第30話 夏期講習 美大の教授がやってきた③

スガ先生は、みんなの前に立ったまま、

しばらく何も話さなかった。


言葉より先に、視線が動く。


イーゼル。

床。

壁に立てかけられたキャンバス。

そして、生徒たち。


まるで「人」ではなく、

この場所に溜まっている時間や癖ごと見ているような目だった。


「……今日は、たくさん来ていますね」


穏やかな声だった。


「大学の話を聞きに来た人もいれば、

 作品を見せたい人もいる。

 たぶん、どちらも正解です」


そこで、ひと呼吸。


「ただし」


その一言で、

アトリエの背筋がそろって伸びた。


「今日は、“正解の描き方”を教えに来たわけではありません」


誰かが、小さく喉を鳴らす。


「講評というのは、

 上手い・下手を決める時間じゃない。

 “何を考えて描いたか”が見えるかどうかを、

 確認する時間です」


私は、その言葉を頭の中で何度もなぞった。


(……考えて、描く)


当たり前のはずなのに、

いざ言葉にされると、少し怖い。


「M美大を受ける人は、その前提で聞いてください。

 受けない人は――参考にするだけでいい」


アンザイ先生の言葉と、

ぴたりと重なった。


最初に講評に呼ばれたのは、

M美大志望だと名乗っていた生徒だった。


キャンバスが前に運ばれる。


正直に言えば、

上手かった。


形は取れている。

色も破綻していない。

モチーフへの観察も、確かにある。


周囲からも、

「すごい……」

という気配が伝わってくる。


けれど――


スガ先生は、しばらく黙って絵を見たあと、言った。


「技術は、ありますね」


そこで、一拍。


「……ただ、

 それ以上の情報が見えてこない」


空気が、すっと冷えた。


「この絵を描いた“あなた”が、

 どこに立っているのかが、わからない」


生徒の肩が、ほんの少し落ちる。


「安全な場所で、正しく描いている。

 でもそれは、

 大学に入ってからでいい描き方です」


私は、無意識に息を止めていた。


(……こわいな)


上手いだけじゃ、足りない。


講評は、次々と続く。


どの作品も、

一定以上の完成度はある。


けれど、スガ先生が見るのは、いつも同じところだった。


「なぜ、この構図なのか」

「なぜ、そこを省略したのか」

「なぜ、その距離で描いたのか」


答えられない沈黙が、何度も落ちる。


私は、そのやり取りを見ながら、

膝の上の自分の手を見つめていた。


(……私は、見せなくていい)


そう決めて来たはずなのに。


誰かへの講評が、

そのまま自分に突き刺さってくる。


「描写が甘い」

「コンセプトが弱い」

「考えが途中で止まっている」


どれも、

自分にも当てはまる言葉だった。


でも同時に、

ひとつだけ、違う感覚もあった。


(……私は、どこに向かって描いてるんだろう)


藝大一本。


その選択は、逃げではない。

けれど、答えでもない。


スガ先生は、最後にこう言った。


「大学は、ゴールじゃありません。

 “描き続ける理由を持っている人間”を、

 選びたいだけです」


その言葉は、

誰か一人に向けられたものではなく、

この場全体に落とされたように感じた。


私は、気づかないうちに、

深く息を吸っていた。


(……美大って、

 こんなことまで考えさせるのか)


その日の帰り道、

私はどうしても、今日あったことを誰かに話したくなっていた。


向かった先は、

ウチダ君が教えてくれた、あの画塾――美術研究所だった。


扉を開けると、いつもの空気。

鉛筆の音。

紙の匂い。

誰かの小さなため息。


ウシジマ先生は、

私の話を遮ることなく、

ただ「うん、うん」と頷きながら聞いてくれた。


M美大の特別講義のこと。

スガ先生のこと。

大学という場所が、急に現実味を帯びて迫ってきたこと。


話し終える頃には、

自分でも驚くほど、胸の奥が少し軽くなっていた。


そのときだった。


「本当にね!」


突然、クマダさんが声を張り上げた。


「実際そうなんですよ。

 大学に行かなくたって、絵は描ける!

 プロにだってなれる!

 だからこそ――」


少し身を乗り出して、続ける。


「“なんで行くのか”を考えないとダメなんですよ!」


熱を帯びた言葉に、

場の空気が一瞬、ぴんと張る。


すかさず、シブヤさんが横から口を挟んだ。


「はいはい。

 それ、自分が大学行ってない私念も入ってるでしょ」


「ち、違いますよ!

 あくまで一般論で――」


「一般論にしては、熱量強すぎ」


そんなやりとりに、

私は思わず苦笑してしまった。


けれど――

笑いながらも、胸の奥に何かが引っかかっていた。


(……でも、これって)


クマダさんの言葉は乱暴だったけれど、

確かに“本質”を突いていた。


大学に行かなくても、絵は描ける。

学べる場所だって、今は山ほどある。


それでも、

私はなぜ美大を目指しているのだろう。


改めて、自分に問いかけてみる。


――絵を上手くなりたいから?

――肩書きが欲しいから?

――周りに認められたいから?


少し考えて、

私の中から出てきた答えは、意外とシンプルだった。


(……絵を、続けたいから)


描くことを。

好きだったことを。

いつの間にか、忘れてしまわないように。


「好きだから描く」だけじゃ、

簡単に揺らいでしまう自分を、私は知っている。


だから、

それを揺るがないものにするために、

“場所”や“覚悟”が欲しいのかもしれない。


(それって……正しいんだろうか)


誰かに決めてもらえる答えじゃない。


ウシジマ先生は、

そんな私の沈黙を察したのか、

何も言わず、ただ静かに微笑んでいた。


画塾の夜は、相変わらず穏やかで、

それぞれが、それぞれの目的地に向かって、

黙々と線を引いている。


同じ“絵”を描いていても、

向かう先は、人の数だけある。


その事実が、

この日はいつもより、ずしりと胸に残っていた。

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