第8話 休職
妻には、この日のことは内緒にしていた。ただ、疲れたから先に寝ると伝えて、早々に床に就いた。
翌日の朝は、普段通りに起きられた。よく眠って体調も回復したようだった。目覚めもよく、体にしんどさも残っていなかった。私は少しほっとしながら、いつも通りに家を出た。出勤すると、教頭が心配して近寄って来、目立たない声で話しかけてくれた。
「大丈夫ですか。」
「ありがとうございます。大丈夫です。しっかり寝て、回復しました。御心配をおかけして、申し訳ありません。」
「いえいえ。あの、くれぐれも無理の無いように。」
そう言って、軽く会釈をして去った。私は、自分の席に着くと、心配をかけたと他の担任たちにも詫びた。みな、とんでもない、お疲れでしたからと、ねぎらってくれた。
そして、午前中は普段通りに過ごした。ところが、変調はまた、突然やって来た。四限の授業を終えて職員室に戻ると、軽い吐き気がして、食事を取る気になれなかった。周囲に気取られないよう、何でもない風を装いつつ漢字テストの採点を始めてみたが、視界の焦点が定まらなかった。そうするうちにまた、息が苦しくなって来た。
だめだ、と思った。
主任に声をかけ、教頭に申し出て、午後は授業が二つ残っていたが休暇を取って帰った。自習に出来る学校ではないから、空いたコマは他の者が埋めなくてはならない。それでまた迷惑をかけてしまった。
翌日、私は朝、家を出られなかった。出勤するつもりで朝食を取ったが、食べ終わった瞬間から、溜息ばかりが口をついて出、体に力が入らなかった。
普段は家族で一番最初に家を出る私が、逆に二人を見送った。妻は、無理しないでねと心配しながら家を出た。娘は、行って来ますと呟いて玄関に向かった。私は学校に電話をかけ、教頭に状況を話し、仕事を休んだ。
それが木曜日。金曜も同じ状態で、やはり休暇を取った。天気も良かった土日は、気晴らしが必要だと考え、奈良辺りまで足を延ばして、気に入っている寺を二つ三つ、久しぶりに巡ってふらふらと散策した。そうして、何とか月曜には回復して出勤できるようにと願った。
けれども、駄目だった。祈るような気持ちでその日の出勤に賭けていた気持ちが、前週にも増して動かない体に直面して、ぐらぐらと崩れて行くのを感じた。休暇の電話を入れると、受話器越しでも、教頭の口調には心配げな表情がうかがえるように感じられた。
「医者に行ってみます。少し、駄目かもしれません。」
私は、正直にそう伝えた。
四十を過ぎた教師が、今更この年になって精神科の世話になるとは。それは避けたかった。疲労から来るほんの一時のことだと、その認識でいたかった。けれども、それ以上、ただ休み続けることも出来なかった。
いつもは生徒がらみで世話になる医者に、患者として出かけた。精神科の医師は、人によってその力量に大きな差があることを、経験上、実感として強く感じている。やたらに薬ばかりを処方して、却って社会復帰から遠ざけてしまうような医師は、結構多い。その中で、初めて信頼できると感じたのが、山本というその医師だった。しかし、見知った間柄だけに、普段は生徒に同伴して、あるいは単独で、担任として、いわば医師と共同して援助する者として出向いているところに、自分自身が病んだ者として出かけるのは、愚かしいことだとは思いながらも、とても惨めな気分になった。名前を呼ばれて診察室のドアを開けるのも、気が重かった。
顔見知りの医師は、私が診察室に入った瞬間に、
「先生、お久しぶりです。」
と、友人に応対するように気さくに応じながら、その右手を差し出した。私も手を出し、軽く握手を交わした。
「さて、・・」
対面して座ると、医師は自分自身がくつろごうとするように、そう言いかけて間を置いた。私の緊張を感じ取って、いたわろうとしてくれている気配りを感じた。そして、彼は、一呼吸置いてからゆっくりと尋ねた。
「どうされましたか。先生。」
私は、あれこれと、この数日の状況と、ここに至るまでの学校での過ごしぶりを話した。一つ一つ、細かに。話し始めると、先ほどまでの緊張がわずかだがほぐれて行くように感じた。
結局、三四十分は話したろうか。結果、私は、鬱状態、当面一二週間の静養が必要、と診断された。
「まぁ、一度心と体をのんびりさせてやりましょう。で、とりあえず四日か五日おきくらいに通って、様子を聞かせてもらえますか。二週間のうちに、三回ですね。それを目安に。治療というよりは、気晴らしにおしゃべりにやって来るのだと思って下さい。そういうことも、大事ですからね。仕事のこととか、考えてしまうと思いますが、それは今は置いておきましょう。切り傷だって、治るまでは痛くってその場所は使えないんですもん。」
医師は、そう言って優しく笑った。
「薬とかは、まだ処方しないでおきます。ちゃんと寝て、量はともかく食事もちゃんとした時間に取るようにして、なるべく規則正しい生活スタイルを維持するようにして下さい。そうしているうちに、結構、順調に回復してしまうこともあります。」
私よりも少しだけ年上かと思われる彼は、そう言うと、もう一度手を差し出して、私と握手をした。
「こういうことがあるとめげちゃいますが、私に任せて下さい。きっと抜け出せます。」
過去の生徒への対応で一定の信頼を寄せている医師に診てもらえたことは、私には幸運だったと思う。その言葉を、私は確かにとても心強く感じて、部屋を出た。
だが、それであっても、正式に、鬱、という言葉で定義された事実は、やはり私の心にずっしりとのしかかった。待合の椅子に座って会計を待つうちにも、もう逃れられない罠にはまってしまったように、それは致命的な言葉に感じられて来た。同じ状態に陥った生徒に対する時のように冷静には、自分を見つめることは出来なかったし、時計の歩みを少し離れたところからゆとりを持って眺めることも出来なかった。病院の駐車場で車に乗り込んだ時には、この一日が、永遠の時間と同じように感じられた。
結局、私はそれから二週間を経ても出勤できなかった。翌七月からは、八月末まで休職の願いを提出した。二月休んだ後、九月からは必ず出勤しますと管理職にも約束したが、その初日、車に乗って学校の校門を入ることは出来たが、驚くことに、そこまで行っていて、自分で車のドアを開けて外に出ることが出来なかった。
自分で自分の体が動かせない。その経験は、惨めで、恥ずかしくて、恐ろしいことだった。自分は駄目になってしまう、駄目になってしまうという言葉が頭の中で渦巻いて、また呼吸が上がって来ているのを感じた。それでも、連絡はしなくてはならないと、携帯を取って電話を入れた。目の前に見えているあの事務室に、自分は歩いて行くことが出来ずに、ここから電話をかけている。それがまるで夢の中の出来事のように実感がなく感じられた。教頭が走ってやって来て、車の窓越しに、「先生、大丈夫ですか。」と話しかけてくれたが、私は、怖くて窓ガラスを下げることが出来なかった。失礼なことなのに、駄目なことなのに、窓を開けるボタンを押すことが出来なかった。
私は、声をかけ続けてくれる教頭の顔を見ることも出来ずに、ただハンドルを握りしめて、固まっていた。するとそこに校長もやって来た。フロントガラスの先にその姿を見た時に、もう駄目だと思った。これ以上ここにいたら、他の教員や、生徒も気づくかもしれない。そうした多くの目にさらされて恥をかくのは嫌だと思った。自分は本当に立ち直れなくなると思った。
「すいません。帰らせてください。お願いします。」
と、二人の顔を見ることも出来ず、前を向いたままそう、やっとのことで口にした。目から涙が出て来た。情けなかった。教頭は、校長と小声で相談をし、了解し合ったようだった。
「わかりました。」
その言葉を聞いて、ほっとした。救われた思いがした。
「でも、先生、運転できますか。」
「大丈夫です。すいません。本当にすいません。」
私はエンジンをかけた。二人は、邪魔にならないように、車から体を離してくれた。方向転換のためにバックして一度車が停止した瞬間に、教頭は再び窓に取り付き、
「学校のことは心配なく。対処しますから。どうかご無理をなさらないで。お気をつけて。」
と言葉を添えてくれた。有難いことなのに、私は何も言えず、会釈だけを返して、車を進めた。
自宅までは、どう帰ったのか。私の車は蛇行していたのではなかったろうか。ほとんど記憶に残らない形で、私は帰宅し、長いこと食卓で頭を抱えて座っていた。
一二時間もそうしていたろうか。予約は取っていなかったが、電話をかけ事情を話し、午前の診療の最後に山本医師の診察を入れてもらった。あらかじめ、職場復帰後、何かあったら遠慮なくそうするようにと言われていたのだった。
私はうちひしがれていた。朝の学校でのことを医師に話す間にも、涙がこぼれて仕方がなかった。医師は、言った。
「それは先生、辛いことでしたね。お気持ちは察します。本当に辛かったですね。」
そして、ゆっくりと、一言ずつ私の胸に落とし込むように、こう続けた。
「先生、もう覚悟を決めて、ゆっくり行きませんか。」
早過ぎたんです。それだけのことです。足の骨折だって、場所によってはニ三か月入院して、それからリハビリでニ三か月とかあるんですから。心を傷めても、時間が必要なこともあります。困ったことに、これはレントゲンで確かめることは出来ないので、どの程度治っているかは、今日みたいに、進み出してみないとわからなかったりします。私も、事前にそれを十分に予見することが出来なくて、申し訳ないです。でもね、どうやら慌てない方がいいみたいですよ。時間をかけましょう。ゆっくり進みましょう。
そして、こう言った。
「三月まで、休みましょう。」
そのつもりで、どうですか。半年ゆっくり休んで、クラスのことも、この際、全面的に他の方に任せてしまって、一度、全部肩の荷を下ろしませんか。荷物を背負ったまま、リハビリって、出来ませんしね。
そう言って、彼はいつものように、小さく笑顔を浮かべた。
「先生、私の知る限りでも、大変な生徒さんを抱えて、とても頑張ってらっしゃった。少し、休ませてやりましょう。御自分の心も。」
傷を治すためには、まず流れている血をぬぐってやることだ。そして、ぎゅっと抑えて、出血を止めることだ。彼の言葉は、そんな応急の手当てを、私の傷に施してくれているようだった。私はいくらか落ち着き、痛みも少し和らいだ気がした。何よりも、三月まで休もうという言葉が、今朝の挫折の記憶が真新しい私には、神の救いの言葉のようにも感じられた。
最後に、彼はもう一度繰り返した。
「大丈夫。骨折と同じ。心も立ち直れます。大事に治せば、戻ります。一緒にゆっくり進みましょうよ。」
いい医者に出会えた、と、私は思った。
七月の私が休んでいる間に代わりに来てもらっていた講師に再び来てもらえそうだと、教頭から連絡があったのは、その二日後だった。医師からのアドバイスと、それに沿いたい私の思いは、帰宅した日の翌日、申し出ていた。
妻には、あの日、彼女が帰宅するとすぐに、
「駄目だったよ。」
と、伝えた。
「敷地には入ったけれど、車から降りられなかった。」
妻はそれを聞くと、とても悲しげな顔をして、私を抱きしめた。
「そう。・・大変だったね。」
「うん。きつかった。」
詳しいことは後で話すことにして、食事を先にした。娘は父親の窮状など気にかけてはいないようだった。妻と二人で、いつものように時折笑い声をあげながら部活の話やら友人の話やらをした。妻も、その間は同じように楽しげに話していたが、私には、いくらか私に遠慮しているようにも感じられた。
娘が自分の部屋に下がった後、私は長かったその日一日の出来事を順に話した。そして、たった一日で結論を出すのは早いかもしれないけれど、今朝の自分の体の様子を考えると、すぐに気を取り直して再出発できるようには感じられない、新学期早々、授業に続けて穴をあけるわけにもいかないし、何日か休んでどうにかなるようにも思えない、医師の言う通り、思い切って春まで休みたいと思うのだけれど、どうだろうかと、聞いてみた。
「うん。その方がいいと思う。」
数年前に建てた家のローンもあった。半年休んで、その後、本当に復帰できるだろうか。不安は多かった。けれど、こんな時の妻は、いつもながら肝が据わっていた。
「先のことは考えないでおこうよ。今無理をして、もっとひどいことになったら、その方が怖いから。」
そう言った。
妻とは、休職した夏の二か月、何度も言い争いをしていた。きっかけはつまらないことだ。自治会の役員会にはどちらが出る、一日家にいるのに何故洗濯物を取り込むのを忘れた、始まりはそんなことだ。けれども、私の心は不安でささくれ立っていた。妻は妻で、同じような不安を抱えながら、忙殺される仕事に疲れてもいたのだろう。多少の喧嘩があっても、じきに仲直りできたそれまでと違って、そのつまらない諍いの中でどちらかが口にした言葉が、また許せない言葉に思え、それがいつまでも尾を引いた。四五日口を利かない、そんなことも何度かあった。
「しんどいのはあなただけじゃないんだよ。」
と、そんな言葉を激しく私にぶつけたこともあった。その時だけは、私も何も言い返せなかったが、妻と暮らし始めて初めて感じる孤独に捕われた。そんなことが二度三度とあると、夫婦の心はこんな風に離れて行ってしまうのだろうかと、そんなことも思ったりした。
だから、この日の、妻の理解といたわりは、特に温かかった。
正式に半年間の休職の手続きをし、私は毎日家にいるようになった。
洗濯、掃除、食事の準備、家事の大半を日課のように過ごしながら、天気の良い日は京都の街中、郊外の森を歩きに出かけた。気が向くと、電車に乗って市内北部の寺社を巡ったりもした。石段を上る鞍馬寺、そこから反対側に降りて貴船神社、貴船川の流れの音を聞きながら川沿いを歩き、時には茶店に座って甘酒をすすった。
自由な時間は山ほどもある。そんな時は、学生時代以来の日々をもう一度過ごすようだった。
しかし、自宅に帰ると、そんな解放感もすぐに消え失せた。仕事に疲れて帰る妻を見ると、一日働きもせずにいる自分を申し訳なく思ったし、娘が帰ると、この子には今の自分の姿がどう見えているのだろうと考えた。普段からほとんど会話の無くなっていた娘には、心病んで苦しむ父を慮る様子はまったくうかがえなかった。
こんなこともあった。
九月の末に、二年生の担任をする妻は修学旅行の引率で四日間、家を空けた。その間、娘と二人だけの食卓が続いた。私は、なるべく娘の好きなものばかりを作ってやろうと、買い物に出かける前には献立を考え、どんな工夫をしたら娘はより喜ぶだろうと案を練った。時には、朝、「今日は何が食べたい。」と尋ねた。しかし、そんな時も、娘は何も答えずに玄関に向かうか、「別に。」と投げ捨てて出て行った。出来立ての料理を並べて呼んでやっても、黙って座り黙って食べ、ただ横のテレビを見つめるばかりで、御馳走さまも言わず、自分の食器だけを片付けて部屋に戻った。
いつの間に、私たちの関係はこんなに冷え込んでいたのだろう。いったい、私の何が気に食わないのだろう。そもそも、今の私の状況について、娘はどこまでわかっているのだろう。私はとても切なくなった。懐いてくれていた頃のことを思い出して、悲しくなった。娘の入院が決まった時の、あの、妻にすがって止まらない涙に声を上げて泣いたことを思い出した。それほど大切に思っていた娘は、何故そう私を嫌うのだろう。
妻がいる時は二人だけのやり取りに入れないことに寂しさを感じてはいたが、それはもうそういうもので、自分がそこに加わることは無いものなのだと半ば諦めてしまえば、母子が仲睦まじくやり取りしている様子は、幸せな光景であるようにも思えた。私はたまにそこに口を挟むことがあるだけで、それがまぁ、今の自分のポジションなのだと受け入れてもいた。
しかし、妻のいない状況で、こうあからさまに拒絶されると、今まで見えないでいた壁というか、もっと強い拒否の意思があることを感じて、いよいよ娘に対して、声をかけることも出来なくなった。そして、ただ苛立ちだけが募っていった。普段は妻がしていた洗濯物畳みも、私がしていると、ちょうど娘の下着を手にしたところに本人が通りかかり、瞬間、「触らんといてよ。」と叫んでひったくって行ったりもした。私の心はどんどんささくれ立った。
そして四日目、私は遂に娘に対して、「そんな態度があるか。」と声を荒げてしまった、それは、あまりに無礼な態度に対する怒りというよりも、父親の焦りであったことは、その時の私自身がわかっていた。愛する者の気持ちが離れて行くことを目の当たりにするのは、受け入れ難かった。
そんなだから、妻が旅行から帰った時には、すぐに、
「何かあったの。」
と尋ねられるほどに、二人の関係はこじれていた。
「何で、俺はあんなに嫌われてるの。何かした。」
私は逆に妻に尋ねた。
「さぁ。でも女の子は、嫌だと思ったら嫌だから。当分ほっとくしかないよ。」
妻はあっけらかんとそう答えた。けれども、
「寂しいだろうけど。」
と付け加えた。その一言は、少し、私の心を潤した。
半年の休職期間、初めのニ三週間こそ、学校の様子が気になったが、それを過ぎると、私は驚くほど学校のことを考えなくなった。あれほど、授業やらクラスのことやら、みんなに迷惑をかけられないと気に病んでいたことが、はっきりと休む手続きをしてしまい、出勤しようとしても出来ない状況になると、不思議なほど気にならなくなった。私に出来ることは無く、責任から完全に解放された。知らなかったが、病気による休職期間は、半年間はほぼ給料の全額が支給されるということで、収入の不安も消え、私はもっぱら、買い溜めるばかりで読み切れないでいた本を読んで過ごした。七八月に休んだ時には、一学期の期末考査も終わり、採点や成績の基本的な処理は自宅ですることが出来た。後は短縮授業と、消化行事だけの日々の後、夏休みに入ったので、私は自宅にいる間、二学期の授業の準備などをのんびりと進めて職場復帰に備えた。今回はそれもする必要は無く、私は漠然と、半年後の出勤日に繰り返される発作の幻影を怖れたが、それはまだ随分と先の話で、当面は何も担わなくてよいという気楽さにただ浸って過ごした。
それでも、常に心の底に、強い不安と焦りは息を潜めて沈んでいるようだった。
夏に何度か繰り返した妻との口論もそうだったし、この長い休みの間も、ふとした瞬間、例えば買い物に出た私の前に不意に割り込んで来る車のあった時、私は瞬間に苛立ち、あほか、と呟いていた。私はそんな反応をする人間ではなかった。コンビニのレジの対応が悪いと、あからさまに不快な表情で釣銭を受け取ったりした。我ながら嫌な奴だった。いずれの時も、そんな反応をしてしまった直後に、ああ、自分は平穏な日々を過ごしているようで、実はこんなにも心がざらついているのだと思った。そんな時の溜息は、深く長くなった。寂しかった。
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