第4話 親になる

 産院を退院した後、妻は一か月ほど、赤ん坊を連れて実家に帰っていた。仕事もなく家にいる義母が傍にいてくれれば、産後の体をいたわりながら過ごすことも出来る。夜泣きで私が寝られずに苦しむことも無い。そういうことだったが、一か月して母子が戻って来て、その言葉の意味を私は身にしみて感じた。計ったように三時間ごとに目覚めて泣く娘は、乳を与えてもなかなか泣き止まず、妻は夜中に、散歩して来る、と娘を抱いて外に出ることも多かった。体を揺すられながら外気に当たって過ごすと赤ん坊が落ち着くのは何故なのだろう。人はやはり、広い場所を感じることで命を吹き返すのだろうか。狭い部屋で壁に囲まれていると、何か息苦しく感じる本能があるのだろうか。そんなことを感じながら、起こしちゃった?ごめんね、と語り子供を抱き部屋中を歩く妻の姿を見上げつつ、再び眠りに落ちて行く日々を過ごした。しかし、若い教員の一日は忙しく、クラスのこと、部活動のこと、授業のことで追われるばかりで、どう頑張っても毎日十二時間は職場にいる。当時は土日も部活動をするのが当たり前で、休めない日が多かった。唯一、定期考査の期間中だけが休める週末を確保できるのだが、それも部活に熱心な体育科の教師たちが声を大きく、「考査期間に土日を含んでもらっては困る。練習試合ができる週末が減ってしまう。」と叫ぶことで、考査期間は同じ週の週日内で収めるという不文律が出来上がってしまっていた。疲れ切った私にとって、夜に寝られないのは、いくら若くてもなかなか辛いことだった。

 妻もまた赤ん坊の世話に明け暮れる日々は大変だったろうが、私をいつも思いやってくれた。夜泣きが激しい娘は本当に感心するくらいによく泣いて、一度泣き始めるといつまでも泣き止まなかった。紙おむつならもう少しましだと思うんだけれど、ごめんなさいと、妻はよく謝った。それでも、布おむつへのこだわりは捨てなかった。その方がスキンシップが増えて子供の心に良い。子供の肌に良い。そして、当時は燃えないゴミとして社会問題にもなっていたことから、環境にダメージを与えないというのも、彼女には大きな理由となっていた。社会問題に対して良心的に行動したいという思考が、教師には多い。若い教員には特に。それは今も変わらない。そして、彼女はそんな面が私よりも強かった。しかし、長く熟睡できない日が続くと、さすがに私は寝不足が募って体が辛くなった。そして、妻の提案で、私は夜は別室で一人で寝るようにした。

 けれども、妻も大変そうだった。頻繁に泣く子をその度にあやし、寝かしつけたと思ったらまた泣き。母親は大変だなと、私は不可侵の領域を眺めながら代われない自分の無力を思いつつ、もう少し実家に戻っていてもいいと妻に言ってみたりもした。けれども妻は、それではあなたに申し訳ないと拒否した。それに、義母も若くないから子育ては大変だし、一か月が限界だったと思うとも答えた。

 母乳で育てるというこだわりも、大きな負担になっていた。娘は乳を吸う力が弱く、また、あまり多く乳を飲まなかった。そうとも知らず、私は、乳の出がよくなると聞いて、随分離れた評判の良い魚屋に出向き、鯉のあらを買って来てそれで味噌汁を作ったりもした。鯉こくというやつだ。どういう科学的な根拠があるのかはわからないが、実際にそれで妻の乳は普段よりもずっと張った。本当に効果があるんだねと、感心しているうちはよかったが、飲み切れない乳は乳腺を詰まらせ、妻は翌日の晩、急に高熱を発して苦しんだ。私に出来ることは、その妻の横で、冷やしたタオルを替え続けてやることくらいしかなかった。凍らせたアイスノンを使えばよかったのかもしれないが、日ごろ何もしてやれない私は、せめて苦しさに目覚めた時に、横で目を開けて彼女を見つめていてやりたかった。それは彼女も喜んだようだ。それから二十年、妻は、あの時あなたは、文字通りの寝ずの看病をしてくれたよねと、ふとしたきっかけで何度も口にした。あの晩、よほど心細かったのだなと、私はその度に思った。起きていてやってよかったと、手柄の少ない自分のわずかな自慢の一つに感じた。

 夜が明けて医者に行くと、子供があまり乳を吸わないのなら、今後もこうしたことは起こるだろうと言われ、助産師に念入りに乳房のマッサージをしてもらい、以降はここに行くとよいと、桶谷式という方式があり、それにのっとって乳房のケアをしてもらえる施設を紹介されて、以降は三週間に一度通うようになった。子供を持って初めて知ることは多い。母乳を止めて粉ミルクだけで育てればそんな心配も無いが、そうでなければ定期的に専門の人に絞り出してもらい、詰まらない状態にしておくことは不可欠なのだそうだった。私は、そうして新しい知識を手に入れながら、自分もこうして父になり、いっぱしの大人になって行くのだろうかと感じていた。日常の隙間のこうした無数の経験が人の内側を太らせて行くのかなぁと、歳がそこに至らなければ気の付けないことを学んでいるように思った。

 こうして俺も父親になって行くのかなぁ。

 新米父の私は、そんなことを思いながら、いつまで経っても医者から出て来ない妻を、車の中で待った。初めの診察が終わった後、妻は一度駐車場に出て、これからマッサージが始まるから、少し長く待たせると思うけど、ごめんねと言いに来た。わかった、子供は僕が見るから大丈夫、と私は答えたが、それから妻が戻るのに二時間もかかるとは思わなかった。そのうちに腹をすかせた娘が泣き出した。それほどの時間がかかるとは思わなかったから、ミルクも持って来ていなかった。私は、乳首の代わりに自分の小指を子供の口元に持って行った。娘は小さな両手でそれを抱え込むようにして、音を立ててチュバチュバとそれを必死に吸った。何も出て来ないのに、それで安心したのだろうか、いつまでもそれにしがみつきながら、娘はしだいに落ち着き、そのまま寝てしまった。私は、妻が母乳にこだわった気持ちが、初めて本当に分かった気がした。生きるためにあなたにすがるしかないのだと必死に乳首に、私の指にしがみついて、それを吸い続ける子供を見ながら、自分はこの子を、その母を守ってやらなくてはならないのだと感じた。母になるために、父になるために、これは必要な過程だったのだ。妻はそれをわかっていたのだと感じた。

 以来、私は、自分の右手の小指を、魔法の小指と呼んで、何度か使用した。けれども魔法の効き目はあまり長く続かない。この、医者に行った日も、二十分もすると娘は目覚めて再び泣き始めた。小指の効力は今度は弱かった。私は子供を抱いて車を降り、駐車場わきの河川敷の道を、ゆらゆらとその体を揺すりつつ、よ~しよ~しとあやし声を聞かせながら、時折指先を吸わせた。泣く子と戦う武器を、私は他に持たなかった。歩きながら、そうして泣く子をなだめながら夜の戸外に出ていた妻を思った。子と親が抱き締め合いながらその時を過ごす感覚を、その時初めて知った。その時の中にいながら、その時を愛しいと思った。親と子の、大事な時間なのだと思った。そして、この子は大きくなったら、どんな子になるのだろうと思った。

 二時間後、妻が戻って来た。

「ごめーん。大変だったでしょ。」

という妻に、

「頑張って戦った。この小指が活躍した。」

と言って、私はその指をつんと立てて見せた。

「何それ。」

と、妻は笑った。

 

 一年後、育児休暇を終えて、妻は職場に復帰した。

 それからは、家の中のことは常に子供を中心に動き始めた。転勤によって私の勤務校は遠くなり、保育園の迎えはもっぱら妻の役目となった。妻の都合がつかない時は私が代わったが、そんな時には部活の面倒をもう一人いる年配の顧問に頼むしかなかった。事前にわかっていればよいが、急な時には、その先生があからさまに迷惑気な素振りをすることもあった。勤務時間は五時まで。なのに部活動は六時半までしている。顧問の都合が悪くなったので今日は休みにするというのは、あってもよいはずなのだが、誰も、どこの部活動もそういうことをすることは無かった。文化系の部活ならば職員室で待機していてもよいが、運動部の場合は、その場にいなければならない。専門の知識もなく、とりわけその競技に関心があるわけでもない者が、生徒から目を離して読書するわけにもいかず、ただじっとその練習を見ていなければならないというのは、退屈なものだ。それも、普段ならばすでに帰途についているはずの時間にまで、夏は暑く冬は寒い体育館で二時間余りを過ごすというのは、人によってはただの苦痛でしかない。もちろん、高校生が元気に動き回っている姿は見ているだけで楽しいと思う教員も多い。けれども、誰もがそれで無給の超過勤務を当たり前に受け止められるものでもない。「サブ顧問」の先生も、若い頃には休日もなく部活動に励んでいた。けれども、「この歳になったら、もう勘弁して欲しいわな。」と、決して私にあてつけるつもりではなく、何気ない会話の中でふと漏らす、その気持ちは、私にもわかる気がした。だから、急に代わりを頼むのは、いつも気が引けた。たまの一日ならばともかく、妻の所属する分掌の性格によって、例えば進路指導課にいれば受験期には連日長い会議が続くなどということがあると、同じ週に何度もお願いすることになる。同じ部の顧問なのだから当たり前の顔をして頼めばよいはずだという理屈よりも、どうしても申し訳ないという気持ちに責められた。

 また、子供はよく突然の発熱をする。おたふく風邪、水疱瘡、一通りの病気をすませるまでは、何日も続いて私か妻のどちらかが休みを取らなくてはならないことも起こる。交代で休みを取ることもあったが、基本的にはそんなときは妻が仕事を休んだ。今の時代ならば、私の意識ももう少し変わっていたのかも知れないが、当時はまだそんな社会的風潮も無かった。男親は不器用で、発熱した子供の横には母親がいてくれる方が安心する。そもそも母親は育児の勉強も心がけてしているが、男親は当たり前のことも知らない。そう思っていた。だから、ちょっと子供の苦しがり方がいつもと違うように感じられると、とたんに私の方が不安になって取り乱したりした。今のように携帯電話も無い時代だ。すぐに妻に尋ねることも出来ずに、ただ妻の帰りを待ちながら、そんな時はおろおろしながら子供を見ているしかなかった。

 そんなだから、妻の負担は大きかった。授業のプリントも、小テストも、やりたいだけのことが出来ないと、妻はよく嘆いた。我々の仕事は、部活指導が無くても定時に終われるものではない。特に高校の英語科の教師は、受験の要はとにかく英語という認識から、他教科よりも多くのテストをこなし、採点をし、個別の暗唱テストをしと、多忙を極めた。その上、授業の準備もしなくてはならない。担任をしていれば、頻繁に面談を繰り返し、分掌にいれば多くの事務仕事や会議に追われた。

 妻は、仕事と子供の世話で手いっぱいだった。私は彼女をもう少し助けてやればいいものを、それがうまくできなかった。たまに手出しをすると、「私がした方が早いから。」と代わられた。私をそうして労わっていてくれたのかもしれない。あるいは本当にまどろっこしかったのか。

 私よりも数歳年上の先輩は、以前からよく、

「子供ができると、嫁さんは子供ばっかりで、全然旦那と遊んでくれなくなる。」

と、嘆いていた。私はそれを聞くたびに、この人は、見かけによらず奥さんに甘える可愛らしい人なのだなと感じていた。けれども、実際に自分が夫となり子供が出来てみて、その言葉はよくわかった。若い私は、まだ妻といちゃつきたかった。家の中では学生のように互いに甘え合う時間を過ごしたいと思っていた。けれども、妻は母になり、もう私の恋人ではなく、私はそのうち、お父さん、と呼ばれるようになった。妻は私の横ではなく、常に子供と共にいた。それが寂しかった。

 男はいつまでも、大人になり切れない。母はどんどん強くなって行くのに。そして男は、自分だけが置いて行かれたような気分になる。もっと構って欲しいのに。

 けれども、仕事と子育てと生活の雑事に追われる妻、土日も部活動で家を空け、大会の前になると平日の帰宅も更に遅くなり、疲れ果てて帰ることも多い夫。そんな二人の毎日は、本当に慌ただしかった。勤務校が遠くなった私は、たとえ週末の部活動が午前で終わっても、のんびりと片づけをし、いつまでも残って仲間と駄弁る時間を楽しむ生徒たちが学校を離れるまでは帰れない。そこから帰宅すると、結局は一日の大半が潰れてしまう。妻もまた、それを寂しがっていた。うちは母子家庭みたい、と、若い教師を夫に持つ妻は一様に口にした時代だった。いや、その実態は、多少の変化はあっても、今も大きくは変わらないのかもしれない。却って雑事や休日の行事は増えて、教師の仕事は増えるばかりだから。

 それでも、私たちは、好天が見込める週末には何とか一日を空けて、子供を連れて遠出をし、広い芝生の公園へ弁当とボールを持って出かけたり、遊園地や水族館に出かけたりして、家族の時間を楽しんだ。そして自然と私は、妻を名前ではなく、お母さんと呼ぶようになっていた。

 私が三十二歳。妻は三十歳。娘は二歳で、草の上でたどたどしくボールを蹴って歩いた。真剣な顔をしてボールを追い、時折私や妻を見て嬉し気に笑う顔、少しその姿を見失ったと気づくと、途端に不安になったように妻を探し、見つけると危うい走り方で駆け寄って来るその姿。写真などは要らない。今も、昨日のことのように思い出せる。そして、若かった私たちは、気が付くとすっかり、親になっていた。

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