第9話 娘

 妻は忙しくしていた。高校二年生の秋、修学旅行も終わると、進学校は一気に生徒を受験に向かわせようとする。実際、三年生の春までの半年間に勉強に力を入れ始めることが出来た生徒は、大きく成績を伸ばす。言ってみれば、教師の指導が最も大切な時期であるともいえる。放っておいたら、生徒は三年生の六月まで、まともに動き出さない。

 五教科の教師は特に、この時期に大きな責任を感じて指導に当たる。模擬試験の結果にも神経質になる。結果は、常に教科ごと、設問ごと、クラスごとにまとめられたデータが小冊子にまとめられ、同じものを六冊作成して、迅速に校内のすべての教師に回覧される。そこには、過去の学年の同時期の成績データが五年分添えられている。それを見て、今年の三年生の英語は順調だね、二年生の国語は、これ、やばいよねなどと職員室のあちこちで噂される。結果が顕著に悪い教科の主任と担当者は、管理職に呼ばれて対策を促されたり、進路指導課の主任からはっぱをかけられる。特に英語は、文系でも理系でも受験の合否を左右する最重要科目だから、この時期からは特にその結果を気にする。妻の学年は、二年生に上がってからずっと、例年の成績を下回ることが続いていて、「伸ばせていない」と、あちこちから聞こえる声に苦しんでいた。妻の学校は一つの学年が七クラスあり、担任の中に英語の教師は二人いた。通常、学習指導は、その学年の担任となった教師を中心に具体的な対策と計画を考える。英語や国語ならば、使う文法書や問題集も、担任をする教科担当者が最も信頼を置く、使いやすいと思っているものを選ぶ。そのような参考書は、内容はほぼ同じであっても記述の仕方にはそれぞれ個性があって、教える者によって波長のよく合う物と、使いにくいものがあるのだ。学年担任に同じ教科の者が二人いる場合は、合議で教材を決める。だいたいはお互いが上手に譲り合って、合意できるものを選んで行く。ところが、時に面倒な相手と組む時には、そのいちいちで揉めてしまう。この時の妻がそうだった。

 相手は五十過ぎの男性だったが、これがとてもやっかいな人物だった。上の学年が使ってみて、明らかに良くなかったという評価が伝えられている教材も、だから別のものにしようとすると、いや自分はこれが良いと思うと言って聞かなかった。他の教材も、多くの中から吟味して選ぶのはめんどくさいから選定は妻に任せると言いながら、あれこれ照らし合わせてこれでいいかと持って行くと、いや、それは嫌だと言う。理由と尋ねると、その場でぱらぱらとページをめくって見せ、説明が丁寧じゃないと言う。しかし実際には、ほとんど中身など見てはいないのだ。要は、自分の意志ですべて決めたい。他人が主導権を握るのは気に食わない。しかし、時間をかけて教材の内容を見比べるのは面倒だからしたくない。おまけに相手が女性だということで見下すように、常に大柄な態度で接する。年上の自分の意見が尊重されるべきだと言って聞かない。てこでも意見を変えないので、結局は彼の選んだものに決まってしまうが、今年出たばかりで誰もそれを授業で使用したことの無いものを、内容をよく見もしないで薦めたりするので、実際に使ってみると、どうにも内容に問題があったりする。説明がわかりにくかったり、記すべき知識が不足していて上位の進学校の生徒には向かないものだったりする。仕方なく妻は別の教材をコピーしてそれを中心に進めたりするが、そうすると他のクラスの生徒たちから苦情が来る。妻が授業で使っているプリントを自分にも欲しいとやって来る。それを与えると、男性教師が文句を言う。勝手なことをして、自分の授業の妨害をしないでくれと言う。では、気を利かして、あらかじめ「こんないい資料がありましたから、配ってやろうと思いますが、どうですか。」と、印刷するだけの原稿を渡しても、そんなものは無駄だと言って見もしないで突き返す。

 授業の進度、試験範囲、考査の問題、常に相談をしながら進めなくてはならない相手がそうだから、妻は毎日ストレスをため込んでいた。

 教師にもいろんな人間がいる。いい加減にしろと叫びだしたくなるような、そんな相手と組まなくてはならないことは、私にも何度かあった。そんな一年は他の年の数倍疲れるし、担任は途中で転勤が無い限り、三年間持ち上がるのが基本なので、同じ学年の同教科で共に担任をするとなると、ペアになっての活動が三年間続く。そういう人間は、下手にすねさせると、合意したはずの約束事もことごとく無視するので、結局こちらが苦しむことになる。するはずだった小テストを実は全くしていなかった。教えるべきことを、実は教えずに飛ばして進めていた。そんなことが頻繁に起こり、試験範囲も合わせられないし、成績もつけられなくなる。そんなことが三年間続くと、その人物のお守りに振り回され、仕事の量も気疲れもかさみ、ただその一人のためにほんとうに疲弊する。

 大事な二年生の秋、九月と十月の模試の結果が続いて大きく振るわず、妻はとても沈んでいた。テコ入れをしたいが、彼は非協力なだけではなくことごとく足を引っ張る。出来の悪い小テストの不合格者を、合格するまで居残りをさせたい。そう言っても、面倒だからと協力しない。仕方がなく妻が七クラス分の生徒の対応をするが、そうすると一週間毎日、放課後はそれで手を取られてしまう。結局、居残りの人数を減らすために合格点を下げて妥協した。

「でも、それじゃ、全然力がつかないから、何のためにやってるのかわかんない。」

と、妻は嘆いた。

 そんな日々が続き、浮上しない模試の成績の責任を一身に背負って、妻の堪忍袋もとうとう緒が切れたようだった。ある日、

「今日、あの人と大喧嘩した。」

と、妻が話した。

「何があったの。」

「また訳の分かんないこと言って、十二月の補習を全部私にやらせようとするの。」

「困った人だなぁ。」

 私は妻の気持ちを和らげられるように、わざとのんびりした調子で言った。けれども、妻の憤りは、思ったよりも強かった。

「もうあったま来たから、先生も私と同じように給料もらってるんでしょう、私だけ働かせようとするの、やめてください、って言ってしまった。」

「それはまた、過激なことを言ったなぁ。で、相手は。」

「ぷぅって膨れて、失礼なことを言うなって大声出したから、私も負けずに、私一人じゃパンクしてしまいますって、みんなに聞こえるように大きな声で言ってやった。」

 職員室の中でのその場面が、頭に浮かんだ。

「良くないよ、それ。女の人が興奮すると、余計にヒステリックに聞こえるし、あなたまで同じような人種に思われちゃうじゃん。」

「わかってるよ、そんなの。でも、止められなかったのっ。」

「気持ちはわかるけど、そういうとこ、気を付けないと、自分まで他人(ひと)の信用落としちゃうからさぁ。そういう人には、まともに話したって通じないから、上手にいなしながらやるしかないから。」

「もう、そんなんわかってるのっ。私はたしなめて欲しいんじゃなくて、ただ聞いて欲しいだけなのっ。みっともないことしたのは、私だってわかってるって。もう、無茶苦茶恥ずかしい。」

 妻は泣きそうだった。

「でも、我慢できなかったのっ。」

 うつむいたまま両手で頭を抱え、首を何度も横に振りながら、叫ぶようにそう言った。

「・・・ごめん、」

 慰めて欲しがっている妻を、逆に追い詰めている自分を感じて、私は素直に謝った。で、そこでやめておけばよかった。

「でも、気を付けないとさ、一回やっちゃうと次はすぐにそこまで行っちゃうようになるしさ。こらえなきゃ駄目だよ。」

 言わなくてもいいことを繰り返した。

「もういいっ。そんなこと言って欲しいんじゃないっ。」

 馬鹿な夫だ。もっと聞き上手になってやればいいのに。職場で妻がヒステリックな女性として、陰で悪口を言われるような人になってしまうことの方を怖れた。そうして、彼女が無意味に人望を失っていってしまうような気がして、それが心配だった。日頃の妻の彼に対するストレスを知っているだけに、他人前で切れてしまう今日と同じことが、今後も何度も繰り返されてしまうことを危惧した。彼とは、多分まだ一年以上も付き合わなくてはならない。この先、生徒たちが三年生になっていよいよ受験が迫れば、もっともっと腹の立つことは増えて行くに違いない。彼とのかかわの中で、妻の人間性が貶められてしまうのがとても嫌で、妻にはなんとしてもこらえて欲しかった。

 けれども、それは、今言うべきことではなかった。私はまったく、愚かだった。

「ただ、聞いて欲しかったのっ。」

 その妻の声を、いまだによく覚えている。そう言った後、彼女は暫く、一人で静かに泣いていた。私は横に座って、なるべく優しくその肩を抱いてみたが、妻はその手を、そこに積もった埃をのけるように、そっとその外側に滑らせた。


 娘との関係は、あの妻のいない数日以来、冷たいままだった。

 娘の受験希望の高校は候補が二つあったが、夏に出かけた学校説明会の印象がとりわけよかったようで、娘はそのうちのレベルの高い方に絞ろうとしていた。しかし、学力は現状ではとても追いつかないところにあり、ストレスからか、秋を過ぎる頃から娘の額には赤いニキビがたくさん出来てきた。医者に行って塗り薬と飲み薬を処方してもらい、少しはましになったが、なかなか治らず、時折、洗面所の鏡に向かっていつまでも額を眺めている娘の姿を見るようになった。しかし、その姿が私に見つかったと感じると、すっと逃げるようにそこを離れて自分の部屋に戻って行った。私は声をかけて慰めてやることも出来ず、そんなところでもまた、いくらか寂しい気分になった。

「大丈夫かな。だいぶ気にしているみたいだよね。」

と、妻に聞くと、

「ストレスなんだろうけど。可哀想。」

と呟いた。

「蕁麻疹は大丈夫みたいなんだけど。」

「蕁麻疹?」

 不意に出た言葉だった。

「夏休みにね、出たの。七月の面談で、結構厳しいことも言われたから、それでしばらく落ち込んでて。そしたら、急に出て来て。」

「そんなことがあった。」

「うん。蕁麻疹ってね、食べ物とかで出るのかと思ってたけど、七割はストレスから来るんだって。お医者さんに言われた。」

「全然気づかなかった。ひどかった?」

「結構。顔にまで出てたもん。体は、もう全身。薬が随分効いて、じきに収まったけど。かゆくて辛そうだった。」

「そう。俺、何で気づかなかったんだろう。」

「あなたはあなたで大変だったから。」

 夏の休職期間は、比較的平常心で過ごせていたつもりだった。けれども、実際には心ここにあらずという状態だったのかもしれない。こんなところでも、私は父親としての自分の不甲斐なさを思った。妻の心の負担も大きかったに違いない。職場に行けなくなった夫と、受験ストレスで悩む娘。自分自身も、職場ではただでさえ多忙な上に、厄介な同僚に振り回される毎日。

「ごめん。僕はほんとに、役に立ってなかったな。」

「仕方ないもん。」

 それでも、そんな事情を知れば、私も何とかして娘の力になりたかった。「力」まではいかなくとも、せめて少しでも支えてやれないだろうかと思った。おはようと言っても、お帰りと言っても、おやすみと声をかけても、返事もしなくなっていた娘には、私も虚しくなってそんな言葉をかけることも無くなっていたが、その日から、何の反応も無くともせめてそんな挨拶だけはしようと心掛けた。そうして繰り返していると、娘は、たまにはかすかに首を動かして頷いて応えるそぶりを見せることもあった。私はそんな微かな変化にも安らぎを拾って、多分、あれこれと不安に揺れる自分の気持ちを癒そうとしていた。

 思えば、この時は、狭い家の中に暮らす三人が、それぞれに苦しい状況を抱えて苦しんでいた。

 十二月、受験に向けての担任との三者面談があった。それを一週間後に控えた食卓で、私は、

「今度の面談は、僕が行こうか。」

と言った。妻は学期末の成績付けと、自分のクラスの保護者面談があって、予定のやりくりが大変なのはわかっていた。私は一日家にいるのだから、こんな時こそ助けになればと思ったのだった。それに、なかなか話せない娘と、真剣に進路について話すきっかけが、それでつかめないかとも思ったのだった。

 けれども、聞いた瞬間に、娘が爆発した。

「絶対、いや。」

 箸をテーブルに叩きつけるようにして置き、私の顔を、文字通り、睨んだ。そして、繰り返した。

「絶対、いや。やめて。」

 私は、そこで黙ればよかった。抗弁しても、結果は見えていたのだから。けれども、そこですごすごと黙る情けない父親にはなりたくなかった。大人の、詰まらないプライドだった。ただ、自分がこれ以上惨めな思いをしたくなかったのだ。

「お父さんも、お前の親なんだから、今の成績がどういう状況なのか、お前がどういうことを考えているのか、一度ちゃんと話を聞くことも必要だよ。」

 必要。血の通わない言葉だった。駄目な父親は、失点ばかり重ねる。

「何よ、必要って。そんな必要、あるん?何の権利で?私のことなんか、なんも気にしてへんやん。ほっといてよ。」

 娘は、呼吸まで荒くなっていた。興奮していた。

 私の中には、もともと、理不尽に自分の子供から黙殺されていることへの憤りが渦巻いていた。そんな気持ちで吐き出す言葉で、相手と何かを通じることなど、出来ようも無かった。食事を放り出して、娘は自分の部屋に去ってしまった。

「あんなこと、急に言うから。」

 妻は深くため息をついて、それだけを言った。もっと不用意な私を責めてもよかったろうに。

「ちょっと行って来る。」

 そう言って立ち上がった。

「面談は私が行くから。ごめんね。」

 そう言って、娘の部屋に向かった。

 私のことなんか、なんも気にしてへんやん。

 私の心には、娘のその言葉が残っていた。


 一枚の写真がある。娘が小学生の頃、ディズニーランドで妻と三人で撮った写真だ。妻と娘は満面の笑みで、私はとぼけた顔に微笑みを浮かべて写っている。ちょうど道の掃除をしていたキャストさんに頼んで撮ってもらったものだ。高いところが苦手な私は、ジェットコースターの類の乗り物には乗れない。逆に妻と娘はそういう乗り物が大好きだった。ビッグサンダーマウンテン、タワーオブテラー、その手の乗り物に乗る時は、だから私は一人、下で手ごろな場所に腰かけ、手のひらに文庫本を開き、待ち続けた。一時間以上待つこともあったが、構わなかった。私は、あぐねるとその辺をふらふらと散歩して時を過ごした。そうするうちに、向こうから母子二人、手を繋ぎ、スキップするようにして笑いながら戻って来る。その姿がとても嬉しくて、近くにいた若い女性のキャストに頼んで撮ってもらったのだった。

「はーい。じゃ、ミッキーマウスの恋人はぁ~?」

 カメラ代わりの携帯を託された彼女も、とても楽しそうだった。

「ミニ~。」

 私は答えられず、妻と娘はそれぞれ右手を突き出し、声を合わせて答えた。

 私は、今も時々、この写真を眺める。見ていても切なくなるだけなのに、取り出して見てしまう。あなたが泣き虫なのは、私が一番よく知っていると、写真の向こうで、妻が笑う。


 娘の私に対する反感がそれまでになくはっきりと表面化してしまったその晩から、私と娘の関係は決定的に決裂してしまった。

私はいったい、いつといつ、失点を重ねていたのだろう。

私が、娘のことを何も気にしていない。そんな思いを娘の胸に刻みつけるような、馬鹿な行いをいつしていたのだろう。あるいは、何もせず何も気づかずに、ぼうっとしていたのだろう。

 何をどう反省したらいいのか、対象のわからない後悔ばかりが、押し寄せて来る。

 親はもっと子供の前で毅然と構えているものだと思っていた。そうあって当然だと思っていた。それが、今の私のていたらくと言ったら。時にはそんな自分を情けなく思った。娘の顔色を父親がうかがうなんて。しかし、殊更にその存在を無視して見せるようになった娘のありさまを前にして、父は、もはや憎しみと言ってもよいように感じられる娘のその感情に、ただ戸惑うばかりだった。

 あの入院の日々、疲れた体を押して病室に泊まってくれるのは、母ばかりだった。カーテンに囲まれた狭い病室の空間が怖くて、病院の廊下を泣きながら歩いた晩、駆け付けてくれるのもいつも母だった。担任に厳しい進路の見通しを告げられて悲しい時に横で慰めてくれたのも母で、蕁麻疹に苦しむ自分の辛さを自分のことのように心配してくれたのも母だった。父親と言えば、偉そうにするばかりで、自分は大人のくせに学校に行けなくなり、家のことも妻に任せっぱなしのくせに、自分がいらいらしているからって、仕事に疲れて帰って来た妻をいたわるでもなく、詰まらないことでいちゃもんをつけては喧嘩をしている。娘の軽蔑の正体を、私は馬鹿のように想像したりした。そしてそんなことを考えれば考えるほど、何も言えず、何もたしなめられず、何も尋ねることが出来なかった。

 そうしているうちに、時は過ぎて行った。

 私は二週間おきに山本医師のもとに通い、近況の報告というより、ただ世間話を繰り返した。抗鬱剤も睡眠誘導剤も、結局、一度も処方されなかった。

「学校に行かないのが、一番良い薬のようですね。」

と、ある時、彼はそう言って笑った。

「困ったことなんですけれどね、それ。」

と、私も笑った。

 それが、年が明けて一月の半ばくらいだったろうか。暗黙の裡に、三か月後の職場復帰を意識したやり取りだった。でも、それがわかっていても、この会話を、私はとてもくつろいで交わしていた。そのことの意味を、山本医師も感じ取っているのがわかった。

 仕事に復帰しても、私は学年の担任からは外れることが決まっていた。

年末に、状況を確認するために教頭から電話があった。その時に、私から切り出したのだった。

「先生、申し訳ないのですが、来春、仕事に戻れたとして、その時の戻り方なのですが。」

 主任や、迷惑をかけた学年の他に担任には申し訳ないのだが、クラス担任は、このまま下ろさせてはもらえないだろうか。一度パンクしてしまった気持ちに対して、自分の中にはどうしても身構えてしまう部分がある。同じ責任を感じて、更に休んだ分を取り返さなくてはならないという気負いを背負って始めてしまっては、また同じことを繰り返すのが目に浮かぶ。この年の人間が言うわがままではないというのは重々承知しているが、どうか、そのように配慮してもらえないだろうか。

 教頭は、即答した。

「いえ、実は、それがいいだろうと、私も学年主任の先生と以前から話しています。先生には一度、フラットな状態から、調子を取り戻していただくのがよいだろうという風に。先生の今のご要望、かなえられるように、校長にもお伺いして、そのようにさせていただく方向で話を進めておきます。」

 それを聞いて、自分でも驚くほど安堵している自分を、その時、私は感じていた。車の窓越しに教頭と言葉を交わし、逃げるようにその場を去ったあの時の記憶は常に鮮明で、その残像に囚われて私は何度も夢を見続けていた。半年休んでも、同じことの繰り返しになるのではないかという恐れは、頭の隅をかすめる度に思考から追い出してはいたが、気がつくといつも黙ってそこに居座っているのだった。

この時、背負っていた何もかもを一度全部投げ出してしまえると思った時、私は、ほんとうに戻れるかもしれないと、初めてはっきりとそう感じられたのだった。

 私は回復しつつあるのかもしれない。

 私は、その時に初めて、そう感じた。


 娘は、結局、志望校のレベルを下げ、もう一つの候補校を受験した。最終的な志望校決定の面談をする時には、本人もすっかり諦めがついて、無茶な冒険をしようというこだわりもなくなっていた。それを決めた一月の末には、私の前でも時折笑顔を見せるようにもなった。しかし、それでも会話は相変わらずほとんど無かった。

 その状態は、結局、その後三年間も変わらなかった。高校を卒業すると、娘は、家を出て首都圏の大学に進み、仕事もそちらで決めてしまったから、娘と毎日同じ家で過ごす最後の日々は、私には随分と寂しいままに終わってしまった。

 結局、娘の変化の原因は、わからなかった。以前に妻が言った、

「女の子は、父親から離れていたくなる時期があるものだから。」

という言葉では納得できなかった。娘の上京後、私がそう言うと、妻はそれでも、

「でも、結局はそれだけのことだったのかもよ。本人もよく分からないけど、何となく、って。」

と言った。

「それだけのことで、こんなに長い間?」

 私が聞くと、

「いずれわかるよ、あの子も。まだ十年くらいかかるかもしれないけど。」

悟りきっているように言った。

「嫌だと思ったら、父親のすることも何もかも、卑怯で汚いことみたいに感じられることがあるみたい。私の友達にも、そういう子、いたから。」

 それでも、私はずっと、私のことなんかなんも気にしてへんやん、という、あの言葉が引っかかっていた。

「大して深い意味は無いのよ、それも、きっと。」

「ほんとに。」

「女の子って、理屈じゃないから。」

 妻はそう言って、暖かな日、明るい日の差す食卓で、いかにも何でもないことを話すように、横にあったクッキーをぽいっと口の中に放り込んだ。

 そんな素振りで、いつものように私を慰めようとしているのがわかった。

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