第21話 夏期講習―手渡し課題③

スマホを持った男が、私の前で何度も頭を下げていた。


「大丈夫ですか!? 本当にすみません! すみません……!」


声がやけに大きく響く。

まだ耳鳴りがしていて、距離感がうまくつかめない。


少しずつ意識が戻り、地面に手をついた私は、

転がっていたスケッチブックを拾い上げた。

ページをめくる手が震えていたが――幸い、中は無事だった。

バッグの中身も確認したが、壊れたものは何もない。


ほっと胸を撫で下ろした瞬間、また男の声が飛んでくる。


「救急車呼びますか!? 学校とか親には連絡したほうが――」


私は思わず顔を上げた。


……学校? 親?


どうやら、私は“大学生か専門学生”あたりに見えたらしい。

彼はスマホを握りしめたまま、あたふたと私の年齢を探ろうとしている。


自転車のハンドルには、地図アプリの画面がつけっぱなしになっていた。

どうやら、スマホで行き先を調べながら走っていたらしい。


――ながら運転。

――そして私は、その進路上にいた。


予備校生のおじさんを轢くなんて、

悪い冗談にもほどがある。


痛む膝を押さえながら立ち上がると、

男はまだ必死に謝っていた。


「本当にすみません! どうしたらいいですか!?」


だが、その声を聞きながらも、

私の頭の中はまったく違うことでいっぱいだった。


――キャンバスが呼んでいる。

――早く描かないと。


事故よりも、その思いの方が強かった。


「とりあえず、意識もあるし……吐き気もない。だから大丈夫です。」


私はゆっくり立ち上がりながら、男にそう伝えた。


「ほんとにすみません! 本当に――」


「大丈夫。気にしないで。

 それより、私は早く予備校に行きたいんだ。」


そう言って、倒れた自転車を横目に見ながら、その場を後にした。


本当なら警察を呼んだり、

救急車で検査を受けたりするのが“正しい”のかもしれない。

けれど、そのときの私は、そんな冷静な判断をする余裕もなかった。


頭の中は――絵のことでいっぱいだった。


昨日描いた、あの貝殻の続き。

まだ半分にも届いていない、あの白い画面。

ようやく「こうなってほしい」という形が見え始めたその絵を、

ここで途切れさせるわけにはいかない。


あの絵を完成させられないのなら、

死んでも死にきれない――そう思った。


いや、むしろ。


死ぬなら、絵を完成させてから死のう。


それくらい、私はあのキャンバスに囚われていた。



右膝に違和感を抱えたまま、私はゆっくりと予備校へ向かった。

思っていたよりも足が重く、予定より三十分ほど遅れてしまったが――

なんとか、アトリエの扉を押し開けることができた。


中に入ると、今日はスギヤマ先生がすでに教室にいた。

だだっ広いフローリングの中央、

講評用のホワイトボードの前で資料を整理していた手が、

私に気づいた途端、ぴたりと止まる。


「……顔色、悪いけど大丈夫?」


その声には、いつもの飄々とした軽さがなく、

素直な心配の色が混じっていた。


「実は、ここに来る途中で……ちょっと自転車にぶつかられてしまって。」


私はできるだけ軽い調子で、冗談めかして言った。


しかし。


いつもなら「マジで? 災難だねぇ」と笑ってくれるスギヤマ先生の表情は、

一瞬で真剣なものに変わった。


「それ、本当に大丈夫なの? 痛みは? 頭は? めまいとかしてない?」


質問が矢継ぎ早に飛んでくる。


「まあ、ちょっと膝が痛いだけで――」


そう言いかけたところで、その言葉を最後まで言わせてもらえなかった。


「少しでも体調が悪いなら、今日は帰りなさい。」


いつになく低い声だった。


「課題なら、あとでいくらでも個人的に見てあげるから。

 無理して倒れたら意味がないし……絵の前に、まず君の身体だよ。」


その言い方には、冗談の欠片もなかった。

私は驚きつつも、その真剣さに胸が少し熱くなる。


けれど――

それでも私は、アトリエの奥に立てかけられた未完成のキャンバスから、

目を離せなかった。


描きたい。

続きが描きたくて仕方がない。


そんな衝動が、まだ痛む右膝の奥でうずいていた。


スギヤマ先生がまだ何か言おうとした、その時。


「――他の生徒の邪魔になるから、決めるなら早く決めなさい。」


静かな声が、アトリエ全体の空気を一瞬で変えた。


私とスギヤマ先生は、同時に声の方へ顔を向ける。


入り口近く――

そこにはアンザイ先生が立っていた。


白いシャツの袖をまくり、腕をゆったりと組んだ姿。

目元は柔らかいのに、声だけは妙に通る。

いつもは穏やかな“おじいちゃん先生”だけれど、

ときどきこうして、ひと言で場を締める。


「休むなら休む。描くなら描く。

 中途半端が一番危ない。」


淡々とした言い方なのに、不思議と胸の奥に響いた。


スギヤマ先生は、少しだけ肩の力を抜きながら言う。


「……まあ、そういうことだ。どうする?」


私は膝の痛みをかばいながら立ち尽くし、

未完成のキャンバスと、二人の先生を見比べた。


逃げ場はない。

選ぶのは、私自身だ。


「制作には……たぶん支障ないです。描きます。」


私はそう伝えると、すぐに自分のイーゼルへ向かった。

荷物を置き、筆とパレットを並べる。

その動作だけで、頭の中の霧が少しずつ晴れていく。


スギヤマ先生の言葉は、生徒を気遣う“年の近いお兄さん”そのものだった。

一方でアンザイ先生の言葉は、

まるでこう問いかけているように聞こえた。


――これが本番の試験日や、試験中の出来事だったら、

 お前はどうする?


どちらも正しい。

どちらも、生徒のことを思っている。


なら、私がすべきことはただ一つだ。


「……無理はしない。でも、限界までは描きます。」


小さく呟き、私はキャンバスに向き直った。


終わってから、ゆっくり倒れればいい。

描き終えてから、いくらでも寝ればいい。


いまはただ、

――この一枚を描き切る。


それだけだ。



予備校に着いたとはいえ、遅れている事実は変わらない。


私はイーゼルの前に立つと、

すぐに貝殻をキャンバス越しに見つめた。


――この貝殻が、虫眼鏡とトレーシングペーパーと

 どう組み合わさるんだ?


――どう見せれば、“作品”になる?


考えるというより、手を動かしながら探るしかなかった。

貝殻の色を重ねても、どこか“ただ塗っただけ”に見えてしまう。

光のニュアンスも、あの独特の硬さも、まだ何ひとつ掴めていない。


「……このままじゃ、完成しない。」


焦りが胸の奥でくすぶる。

パレットの上で絵の具を混ぜる音だけが、やけに大きく響いた。


そのとき――ふと、指が止まった。


パレットの端に残っていた、真っ白なジェッソが目に飛び込んでくる。


通常は“下地”にしか使わない塗料。

絵の具を重ねる前のベース。

だからこそ、仕上げの途中で塗り込むなんて、

普通はしない。


でも――。


「……これだ。」


確信に近い予感が走った。


私はすぐに筆をジェッソに浸し、

乾きかけたキャンバスの貝殻の部分に

ためらいなく塗りつけていった。


筆先が厚みのある白を押し出し、

キャンバスの上に盛り上がりが生まれる。


貝殻特有の“硬さ”と“光の反射”。

あれは色よりも、まず“表面の質感”だ。


だったら――

描き込む前に“表面そのもの”を作るべきじゃないか?


そんな考えが、手の動きと同時に形を成し始めていた。


塗りながら、胸の奥でふっと熱が高まる。


――いける。


私はそう思えた。


次は、残った二つ――

虫眼鏡とトレーシングペーパーだ。


虫眼鏡は何ができる?

そもそも、虫眼鏡とは何を見る道具だ?


私は一度筆を止めて深呼吸し、自分に問い直した。


――虫眼鏡は、「見たいものを見るための道具」。

 あるいは、「見せたいものを強調するための道具」。


そう仮定した瞬間、

胸の奥に小さなスイッチが入った気がした。


私は貝殻を手に取り、

実際に虫眼鏡越しに覗いてみる。


ガラスの向こうで、

貝殻の模様がぐにゃりと歪んで見える。

光の反射も、色の層も、

肉眼では見えなかった表情を帯びていた。


――この“歪み”を描こう。


そう決めた。


さらにトレーシングペーパーをかざす。

外光が薄く滲み、紙の内側に柔らかい影が揺れる。


その瞬間、ひとつの構図が頭の中でカチッと噛み合った。


虫眼鏡に映る貝殻。

それを持つ手。

そして背景に溶けるように存在するトレーシングペーパーの光。


「……決まった。」


思わず、小さく呟いた。


あとは、ひたすら手を動かすだけだ。


私はすぐに席へ戻り、

パレットを握り直して筆を走らせた。


観察して描く。

また観察して描く。

少し離れて見て、違和感に気づいたらまた描く。


その繰り返しを、

時間の許す限りキャンバスへ叩き込んでいった。


気づけば、心の奥にあった不安も痛みも、

すべて筆の動きに溶けていた。


目の前の白い世界に、

ようやく“自分の答え”が輪郭を現し始めていた。



「制作終了〜!」


アトリエの奥から、聞き慣れた大きな声が響いた。

いつの間に教室に入ってきたのか、

オオワシ先生が腕を組んで立っている。


「生徒は制作をやめて、作品を並べてー!」


その声に、アトリエのあちこちで椅子が動く音が重なった。

筆を置いた生徒たちは、それぞれのキャンバスを大事そうに抱えて前へと運び始める。


――なんとか、間に合った。


私は大きく息を吐き、目の前のF20号のキャンバスを見つめた。


出来がどうであれ、胸の奥にこみ上げる達成感だけは確かだった。

慣れない20号の画面。

痛む膝。

最悪に近いコンディション。


それでも――描き上げた。


油絵の具の匂いと、乾ききらない絵肌。

そこに残る自分の筆跡を指先でなぞりながら、私はふっと笑ってしまった。


講評がどうなるかなんて、正直どうでもよかった。

今はただ――

この“描き切った”という事実だけで十分だった。


キャンバスを抱えて立ち上がると、体の節々がきしむ。

それでも足取りは、不思議と軽かった。



壁一面に作品が並べられていく。

F20号がずらりと縦に、右上から順番に掛けられ、

私のキャンバスもその端に加えられた。


オオワシ先生、スギヤマ先生、アンザイ先生の三人が前に立ち、

作品の前を少しずつ移動していく。


「これは……モチーフの扱いが面白いね」

「テーマへの答え方としてはどう考えた?」

「ここ、もう少し整理できるかも」


そんな声がアトリエの壁に反響し、

描いた生徒が前に呼ばれて質問されていく。


おそらくその中には、

マユズミさんやカワムラさんの作品もあったのだろう。

けれど――


その時の私は、

誰が何を言われているのか、ほとんど耳に入ってこなかった。


ただ、頭の奥がじんじんと熱く、

まぶたが重くて仕方がない。


(……寝たい)


講評の声は遠くなり、

先生たちの足音がゆっくりと響いては消えていく。


目を閉じたら、そのまま寝息を立ててしまいそうだった。


私は立ったまま、

夢と現実のあいだをふわふわ漂っているような感覚に陥っていた。



「……で、これは誰が描いた?」


オオワシ先生の低い声が、どこか遠くから聞こえてきた。


その一言で、私ははっと意識を引き戻された。

ぼんやりしていた視界がゆっくりと焦点を取り戻し、

気づけば先生たちがちょうど私の絵の前に立っている。


オオワシ先生と目が合った。


「講評中に寝るな。気持ちは分かるが、失礼だぞ。」


痛烈な一言だったが、反論の余地はなかった。

私は深く頭を下げる。


そこへ、スギヤマ先生が横から口を開いた。


「先生、彼は今日ここに来る途中で自転車とぶつかってまして。

 それでも、遅れてでも制作を優先して来たんです。

 今日は、その……いろいろありまして。」


オオワシ先生は「はぁ!?」という顔をしたあと、

こめかみを押さえて苦笑した。


「……講評に入る前の情報量が多すぎるな。

 で、これ。なんで一人だけF20号なんだ。」


私は息を整え、ゆっくりと答えた。


「アンザイ先生に、大きいキャンバスで描いてみるといいって言われて……。

 それで、モチーフの貝殻はジェッソを使って質感を出しました。」


オオワシ先生は作品に顔を寄せ、

白い厚みのある筆跡をじっと眺める。


「これ、ジェッソか。なるほど……面白い使い方だな。」


するとスギヤマ先生が、

少し照れくさそうに、しかし確かな声で言った。


「正直にいえば……デッサンはまだ甘い。

 手の形も、完璧とは言えない。

 構図の整理も、もっとできる余地がある。」


一瞬、胸が冷えた。


だが次の言葉が、その感覚をすべて塗り替えた。


「――でもね。これは、本当に良い絵だと思うよ。」


その声は、今まで聞いたどんな講評よりも強かった。


「君が今まで描いてきた絵とは明らかに違う。

 理由を言葉にするのは難しいけど……“命”が入っている。

 迷いながらも、ここまで持ってきた気迫が見える。」


オオワシ先生も、「まあ、確かに」と腕を組み直した。


「この状況でここまで描く根性は、嫌いじゃないな。」


私はその言葉を聞きながら、

胸の奥で何かが静かに溶けていくのを感じた。


痛かった膝のことも、

倒れそうだった眠気も、

全部どうでもよくなっていた。


――あぁ。

この絵を描きに来てよかった。


心からそう思えた。



「確かに……良い絵だね。」


静かにそう言ったのは、アンザイ先生だった。


けれどその声は、

先ほどまでの柔らかい口調ではなかった。


「――でも。」


その一言が、アトリエの空気を切り替えた。


「次にまた、今回のような絵を君は描ける?」


オオワシ先生もスギヤマ先生も、

思わず先生の方を向いた。

その声には、他の二人の講評をかき消すほどの“重さ”があった。


私は何も言えずに立ち尽くした。


アンザイ先生は、作品の前に一歩近づく。

白いジェッソの厚みが光を受けて、微かに浮かび上がっていた。


「この絵は――今の君の“最大限”だと思う。」


いつもの優しさの奥に、

確かな分析と冷静な目があった。


「でもね。それは“偶然”が重なった絵だ。」


先生は貝殻の部分を指さした。


「ジェッソの重ね方も、筆の勢いも……

 本番では今回と同じ条件が揃うとは限らない。」


少しの沈黙。


「なら――その“最大限”を、本番ではどうする?」


声が低く、はっきりと響く。


「どう“見せる”?

 どう“生かす”?

 どう“再現する”?」


胸の奥をぐっと掴まれるような言葉だった。


怒っているわけでも、失望しているわけでもない。


ただ、本気だった。


本気で“予備校生としての私”に向き合ってくれている。


「……今日のこれは、言ってしまえば“奇跡”に近い。

 けれど、試験は奇跡を待つ場所じゃない。

 積み上げたものを“再現する場所”なんだ。」


初めてだった。


アンザイ先生が、

私の“絵そのもの”に対して、

ここまで真剣に踏み込んでくれたのは。


胸の奥が、熱くなった。

怒られているわけじゃないのに、

なぜか涙がにじみそうだった。


それでも、私は必死に頷く。


「……はい。」


アンザイ先生は、ようやく表情を緩めた。


「今日の絵は良かったよ。

 だからこそ、同じだけの“良さ”を次も描けるように――積み上げていこう。」


オオワシ先生もスギヤマ先生も、静かに頷いていた。


私はキャンバスを見つめる。


偶然では終わらせない。

次は、必然で描く。


今日、ようやくそのスタートラインに立てた気がした。



「……なんにせよ、スランプ脱出だ。」


アンザイ先生が静かに言った。


その声は先ほどまでの厳しさとは少し違って、

どこか柔らかく、あたたかい響きを持っていた。


次の瞬間。


「おめでとう。」


ぱちぱち、と。

アンザイ先生が、ほんの少し照れたように拍手をしてくれた。


私は完全に不意を突かれ、思わずたじろいだ。


あのアンザイ先生が、拍手――?

いつも淡々としている人が?


胸の奥がふっと熱くなる。


そんな私を見て、先生はすこしだけ笑った。


「……次は車に轢かれると、もっと良い絵が描けるかもしれないね。」


あまりにも淡々としたその一言に、

オオワシ先生とスギヤマ先生が同時に「いやいやいや!」と声を上げた。


「やめてくださいよ先生、それ本気にする子いたらどうするんですか。」

「せめて“寝て描け”くらいにしときなさい。」


まるで母親と長男にツッコまれる、

少し抜けたおじいちゃん――

いつもの三人の関係に戻っていく。


私はというと、

思わず苦笑いを浮かべるしかなかった。


「……いや、もう十分です。」


身体のどこかがまだ痛む気がするのに、

それでも心は軽くなっていた。


どっと疲れが押し寄せた瞬間、

「早く帰って仮眠したい」という気持ちが全身を支配する。


講評のざわめきの中、

私は自分の絵を見つめながら、そっと息を吐いた。


――本当に今日は、よく頑張った。

https://kakuyomu.jp/users/nanah/news/822139839460105187

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