第20話 夏期講習―手渡し課題②


私は売店に足を運び、F20号のキャンバスを一枚買ってアトリエに戻った。

イーゼルにキャンバスを乗せた瞬間、その大きさを改めて思い知らされる。


いつも描いているF15号のキャンバスや木炭紙より、ひと回りもふた回りも大きい。

その白い面を前にして、私は少したじろいだ。


手渡し課題という内容に対する不安もあるが、

まずはこのサイズに見合う“絵”を描かなければならない。

サイズが大きい分、描くスペースも増えるし、作業量も当然増える。


――ああ、なるほど。


アンザイ先生は、きっとこれも含めてのトレーニングだと言ったのだろう。

私はそう理解した。


私は手渡されたモチーフ――虫眼鏡、貝殻、トレーシングペーパー――で、何ができるのかを考えてみた。


虫眼鏡で貝殻を覗いてみたり、

トレーシングペーパーの上に虫眼鏡で光を当ててみたり。

手渡されたもの同士を組み合わせながら、

「この素材たちは、どんな表情を持っているのか?」を確かめていく。


貝殻の表面は思っていたよりも滑らかで、

光を当てる角度によって色が柔らかく変化する。

虫眼鏡のガラスはその光を集め、トレーシングペーパーの上に小さな円を描いた。

そこには、目では見えなかった模様や陰のゆらぎが生まれている。


――この中に、何かの「きっかけ」がある気がした。


私はスケッチブックを開き、思いつくままに線を引いていった。

モチーフの形、重なり、光の反射――。

それらを観察しながら、ノートの端にメモを取り、

いくつかのエスキース(下絵のような構想図)を描き加えていく。


このキャンバスが、どんな絵になるのか。

その輪郭が、少しずつ頭の中に形を取り始めていた。


あれこれ考えているうちに、いつの間にか私の周りには多くの生徒が集まり、

それぞれが“手渡し課題”に対する自分なりの答えを探しながら、

思い思いに試行錯誤を繰り返していた。


キャンバスに向かう音、筆を洗う音、

パレットナイフがガラスの上をこする音が、アトリエに静かに響く。

その時間の流れの中で、私はふと決めた。


――まず、この課題の中で“主役”になるものを選ぼう。


そう思い、私は迷わず貝殻を手に取った。

手のひらにすっぽりと収まる、小さな巻貝。

光にかざすと、内側に薄く虹色が走り、

外側の白い層には複雑に入り混じった色が見えた。


「これを描こう。」


まだ“どう課題に答えるか”の形は見えていなかった。

けれどそのときの私は、ただこの貝を描きたい――

そう思ったのだった。


パレットの上で油絵の具を混ぜ、勢いのまま筆を動かした。

下描きもそこそこに、ガシガシと色を置いていく。

白、黄、灰、そしてわずかな群青。

描くうちに、指先の緊張が少しずつほぐれていった。


やがて、一通り貝殻の下地が描けた頃。

筆を置き、私は深呼吸をした。

絵の具の乾きを待つ間、少し外の空気を吸おうと思い、

アトリエの外にあるベンチへ腰を下ろした。


外はまだ昼前の光で、蝉の声が遠くから聞こえる。

私はペットボトルの水を一口飲み、

ぼんやりとこれからの構成を考えていた。


そのとき――隣に、人の気配を感じた。


顔を向けると、ピンク色のツナギを着た女生徒がベンチの端に座っていた。

マユズミさんだ。

膝の上にスケッチブックを広げ、鉛筆を走らせている。

視線は真っ直ぐ紙の上、手元の動きに一切の迷いがない。


思わず、私は声をかけてしまった。


「……マユズミさん、たくさんエスキース描くんだね。」


彼女は一瞬手を止め、こちらを見て小さく笑った。



しまった。

――口に出してしまった。


言葉が出た瞬間、私は強烈に後悔した。

一回り以上も年の離れた、しかも女の子に突然声をかけてしまったのだ。

このご時世、どう転ぶかわからない。

もし不快にさせたら、いや、恐怖感を与えてしまったら……

課題どころの話ではない。


心の中でそんな焦りが渦を巻く。

だが、その不安を打ち消すように――

マユズミさんは顔を上げ、ふわりと笑った。


「え? ああ、これですか? うん、いっぱい描いてるんです。

 構成がまだ決まらなくて……でも、こうして手を動かしてると見えてくる気がして。」


その声は思っていたよりも明るく、自然だった。

私はほっと胸を撫で下ろす。


彼女はそのまま、今回の課題に対するエスキースの構想を楽しそうに話してくれた。

トレーシングペーパーを重ねた時の光の感じ、

虫眼鏡を通して見た貝殻の歪み――

一枚一枚のスケッチには、彼女なりの「発見」があった。


それだけではない。

マユズミさんは、前回のスクラップブックのことまで質問してきた。


「前の職場って、どんな雰囲気だったんですか?」

「気になった発表とか、ありました?」


その勢いに、私は少し押されながらも、一つひとつ丁寧に答えていった。

話しているうちに、いつの間にかアトリエで感じていた緊張がほどけていく。

年齢も立場も関係なく、ただ“描くこと”で繋がる空気がそこにあった。


その時――


「ねぇ、私も混ぜてよ。」


声の方を見ると、カワムラさんが私たちの前に立っていた。

手にはスケッチブックを抱えて、いたずらっぽい笑みを浮かべている。

私が自己紹介をしようと口を開きかけた瞬間、

それよりも早く、カワムラさんの方が声を出した。


「お二人のこと、存じてますよ。

 あのスクラップブックの発表の時、とても印象に残っていて。

 いつかお話しできたらいいなって思ってたんです。」


意外だった。

いや――それ以上に、不思議な感情が胸に広がった。


自分が見ていたように、

自分もまた“見られていた”ということ。


マユズミさんやカワムラさんのスクラップブックを

私は観客のひとりとして眺めていた。

けれど、同じように私の作ったページも

彼女たちの目に映っていたのだ。


上手く言葉にできない。

けれど、話をしなくても、

どこかで会話をしていたような――そんな感覚だった。


作品を通して、自分の声が

誰かの中に、確かに届いていた気がした。


それから、私たち三人はしばらくのあいだベンチに腰かけて話した。

課題のこと、これまでの制作のこと、

そして――どうしてこの予備校に通おうと思ったのか。


マユズミさんは、通信制の高校に通いながら予備校に通っているという。

「その方が、普段から絵に使える時間が多いんです」と笑っていた。

自分のペースで学びながら、描くことを中心にした生活。

その話を聞いて、私は心の底から感心した。


今の高校生は、本当にいろんな選択肢の中からこの道を選んでいる。

「近くだから」「とりあえず就職しよう」といった、

私の時代の“流れ”とはまるで違う。

彼女たちは“描きたい”という意志でここに立っているのだ。


そんな話をしているうちに、アトリエの方から

昼休み終了を告げるチャイムが微かに聞こえた。


「もうすぐ昼休みも終わりますね。」

カワムラさんがそう言うと、

マユズミさんも「戻らなきゃ」とスケッチブックを閉じた。


私たちは軽く会釈を交わし、それぞれの制作へと戻っていく。


――改めて感じた。


ここには、いろんな人が、それぞれの思いを込めて作品を作っている。

年齢も背景も違うけれど、

全員が“描く”という一点で真剣に向き合っている。


だからこそ、この中では負けたくない。

誰かと競うというより、

自分が納得できるような、そんな作品を――まずは一枚、描いてみたい。


そんな思いが、ゆっくりと胸の奥で形になり始めていた。



午後の作業時間も、気づけばあっという間に過ぎ去っていた。

アトリエの時計が夕方を告げるころ、

生徒たちはそれぞれの絵を前に、名残惜しそうに筆を止めていく。


慣れないサイズのキャンバス――F20号。

私の絵はまだ、半分にも満たない。

それでも、今はこれ以上描けそうにない。

後ろ髪を引かれる思いで、私は筆を洗い、パレットを片付けた。


片づけを終えるころには、

広いアトリエはしんと静まりかえっていた。

私は教室をあとにし、自宅へと向かった。



夜の勤務中も、頭の中はずっと絵のことばかりだった。

仕事の手を動かしながら、意識の半分はキャンバスの上をさまよっている。


――残りのモチーフ、虫眼鏡とトレーシングペーパーをどう使う?

――どんな構成なら貝殻と調和する?

――どこまで描けば、作品として“完成”と言えるのか?


そんな問いが、絶えず頭の中で反芻されていた。


仕事を終えると同時に、

私は上着を羽織り、足早に職場を出た。


「早く描きたい。」


その思いだけが、体を突き動かしていた。


身支度を整え、自宅を出る。

生暖かい風が頬をかすめる。

太陽の下、足音が急ぐたびに心臓の鼓動も速くなる。


もうすぐ予備校だ――そう思ったその瞬間。


――衝撃。


視界が一瞬、白く跳ねた。


「っ……!」


何かがぶつかる音と、倒れる金属音。

身体が地面に叩きつけられる感覚。

痛みよりも、理解が追いつかなかった。


自転車――。

顔を上げると、若い男がスマートフォンを片手に立ち尽くしていた。

画面の光が、彼の顔を青白く照らしている。


「す、すみません! 大丈夫ですか!?」


耳に届く声が遠く感じた。

腕と膝に鈍い痛み。

通りの端で転がるバッグの中から、

スケッチブックがこぼれ落ちていた。


――よりによって、こんな時に。


私は手を伸ばしながら、

頭の中でただひとつのことを思っていた。


描きかけのあの貝殻。

あの白いキャンバスに――


まだ、戻れていないのに。


https://kakuyomu.jp/users/nanah/news/822139839269174658

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