第3話 罪の鎖に繋がれたまま


放課後の北泉鳥工業高校の門前は、いつも作業着の男どもの汗と熱気で満ちていた。その日の空気は、いつにも増してざらついていた。


「おい、てめぇら!北鳥のくせにいい気になりやがって!」


校門を出た瞬間、猪村真斗が、見慣れない制服の集団に囲まれているのが見えた。

工業高校と商業高校、あるいは近隣の底辺校との些細な因縁。


真斗が持ち前の明るさで口を滑らせたか、単にカモにされたか。


どちらにせよ、真斗は持ち前の気の良さゆえに、いつも余計ないざこざを背負い込む。


真斗は一瞬、俺の方を見た。

その瞳には「助けてくれ」というよりも、「心助、面倒なことになった」という困惑が浮かんでいた。

俺の足は、そこで止まった。


過去の、後悔と涙の匂いで満ちたあの日の記憶。

俺が力任せに振るった拳の感触と、そのせいで壊れてしまった大切なもの。


それは、俺が北鳥高を選んだ贖罪だった。

二度と、無意味な暴力は振るわない。


俺は、その誓いの鎖に雁字搦めになっていた。


「…行くぞ、真斗」


声は、冷たい鉛のように喉からこぼれた。手を出すな、挑発に乗るな、耐えろ。


俺は真斗の腕を掴もうとしたが、その瞬間、相手の一人が真斗の胸倉を掴み、壁に押し付けた。

ガツン、と鈍い音が響く。

真斗は痛みに顔を歪めたが、俺が「手を出さない」と決めたことを察してか、抵抗しなかった。


俺はただ、その光景を無言で見つめた。

頭の中で警告音が鳴り響く。


行けよ。

助けろよ。


それでも、あの日の鎖はびくともしなかった。

俺は、飛べない無力な虫だった。

飛んでゆく力を持っていながら、自ら鎖を巻きつけた、哀れな虫けら。


その時、風に乗って、聞き慣れた花の香りが漂ってきた。


「…井鷹、さん」


背後から聞こえた、絹のように細い声。鶴蔵澪波。

なぜ、彼女がここに。


彼女は、白鳥奏学院の音楽コンクールの帰りだろうか。

白いブラウスに、黒のロングスカート。

交わらないはずの空の下で、彼女は一羽の白い鶴のようにそこに立っていた。


彼女の瞳は、まるで、壊れたオルゴールのゼンマイのように震えていた。


彼女の視線は、壁に押し付けられた真斗ではなく、その場に棒立ちで、何も出来ずにいる俺に注がれていた。


心助の頬を流れる一筋の汗。

それは、暑さのせいだけではなかった。


「……っ」


澪波は驚きを隠せずに目を見開いた。

その瞳に映った俺は、きっと冷酷な獣に見えたのだろう。


助けを求める友を見捨てた、冷たい、無関心な存在。


昨日、自分の大切なオルゴールを直してくれた、優しい面影など、どこにも残っていなかった。


彼女は、何かを振り払うように一歩後ずさった。

そして、来た時と同じく、音もなく、速やかに、夜の影へと消えていった。


真斗は相手に「すまない」と一言謝罪し、その場を収めた。


俺たちの間には、分厚い沈黙の壁が立ちはだかった。


真「……心助」


真斗の声は、いつになく低かった。


真「お前の気持ちは、わかってるよ。けど……」


俺は、真斗の言葉を遮った。


心「悪かった。俺は……俺はもう、誰にも手を出したくないんだ」


俺が守りたかったのは、過去の罪だった。

だが、その鎖は、真斗の友情と、鶴蔵澪波の信頼を、同時に引きちぎってしまった。


その夜、納屋でオルゴールを直した時に感じた、あの無垢な、優しい音。


それは俺の耳の奥で、悲鳴に変わって響き続けた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る