ。式自体はもう終わって新入生はぱらぱらと帰って行っているが、在校生には掃除だの紅白幕の片づけだの雑用が残っている。実質春休みはもう昨日で終わりなのだ。気を付けねば、でも眠い、女。女の眼。笑う顔。
何で笑った? 何がおかしかった? 何で見えた? 何が、何が? 疑問は尽きない。自己問答は休むに似たりだ。朝のニュース。世界最大のピンクダイヤモンドが盗難。まさか。本当、まさか。それは飛躍だ。脳が考えるのを止めたがっているんだ。でも方向は確かに合っている。だからって。やめろ。詮の無い。笑う。落としたマフラー。だから? 俺が見たのは何なんだ? 誰だったんだ? 何で? どうして? 疑問ばかりが雪のように降り積もる。或いは葉桜になり掛けている桜の花びら達のように散らばって。纏まっているのか離れているのかも分からない。七色の海にダイブして自分が何色になるか試すような、そんな感覚。濁って見えない。もしかしたら永遠に?
「瀬尋」
「あ?」
再び問答を繰り返した。階段を上っている最中だった事に今更気付く、これはどこだ? ここはどこの階段だ? 目線を上げるその先に———
かちゃり。
黒い丸が目の前にあった。鉛色に縁取られた黒い丸。
それが丸ではなく穴だと気付くのに、五秒ほどかかった。そしてそう認識したコンマ何秒のうちに、それが銃口らしいと思い至り、叫びを上げそうになる。しかしそうする直前にそれを向けた水原は一変して厳しい口調で告げる。
「喋ったら撃つ、誰かを呼ぼうとしても撃つ、逃げようとしても撃つ。話を聴け」
寄り眼になってんじゃないのか、今。そう、眉間の辺りにつき付けられた物を凝視するようにして———数段上の階段にいる男に———見下さろれながら。
水原の後ろにはドアが見えた。妙に埃っぽい階段と、ドアに書かれた『屋上立ち入り禁止』という札によってここが屋上に続く階段だと判別できたが、それが判った所でどうにもならない。ここが人通りのない絶望的な状況だと判ったが、それはつまり———『かなり』絶望的? それ以上も以下も無いか?
「ああ、言っとくけれどこの銃は本物だぜ。脳天にぶち込まれたら即死、したくなかったら話を聴くこと。オーケー?」
頷く事はしたくなかった。言いなりになるのは嫌だったし、銃が本物だと思いたくなかった。しかし———なんなんだこの状況は? 一日前に帰り道で殺された日常の死骸に、更に銃弾をぶち込まれたような気分だ。しかし今銃弾を打ちこまれようとしているのは日常なんていう思考の産物ではなく、生身であるオレ自身の身体で。
なんだ? コレは。
なんなんだ?
「昨日、会ったよな」
「な……に……?」
「憶えてないのかよ、忘れっぽい奴だな。昨日の満月の中、午後六時に八頭司通りを抜けた小道で見てただろう? ほんの五〇メートルぐらいの距離にいたじゃないか」
犯罪者の笑顔は歪んでいると思っていたが、それは偏見だった。水原の顔は、さっきオレに話しかけたのと何ら変わりはない。全く異常なところも歪んだ印象もない。ないのだ、何一つ。
それが、むしろ、異常な、
「お前は」
異常な、日常が、
「お察しの通りだ。あれは俺だよ」
日常が、異常に、
「お前———水原、お前は……」
すり替わる。
「———っ!?」
死んでたまるか!
オレはしゃがみ込んで階段に手をつき、それを軸にして水原の足を思いきり蹴った。衝撃でヤツは体勢を崩し手に持った銃を取り落とす。もちろんその隙を逃がしてはいられない、冷たい殺人道具が床に落ちるよりも前にそれをとる。ずっしりとした重量感が手にも、頭にも衝撃を与えた。———本物だ。妙に遣い込まれたようなその銃身が、手の中にある。
気持ち悪い。
見様見真似で、さっきまでの水原のようにそれを形だけへっぴり腰で構えた。形勢は逆転———したように、見える。
銃口には何か不恰好な機具がついていた。多分消音機とかいう物だろう、ミリタリーマニアじゃないのでよく判らんが。メーカーだって知らない。永世中立のこの国ではそんな知識必要ないからだ。他にもスイスみたいな永世中立の立場を取っているが、彼らは武装永世中立だ。そっちの方がましなんじゃないかと初めて思う。そうすればこんな場面も想定できるし、抵抗も出来る。でもどうしようもないことに、オレはただの日本の一中学生なのだ。タッパがあってガタイも良くて、それだけの、子供以外の何でもない。かたかたと手が震える。しりしりと鉄の擦れる音が響く。
「…ケガするぜ、慣れない物を構えると」
水原は余裕綽々と、冗談の様に両手を上げた。その一挙手一投足に細心の注意を払うが、いかんせん———挙動不審なのはオレの方だ。歯の根が合わない、腕も震える。拳銃ってのは一キロぐらいあるらしいが、たったそれだけの重さが腕を痺れさせた。もっと重さがあるように思う。突っ張ってる所為か? 腕が伸ばされて、限界まで筋肉が引っ張られていて、指はトリガーに掛かって。
撃たなきゃいい。それだけならコレははったりの道具だ。
でも、撃ちたい。
得体の知れないものに変わった水原が怖かった。何が怖いって、その得体の知れなさがいつも通りのことだと言うことが一番——
殺らなきゃ殺られる! いま、コイツを殺さなきゃ!
そうだ、どこかで傍観している冷静な自分はそう言ってる。今なら人を殺しても、まだ少年Aで済むんだ。今なら殺せる。殺せばオレは安心出来る。手を汚す事で安心が手に入る。頭がおかしくなりそうだ。
論理が飛躍する。
この引き金を引けば、
「そうだね。怪我をするのはあなただ、瀬尋君」
後ろから声がした。僅かに傾けた顔でオレは視認する。
そしてそれを認めた瞬間に悟った。
ゲームオーバーなのだ、と。
「えーとね、なんて言うのかな? 奥の手は先に見せない方がいいんだよね、だって見せたら奥の手じゃなくなっちゃうから。だからね? 先に奥の手ってモノを見せるなら、更に奥の手を持たなきゃならないわけさ。そこの彼の奥の手は拳銃。さらに奥の手が、僕ってワケなんだ」
オレと違ってその腕は全く微動だにしない。白く華奢な指の先には、小さくてもその手に合った銀色の銃が握られている。微動だにせず、だ。……銃身に横文字で何か書いてる、それはオレでも知ってる有名な銃のメーカーの名前だった。S&W。そんなモノに気を留めたってなんの意味もないのに、オレは苦手な英語で表記されたそのメーカー名だけを眺めている。
「あ、あとね? 今その銃を撃ったら、君が死ぬから。うん、確実、保証してあげるよ。そんなに腕が突っ張ってたら銃の反動を受け流せなくて後ろに吹っ飛ぶだろうし、そしたら古典的ギャグのよーに階段を…ゴロン。普通ならね。しかしそれに加えて、その銃は最初から撃つつもりのない全くの『威嚇用』のシロモノだから——銃身には鉛が詰まってる。勿論弾も込めてある。引き金を引いたら最後、そいつは暴発して確実に君は死ぬよ?」
前門の虎、後門の狼。逆だったっけ。合ってるかな。
水原がクスクスと笑みを洩らしていた。それを受けて、オレの背後から銃をつきつけている女——少女も笑っている。短くないが長くもない髪。大きな眼はまるでネコの虹彩。
無邪気な顔。ニッコリ笑っているその顔は、
「ああ——……」
あの時の、女。
「あ、こんな形での自己紹介でゴメンナサイ? 僕は一年D組の水原倭柳っていって、そこのヒトの妹なの。あなたの事は知ってるよ、応援団長の……瀬尋、鳴砂君?」
「……そういうお前は、昨日の夜の女だな?」
恐怖や混乱にマヒした頭がそう言った。
「あは、ジルの事は判らなくても僕のことは憶えててくれたのかぁ? 存外に女好きだったりして。いやん、僕の乙女心が弄ばれちゃう」
「いや、違う。…なんか——そう、『なんとなく』だ」
なんとなく、それは本心だった。
なんとなくそう思ったんだ。
なんとなく、そう感じた。
「ふぅん…」
水原の妹は眼を細める。水原自身も似たような表情を浮かべた。ちょうど二人がオレの視界に入るように、階段側面の壁に背中を預ける。銃を下ろしたが最後、オレはもう動けなかった。もう、それ以上動く事は出来なかった。
余計な動きをとったら撃たれる。こっちからは撃ったら最後の自爆になる。こいつはブービートラップだ。重いはずだぜ、鉛なんか入ってたんじゃ。でも水原はそれをブレなく持ってたよな。どっちにしてもオレは抵抗できなかったわけだ、こいつらに。はは。笑えて来る。
オレは、嵌められた、大馬鹿者だ。
「あの……さ? 別に僕は君を撃つつもりも殺すつもりもない、ただ牽制させてもらってるだけだから、そんな死を覚悟したような顔してもらっても……困るんだけれど」
サッとその銀の銃は下ろされた。震えの一つもないあまりに慣れきったその態度に、冷汗がドッと背中を滑り落ちる。
慣れてる。慣れてるんだ。オレみたいな、一般的な人間とは違う。
次元がもはや違うんだ。
「うーんっ、あのね瀬尋先輩。僕達はあることをするために、あることをしている。Xが多すぎて式の構成がよく判らないだろうけれど、とにかくヒトには言えない秘密のコトをしてる。それは秘密のことだから、あなたに見られたのはすごく致命的なの。……で、モノは相談なんだけれどね」
相談?
「僕達の仲間になってくれない?」
………呆然。
※
「よいっしょ、っと」
初めて訪れた水原家には人の気配がなかった。ジルは居間に向かい、PCの電源を点ける。デスクトップのそれは本来親父さんが買ったのだが、タブレット端末の方が楽だと言って、今となっては宝の持ち腐れと化している。結果今はほとんどイルの専用らしい。
ガランとしている。家中が。
イルが帰っている気配は、勿論ない。
両親の気配すらも。
「あの人達ならいないよ。ちょっと夫婦水入らずで出かけててもらっててね…その間に品物を仕入れる予定だったんだけれど……」
ジルはPCを弄りながらそう言った。まだ青い空には白く丸い月が浮いている。昨日はそれを見てイルと帰ったのに——今は、ジルと一緒に窓越しの月とはな。
昨日より痩せてる。
イルも、
イルも痩せこけてんじゃないだろーな、なんていう考えがよぎった。
「ちっ……あー、遅いっ!」
ジルは毒づいてデスクトップを叩いた。昭和の壊れたテレビじゃねーっつーのに、と声に出さず突っ込みをいれる。起動が遅いのを詰っているらしいが、パソコンなんてそんなモンだろうが。学校でしか触ったことないけれど、スタンドアローンでも起動には時間がいくらか掛かる。そんなこと知ってるのに苛立っているのは、ちょっとだけ感情を見せてくれているようでほんの少し嬉しかったと言うか、ホッとした。ちゃんとイルの心配をしているんだと、思えて。まあ兄だしな。妹の心配は当たり前と言えば当たり前なんだろう。
「なぁ、それは一体なんなんだよ?」
さっきからジルの手に持たれっぱなしのUSB接続のマイクを見てオレはそう問う。PCとマイク。……全然繋がらないじゃねーか。まさか現役怪盗として世界配信しているわけでもあるまい。イルならノリノリでやりそうだが、まあそこまでリスクを犯す馬鹿でもない。よく見るとPCの上にはカメラがちょこんと鎮座している。
ああ、とジルが面倒くさそうにやっと起動したPCを睨み付ける。
「イルのシステムを呼び出すんだよ」
「しすてむぅ? ……呼び出すって、マイクでか?」
「ザッツライト」
なーにがざっつらいとだ。ジルはようやく完全に確立したらしいPCにマイクのコードを繋ぎ、何やらキーボードで操作をして妙な画面を呼び出す。インターネットの……ようだ。ジルはデータを呼び出し、どこかの会社のホームページにアクセスしている。
「おい、暢気にバーゲン情報見てる場合かよ?」
オレはそう軽口を叩くが、完全に黙殺された。
画面に社名のアルファベット通称が呼び出され、選択画面になる。バーゲン情報、生鮮食品、その他モロモロ。どうやら近所にあるデパートの情報のようだ。そこでどうでもいい場所にマウスをクリックし、その画面をそのままに、キーボードで再び何かの操作をしながら先ほどの画面に目を移す。鳩だか白鳥だかのイメージキャラクターに主婦向け耳寄り情報を解説させていた画面は一瞬ノイズが走ったかと思うと、唐突に切り替わった。会社の事務的な画面のように見える。
なんでいきなりこんなモンを呼び出すのか訝ってみたが、ジルは躊躇いなく更に何か操作をしだした。
ジジッ、と再びノイズが走る。
画面が鮮明な色彩を放つ。ビデオかと思ったが、録画じゃない…ライブだ。
『やぁ、イルではないのか。どうしたんだい? 君が私に連絡を入れると言う事は……』
「悪い報せですよ。イルが帰らない」
『それで? 援助かい?』
「違います」
ああ、だからマイクなのか。通信手段でマイクをつかうから。カメラの方はこっち側を見せ、向こう側はモニターに映る。画面に居るのは指を組んで首から下を見せている。ネクタイは有名ブランドのロゴ柄。上品にシャツの第一ボタンから嵌められている。首は細い、理系だろうか。こんな秘密コードを確立できるなんて、素人技じゃない。じゃあなんだ? 玄人を雇える、……企業?
さっきまでのデパートのページを思い出す。
宇都宮コンツェルン?
モニターにはぎこちなく時間差で動く映像。椅子に深く腰掛けた男の、首から下だけ。……顔は見えない、誰だか判らない。けれど背景の巨大な窓にはオレ達の町が見える。
高度が高い。
この辺でこんなレベルの超高層ビルといえば——……
(宇都宮本社ビル……か?)
まさか、ジルが言ってた『助けの望める相手』って……宇都宮コンツェルンって言うんじゃねーだろーなっ!? なんだって大企業がドロボウを助ける? いや、泥棒っていうのは正しくない。
正確には——イルだ。
宇都宮は全国に店舗を持つデパートチェーン店だ。もとは企業とも言えない小店で、この近くで少し大きめの雑貨屋をやっていた程度だって聞いている。それが先代から随分といろんな商売に手を染めるようになり、少しずつ時間をかけて今日の規模になったとか言うのだ。小学校の社会科見学でその本社に行ったが、確かその時はまだ一見普通の好々爺にしか見えない会長が存命していた。それでオレ達に成功譚を披露してくれたように思う……よく憶えちゃいないが。ついでに言えばオレ達の学校を経営しているのも、宇都宮コンツェルンである。正確にはその総帥か、箱庭実験の要領でやってる、なんて陰口もあった。普通の学校より給料が高いのになあ、なんて職員室で聞いた情報を思い出す。
箱庭。確かに千人も教師と生徒を集めればいい実験になるだろう。その中に怪盗を入れてみたら。情報ネットワークを敷いてみたら。どうなるだろう、どんな成長をするだろう。学校にある数々の監視カメラだって、最初の頃は監視されているようで嫌だったが――事実監視していたのか、あれは。防犯ではなく内部観察。とんだ学校に入ったもんだ、オレも。近さが悪い。最寄りの中学よりこっちの方が近かったし、母親も勧めた。お受験させたいがために。まったく。ミーハーだからママ友との競争に入ってみたかったらしい。本当に、なんてミーハーな。
まあ全員受かってめでたしめでたしだったわけだが、オレばかりは三年に上がって今更後悔している。その元凶が現在不在のイルだ。投げ出された形になっている俺達は水原家で謎の男と会談中。
まったく時間差のない音声だけがキッチリ聞こえる。オレは呆然と画面を見入る。結局誰なんだこの男は。社長か? たしか会長をやっていた創始者の爺さんは一……二年前に死んだってきいてるが。遺志。まさかそれは、会長の?
「『イクォール』の呼び出し方を、パスワードを知っているでしょう? あれに相談したいんです。アナタは俺達にとって、『奥の奥の手』ですから、切り札はまだつかいたくないですしね」
『ふむ……』
オレには全くわからない言葉を聞いて、その男は納得したらしい。『イクォール』? ……何だ、そりゃ。イルのシステムとやらのことか?
『わかった。ただし、私もパスワードの確証のない言葉しか知らない』
「それで結構です」
『……我、発見せり。EUREKAだ』
ユーレカ…?
どこかで聞いたことがあるような無いような。たしか脱線好きな国語の教科担任が言ってたような気がする。風呂から出たアルキメデスだったか? 浮力の原理を発見した時に叫んだ言葉がそれだったはずだ。我、発見せり。何を?
イルは何を発見してそんなパスワードをシステムとやらに名付けたのだろう。名付けた、は正しくないか。それは『イクォール』の方だ。等号。統合? あいつは言葉遊びが好きだった。しかし自分の危機に託したシステムにまでそんな事をするほど極楽トンボでもない。ならやっぱり意味が違って来るのか? 段々頭痛がしてくるのは暗くなり始めた部屋で液晶を覗いているからかもしれない。
『そろそろ感づかれるだろう……切らせてもらうよ』
「ありがとうございました」
ジルはそう告げて、ブツリと回線を切った。
「おい……なんなんだ? 今のは」
ジルはニコリともせず、そしてオレの顔を見ることもせずに言った。
「奥の奥の手」
……と。
再びジルは何やら操作をしだす。オレの家には今時珍しくもPCなる物が無いので、授業でつかったことしかないこの機械は半ばバケモノだ。スマホぐらいは持っているがそれも機能が凝縮された老人用で、キッズケータイとどっちがマシなのか考えてしまうところである。一応QRコードは読めるが、親父が使っている――壊れない限り使い続けるのが瀬尋家の信条だ――二十年物のスマホなんてラインも入っていない。オレが導入してやったぐらいだ。まあオレも親父とどっちつかずで機械は苦手だが。
今も下手にいじる事は出来ず、手伝えずにボーッとその動作を見遣る事で時間を過ごす。居心地が悪い。
「…宇都宮の…スカイラウンジだったよな、今の」
ボソリとオレは言う。言うことで言外に問う。
なんなんだ、と。
「企業秘密」
いつものように誤魔化すのを予想してなかったわけじゃないが、ムッとする。しかしあの景色は宇都宮ビルの最上階、通称スカイラウンジからしか臨めない物のハズなのだ。オレの読みは当たってる。何も言わないのを肯定と受け取っても支障はないだろう。
でも、
「オレには関係ないってか?」
皮肉めいた言い方でそう訊ねてしまった。部外者だ、それは最初から重々承知してた事ではある。でも、曲がりなりにもオレだってあの時から仲間なのだ。屋上へ通じる道、階段でにっこりと告げられた言葉。銃は持たないし持つ必要もない。そう言われて俺だけが銃の携帯を許されていないのも、差別や区別の類なのか。でも。だけど。
二人しか知らない秘密があるのは、やっぱり居心地が悪い。
ジルが俺の顔を珍しくまっすぐ見上げて来る。
「…俺はね、ナル。決定権を持っていない。お前に話していいのか判断する事も出来ない。それを話すか、話すべきでないのか、それを決めるのはいつ如何なる場合でもイルでなければならない。何故なら全ての首謀が今やイルであり、俺達はそれに追随することで現状を保っているからだ。俺がお前に話すべきことじゃない、それはイルの——イルのみに侵すことの赦される、領域なんだ」
イルの領域ってのは——なんだ?
「よし、繋がった」
ジルはPCの画面を見てそう呟いた。そこにはパスワード画面があるだけである。…どう繋がってるんだ、コレが。
「…………」
神妙な面持ちで、繋げっぱなしのマイクに顔を近づける。
息を呑んだ。
「EUREKA」
耳慣れない単語が完全に口唇を離れた瞬間、けたたましい音が鳴って画面が崩れる。オレはギョッとした——が、画面が崩れたわけではない。その画面の中身が、グラフィックが崩れたのだ。
そしてその裏側に現れたのは……
「い……るか?」
そこにはピンクのイルカのアニメーションがいる。ぐーすかと、アルファベットの『Z』を吐きながら眠りこけている…が、ものの数秒で眼を醒ましてこちらを見た。
『うにょぉーっ、よく寝たよく寝たよく寝たぁ! ありり? イルじゃないのぉ? って事は一大事だね? 一大事だ大変だあ、どーしようどーしたら良いんだァ!? っと、そんな時のお任せちゃん、でぇす! で、何があったの? おやジル君、一人じゃないねぇ、そっちの男の子はダァレ? 彼氏? まさかまさか、そっちの道に入っちゃったのっ? …にゃーんていうお茶目な冗談はおいておきまして、そこのカレはナル君だね? 始めまして、あたしはイクォール、イルのアシスタントオブザーバーなのさぁ! っ…てぇ、いつまでもダンマリ決めこんでないでちゃんと状況説明しておくれよジル君っ!』
「黙れのべつ幕無し! お前が喋らせないだけだろうが、喋りすぎだ自粛しろ! ナルが固まってる」
のべつ幕無し。確かにそうだ、恐ろしく……喋る。喋るっていうのか? これ、ちょいとばかりぎこちないアニメーションだが……それを補って余りあるこのボキャブラリーと自立性は一体なんなんだ!? まさかこのPCの中に住んでる!? ……そんなワケはあるまい。
「ああ、ナル。コレが、聞いてのとおり『イクォール』っていって……イルの分身だ」
「ぶっ……ぶんしん……って」
「イルの記憶を忠実にロードして作られた電気人形とかなんとか聞いてるが、とにかくもう一人のイルらしい。さっきの『奥の奥の手』で作ってくれたもので…このPCのメモリじゃ少々ぎこちないアニメーションだが、オリジナルの方はナマモノとしか思えないシロモノだ」
「なっ……なんなんっ……」
「まぁ、つまり今まで俺達の計画を頭脳面で少々サポートしてきたモノなんだよ」
ちょ、ちょっ……。だぁぁぁぁぁ、混乱してる場合じゃねえ! 取り敢えず今はそういう場合じゃねぇ、適当に納得するんだ、混乱するのは後から出来る! って、充分混乱中か現在のオレは。統合はないだろう、これは。イルの断片としてなら、『水原倭柳』の側面が見えると言えば見える程度。それってのは外向きの態度だ。こいつも俺を言葉の雨で黙らせ警戒しているのかもしれないし、こっちが素のイルなのかも――いやそれはあり得ないだろう――まあとにかく、適当に納得しなければ。
納得しろ。コレはイルそっくりの人形。以上! 終わり!
『そ、あたしは世界最先端技術を駆使して創造されたエレクトロニックドール! ちゃちな説明しないでくれないかなジル君っ!?』
イルカがたしかにどことなくイルに似た仕種でそう告げる。
『ちなみに、なんであたしの形態がイルカなのかっていうとぉ? イルのトレードマークがイルカだからってタダそれだけ。判った? オーケー? オーライ?』
しかし……
なんなんだ? なんかおかしいぞ? だって、イルは…イルはこんなにお喋りじゃねーし、てゆーかむしろイルと似てるような似てないような? 似てるような気がしたのは気のせいじゃないハズだか、何か何か何か、なんか変だ!
『で? なぁにがあったか説明しくされって何回言わせるのさジル君、あたしの可愛いオリジナルはどこに行っちゃったの? ……偵察に行くっていう予定が入っていたはずだね、それから帰ってこないのか。今は十九日、予定が入っていたのは十八日。なるほど、偵察から帰ってこないイルが捕まったんじゃないかという懸念をしているわけだね? だから総帥に連絡をとって、あたしを呼び出した。違う? 違ったら結構ショックだわ、思いっきり自信があるだけにね。ちなみにどうして総帥に連絡とったのを探り当てたか知りたい? いくら隠密ケーブルを通ったって、会社とここにはあたしがいるんだから、ばれるに決まってるじゃないの』
「判った、もうイイ、黙ってくれ」
ゲンナリとしてジルはイルカを手で制した。イルカ……イクォールは無い鼻を鳴らして溜息をついて見せる。しかし、総帥ってなんだ? さっきの宇都宮のことなのか?
『ふむっ……イルねぇ、イル。どーしたっかねー、捕まったっていう可能性は限りなく大きいわけさね。でも、まだ総帥に助けてもらいたくは無いわけなんでしょ? そりゃあ贅沢すぎる、イルの無事を願うんなら助けてもらった方が上策だァ。しかし……ふむ。あと二十四時間待ってみなけりゃ、この世紀の大傑作サマもどうにも出来ないねぇ。あたしなら、イルならば、どうにかして一日二日は頑張るはずだもの。それでも逃げられないと察したら……舌を噛むね』
……ゾッとした。
イルが舌を噛む? イルが死ぬ? ゾッとする。
あいつが死ぬ? そんなのは、そんなのは——
有り得ないと否定できるほどに、オレ達の付き合いが長けりゃ良かった。
『そこで顔を青くしてるベイビーちゃん? 否定出来ない自分が悔しいのかい? 残念ながらソイツは杞憂だよ……このあたしでさえも、自分の分身がどんなことを考えつくのかは判らない。イルならば奇想天外の脱出術を披露してくれるんじゃないかって期待までしているからね。そこのジル君だって一緒でしょ? 期待して、自分の不安を押し止めてる。違うかい? 違わないだろう? 判りきっているハズだねぇ、仮にも兄妹として暮らしてきたのだからさぁ』
……『仮にも兄妹として』? なんだその言い方は。
まるで、
本当は違うような——……
「黙れよ、迂闊なコト言うな。——それでも……心配になるのが家族ってヤツだろう? だからモノは相談だ。俺達がどうするべきか、導けよ。お前だってカタンなんだろう?」
『カタン、カタンね。そうだね、カタンだけれどね、所詮はあたしだってイルのコピーでしか無いわけよ。イルの、いや、水原倭柳のコピーだから、結局は……オリジナルの考えなんて考え及びつきませんな。やだ、せんな、ってなんかオヤジくさいわね』
「おいジル……カタンってなんだよ?」
『カタンッてーのはねぇ、カタンなワケよ』
ジルにした問い掛けに、オーバーアクションなイルカが答えた。くねくねと魚形の身体を曲げ伸ばしつつその焦点はオレにあっている。ピンク色にペイントされてるのは、多分アマゾンカワイルカか何かをイメージしている所為なんだろう。そいつはピンク色をしていると、動物モノのテレビ番組でやっていたのを辛うじて憶えてる。
『導くものって意味ね。ほら、君達を導いているのはイルでしょう? つまり、イルは君達のカタンなワケだ。カタンっていうのは本来お祖父ちゃまが作ったDOLLの』
「黙れ」
ジルが、厳しい声で一喝した。イルの分身と自称する、桃色のイルカが息を呑む仕種をして黙る。……しかし、ドールってなんだ?
「お前は、イルじゃないだろう」
ジルがそう続けた。イクォールは訳知り顔になり、うんうんと頷く。そして
『なるほど、そういうわけか———隠しているのかい? それとも言わないだけなのかい』
「お前には関係無い」
『はいな、はいはいはーい。でもねぇジル君———知られて困ることなど何も無い。さァカウントダウンだ、三——二——一…』
からん…かららららん…
玄関から音がした。多分防犯用についているドアベルの音だろう、そして直後に何かが倒れるような音がした。ギョッとしてジルが顔を上げ、PCをそのままに駆け出す。
「なん——だ?」
『帰って来たのよ』
僅かな呟きをマイクが拾ったらしく、イルカがそう言った。
『ああ、ジル君がいないから言わせてもらうよナル君。時間が無いから質問は受け付けられない。いいかい? 君はきっと解らないことだらけのままで、イルとジルの二人に引き摺られてる———そう思い込んでいるだろう。だけどそれは間違いなんだ、彼も彼女も何も隠してはいない、曝け出してはいる。しかし大部分を割愛しているのは確かでね、それはあたしが謝るよ、ごめんなさい。ただね、本当は何も隠したくないのは本当で、何も隠してないのも本当なんだ。本当は——僕達は——』
言いよどむ寸前の言葉。
『僕』達?
こいつは、確かに、イルで———
『君は何もかも知っていると思っていいんだ。そして、絶対の信頼をされていると思っていいんだ。いいね、君は、君達は足を引っ張ることなんかしていない。君は、必要なんだ。だから……もう少し、このXの多い公式に付き合ってくれ』
Xの多い公式。始めて会話をした時に、イルは同じようなことをいった。XどころかYも出てる。Zもαもβも、おおよその考えつく文字はつかわれているのだろう。
ただし、それは、嘘じゃない。
ただし、それは、隠し事じゃない。
オレが公式を解けないだけだってのか? それとも、本当は手本がどこかにあるハズなのか……例題はどこだ?
どこに、そんな、ものが、ある?
「ナル! ナル、ちょっと手伝え!」
「な、なんだ?」
『早く玄関へ行って。鍵は旧約聖書に挟んであるわ』
何の鍵がだ?
とにかくオレは玄関へと走った。勝手知ったるヒトの家、と言うほどでもない。イルとジルの部屋、それに居間ぐらいしか知らん。
「くそ、イル! イル起きろ!」
イル?
「————イ……ル!?」
いつもの黒装束。シリコン製のアンダースーツ、防弾具。
青白い顔、噛み締められた唇。
玄関に倒れるイルを見て、ぼんやりとオレは思った。ああ、そうか。こんなにも小さかったんだなぁ……オレ達より年下なんだもんな、こんな小さくて、小柄で、頼りなくて、それで——
ソレデ
イルは、唇を噛み締めていた。
白い口唇が、いやに——
いやに。記憶に残った。
イクォールの言った通りイルは帰って来た…しかしその姿は、
満身創痍だった。
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