第7話 過呼吸

 内向的な印象の強かった娘は、中学に入る頃には、随分と明るい活発な子になっていた。友達も多く、とても楽しげに過ごしていると、一学期末の面談では担任から聞かされた。とても真面目にコツコツと努力する子で、担任としても頼りにしています、とも言われたと、妻からそんな話を聞いて、それで別に娘を呼んで褒め称えるでもなかったが、父親としては素朴に喜んだ。甲状腺の薬は飲み続けていたが、定期的に行う検査の数値は安定していて。運動に制限がかかることも無かった。

 この頃から、妻は娘と二人きりで一緒に出掛けることが多くなった。買い物、好きなミュージシャンのライブ、確かにそこには父親を同伴する雰囲気は無かった。二人が出かけてしまう週末の夜、晴れた日曜の昼下がりなど、私は子供が一人しかいないことを寂しく思うことがあった。第一子はあれほど簡単に授かったのに、二人目の妊娠の兆候はいつまでも無く、初めの頃は、肌を合わせた後に、今度は男の子がいいななどと呑気に語り合っていたが、数年その兆しが無いと、二人ともすっかり諦めた気持ちになっていた。そうこうするうちに、娘一人でも立て続けに多くの出来事がかさんで、夫婦が共に働きながら、もう一人の子をゼロ歳から育てるなど、

「とても乗り越えられないかもね。」

と、私と妻と、三人家族の確定を宣言するような会話をするようになっていた。

 しかし、それがもう決まったことのようになってしまうと、一人家に残された時の私は、とても手持ち無沙汰だった。ついこの間まで、出かける時には必ず、右手を私が、左手を妻が持って、三人で歩いていたのに、小学校の高学年になると、私の左手は手を伸ばしても、「やだ。」ときっぱり受け入れられなくなった。中学生になると、台所では妻と娘が並んで立って、共になにがしか調理をしたり、娘のクッキー作りを手ほどきを、時折二人ではしゃぎ声を上げながら妻が楽し気に行うのを、私は一人離れたところで、垣根の向こうのお隣さんの出来事のように感じているようになった。すぐそこで何かやっているのに、しゃしゃり出て声をかけるのもタブーであるような。

 年頃になっても、お父さんお父さんと慕う子供もいるそうなのになぁ、と呟くと、

「まぁ、女の子は、父親から離れていたくなる時期があるものよ。」

と、妻は簡単に結論付けた。

 そんな時には、もう一人男の子がいたら、野球の試合にでも連れて行ってやれるのにと、私は真面目に悔しかった。

「年頃になると、何かというと女房と娘がつるんで向かってくるから、ほんと親父は寂しくなるよな。」

と、一回りの年上の先輩教師にはそう言われたが、いくらか贅沢に思える買い物で、あるいは少し遠出の外出で、私がまだ早いと制止にかかるのを、娘はあらかじめ妻を味方につけており、間髪を入れずに、

「いいじゃない。許してあげたら。」

と援護の声を手に入れるようになると、少しは父親の顔も立てろよと、娘がいなくなったところでつまらぬ夫婦喧嘩まで始めるようになった。

 ちょうどその頃から、私は妻とよく言い争うようになっていた。

 結婚と共に転勤した学校には八年いた。しかし、通勤に百分ほどもかかる遠距離通勤で、妻に代わって保育園や学童保育の迎えに行くにも、いちいち時間休を取らなくてはならない状況で、四年目くらいから毎年転勤の希望を出していた。そして、それがやっとかなって次に私が転勤した先の学校は、ひどく荒れた高校だった。問題行動も多く、中には深刻な事件もあって、その処分をめぐる職員会議が深夜まで続くこともあった。授業中にも私語がやまない。注意を重ねると、逆に生徒が「うるせぇな。」と言い返してくるような学校だった。それでも何とか上手に言いくるめ、落ち着かせて授業を進めるが、授業の準備や小テストの採点に追われる前任校のように仕事量の多さから来る疲労はいくらか軽減されても、その数倍のストレスで気持ちの方が疲弊していった。問題行動が起これば、一日おきに家庭謹慎の課題チェックのために家庭訪問をすることになっていた。授業の合間の昼中に抜き打ちで行って、学校をさぼった同級生が遊びに行ってはいないかなど、そんなところにも気を回す。また、親がいれば、教師がやって来たついでに、あれこれと不平不満をぶつけてくる。

 多い時には、一年の半分くらい、クラスの誰かが謹慎処分に入っているような状態だった。主要教科の教師はこの学校でもクラス担任を務めることが多く、私は、転勤以来六年間、担任が続き、一年だけ他の分掌に回った後、また担任をすることになった。一度担任に入ると、転勤か健康上の問題が起きない限り、三年生まで持ち上がることになる。三年間というのは、なかなか長い。

 遅くまで職員室で仕事していると電話がかかり、出ると、今謹慎に入っている誰それのツレだとかいう若い男の声が、

「むかつくから、これからバット持って職員室に殴り込みするし、待ってろよ。」

とすごんで見せる。既に帰宅した教頭に電話をし、本当にそんな人影が見えたらすぐに警察に電話して良いという了解を得る。そのうち、教頭も慌てて職員室に駆け付ける。そんなこともある。

 そのような学校には積極的に転入希望をする者もいないので、一度赴任したら、なかなか次の学校への転出は出来なかった。通常、同一校勤務は十年を限度とするという方針はあったが、この学校には十年以上勤務する教員がたくさんいた。そのような現実を眺め、いったい自分はいつまでここにいなくてはならないのだと、残留が決まった三月の異動内示の日には、あちこちでため息が聞かれる。その姿を見て、私もいつまでここにいるのだろうかと思うと、心が重くなった。

 真面目で勉強したい高校生ばかりではないというのは理解していても、最低の秩序すら保持され難い現場で教師をすることは、なかなか辛い。心を病んで休職する教員も一人二人ではなかったし、喧騒の中、椅子に座って、ただひたすら一人で呟くように授業を進めているという者もいた。それを咎め立てればその教師が壊れてしまうと、誰も何も言えないのだった。

 それでも転勤したての頃は、私もまだ三十代の半ばを過ぎたほどで、負けてなるものかと意地になる熱もあり懸命にぶつかっていった。けれども、毎年毎年同じことを繰り返し、いつまで経っても日々の状況は変わらないことに直面し続ける数年を過ごすうちには、さすがに心が疲弊した。もう限界かなと思ったところで、再びクラス担任を命じられた時、私はもう、生徒たちと戦う気力がなくなりつつあることを意識した。

 そんな時に、娘の心が私から離れていった。娘は一四歳になっていた。妻は、自分だけが娘と仲良くし、楽し気に二人でコンサートに出かけて行ったりする。私は、何だか、家の中に居場所がないような、自宅に帰っても心が安らがないような気がし始めていた。

 そして、妻もまた結婚から数年後に転勤をし、こちらは府内でも有数の進学校で働くことになった。生徒の問題行動で振り回されることはほぼ皆無だったが、教科指導にはそれまで以上に時間と労力が必要となった。勢い持ち帰り仕事も増え、私一人が先に床に入ることも多くなった。娘は小学四年生から自分の部屋を持ち、既に寝室に童話的な川の字の光景は無くなっていた。数年ぶりに枕を接して寝るようになり、妻が床に入る気配に目覚め、その流れで妻の体に手を伸ばすこともあったが、ごめんなさい、今は早く寝たい、という言葉に、そのまま手を戻すようなことが何度も続いた。そんな状態で、既に二人目の子供も諦めようという暗黙の了解が存在すれば、私はもう妻の体を求める動機も見失ったように感じていた。

 私は、自分の心がささくれ立っているのを自覚しながら、苛立つ気持ちを抑えることが出来ないでいた。そのストレスの大半は仕事から来ていたが、それを癒されたい場所から十分な癒しが得られないことに鬱々とし、妻が昔のように私をいたわろうとしないことに腹を立てていた。

 荒れた学校での高校一年生の担任は骨が折れる。中学校では授業中の立ち歩きなど普通。気が向かなくなれば勝手に学校から出て行き、体育の授業などやりたい授業の時間だけ戻って来て、そこでまた好き勝手なことをする。そんな三年間を過ごして来た者がクラスに何人もいる。そもそも高校に通うことも望んでいなかったのに、せめて高校だけは出ておけと周囲に頼まれるようにして入って来る者も何人もいる。「高校なんて行く気は無かったけど、親に頼まれたからいやいや入った」と公言する生徒は、もともと、いつでもやめてやると思っているから、学校のルールなどなんとも思っていない。チャイムが鳴っても廊下で騒ぎ続けるのを、教室に入れて座らせるまでに五分十分を要する。そんなどうしようもない生徒たちも、不人気で定員割れをしている公立学校にはたくさん入って来る。よその学校の入試で落ちた者たちが、ここなら二次募集でも定員が埋まらないから百パーセント受かると、受験して入って来る。勉強しなくても、あそこなら入れるから、頼むから高校だけは出ておいてくれ。親の気持ちも痛いほどわかる。しかし、受け入れる我々の苦しみと入学後の現状は、一般に理解されない。

 教師なんだから当たり前だろう。いろんな子供の面倒を見るのが教育のプロだろう。そう言われる。しかし、実際に直面する私は、「そう言うあなたたちが、一週間でいいからこの教壇に立ってみろよ。」と言いたくなる。初めからそうではなかった。理解しようとしたし、戦おうとしたし、寄り添おうとした。しかし、何年もそうしていると心も枯れてしまう。

 高校一年生の担任は、入学式の日から、そんな生徒たちが四十人座っている教室で、何とか高校なりの秩序を生み出そうとする。しかし生徒たちには、中学時代の成功体験がある。自分たちが強く出れば、教師の方が黙る。必ず勝てるという実感がある。私たちは、それを徐々に打ち砕いて行こうとする。中学とは違って高校には特別指導がある。家庭謹慎がある。それで戦うが、一度の問題行動で生徒が退学になることは無い。いや、生徒が退学処分になることなど実際にはまず無い。何度も謹慎状態になって生徒の側が嫌になるか、出席が足らず進級が出来なくなるかで、生徒自らが辞めることしか無い。そうして、二学期の終わりまでには、クラスの二割近くの生徒が辞めて行く。その頃になってやっと、教室はどうしようもない混沌を脱する。けれど、それでもとても安静な環境にはならない。だいぶましになったという程度だ。

 そんな具合に、一年生の担任の初めの八か月ほどは、とりわけ過酷な毎日が続く。

私がこの学校で三度目の一年生担任をすることになった春、娘は中三になった。

初めての受験生活を前にして、娘は緊張しているようだった。競争によって明確に選別されることを経験したことが無いから、落ちる、という言葉に得体のしれない恐れを感じているようだった。志望校の相談はもっぱら妻としていたが、妻は、

「なんか、すごく、落ちるってことに過敏になってるみたい。落ちたらどうしよう、落ちたくないばっかり言うの。」

と、私に伝えた。小学校時代に比べると随分変わって、快活な印象まで感じられる子になっていたが、その内側にはとても繊細で心弱い姿が今も隠れているのだろうなと、私も妻も、それを心配した。精神的ストレスが症状をぶり返させることがあるという持病のことも頭に浮かび、私たちは漠然とした不安を心の隅に感じていた。娘に関する物事は驚くほど突然にやって来るという恐れが、私にも妻にも強く残っていた。

 とはいえ、二人とも高校の教師なのだから、私と妻には、受験そのものに対する不安は無かった。合否がどのように判定されるのかは分かっている。その時に斟酌される要素が学力試験結果の他にあるのか無いのか。受験生の点のばらつき、受験校のレベル。詳細に娘に教えてやることは出来なかったが、私と妻にはよくわかっている。何も不安に思わず勉強を続け、相応のレベルの学校を受ければ、それほど恐れる必要も無い。もちろん、それがわかっていても、我が子のこととなると最後の結果を見るまでは不安だ。しかし、一般の家庭の保護者が一番上の子の初めての受験に直面する時のような暗中模索の不安も、おかしな疑心暗鬼もあるはずは無かった。

だが、娘にすれば、両親が高校の教師であることは、負担なのかもしれない。私たちの存在が、暗黙の裡に、落ちることは許されないというような、余分なプレッシャーをかけているのでなければいいがと、私は妻と何度か話した。

 私が子供の頃にも、クラスに、両親が揃って学校の先生だという同級生はいた。そんな子は、いかにも躾がされていて礼儀正しくて、勉強もできる優等生で、さすが先生の子だよなぁと、そんな風に感じていた。実際には、そんな子供の様子が先にあって、その子の両親が教員だと知った時に、ああなるほどと二つを結び付け、それが強い印象として残っているだけだったのかもしれない。当然、教員夫婦の子にあれこれ秀でているわけではない子もいるのに、そういう例は一向に記憶に残っていないのは、そうした後付けの印象の焼き付けが、私の中に固定観念を植え付けたからだったようにも思える。

 それは今も昔も変わらないのだろう。何かの折、例えば区域の一斉清掃、町内の夏祭りなどで、同級生の保護者と話す話題はどうしても受験の方向に向きやすく、私たちは事情通として、あれこれと質問を投げかけられた。あそことあそこの学校のレベルは、実際のところどう違うのか。こちらにはこんな悪い噂も聞くが、それは本当だろうか。単なる世間話ではない真剣さで、どの人も尋ねてくる。その一つ一つに、私たちは口に出来る範囲で丁寧に答えるのだが、それを聞いて礼を述べた相手は、必ず娘に目を向けて、

「志樹ちゃんはいいね、すぐそばに先生が二人もいて。受験の専門家だし、勉強も教えてもらえるし。」

と言うのだった。

 娘はそれを嫌がったのだと思う。小さな時から自治会のその手の行事には必ず親子で参加するようにしていたのが、この年のある時期から、娘は一緒に出るのを嫌がるようになった。口に出して言うことは無かったが、そのような親同士のやり取りに巻き込まれることから離れていたいのだろうというのは、すぐに察した。私が子供でも、心に重しを乗せられるような、そんな言葉を聞くのは嫌なのに決まっている。

 一方、私は、この年、とても疲れていた。担任したクラスは、特に問題を抱えた生徒の多いクラスだった。主任が一人と担任が五人、計六人の担任団は、学年主任と私がほぼ同い年の四十代半ばで、後は二十代後半の男性が一人、大学を出たての二十二歳の男性が一人。あとの二人が三十歳を過ぎたばかりの男女一人ずつという構成だった。中学から送られて来た情報で、生徒、保護者、あるいはその両方に特に注意が必要であると判断された者は、他クラスよりも多めに私の組に入れられていた。私はもうベテランと呼ばれる年齢だし、学年の副主任も務めていたから、当然のことだった。

 それにしても、この年の私のクラスは大変な状況だった。四月から暴力と盗難の事件が相次ぎ、心病む者は、授業中に頻繁に教室を出て学外に出てしまった。単なるさぼりではないから、その都度何人もの教師が学校周辺を探し回る。私が授業から職員室に戻ると、座る間もなく教頭がやって来て、

「また出て行ってしまってるので、見に行ってもらえますか。生徒指導二人と、主任さんが今、辺りを動いてくれてますんで。」

と促される。そんなことが、四五月は毎週二度はあった。

 私は疲弊していった。それでも頑張るしかなかった。私は経験豊かな教師で、それらのすべてことに適切に対処して行かねばならなかった。他のクラスを受け持つ若い教員のサポートもしなくてはならなかった。若い教員に対しては生徒も舐めてかかるところもあったし、それよりも保護者が、若年の教員に対しては平気で無茶苦茶な言動を繰り返した。盗難を働いた子供の親も、

「ちょっとひとの物を盗んだくらいで、大騒ぎをするな。そもそもお前の指導力が無いから、そういうことが起こるんやろう。だいたいお前、生徒の評判悪いぞ。」

と、電話口で三十分以上怒鳴り続ける。本日付で謹慎処分になるから、学校に引き取りに来てもらいたいと言うと、

「そんな暇はあらへん。お前がうちまで送って来いよ。」

と突っぱねる。途方に暮れている担任に代わって私か学年主任が電話を引き継ぐ。遅くなっても構わない、それまで学校で預かるから、迎えには来てもらいたい、事情の説明もしなくてはならない、と決着をつけるまでにまた三四十分話す。迎えに来ても、またそこでひとしきり大声を上げる。やっと終わって面談室から無人の職員室に戻る頃には、夜の十時を回っている。混乱する授業を成立させるだけでも気持ちはすり減って行くのに、そんなことが決して珍しくない頻度で起こり続ける。

 六月の半ば、放課後に自分の席で深く一つ溜息をついた時、急に息苦しくなった。吸っている空気に酸素が少ないような気がして、激しく呼吸を繰り返すうち、目に見える世界がだんだん色を失い、白黒の世界に見えて来た。過換気症候群。過呼吸だった。生徒のそれに対応したことは何度もあったが、自分がそうなったのは初めてのことだった。こんな時には、まず落ち着くことだ。生徒が相手なら、優しく背中に手を当てて労わりながら、ゆっくり息を吸ってごらん、十秒くらいかけて、ゆっくり吸おう、ゆっくり、ゆっくり、そんな風に声をかけ続ける。そうすればいいとはわかっている。けれども、自分の体が、呼吸が、コントロールできなかった。

 横にいた主任がすぐに気が付いた。

「先生、大丈夫ですか。ゆっくり、ゆっくり。落ち着いて。」

と、私の背中に手を当てて声をかけ、ティッシュを数回引き出してまとめて私に手渡した。

「口に当てて、ゆっくりと呼吸して。」

 そのような対処方法は、科学的には効果は無いのだと知っているのに、私はすがるようにそれをつかんで自分の口に押し当てた。そして、必死に呼吸にブレーキをかけた。それでもなかなか制御が利かなかった。私は、くず折れるように突っ伏して右の頬を机に押し当てた。

 担架が持ち込まれて、私は保健室に移された。

 それから九十分ほど、ベッドで横になっていた。途中、主任が二度、様子を見にやって来た。

「具合はどうですか。」

 生徒に対してはとても厳しく接する教師だが、普段の物腰はとても柔らかな人だ。

「学年のみんな心配してるんですが、あまりとっかえひっかえやって来ても、落ち着いて休めないでしょうから、私が代表で。」

 彼は冗談めかして微笑み、丸椅子をベッド横に引きずって来てそこに座った。

「伊藤君なんかは、自分がしっかりしないからたくさん迷惑をかけてって、涙浮かべて心配してました。」

 伊藤というのは、学年で一番若い担任だ。先日、問題を起こした生徒の保護者から理不尽に罵られ続け、とても落ち込んでいた。以来、彼が保護者と対応する時には、電話でも面談でも必ず横について一人にしないようにした。彼が弱いからではない。こうした学校では必要なフォローなのだ。しかし彼は、そのことをいつも、とても感謝してくれていた。

「すいません、僕が未熟で。」

と、涙ぐむこともあった。そんな時は、

「経験は少ないかもしれないけれど、頑張ってるよ。未熟なんじゃなくってさ、僕が年を食ってるだけさ。保護者と年もあまり変わらんしね。そういう人間がいると、相手も少しは恥ずかしいことも言い難くなる。ほんの少しだけだけどね。」

と、慰めた。

「すいません。」

「いや、歳は関係ないかな。まぁ、訳のわかんない言葉は二人で受け止めて、衝撃を半分ずつ分け合うのって、大事だよ。全部一人で受けてたら、僕だって参ってしまう。」

 ついこの間も、そんなことを話していた。その私が実際に参ってしまっていては、洒落にもならない。支えるどころか、彼にはこれで余計な罪悪感を感じさせてしまう。何をやっているのだろう。私は自分が情けなかった。

 そんな気配も、感じ取ったのかもしれない。

「いい子ですよね、あの子。息子にしたいくらいです。」

 主任はそう言って、また柔らかに笑った。私の心を軽くしようという気遣いが伝わった。同年代で、互いが感じている感覚がよく通じ合える同僚だった。この学年の主任を引き受ける時、担任のメンバーに私を加えてくれるならば引き受けますと、実はそう言ったのですよと、彼は春の宴席で私に教えてくれていた。その時も彼は、

「迷惑なこと言っちゃってすいません。」

 そう言って、笑いながら頭を下げた。

 クラス担任が続いた後、間が空いたのは一年だけで、私は管理職には、せめてもう一年、他の分掌で休ませてもらいたいと願い出ていたが、それはわがままな申し出でもあった。教員の平均年齢が若いこの学校では、主任を務められる年代の教師は少ないし、歳が行っていれば誰でも務められるというわけでもない。もし彼が断わっていれば、クラス担任どころか、私がこの学年の主任を命じられるであろうことは、私にも容易に想像出来たし、それは彼も感じていたろう。だから、その言葉は詫びというよりも、どの道どちらかがやらなくてはならないのだから一緒にやりましょうと、順番は前後したけれども改めて私を誘った言葉なのだった。私も、彼となら頑張ってみようと思えたし、私が背負うべきだったかもしれない責任を負う彼を、少しでも助けたいと思った。

 その私が過呼吸だ?かえって彼の負担を増させてしまうことが、私は恥ずかしかった。

「面目無いです。いい歳をして。」

 ベッドに横になりながら、私には、他に言える言葉が無かった。

「とんでもない。みんなぎりぎりでやってますから。お互い様です。でも、仕事よりも責任よりも、まずは自分の体ですよ。」

 彼はそう言ってくれた。けれども、彼が仕事や責任を放り出すことがあるとは思えなかった。彼は、常に適切に判断し機敏に行動する、優れた教師だった。タフで、時に直面する困難もたくましく乗り越えて行く。私から見ても、しっかりした良い教師だ。彼が自分の身を守るために仕事を疎かにすることはあり得なかった。それでも、彼はこう続けた。

「家族もありますからね。休んだ方がいい時は、休んでいいですよ。私であっても、きっと、そうします。」

 いや、あなたは絶対に投げ出さないです。私も、今日はこんなことになってしまったが、これを繰り返しているわけにはいかない。すぐにそんな言葉が浮かんだが、口には出せないでいた。なのに、彼は発せられなかったその言葉を聞いたようだった。私は何も言っていないのに、彼はすぐに、いえ、と言葉を継いだ。

「いえ、そうしますよ、絶対。私は、そんなに責任感、強くありません。結構、平気で逃げます。」

 やけに強い調子でそう言った。私に言い聞かせるかのようだった。そして、言い終えると、また少し笑って言った。

「先に逃げちゃったらごめんなさい。その時は、あと、お願いしますね。」

 頼もしい同僚だった。良き戦友。自然にそんな言葉が浮かんだ。

 戦友?俺はおっさんかよ。いや、おっさんだけど、それ、いつの時代の言葉だ。

 私は心の中で一人呟いて笑った。まだ頭の中にふらつきは残っていたが、張り詰めた私の気持ちは、彼の言葉を聞くうちにいくらか緩んで来たようだった。

「駄目です、それ。お願いされません。」

 私も、そう軽口を返した。ふふ、と、彼はもう一度笑った。

「まぁ、一緒に頑張りましょう。」

そう言って立ち上がった。

「でも、今は少し、体も気持ちも休めてください。お互い様です。いつか、私も甘えさせてもらいますから。きっと。」

 では、私は戻りますが、何かあったら遠慮なく言って下さい。何なら、自宅まで送りますから。そう言い置いて、彼は出て行った。

 私はそれから、更に半時間ほど休んでから、保健室を出て、帰途に就いた。職員室に戻ると、声をかけようとした伊藤も主任も部活に行っているのか、席にいなかった。

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