第29話 夏期講習 美大の教授がやってきた②

後日――

ついに、スガ先生の特別講座の日がやってきた。


いつもの夏期講習と同じはずの朝なのに、

予備校のアトリエには、どこか張りつめた空気が漂っていた。


イーゼルの配置はいつもより整えられ、

床に散らかっていた紙屑や絵の具箱も、

不自然なほどきれいに片づいている。


(……空気が違う)


誰かが口にしたわけでもないのに、

ここにいる全員が「今日は特別だ」と理解していた。


やがて、M美術大学の職員の方々がアトリエに入ってきた。

進行を担当するらしく、資料を配りながら手際よく準備を進めていく。


私たちは椅子を並べ、

いつもの制作時間とは違う、“聞くための姿勢”で座った。


最初に始まったのは、M美術大学の概要説明だった。


「本学では、“教養と専門性の融合”を教育の柱にしています」


落ち着いた声で語られる言葉を、私は静かに追っていく。


一・二年次で造形の基礎を徹底的に学び、

他分野の授業も横断的に履修できるカリキュラム。

十二学科を擁する大規模な構成。

実社会と連携した実践的な学び――特にCI学科の話。


伝統的な美意識と、

最新の技術や社会課題、その両方に向き合う姿勢。


「美術大学としては、国内最大規模を誇ります」


その言葉を聞きながら、私は心の中でそっと噛み砕いていた。


(……つまり、“教養のある作家”を育てたい大学なんだ)


技術だけでも、表現だけでもない。

考え、社会と関わりながら作る人間。


なんとなくこの大学は、

「馬鹿は取らないぞ」

そんな無言の圧を放っている気がした。


説明を聞けば聞くほど、

この場にいるM美大志望の生徒たちにとって、

これ以上ない舞台なのだと伝わってくる。


ふと、周囲を見渡す。


前の席の子は、膝の上でメモ帳を握りしめている。

別の生徒は、無意識に鉛筆を転がしては止めている。

背筋を伸ばしすぎて、逆に不自然な姿勢の子もいた。


(……みんな、緊張してる)


それは“授業を聞く緊張”ではない。

「評価されるかもしれない場所」に身を置く緊張だ。


作品を見てもらえるかもしれない。

言葉をもらえるかもしれない。

あるいは――否定されるかもしれない。


その可能性が、

アトリエの空気をじわじわと硬くしていく。


私は、アンザイ先生の言葉を思い出していた。


――話を聞くだけでいい。

――参考にするだけでいい。


そう言い聞かせながらも、

胸の奥のざわめきは、どうしても消えなかった。


(……どんな人なんだろう)


スマートフォン越しに見た、

“現実を閉じ込めたような絵”を描いた人。


その本人が、もうすぐここへ来る。


職員の方は概要説明を終えると、

少しだけ間を置いてから、こう続けた。


「美大進学と聞くと、

 “就職に不向き”とか、“働いたら負け”と思われる方も

 いらっしゃるかもしれません」


アトリエの空気が、わずかに揺れる。


「ですが本学は就職率も高く、

 広告代理店、デザイン会社、ゲーム会社などにも

 多数の卒業生を輩出しています。

 ――お手元の資料を、めくってみてください」


私は言われるまま、膝の上の資料を開いた。


並んでいるのは、見覚えのある企業名。

誰でも知っているゲーム会社。

有名なデザインスタジオ。

広告業界では名の通った会社。


そして――


(……この漫画家、M美出てるのか)


思わず目が止まる。


知っているペンネーム。

雑誌で見たことのある名前。

かつて遊んだゲームのキャラクターデザイン。


「あ、このキャラ……」

「これ、あの人が描いてたんだ」


“遠い世界”だと思っていた仕事が、

卒業生の欄に、当たり前のように並んでいる。


薄い紙なのに、

そこに載る名前の重みは、やけにずっしりしていた。


(……ここは、“夢”だけで来る場所じゃない)


理想も、現実も、覚悟も。

全部まとめて引き受ける場所。


職員の方が、ひと呼吸置いて言った。


「それでは――

 本日お越しいただいている、スガ先生をご紹介します」


アトリエの扉へ、

一斉に視線が集まる。


その瞬間、

空気が、ぴんと音を立てて張りつめた。


アトリエの扉が、静かに開く。


きし、と小さな音。

一人の男性が、職員に先導されて入ってきた。


派手さはない。

スーツでも、いかにも“先生然”とした格好でもない。

落ち着いた色の服装に、整えられた身なり。


けれど――


(……あ)


理由もなく、背筋が伸びた。


空気が変わった。

わかりやすくではなく、

じわりと“密度が上がる”感じで。


その人は、アトリエ全体を一度だけ見渡す。


生徒一人ひとりを見るというより、

空間そのものを測るような視線。


視線が通り過ぎただけで、

心臓が一拍、遅れて鳴った。


誰も喋らない。

椅子が軋む音すら、消えている。


(この人が――)


M美術大学教授、スガ先生。


スマートフォン越しに見た、

あの“現実を閉じ込めたような絵”を描いた人。


人の手で、

ここまで描けるのかと思わされた、その当人。


スガ先生は前に立つと、

ほんの少しだけ口角を上げた。


「今日は、ありがとうございます。

 短い時間ですが、よろしくお願いします」


穏やかで低い声。

威圧的ではないのに、

なぜか、こちらの背筋が伸びる。


前の席の生徒が、無意識にメモ帳を開く。

誰かが、ペンを持ち直す。


(……始まる)


それは“講座”というより、

試合開始の合図に近かった。


評価されるかもしれない。

否定されるかもしれない。

何も残らないかもしれない。


そのすべてを抱えたまま、

私たちはこの人の言葉を聞くことになる。


――話を聞くだけでいい。


何度も自分に言い聞かせながら、

それでも私は、目を逸らせなかった。


この夏、

“大学”という言葉が、

初めて現実の重さを持って迫ってきた瞬間だった。

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