第2話 決して泣くことをやめないで。
北鳥高の昼下がり
翌日。
俺の席はやっぱり暑くて、頭皮がじりじりと焼けるようだった。
昨日行った白鳥奏学院の静かで涼しい廊下を思い出すと、余計にこの場の熱気が堪えた。
窓の外をぼんやりと見ていると、昨日のピアノの音が蘇る。
――泣いてるみたいな音。
黒髪の、透き通るような肌の少女。
最後に流した一筋の涙。
あの子は、あんなに完璧な音を奏でながら、どうして泣いていたんだろう。
心「はぁ……」
ため息をつくと、前の席の真斗が振り向いた。
真「お!どうした心助。昨日から妙にぼーっとしてねーか? スイーツの食いすぎとか?わかるわかる、俺もあの生クリームで胸焼けしてるとこなんだよなー」
心「ちげぇよ。別に」
真「ふむふむ、あるな。絶対ある。空音! 心助が悩み事だってよ!」
空音は、俺の斜め後ろの席から顔を出した。
その手には、昨日俺に貸してくれたラメ付きのハンディファンが握られている。
空「心助? どうしたの。熱中症?」
心「いや、大丈夫。ちょっと考え事してただけ」
空「ふーん。まさかとは思うけど、白鳥奏学院の子とかじゃないでしょ?」
鋭いって…
俺の感情の変化には誰よりも敏感だよな、空音って。
心「……別に、そんなのじゃない」
空「ふーん。でも、なんで顔が赤くなってるの?」
空音はそう言うと、不機嫌そうに鼻を鳴らした。
いつも俺には優しいくせに、恋愛がらみになると急にツンデレになるんだから困る。
そのやり取りを見ていた宏太朗が、静かに口を開いた。
宏「井鷹。お前、感情を表に出すのが下手だろ。今の顔は、興味がある顔だよ」
心「うるさいなぁ、宏太朗まで」
真「心助に、ついに青春が来たんだな!いいな〜、俺も青春分けてくれよ〜!!」
茶化す真斗に、俺はそれ以上何も言えなかった。
ただ、あの泣いていたような音をもう一度聞きたい、とぼんやりと思った。
放課後。
いつも通り、俺と真斗は一緒に帰路につく。
駅のホームは、工業高校の生徒たちでごった返していた。
真「でもほんと、白鳥奏学院ってのは本当に別世界だったな。あんなところでバイトしてみてーなー」
心「お前のバイト探しは、もっと生活優先にしろよ」
真「わかってるって! でもさ、あそこ通ってる女の子たち、別格だよな。みんな白い鳥みたいでさ」
猪村は妹の話になると急に真面目になるが、すぐにいつもの調子に戻る。
電車が滑り込んできて、俺たちが乗り込もうとしたとき、ホームの向こう側――反対方向の電車を待つベンチに、見慣れた制服を見つけた。
――白鳥奏学院の、白い制服。
その生徒は、周囲のざわめきの中でも際立って静かだった。
長い黒髪が、風にわずかに揺れている。
心「……ピアノの子…」
俺は思わず、その場に立ち止まった。
真「どうした? 早く乗らねーと、次の電車まで待つことになるぞ」
心「……いや、なんでもない」
俺がそう答えた瞬間、その生徒は立ち上がり、ざわめく人波の中に消えていった。
一瞬、彼女が何か小さな包みを大切そうに抱えているのが見えた気がした。
俺は、もう一度そのピアノの子を見失った。
夜。自宅のアクセサリー制作店の工房で、祖父から頼まれていた仕事に取り掛かっていた。
今日は、馴染みの客から預かった古い楽器の修理に使う、特殊な留め具が必要だった。
心「この留め具、納屋の奥にしまい込んでるはずなんだけど」
俺は裏にある小さな納屋へと向かう。
アクセサリー制作店の納屋とは言っても、祖父の趣味で古い楽器や骨董品が置かれている、雑然とした場所だ。
納屋の扉を開けたとき、俺はまたしても息を飲んだ。
小さな電球の光の下。
埃を被った古いギターや木箱に囲まれた、その空間に、ピアノの子が立っていた。
彼女は、古物商の店主らしき男と、小さな木箱を前に話していた。
店主「これは申し訳ないが、修理は無理だよ、嬢ちゃん。中のゼンマイが完全に錆びきってる。部品ももうないし、これは諦めるしかない」
ピアノの子の手にあったのは、古びたオルゴール。
澪波「……そうです、か」
彼女の声は、控えめで、感情が読み取れないほど静かだった。
しかし、その瞳が微かに揺らいでいるのを、俺は見逃さなかった。
まるで、何か大切なものを失うのを恐れているようだ。
それを見た俺はたまらず、俺は声をかけていた。
心「あの……よければ、見せて、もらえませんか」
は驚いたように振り返った。俺の作業着姿を見て、少し警戒したようだったが、俺がアクセサリー制作店の店主の孫だと知ると、ゆっくりとオルゴールを差し出した。
心「古いフランス製ですね。……うちの祖父が、こういうのの部品をいくつか持っているかもしれません」
オルゴールを受け取ると、蓋の裏に刻まれた文字が見えた。
M.T. – Ne jamais s'arrêter de pleurer.
(M.T. – 決して泣くことをやめないで。)
心「……これは、お祖母さんのものですか?」
ピアノの子は、小さく頷いた。
心「少しだけ、お時間をください。多分、直せると思います」
彼女は何も言わなかったが、その切れ長の瞳が、少しだけ潤んだように見えた。
しばらくして、俺は納屋の隅から祖父が昔集めていた部品の箱を見つけ、錆びたゼンマイの代わりになるものを見つけた。
慣れた手つきで部品を交換し、オイルを注し、慎重に巻きネジを回す。
カチッ、カチッ、カチッ……
そして、オルゴールの蓋を開けた。
古びてはいるが、狂うことなく、まっすぐな音色の旋律が、納屋に響き渡った。
完璧ではない音。
けれど、どこまでも優しい音。
澪波の頬に、今度は涙が溢れることはなかった。
その代わりに、彼女は初めて年相応の無邪気な笑顔を見せた。
澪波「ありがとうございます……! 本当に……」
心「いえいえ。直ってよかった。……このオルゴール、貴方にとって、大切なんですね」
彼女は頷いた。そして、決心したように、小さな声で言った。
澪波「あの……私は、鶴蔵 澪波(つるくら みなみ)と、言います」
心「俺は、井鷹 心助(いたか しんすけ)です」
その夜。飛べない鷹は、飛ばない鶴の名前を、ようやく知った。
澪波「……それじゃあ、失礼します」
修理が終わってから、店を出るまでの間、彼女はずっと両手でオルゴールを大事そうに抱えていた。
夜風が通り抜ける商店街の裏道は、灯りが少なく、ところどころに虫の鳴き声が響く。
心「駅、こっちですよね」
澪波「……はい。ありがとうございます。でも、ここからは一人で大丈夫です」
心「…夜道は危ないですよ。うちの店、この辺ちょっと人通り少ないと思うので…」
少し迷ったように、澪波は立ち止まった。
その横顔を街灯の明かりが淡く照らす。
影が長く伸びて、まるで夜の中に溶けていくみたいだった。
澪波「……ご迷惑じゃ、ないですか」
心「大丈夫。ガタイだけはいい方なので」
そう冗談を言ってみると、澪波はわずかに口元を緩めた。
けれどその笑みは、どこか壊れやすい硝子のように脆く見えた。
歩きながら、二人の靴音だけが夜道に響く。
話題を探そうと口を開きかけては、言葉が夜風にさらわれていく。
澪波が持つオルゴールの金具が、月明かりを受けて小さく光った。
何も喋れないな…
気まずいとか、そういうのじゃなくて。
なんというか、言葉を出そうとするだけで喉が締められる…
心「……」
そんなことを考えていると気づけば、駅の明かりが見えていた。
線路の向こう側には、まだ人影がまばらに残っている。
心「じゃあ、俺はここで…」
澪波「……はい。本当に、ありがとうございました」
そう言って、彼女は改札の方へと歩き出した。
振り返りざま、ほんの一瞬だけ——
その瞳が、昼間の涙よりもずっと穏やかに揺れていた気がした。
電車の到着音。
その音に紛れて、彼女の声がかき消されていく。
でもその口の動きは、音を介さなくともちゃんと意味を運んでくれた。
——ありがとう
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