第10話 復帰

 私の職場復帰は、思いの外すんなりと、問題なく果たすことが出来た。

 新年度の初めは、課題考査に、役員決め、新入生歓迎会、身体計測、生徒総会と、行事やらクラスでの決めごと、各種書類記入と、主に担任が切り盛りする時間が多い。担任を外れ、授業もその学年を意図的に外して入った私は、時間に追われる担任教師たちの横で、比較的のんびりと一年の初めを動き出せた。そして、たまに出かける教室にも、見知った生徒はいないのだった。

 単なる授業担当者は、生徒一人一人の問題行動に振り回されることも無い。事情聴取もしなくてよいし、家庭訪問もしなくていい。横柄な態度で嘘をつき続ける生徒を、思い切りたしなめることも要らないし、電話口で保護者に罵られ続けることも無い。六年連続の担任生活、一年休んだだけで、また担任。それにいかに疲弊していたのかを、私はそうして改めて感じた。

「限界だったんだな。」

と呟くと、自分の挫折のすべてが、素直に許せるような気がした。周囲の同僚たちも、決して私を腫れ物に触るようには扱わなかったし、蔑む目も感じなかった。大変でしたね、回復されてほんとによかったです、しばらく少し気楽にしていて下さい、自分たちがやりますから。そんな言葉を、年上、同年配、年下の者にまで、たくさんかけられた。みんな、明日は我が身と感じているのだと思った。立場が逆であっても、私もきっとそんな風に思うに違いない。

 そして、一年後、この学校で八年を過ごして、私は四つ目の学校に転勤した。

 それから八年間、私も妻も勤務校が変わることは無かった。

 娘も高校生になると、何もかも自分で進めて、あまり親が心配することもなくなった。部活もバドミントン部に入って、楽し気に三年間やり続けた。きっかけは、初心者が多くて自分でもやれそうだったからという程度のものだったのに、いい加減な動機で始めたわりには、随分と熱心に活動した。ごくたまに妻と共に試合の様子を見に行くと、競技は私や妻の思うよりもずっとハードなものだったが、心配した病気の影響もまったく無く、逆に高三の冬に、投薬ももうやめましょうと、医師から告げられた。

 子供の自立度が増すと、時間の立つのが早かった。私も妻も、この八年間はとても落ち着いた学校での勤務となったので、対生徒や保護者との関わりで精神的に疲弊することはほとんどなかった。妻の困った同僚との関わりも、三年経ってそれぞれが別の学年を担当することになると、まったく無くなり、妻は、「もう、天国みたい。」と笑った。

「いやぁ、あの時はほんとに地獄だった。ほんっとに。」

 そう言いながら、まだ同僚に振り回されるくらいのことなら大したことではなかったな、過ぎてしまった事柄の重みはやけに軽く感じるものなんだななどと、不意に思い立って出かけたレストランの食卓で、妻も私も笑いながら話したりもした。思えば、教師になって、二十年近くが経っていた。

 順調な日々は、あっという間に過ぎて行き、成長した娘は大学受験でも、高校の時のようには心揺れず、ほとんど勝手に志望校を決め、勝手に合格して、家を出て行った。

 唯一、上京の許しを得る時のみ、妻を通じて私の許可を求めた。

 八王子で探した住まいも、娘は妻と二人で二日ほど歩き回って決めた。三日目は、二人して久しぶりにディズニーリゾートに出かけ、

「楽しかったぁ。」

と、妻はその笑顔をそのままうちに持ち帰った。

帰宅すると妻は、お土産に買って帰った菓子やら役にも立たない雑貨などを食卓に並べ、私に説明して見せた。四十代も半ばを過ぎているのに、まるっきし子供のようだった。けれども、そのはしゃぐ姿の向こうに、家を出た娘とどこかに出かけてそんな風に過ごすことももう無くなるのかもしれないという寂しさが見え隠れしているのが、私にもわかった。

 子供というのは、何で大きくなってしまうんだろう。

 私たちは、いろいろあった十数年の果てに、また二人きりになった。

 それでも、ランドだかシーだかの、何とか言うアトラクションに出て来る、シリキュウトゥンドゥとかいう得体のしれないキャラクターのバッジを胸に着け、

「これ、光るんだよ、これ。ほら。」

と、わざわざ壁まで歩いて部屋の灯りのスイッチを消し、バッジの横のボタンを押して暗闇でちかちかと光らせ、

「ね、いいでしょう。」

と、見せびらかして踊っている妻は、二十年前と何も変わらなかった。

 私の前の妻、妻の前の私は、思えばずっといつも、あの頃のままだなと、それを見ながら、私はそう思った。この人と一緒になれて幸せだったなと、私はふと、妻に感謝したい気持ちになった。口に出しては、言わなかったけれど。


 四つ目の学校に転勤した時、私は四六歳になっていた。そして、この学校で初めて、自分の思うままに教えられる喜びを感じた。私は国語が好きだった。本が好きだった。それについて語ることはとても楽しいことだった。けれども、これまでは、生徒を相手に話す時、私は自分の感じていること、思っていることをすべて話すことは出来なかった。そうすると、よくわからなかった、話が難し過ぎたと学級日誌の授業感想の欄によく記された。生徒の受け留めやすい形で、生徒の理解できる範囲で話す。それが、経験によって培われる教師としての私の「教える力」だった。

 けれども、今回の学校では、そのような配慮をする必要が無かった。いくらか抽象的な話、個人的な印象、そんなものをそのまま口にしても、私が感じた思いをそのまま理解してくれる生徒がたくさんいた。私は、国語教師として生徒に教えることのできることがたくさんあったが、それとは離れて自由に自分の感じたことを話す時、教師と生徒としてではなく、まるでカフェで友人と話すような気分で話していた。それが、詰まらない長話として生徒の眠りを誘うばかりではなく、教室のあちこちからこちらに向けられる熱心に聞く視線で迎えられた時には、ついつい調子に乗って、そういえばこんな話もあってさと、いつまでも好き勝手に話していたりした。

 思えば、私が中学ではなく高校の教師を選んだのは、そんな風に同じ視線で語り合える関係を心地よく感じたからだった。私が高校生の時には、「高校は予備校とは違うのだ。」という言葉をよく聞いた。「受験のための知識だけを手に入れたければ、予備校に通うがいい。」と、皆がよく叱られた。考査時に質問を受けて回る時に、オーケストラを相手にするように、ずっと指揮棒を振るしぐさをしながら廊下を歩いて来る先生がいた。そら、ここはティンパニ、と、時折演奏者を名指しするように人差し指を伸ばして指し示したりする、そのしぐさが楽しくて、夏場は開け放しの廊下側の窓の向こうを通り過ぎる、その先生の登場を待ちわびながら試験を受けていたこともある。教師になる前には魚市場で魚を売っていたという体育の先生は、「セックスはな、快楽のためにだけするんじゃないんや。子孫存続の本能から子作りのためにするだけでもない。セックスはな、愛なんや。お前らにはわかるかな。まぁ、それがわかるほどやらんでもいいけどな、まだ。」と、照れもせずに話してくれる人だった。みんなとても個性的だった。高校ではそれが許される。高校ではそれが愛される。先生たちがそれぞれ個性的で、いろんな魅力を裸で私たちの前に晒してくれている。そんな雰囲気が好きだった。

 しかし、今時の高校は、どんな予備校よりも優れた予備校であろうとする。受験生に向けた学校説明会では、そればかりを自慢する。わたしはそれをとても悔しく感じる。だから、期末考査が終了した後の長期休み前の授業では、例えば、島崎藤村の作品のどこが素晴らしいのか、彼の人生がどんなに波乱に満ちたものだったのかを、滔滔と話したりする。一時間では終わらず、「いかん、終わらんかった。続きは次回に。」などと講談師のように次回予告を宣言して去ることもある。

「もっといろいろ知りたい人は、大学に行って、自分で勉強して下さい。」

 そう言ってその学期の授業を締めくくったりもする。

今勤務する学校には、そんなことを受け入れてくれる生徒たちがいる。私のそんなわがままな授業も、これまでの勤務校の生徒たちでは、始まるとすぐに机に突っ伏して眠り始める者が大半だっが、ここでは違う。

 聞いてくれる生徒のいる場所では、教師は多くのことを話したくなる。素敵な感覚だった。二五年も働いたのだから、こんなご褒美を与えられてもいいよな。そんなことを思いながら、私はそんな日々に感謝する思いでいた。

 妻も、新たな学校で最初にクラスを受け持った学年の卒業を見送ると、いったん担任を離れ、進路指導課に配属された。仕事はどの部署でも忙しい学校だが、それでもクラスの生徒に目を向け続けなくてはならない責任から解放されると、随分くつろいでいられるようだった。ただ、通勤に時間がかかり、鉄道を使うには最寄りの駅から自宅が遠いので車で通勤するしかなく、運転が苦手な妻は、それが唯一辛いとこぼしていた。

 実際、たまに妻の運転する自動車の助手席に座ると、私も怖かった。何故か、不必要に車が左右にぶれて走るのだ。それで、

「ちょっと危ないよ。」

と、思わず横で声を上げてしまうこともよくあった。

「これ、通勤、気を付けないと。」

と、つい言ってしまうが、そもそも運転がへたくそなのだから、言っても仕方がないのだった。

「わかってる。私も怖い。」

と、妻も素直に答えた。

 在勤年数も十年を超えていて、毎年、異動の内示の時期には転勤に備えていたが、どういうわけか毎年肩透かしが続いていた。妻の言葉を聞いて改めて心配になった私は、早くもう少し近場の学校に変われたらいいがと願った。

 実はこれまでに二度、妻は交通事故を起こしていた。

 一度目は、自損事故だった。二車線の内、左側の一車線を封鎖して舗装工事をしていた。工事範囲への侵入を妨げるために、水を入れた円筒形で大きな黄色のタンクが等間隔に置かれていた。私も同じ道を通ったが、そのタンクが不必要に車線をはみ出して走行車線側にせり出して並べられていた。妻はそれを避けようとして右に寄り過ぎ、中央分離帯の縁石を擦ってしまい、あわてて逆にハンドルを切った際、今度は切り過ぎてタンクの一つにぶつかった。結構な勢いで当たったようで、タンクは弾けて盛大に水をまき散らし、妻の車の前部も、バンパーから大きくへこんで、一部はボンネットにまで影響していた。幸いに妻に怪我は無かったが、初めての事故で、相当気落ちしていた。

「もう、怖くて工事中のところは走れない。」

と、妻は震えるように嘆き、暫くは夜に運転することもとても怖がった。

事故現場は軽くカーブした場所だった。それでも、車線が不必要に狭められていたことを加えて考えたとしても、普通、事故を起こすような場所ではなかった。第一、カーブと黄色タンクの圧迫から、どうしてもそこで減速してしまう場所なのだ。そこにスピードを乗せたまま突っ込んで行くのは、私にはちょっと出来ない。運転が下手だというのは、単にハンドルさばきのことだけを言うのではないのだなと、私はその時に悟った。

 二度目は、その二年ほど後、下り坂を下りきったところにある信号のある交差点で、赤信号で止まっていた先行車に追突した。さほどスピードは出ていなかったが、ほぼノーブレーキでぶつかっており、先方の運転者には、軽いむち打ちの症状があった。幸い、ニ三週間で痛みも収まり、半年しても再発することは無く、ただひたすら先方に謝罪しながら、私たちはその幸運に安堵していた。

 この時も、どうしてそういうことになるのか、私には理解不能だった。

「居眠りしちゃってたの?」

「そうなのかなぁ。」

「覚えてないの。」

「なんか、止まれるはずだったのに、止まれなかったの。」

 なんだか、魔法にかけられたような会話だった。結局、なぜ起こった事故なのか、はっきりとはわからずじまいだったが、その分、余計に不安だった。次はもっと大きなことにならなければいいけれどもと危惧した。

「下手したら人の命にかかわるんだからね。」

と、私はたしなめたが、言えば言うほど妻が運転を不安がるだけなのは、最初の事故の経験からも分かったから、あまり重ねては言わないで置いた。しかし、怖かった。妻は多分、自分でも気づかないまま居眠りしていたのだろう。疲労が重なった時期には、私も運転中に一瞬意識が遠のくような感覚を経験したことが何度もあった。

 以来、私は、何の連絡もなく妻の帰宅がやけに遅く感じられる時には、不安を感じるようになった。妻は、夕食時を大きく回るような時には必ず連絡をして来る。それでも、疲労が蓄積していたり、学校を出るのが遅くなったことで慌ただしく帰途に就いた時などは、それを忘れることもにあった。だいたいは黙って待つのだが、虫の知らせのように不安になることもあり、時にはしびれを切らして、今どこにいるの、とメールを送った。けれども、運転に自信のない妻が運転しながら返信するようなことをするはずもなく、いよいよ真剣に心配し始めた頃に、結局、自宅前にたどり着いてから、やっと、ごめん、今帰ったと、すぐ目の前にいる車の中から返して来るのだった。

「そこまで来てから返してくれたって、意味無いじゃない。」

「うん。でも、何か言わないと悪いと思って。」

 そんなやり取りをしながら、私はいつも、取り敢えずこの人が怪我するようなことが無くてよかったと、ほっとした。二度の事故は、それまで浮かびもしなかった不安を私の中にも根付かせていた。

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