第12話 鴨川べり

 妻を亡くして、四年が経った。

 娘には、年に何度か連絡を取った。電話をかけても滅多に取らないし、メッセージもほとんど返信が無かったが、それでもたまには反応があった。私が送るのは、年に一二度心に浮かんだ時の、「元気にしているか。」という言葉か、娘宛てに届いた郵便物の連絡くらいだった。返信も返答も、常に最短で、後は沈黙が続いた。

 まぁ、生きてりゃいいさ。

 その度に私は、そう呟いた。時には、そのままウイスキーの瓶を取り出しに戸棚に向かった。


 卒業生から、連絡があった。

 今も勤めるこの学校に転勤した時、すぐに一年生の担任をした。その時に私のクラスにいた子だった。彼は、三年生の時にも、再び担任をした。

 もともと特に目立つ生徒ではなかったが、純朴な子で、授業中にはいつも、顔を上げて教師の顔を見つめた。私は、何度か、授業中にふと視線を流した時に、彼とまともに目が合ってしまい、照れ臭くなったことがあった。普通、そんな風になりそうになると、生徒はふいっと別のところに視線をずらすのだ。それが、彼は、射止めるように私の視線を受け留めた。それはどの授業でもそうであるようで、何度か教師間でも話題になった。

「あれ、やばいですよ。僕なんか、あの目で見られてると、自分の授業の駄目なところを見透かされてるみたいで、焦っちゃいます。」

と、若い物理の教師は、そんなことを言った。

 それで、私は個人面談の時に聞いてみたことがある。

「仲谷は、しかし、授業中によく先生の方を見ているよね。」

 彼は照れ臭そうに笑った。

「中学の時からよく言われます。そんなにこっちを見るなよって言われたこともあります。」

 私もその先生の気持ち、よくわかるよ、とは、言わないでおいた。

「でも、なんか、見ちゃうんです。黒板より、話している先生を見ていると、ぐっと集中できるんですよね。」

 そういう素直な話しぶりが、とても気持ちの良い生徒だった。二年生の後半から、ぐいぐいと成績を伸ばし、結局、望んだ大学に進んだ。

 三年生で二度目に担任をした時に、最初の面談で、

「もう一回、お世話になります。」

と、にっこりと笑い、お辞儀をした。

 何でもないことだが、向き合っている時に心洗われるような気持ちになれる生徒が一人二人クラスにいると、担任もほっとするものだ。面談でそんな風に自然にこちらの懐に飛び込んでくる生徒は、なかなかいない。

 仲谷は、卒業後も、年に一度くらい、長い休みの時に学校に顔を出して話をした。だいたい三十分か一時間くらい。

「他にあいさつしておきたい先生は無いのか。大丈夫か。」

と気を回すと、

「そっちは先に回って来ましたから。それに、先生と話すのがメインの目的ですから。」

と、さらっと答えた。

 教え子にそう言われて、嬉しくない教師は無い。そして、仲谷の話す大学生活は喜びに満ちていて、聞いている私も気持ちよかった。

 それでも、卒業して四年目からは顔を覗かせることも無くなった。それが順当なところだ。若者の世界は常に拡大する。懐かしさに逃げ込むような気持ちにはならない。皆、そうして寄り付かなくなる。

 あいつ、最近来なくなったな。

 そう思った時、二度目に、今度こそ本当に、十代からの巣立ちを見送った気持ちになる。そんな寂しさを味わうことは、教師にはよくある。

 その仲谷からメッセージが届いた。卒業してから五年。就職して二年目の五月だった。

「次の週末、京都に戻るので、よろしければ、久しぶりに話しに伺ってもいいですか。」

 いいよ、と簡潔に答えた。気候もいいから、四条辺り、鴨川近くに、最近気に入っている良い感じのカフェがあるから、そこでどうだい。

「いいですね。楽しみにしています。」

 私には、変わらぬ仲谷の笑顔が見えるようで、会って話すその日を待ち遠しく感じた。

 週末と言っても、誰に会うでもなく、どこに行くでもない生活が続いていた。運動部の顧問として、週末も毎回のように潰れてしまう生活からも、数年前から解放されていた。今は補助の顧問として、大きな大会がある時に駆り出される程度になっている。

 もっぱら、天気の良い日は京都の街を少し歩き、あまり混み合わないカフェで一二時間本を読んで過ごすことが多くなっていた。そして時には、ビルの三階にある小さな映画館で、目立たない映画を見て帰ったりしていた。

 約束の日、待ち合わせた四条大橋のたもとに、仲谷は少し早めにやって来た。

「お久しぶりです。お待たせしてすいません。」

 相変わらず、いい笑顔で笑った。

「いや、まだ時間前だよ。僕も今来た。」

 彼を伴って、十分ほど歩いた。案内が無いと分かりにくい、幾度か路地を曲がった所に、その店はある。

「へぇ、お洒落なお店ですよね。とても落ち着いてて。」

 店内を見回して、仲谷は楽し気にそう言った。いつも、何もかも嬉しそうに話す。こいつは四十になっても、こんな顔で笑っているのではないかと思った。

「で、どうしているの、今。」

 飲み物を注文してから、そう尋ねた。

「どこから話しましょうか。」

「どこからでも。」

「え。じゃぁ、就職先のことから話しますね。」

 彼が口にした会社は、誰もが知っている大手の電機メーカーだった。

「ほほう。そこで何をしているの。」

「営業です。あ、でも、ただの営業だけじゃなくて、戦略的な企画から全部担当するんですけれど。」

「どういうこと。」

 一年目は、研修期間みたいなもので二か月おきに違う部署に回されていた。そして、この春に、本格的に今の部署に配属された。その部署は、主に健康機器をアジア向けに売り込もうとするところで、スタッフも、二十代の若い人が多い。

「アジア向けで、健康機器。」

「はい。今、アジアの発展の勢いは凄くって、富裕層もとても多くなっているんです。それに伴って、健康器具とか、エステ関連の商品が、これからは一気に伸びて行くだろうと思って、会社も力を入れ始めているんです。」

「あの会社、エステとかもやっているの。」

「やってるんです。」

少し顔を突き出して、自慢気に、また笑った。

「僕も驚いたんですけれど、相当いろんな事やってるんですよ、うちの会社。」

 新しいセンスをどんどん取り込もうということで、若いスタッフが集められているから、とても活気がある。一つ上の先輩は、まだ入社三年目なのに、もう会社が力を入れている新商品の一つを任されていて、自分も一二年先にはそのくらいの責任を与えられるだろうと言われている。

「そんなに若い子を、抜擢してくれるの。」

「してくれるんです。びっくりしました。」

 部署のチーフは四十歳くらいの女性で、前年の研修時代から自分に目をかけてくれていたらしい。それで、敢えて自分をこの部署に引っ張って来てくれた。

「女の人だけど、すっごく逞しくて。あの、体じゃなくて、ハートがですけど。」

仲谷はよく話した。聞いて欲しいことがたくさんあって困ってしまう。そんな感じだった。

昔、俺も、こんなだったっけ。

「わかってるよ。」

 ふふ。

そうして話している彼を見ているのが、楽しかった。

「かっこいいんです。その、仕事の仕方が。僕、憧れてるんですけど、その人が、仲谷を一人前にするのが、今年の私の課題、って言ってくれるんです。」

「へぇ、凄いなぁ。それにかっこいいね、そのセリフ。」

「でしょう?僕も、絶対に期待に応えて、来年は先輩みたいに商品を任せてもらえるくらいになりたいんです。褒められたいんですよね、っていうか、喜ばせたいんですよね、その人を。そんなに僕を認めてくれてるんで。」

「任せるってさ、どんなことを任されるの。」

「全部です。パンフレットに使う写真のカメラマンは会社の契約の人が何人かいるんですけれど、その中の誰を選ぶかとか、モデルは誰を選ぶかとか、そんなことまで。もちろん、現地に行って向こうの会社の人たちを相手にプレゼンもしますし、その資料も作ります。」

「凄いなぁ。それ、全部任されるの。」

「はい。他にスタッフもいますし、スタッフの中にはもうそういう一つのプロジェクトを任された経験のある人もいて、色々助けてくれるんですけれど、あくまでも補佐に徹していて、相手が年下でも、キャップに選ばれた人の判断に委ねるんです。僕から見ても、ほんとにすごいと思います。若い社員を育てようっていう熱気みたいのがあって。その代わり、その与えられたチャンスを活かしそこなったら、どうなるんだろうっていう恐怖もあるんですけれど。」

 話は止まることが無かった。会社のこと、上司のこと、同僚のこと、東京での生活のこと。私は、本当に久しぶりに、人と、こんなに長く、こんなに楽しく話したと思った。

 気が付くと二時間ほどが経っていた。

 けれども、コーヒーをもう一杯、という気分ではなかった。

「少し歩かないか。時間がまだよかったら。天気もいいし。仲谷が構わなかったら。」

 そう誘ってみた。

「あ、いいですね。先生こそ、いいんですか。僕一人でずっとしゃべってるみたいで。」

「それを聞いてるのが楽しいからいいよ。もう少し話そう。」

 店を出て、大橋を渡り、そこから鴨川沿いの整備された遊歩道に降りた。

 そこから先は、話題が遡って行った。今付き合っている彼女の話。以前に聞いていた前の彼女との話。大学時代のサークルの話。今も付き合いが続くユニークな友人たちの話。

 希望だけを感じている二十三歳の、まだ何の壁にもぶつからない若者が、生き生きと話す話は、吹き過ぎる五月の風のように気持ちよかった。

 いや、仲谷も、いくつかの壁にはぶつかりもして来たのだろうけれど、そんなものを跳ね飛ばしてしまうような勢いが、彼にはあった。

「仲谷は、挫折したことって、あるのかい。今までに。」

 率直に訊いてみた。

「ちっちゃいのはいくつかありましたけれど、本格的なのは、まだ無いです。」

 だから、怖いんですよね、と、仲谷は言った。

「絶対に、近い将来に、でっかいのにぶち当たる気がするんですよね、あんな会社にいたら。全部順調になんか、行くわけ無いですもん。」

 でも、それもちょっと楽しみなような気もします。

 歩きながら、付け足しに呟くように、仲谷はそう言った。私たちは二人、相当ゆっくりと歩を進めていた。親子ほど年が離れながら、仲の良い友人と散歩する思いだった。

「一度、面談の時に、なんであんなにじっと先生の方を見て授業受けるんだって、言われたことありましたよね。」

 不意に、仲谷がそう言った。

「そんな言い方はしなかったと思うけど。」

 私は、仲谷の施した脚色に、少し笑った。

「確かにあったな、そんなことが。」

「中学からよく言われてました。」

「そう言ってたね、あの時も。」

「僕、面白い授業は、先生の方をついじっと見てしまうんです。」

「その方が集中出来るからって、そう言ってたよね。確か。」

「まぁ、それもそうなんですけど。ほんとは、それが楽しかったからなんです。」

「楽しかった?」

「面白い授業をしている時の先生の表情って、すっごく生き生きしてるんですよ。きらきらしてるっていうか。なんか、それを見てるのが好きで、ついついじっと見ちゃってたんです。」

「へぇ。」

「でも、まさか、高校生が、楽しそうに授業している先生の顔がきらきらしてるから、なんて、本人を前にして言えないですもんね。そんな生意気な。」

「ふふ。遠慮してたんだ。」

「そうですね。一応、高校生でしたんで。あんまり偉そうかなって。」

 ははは。

 ふふふ。

「僕、先生の授業、好きでした。」

「ありがとう。」

「特に、たまに教科書にないことを話してくれたじゃないですか。あれ、特に好きでした。」

「文学史とか。」

「そうですね。朔太郎と室生犀星の出会いの話とか。」

「よく覚えてるね。」

「面白かったですから。でも、一番気に入ってるのは、あれです。あの、心理学者の話と、さよならの話。」

「須賀敦子、だね。」

「そうです。僕、大学に入ってから、結構読みました。」

「へぇ、偉いなぁ。で、どうだった。」

「良かったですね、やっぱり。」

 こんな風に、教え子と本の話が出来るのは、国語の教師としては、とても嬉しい。

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